第一話 まだらさん
柊玉響は二階建てアパートの二階角部屋で眠っていた。
築三十年、六畳二間と台所風呂、トイレ付きのアパートで、南向きの部屋を寝室として使用し、マットレスに敷布団を敷いて羽毛布団を掛けるも、ちょっと暑いかなぁと思っていた。
耳の奥に響き、恐怖の本能を呼び起こすサイレンがどんどん大きくなり、苦情を言おうと音の原因を見るべくカーテンを開けると、赤色灯が乱舞していた。白と黒の組み合わせはパンカラーだと言うが、アパート前にあるテニスコート一面分(にアパートの住人が使える一人当たり一畳程の家庭菜園ができる区画が敷き詰められ、独身男性が多いためにただの地面のままだった)程の敷地に何台もパトカーが並ぶ様を見ると、パンダというよりも鯨幕みたいだ。
さっきまで真夜中に何してやがるときつめに苦情を言ってやろうと思っていたが、カーテンを握りながら鳴りやまないパトカーのサイレンを聞きながら、絶え間なく動く赤い光のちらつきを見ていたら頭の芯がぼうっとしてくる。
真夜中だと頭の中で考えていたら、そうだ、今は何時だろう?時計を見ると午前二時だった。草木も眠る丑三つ時というというのに、何て不吉というかおあつらえむきというか。パトカーが集まる以上尋常の沙汰ではないのに、おあつらえ向きだなんて不謹慎だと自分の中で自問自答した。
パトカーのサイレンに耳を傾け、赤色灯を見つめていた野次馬は柊だけではなかったようで、国家権力に向かって「うるせぇ!何時だと思ってやがる!」と寝ぼけて叫んだ声があった。これはお隣の住人の声だ。独居が多いこのアパートでは、特に交流はない。夜勤勤めと日勤も入り交じっているから、柊が出勤した時に帰ってくる住人もあるために、アパートに全員が揃うということはない。たとえすれ違っても目を合わせずに会釈する程度なので、顔は知らない。隣の人だと思ったのは、今のように近所で遊ぶ子供にうるさいと声をかけたり、井戸端会議がアパートのそばで始まるとたちまち癇癪を起こすから「うるさいおじさん(うるさいうるさいってうるさいおじさんの意味)」と陰で言われていると知っているからだ。ちなみに影のあだ名を彼に聞かれるとうるさいので、彼が出勤中(おばさんらはよくアパートも観察しているので、俺たちの出勤時間や休みを把握している人もいる)に円をつくって井戸端会議をしている四、五人の中年女性の会話から知った。聞きたくなくても聞こえてくる上に、彼女らの会話に耳を済ませるとこのアパートの住人の個人情報まで気付けば覚えてしまうから困ったもんだ。
案の定、隣の部屋に警官が来たようで、時間が時間なだけに呼び鈴ではなく手の甲で戸を二回コン、コンと叩いて「すみません、ちょっとよろしいですか」と男性を扉越しに呼んでいた。俺は自分の部屋のドアスコープを覗くと二人のガッチリした体格の制服警官が立っていて、眼光炯々とした様子で周囲を見回していた。その内こちらにも話を聞きに来るだろう。気配に敏そうな二人に気付かれても面倒だから、とりあえず今は寝て起きたら対応しよう!いそいそと布団に入った。コンコンとこちらは控え目に扉を叩いた音が聞こえたが、そこは夜中の二時。
「柊さんは寝ているか在宅じゃないのかも。夜が明けたら事情を聞くことにしようか、次だ」
と聞こえると、寝ている住人にも配慮した革靴の足音が静かに俺の部屋から遠ざかってきた。どうせ事情聴取だとか面倒事が控えているのだから、明日(本当は今日だけどついそう言ってしまう)は仕事を休んだ方が良いだろう。職場にも「住んでるアパートで何かがあって、その事情を聞きたいと警察に言われているんです」と警察の単語を出せば休ませてくれるだろう。
いつの間にか眠っていたらしい。時計は四時間後の六時だった。
ボーッとしながら、ジリジリとベルを鳴らす目覚まし時計を叩いて止めて、きっと誰もが起きたであろう時間帯に呼び鈴を鳴らし「ちょっとよろしいですか?柊さん、あなたが住むアパートで事件が起きました。つきましては知っている事は何でもいいのでお聞きしたいです。もちろん任意ですが。」二人組のいかつい風体(一人はくたくたになったトレンチコートを刑事コロンボよろしく着こなし、無精髭を生やして眼球の白目の部分が不摂生で黄色く見えるやや太鼓腹だがどっしりと重心が安定した中年だが眼光炯々とした油断ならぬ目付きの男。もう一人はひょろりと痩せた猫背のいかにも頼り無さそうな優男(刑事の中では、一般的に言うとおっかない人)で、中年を頼りにしているが、中年としては何でもいいから吸収して自立して欲しいと期待されている二、三十代)の男が来るのではないだろうかと予想する。
