あの日の波が寄せる。
有馬 照
あの日の波が寄せる。
絶えず固定電話のコール音がする。
警視庁捜査一課内の片隅にあるパーテーションで区切られただけの応接室。
庁内はいくらか涼しいが、外に出れば梅雨の蒸した空気が皮膚を這い回る。
俺と相対する女、女というには若いくらいの彼女は強盗殺人犯も真っ青の言葉をもう何度も、何日も繰り返している。
「作品の資料の為に、死体が見たいんです。それも、なるべく残酷なものが。」
うっそりと、年不相応の笑みを浮かべるものだから恐ろしい。今、俺のデスクには未処理の書類が幾つ溜まっていることだろうか。
「ですからお嬢さん。ここ数日、何遍と申し上げております通りね、被害者と遺族の方への配慮ですとか、事件そのものの秘匿性やら現場維持やらを考えると、全くの無関係である貴女を連れて行く訳にはいかないんですよ。幾ら新進気鋭の作家先生と言われましてもこればかりは大人の事情という訳なんです。」
ここまでで一番核心に近く、且つ優しく、嫌味を込めて返した。どんなツテでここまでやってきたのかは知らないがこちらにも、面子というものがある。
「もちろん、そんなことは承知の上でお願いしております。ずっととは言いませんし、本部でのお仕事は一切お邪魔いたしません。現場に赴く時のみ、数件だけ同行させて下さい。」
恭しく首を垂れる彼女の主張は一つとして変わらない。
だからそれがダメだと言っているのだが。思考力と語彙力はイコールではないらしい。まったく新しい発見だ。要らん知見を得てしまった。
「ねぇ、刑事さん。貴方のことをご紹介下さったのは貴方の上司さんですよ。貴方の同意無くして実現することがないのは重々承知しておりますけども、ここまで来た以上、断る理由なんてありまして?」
まぁ至極最もな意見である。上司の顔を立てるという意味では正しい。傍から見れば、上司の顔を立てることもせず、依頼に来た女性を困らせているという、なんとも社会の役立たずの成す状況である。平素であれば何ということは無い。内容が問題なのだ。しかし王手をかけられて、認めないのも潔くない。
「……分かりました。ただ、こちらにも条件があります。もちろん聞いていただけますね?」
「えぇ、飲みましょう。どうぞ。」
「…まず、現場に向かう際は私と行動していただきます。なるだけ目立たないように、動き回るだとか目立つ行動はお控えいただきたい。そして、同じ現場に行くのは一度きりにしてください。守秘義務の為に、必要以上の情報をあなたに開示することもありません。」
「畏まりました。」
……まったく調子が狂う。このくらいの年ごろと言えば、もっと落ち着きのない様子だったと思うが…いや、落ち着いてはいないか。とにもかくにも彼女からは違和感しか感じ得ない。気味の悪い人だ。
「本日はお帰り頂けますか。ご存知の通り、私も暇ではないのです。今もほら、私のデスクには書類が山になってる。下っ端ですのでね。」
「やだ、ご謙遜なさるのね。お話は聞き及んでおりますよ、ご家族も警察官でいらっしゃるとか、もちろんご自身の技量もおありでしょうけど。
長居をしてしまい申し訳ありませんでした。以後、宜しくお願いします。」
彼女がようやく席を立つ。席のお茶は氷が溶けて机を濡らしていた。
彼女は歩いていく。その優美な仕草に周りの景色はまるでスローモーションの様だった。学生服の長いスカートを翻して、かくも彼女は去っていった。
あの日の波が寄せる。 有馬 照 @arimateru
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