ゆがんだ愛に雪は積もる
珊瑚水瀬
ゆがんだ愛に雪は積もる
窓の外の雪がちらつき始め、曇天の空模様に純白の花が降る。
この仄暗い暗闇の世界を染め上げていく美しい景色、まるで唯一の希望の現れのよう。
それに反するように私はその様子をベッドの上で眺めることしかできなかった。
モゾモゾとシーツの中で体を捩らせてるのがせめてもの抵抗か。
ああ、動けないのはいつからだろうか。
私はある時から両足が動かなくなった。何度力を入れても1人で立つ事もままならない。
指の力をグーンと爪先まで入ると血が全身まで通っているのを感じる。
これなら歩けるか思ったのもつかの間、少しだけ足の先が震えた。それだけ。
はあ、と言うため息とともに私は自分の足を優しくさする。
これが自分のものだと理解するのには少し時間がかかる。
私はただ、それを自分のものだと確かめるように何度もさすることをくりかえした。
これも彼が私の世界に来てからだ。
ギぃという小さな引き戸の音とそれに伴い淡い白熱灯の光が往なし一筋の道を作り出す。
どうも彼はこの空間の中で音を立てるのももどかしいと感じているようで、スリッパの音さえもパタパタと音を鳴らさず、地面と触れるたびにすっと空気の音を跳ねらせ、極限に音を出さないように慎重に歩く。
それが彼の性格を物語るようだ。
そのまま薄暗いベッドの先にあるランプのスイッチを回すと、外の部屋の白熱灯の明かりが移ったように私の部屋にポッと明かりが灯る。
「大丈夫baby?」
外国の人は恋人をそう呼ぶらしいが、彼は恋人でもない上にましてや外国人でもない。
海外留学を少ししていたと聞いたことがあるが、それも半月ほど。
かくいう彼はわたしの義理の兄だ。
母が再婚した時の父の連れ子だった。
私が中学に入ったときには、すでに彼は社会人二年目として働いて東京の会社に勤めているほど年が離れており、彼とはたまに冠婚葬祭で出会うレベルで話す機会もほとんどなかったから彼を兄弟と呼んでいいのかすらためらう。
そんな私は、大学へ通うのと同時に上京し、東京に住んでいた彼の家に居候して通学することになった。
出会った日のことは忘れられない。
彼は私を出迎え、背の高い彼がゆっくり視線を私の目に合わせると優しげな瞳で「ようこそ」と顔全体の筋肉を弛緩させ表情をほころばせた。この人がこのように笑うのは新鮮に感じたのは、私の思っているクールなイメージと違ったからなのかはさだかではないが、端正な切れ長の目に少ししわが入るのは想定外だった。
「ねえ、僕は君を僕の子供の様に想っているんだ」
その名の如く、彼は私を赤子の様に扱った。
私がしたいと言えばそれを優先させ、私が食べたいと言えばその日の夜には買ってきて、さみしいといえば、ただ私に横に佇んでなにもしないでそばにいてくれた。
一緒に生活して、一緒にお話しして、一緒に旅行して。
チクタク、チクタク……。
私の時計と彼の時計の針をちょっとずつ動きを合わせていくようだった。
私と彼はまるで年の近い親子とも、年の離れた恋人ともにつかない、珍妙な距離。
一体なんてこの関係性に名付ければよいのだろうか。
……これではずっと彼によりかかったままだ。私は私の人生の針へ戻さないと。
そう決心して行動し始めた日から、針がくるくると狂うように私の足が緩やかに動かなくなっていった。
そして今ではこのありさまというわけだ。
「お茶とクッキーを持ってきたから一緒に食べよう」
ラズベリーの香りがする真っ赤な紅茶とたまごを持ってきたような黄色いバタークッキーがぼそぼそとくずを落としながら皿の上に鎮座する。
「ありがとう」
「うん」
−静寂。
彼の瞬きの音すら聞こえそうで、この世界には私たちの音しか聞こえないのではないかと思った。
言葉に表すことが出来ないまどろんだ紫色の空間が場内を支配する。
たまにお茶をすする音とクッキーをかじる嘖々とした音が聞こえるだけ。
ふいに自分が何者であったのか忘れるほどあいまいになった。
そんな様子に彼はゆっくり私の手を触った。
まるで大切な宝物とでも言うように私の指をひと指、ひと指と指なぞった。
大切に扱ってくれてるのだろう。
そのまま彼は私を包み込むように手をゆっくりと握った。
指がくにっと曲がり、彼と触れると暖かさがどっと流れ込んでくる。
それなのに、指先の一つ、一つの丁寧な所作が私を窮屈にするのはなぜだろう。
私はその度に生きていることを自身に自問自答する必要があった。
人形ではなく、人間なのだと。
彼が織りなす私の扱いはたってドールのそれと変わらない。
段々と何者かわからなくなっていく。この触られてる感覚だけが人間にしてくれる証明のように感じる。
「君は相変わらず冷たいね、まるでこの雪のようだ。溶けてなくならないようにしないと」
計らずともそのセリフ。
私は外の未だにちらつく雪へと視線をずらす。急に闇が濃くなった。夢から覚めるような誰も歩きたがらないような闇に雪の白さだけが異様にキラキラと光っては消える。
彼にとって私はそういう存在なのだろうか。
消えてしまうような希望の様な何か。
それなら私は、「愛している」の感情は間違っていることに気づく。
緩やかな死をこの場所で迎える以外にはきっと選択肢はないのだろう。
ちらついていた雪はしんしんと降り積もる重い雪へと変わり、冬至を告げるような深い濃い闇な中には一つの明かりも灯ることはなかった。
ゆがんだ愛に雪は積もる 珊瑚水瀬 @sheme
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