まさかさすがに午前六時に警察手帳を開き、写真と桜の大紋を並べて見せて「事情を聞かせて」とはなるまい、さすがに。
と思うが、警察にも段取りというものがあるだろう。犯人が海外に高跳びしたり、アパートの中にいる犯人(あれだけの警邏車の群れは窃盗や痴漢ではあるまい。考えられるのは指名手配犯を発見し、確保のため(ならばあれだけ騒ぐのは逆効果では?素人考えだが)に確実性を求めたか、あるいは殺人がアパート内で起こり、もしくは死体が発見されたか。いや、どれをとっても夜中の二時にあの脳の奥まで針金を突き刺して引っ掻き回すかのような、本能に訴えかける鋭い音を何台でもって鳴らすのは勘弁して欲しい。
ともかく、今は六時だが出掛けるつもりで支度をし、会社には「昨日アパートにパトカーが大挙しました。私は無関係ですが、恐らく同じアパートで何かあった場合には事情を聞かれると思うので、一日お休みをいただきます」と電話を入れるとしよう。
今出掛けると嫌疑をかけられても困るし、冷蔵庫の中を確認し、必要があれば近くのコンビニにてまとめて必要分を買い込もうという算段だ。
それから三時間後、午前九時になると、アパートの階段を何人もの足音が慌ただしくかけ登り、少し遅れて同時に別な部屋と俺の部屋の呼び鈴が鳴り、まるで輪唱のようだった。
予想通りの展開に思わず吹き出しそうになったが、ヘラヘラと初対面の相手に対し笑ってしまったら、心証を悪くするのは必須。下手ににらまれても困るから、一呼吸置いて、さも「いったい全体なんでしょう?ビックリ」といった困惑の表情を作り、びくついて尻尾を足の間にしまった犬のような怯えた態度で出ることにした。
まずはチェーンをしたまま扉を十五センチほど開き、
「あのぅ、どちら様でしょうか?」猫背ぎみでそっと下からすくうような視線で来訪者を見上げた。
俺は千里眼だろうか、ドア越しだが、ひょろりとした上背のある輪郭と、ひょろ長よりは少し短躯だが、がっしりした丸顔の輪郭が見えた。
上司らしきがっしり丸顔が、例のごとく黒い手帳を開いて中を俺に見えるよう掲げ「○○号室の柊さんですね?実はある事情から、あなたに聞きたい事があります。今お時間よろしいでしょうか?」
きっとタバコ焼けなんだろうなと思わせるしゃがれ声で、聞くものを不安にさせそうな低く遠雷のような重低音を意識して恫喝に聞こえないよう努めているような丁寧な話し方で、がっしり丸顔は言った。
がっしり丸顔は永野巌(ながの いわお)、ひょろ長優男は春田有人(はるた あると)という名前らしい。いつまでもガンテツでいつでも春の頭でっせって感じがして、凹凸コンビとか言われてそうだなぁ。ふふっ。同時にお互いのない部分を補いあっていそうでもある。
などと脳内で妄想を膨らませていると、ためらいがちな低い咳払いが聞こえた。見ると、永野さんが眉間に皺を寄せて(といっても最初から眉間には深い縦皺が刻まれていた。多分不機嫌じゃなくてもずっと皺があるのだろう)右眉をひくひくさせて困り顔でこちらを見ていた。
しまった、先方が話している途中に自分の世界に入ってしまったようだ。これはよろしくない。しかし知ったかぶりをするのは最悪だから、ここは素直に・・・。
俺は頭をポリポリかき、猫背で眉を八の字にして、へらっと口角を上げて
「すみません、途中でボーッとしてしまいました。えーと、何の話でしたっけ?」
俺の見えない所で春野さんが肩をすくめる気配がした。永野さんはため息か呼吸か判然としない自然な動作で一呼吸置いたのち、俺が聞いていなかった部分の話を再びしてくれた。どうやら面倒見のいい人のようだ。見た目はカレーが辛くなかったからとちゃぶ台をひっくり返したりバスの時刻が一秒遅れたと怒り狂いそうな短気は損気の見本みたいな偏屈を人の形にしたような感じなのに。この人見た目で損しているな。あと、春田さんも目の前で肩を竦めないあたり、配慮のできる人のようだ。というか、永野さんの気持ちを春田さんが代弁してバランスを取っている感じ?
