序章
その年はひどい旱魃だった。
元々肥沃ではない土地で、周囲は森に囲まれているが、土が痩せているのか作物が育ちにくい。木の根を掘って食べても、カンカン照りの日差しで汗がじわじわ流れてゆくために渇きは癒えない。土を掘れば水が出るかと、村の皆が揃って素手で土を掻くが、水分の多い粘土質からは程遠い砂のような土を掘っても水が出るはずもない。元々水捌けは悪いくせに保水力のない、作物を育てるには厄介この上ない土質が、水を含んではいないのだ。
まだ日本とは呼ばれていない、ただ何十人かの集まりを村とし、それが全国に点在していた時代。気の遠くなる程ずっと昔に、自分達以外は全く知らない、交流など考えるほど生活が安定していなかった時代に、私は少女だった。
東の果ての山奥で、四方を森に囲まれた傾斜地に私の住む村があった。山の高さは三百メートル位で、傾斜は六十度程と急峻だ。ビー玉を地面に置けばたちまち勢いよく転げ落ちる程。そこをまるで線で引いたみたいに半径一キロの円が森の中にぽっかりと空き、まるで隠れるように私たちの村は身を寄せあっていた。
畑を作ることは土質により早々に諦め、代わりに森の動物を狩ることで命を繋いで来たため、吉凶を占う老婆の発言は村において絶対であった。老婆が今日は狩るなと言えば空腹で賑やかな腹の虫をなだめながら耐え、どんなに悪天候でも今日は必ず狩るべしとお触れあらば森の奥に進んだ。大雨でも狩りにいった狩人達が村に戻ると、背中に一人ぐったりした男性が背負われていた。ぬかるんだ土に足をとられ、転んだ際に猪に突進されて死んでしまったそうだ。不慮のしもありうるから本当は悪天候時には狩りには行きたくないのにと、狩人を始め村の者は皆思っていたが、老婆の発言は決して無視できなかった。たとえどんなに理不尽であっても、この村の命運は、老婆が握っているのだから、決して機嫌を損ねては駄目、分かりました大婆様と頭を下げなさいと頭を垂れてきた。
翁媼は十人、若者は二十人、若者の子供が十人程の小さい村で、いつからいたかは分からない占い老婆に村は支配されたいた。
そんな中での日照りは、老婆に何とかせよと言いに行こうとこっそり大人達の間で話合われていた。さていつ話そうか、大勢で行ってはあの口達者で底意地の悪い婆のことだ、災いがあるぞとか抜かすに決まっている、誰が代表して行こうか?夜、月明かりをたよりにある家の中でこそこそ大人が声を潜めて話していると、それに聞き耳を立てていた者がいた。彼は忍び足で老婆の家に向かい、子細を話し、老婆から駄賃だと他の村人は決して口にできない乾燥した木の実が入った袋を渡され、しめしめと懐にしまって老婆の家を出ていった。
「私の言うことに意見しようだなんて、なんて生意気なやつらなんだろうね。このままにしておくつもりはないよ!」
眉間の深い皺、額には三本の横皺と、村人をしてこ狡そうと言わしめる狐のような細い目と鼻筋には斜めに鼻柱に向かって延びた溝と、笑ったような口だが「怒った時の表情だ」とありありと分かる常に修羅のような顔つきの老婆は、歯茎を剥き出しにしながら老婆は嗤った。
日照りで何が困るかって、動こうにも食べてないから猪を追いかける元気もないし、喉がカラカラで何も考えられない。森の木の葉を齧ろうったって、そればっか食べて腹を下しても水がなければどうにもできない。この間村の子供が虫を食べて具合を悪くして今寝込んでいるため、虫はやめておけと大人にキツく釘を刺されている。
日照りが始まって何日後か、老婆から託宣があったから村に広く知らしめよと言われたと、老婆の使いっ走りが息せき切ってやって来た。
曰く、「私」を水神様への供物として捧げよという。日照りは水神様が人間の行いに対して怒ったが故の罰であり、それは命でしか贖えない。光栄に思えだそうだ。そもそもこの村は水神信仰であったのか、全く知らなかった。
父母はわんわんと声を出して泣き、狭い村だ、他の少年少女も兄弟同然に育ったため、「生け贄」という意味をぼんやりと理解できてはいても、心が追い付いていないようで棒立ちになり、瞳は虚空を眺めていた。冷静であったのはどうやら人身御供にされる私だけであるらしい。
まさか、と思うだろうが、何となくこんな日が来るだろうと予感はしていた。十四歳になったこの年に、漠然と「私は今年死ぬだろう」と思った。ほとんど予言のような直感で、ひょっとしてあの老婆のあとを継ぐ羽目になるのだろうか、嫌だなぁと思ったが、当たったのは死の直感だけ。
水神様がいるのは森のまた奥のこれまた円形の泉で、石造りの階段を上ると澄んだ水が見えた。何だ、ここに水があるじゃない、これを皆に行き渡らせれば良いじゃない。こんな人身御供に私を水神様に差し出さなくても。だが全てはもう遅い。私が死ねば村が救われると老婆が言ったから。託宣に逆らえば皆が困ってしまう。仕方ないけど従おう。
水神様への供物だからと、村で一番上等な白い着物をまとい、後ろ手を縄で縛られた私は、背中を強く押されて二十メートル下の泉に落ちた。頭から落ちたから鼻に水が勢いよく入り、鼻の奥がツーンとして痛い。鼻をフガフガ動かすと口に勢いよく入ってきた水が肺を満たし、もがく内に私の意識は泡沫に溶けていった。
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