「柊さん!」
はっ、またやってしまった。
さすがに今回は寛容そうな春田さんも永野さんと一緒にジト目でひんやりした視線を寄越してきたため、今度はへらっとした笑いではなくキリッと真面目くさった表情を作る。
急にシャキッとしたもんだからうっと言いそうな驚きを見せたが、そこは四、五十代らしき年長者の器の大きさで見事な切り替え。
「柊さん、「まだらさん」って知っていますか?」
真面目な態度とは打って変わって、狐につままれたような半分納得していないような表情で「まだらさん」と口にする。
「まだらさんって、人ですか?そんな苗字の人は知り合いにはいませんね」
頭の引き出しを片っ端から開けては記憶を探るが、斑鳩さんはいても「まだらさん」は知らないのではっきりさせた。
ごま塩頭をボリボリ掻きながら、永野さんはすうっと深呼吸してから低い声を小さく潜め、
「実はね、柊さんの住むアパートで殺人事件がありまして、その部屋には壁という壁、床という床に「まだらさん」と書き殴られていたんですよ。なので、アパートに住む人全員にその「まだらさん」を知らないか確認していました。」
これを見て下さいと、永野さんはスーツの懐に手を差し入れ、一枚の写真を出した。どこかの部屋の写真のようだが、恐らく今の話題にある事件があった部屋だろう。
俺の部屋の和室に似ているが、違うのは三点透視図法のお手本のような壁二枚と畳が俯瞰の構図になるアングルで撮られた写真に、赤黒い字で「まだらさん」と文字通り書き殴られていたことだ。恐らく筆ではなく、指で壁や畳をかきむしるように書いたのであろう、書かれた字が一センチ幅はあろう太さで、所々潰れて見辛い。
誰かへの恨み言を書いた執拗さというよりは、何かを恐れ、それから逃れようと念仏を書いているかのような必死さがある。整腸作用のある「猫のポーズ」をするようにのけぞり、猫が爪を柱で研ぐように字を書いたのではないだろうか。
「まだらさん」も、それを書くに至った状況や精神状態は皆目見当もつかないが、一つ言えることは、何故だろうこれを対岸の火事だと思わない方が良いと俺の生存本能が告げている。
「「まだらさん」については知りません。が、俺もどの部屋でこれが起きたか教えていただきたいのですが現時点では可能でしょうか?同じアパートってだけでも気味悪いですし。」
永野さんと春田さんは顔を見合わせてから、永野さんは右手で顎をさすり、春田さんは両ひじを手で触り、少し前屈みになった。
「本当は捜査情報をみだりに漏らせないのですが、まぁ柊さんにはこそっと一言だけ・・・柊さん背が高いから、ちょっと屈んで耳を寄せて下さい。」
永野さんが俺の耳に口を寄せ
「柊さんのお隣です」
とんだ爆弾発言だった。
「お隣って、多聞さんですか?」
何でもすぐ「うるさい」とアパートの近くで遊ぶ子あらば窓を開けて拳を振り上げ、主婦らが井戸端会議を開催すれば「近所迷惑を考えろ」と車座に向けて怒鳴る「うるさい(うるさいってうるさい)おじさん」だが、
「あの、無事なんですか?多聞さんは・・・」
二人を下からすくうように見つめると、黙って首を横に振った。
(柊さんには不気味だから教えてくれと言われたが、仏さんの様子を見たらこれがただの事件ではないと素人でも分かるからな、どんな状況で事切れていたかは今は教えられない。
永野が合掌黙祷し現場の黄色いテープを潜り多聞さんの部屋に入ると、写真で見せた和室の端っこに仰向けで多聞さんが横たわっていた。
写真は部屋を二分した内、多聞さんが横たわっていない側を鑑識に撮影して貰った。
仰向けというが、大の字の手を右手を首に、左手は天に手のひらを突き上げた状態で亡くなっているが、首には絞殺らしく手のあとが残っていたが、短い首の間に何個もそのあとがある。まるで同時に何本の手が絞めたように・・・。同じ強さで絞めたことは司法解剖で明らかになった。
半袖Tシャツと半ズボンというラフな格好であるが、首には絞めあと、露出した肌の部分には、まるで爬虫類の皮膚にある模様のような、鬱血とは違う瘢痕が所々見受けられた。
検死の担当者の話では、胴体や臀部といった、服で隠された部分にくまなく斑模様があったという。口内をライトで照らすと、上顎や舌にも斑があり、これは何かに刻まれた斑であり、内出血の土留色とは明らかに違うという。
彼岸花の夢 路傍塵 @ahirufrost
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