第2話 柊の別れ(2)


「・・・・・。・・・・ん無ぇなぁ!?」

 道なりに歩き出すこと早(時計を持っていないのでしかとは分からないがきっと)数十分、公衆電話が見当たらない。

 いや、公衆電話はおろか、電話を借りられそうな商店すらも見当たらない。まばらにいた通行人もひとりも見かけなくなっていた。

 行けども行けども家ばかり、それも道端からでも声をかけやすそうな、あらお嬢ちゃん見慣れない制服だけどどこから来たの?とでも聞いてくれそうなご婦人が縁側で駄弁っている開けた家などひとつもない。

 あるのは綺麗なカーブを描く竹矢来に守られ、侵入者など1人も通しまへんで、と言わんばかりの木造家屋と、一見さんお断りどす、と佇まいで語りかけてくるコンクリートビルだけである。どちらも初対面の中学生が声をかけられるような親しみやすさなど欠片もなく、そもそも呼び鈴どころか扉すら見当たらない。

「うへぇ、どうしようかね・・・これじゃ遅刻どころの騒ぎじゃねぇなぁ」

 日は沈み、まだ夕方の筈なのに辺りは暗く、なのに街灯はまばらで、さらに鳴り出したお寺の鐘の音が腹にごぉんと響いて、早く出ていけ余所者が!とどやしつけられているような気分になってきた。そこかしこから聞こえる柔らかな語感の方言も、都が異邦人であると知らしめてくる。

 もういっそ、てやんでいべらぼうめ!こちとら深川っこでい!とでも叫びながら歩いてやろうか。いささか乱暴かつ大層恥ずかしい思いつきが頭をよぎる。

 それとも、車道をまばらに通る車の他は誰も歩いていないのだから、大声で東京音頭を歌ったってやろうか。


 空は真っ暗、星もない

 街灯の下、都の影だけがゆらりと揺れる


(・・・あれ?)


 スニーカーがアスファルトを擦るジャリジャリという音だけがやけに大きく響いて、そこかしこから聞こえる関西訛りの話し声は水中から外の音を聞いているかのように遠くぼやけている。


「・・・・・・あれ?」


 関西弁がそこかしこから聞こえているのだ。

 大勢の話し声に包まれてさえいるのに。


 前も後ろ右も左も、都の他には誰もいない。


「あれ?・・・えっ?」


 慄然と立ち止まってしまった都の横を赤い車が通りすぎる。

 排気の音すら聞こえないそれは、都の髪をに走り去り消え去っていった。


「・・・お。お、おぉ、どりぃ、おぉどる、なぁ、あぁ、らぁ」

 思わず口をついたのは、盆踊りでおなじみの地元の名曲だ。だって怖い。なにか喋ってないと怖い。

 等間隔に並ぶ街灯が点々と照らすのは、誰も通らない灰色の道と、侵入者を拒む矢来に守られた家々ばかり。ビルもいつの間にか無くなっていた。

「ちょ、いと、とぉきょぉ、おぉんんどォ、よぉいよい・・・」

 乗ってきたバスの中は日差しも入り暖かく、しかし降りた途端に冷たい風が吹いてきて、おもちゃの刃で刺されたようなぼんやりとした痛みが襲ってきていたものだ。


 今は寒くも暑くもない

 風もない

 日は沈み切り、空は塗りつぶしたように真っ黒で月も見えない


「花ぁのみぃやぁこおぉぉのぉぉ、花ぁのみぃやこぉ、のまぁん、なぁか、でぇ」

 歩道沿いに点々と生えている白い車止めに腰かけ仰向いて、ひたすらふるさとの歌を歌う。


 ゴンゴンゴンゴン鳴り続ける鐘の音にかき消されないよう、周囲をただよう異郷の言葉に紛れないよう、大きな声で

 

「やぁぁっ、と、やぁっとぉ、で、よい、よい、よぉぉい・・・!」


 ひとつ違和感に気づいてしまうと芋づる式におかしな所ばかり目についた。

 というよりも、おかしくない所がないと気がついてしまった。


 風もないのに揺れる梢

 初夏なのに六時前に沈みきる太陽

 誰もいないのに周囲には関西訛りのざわめきがぼんやりと満ちている


 禍を吹き飛ばすために粋な旦那衆の力で作られた陽気な歌も、歌う都の声が震えているのでさながら葬送歌のようにしんみりと薄暗い。それとも、花の都から遠く離れているから歌の持つ力が弱っているのだろうか。

「ええと・・・、ま、ま、まぁるたけ、えぇびすに、おっ、おし、おいけぇ・・・!」

 ならばとこの土地のわらべ歌を歌ってみるが、旅行前にちらりと習っただけのその歌は一小節しか覚えていない。夜空かどうかも怪しくなってきた黒塗りに目を凝らしてみても、そこに次の歌詞など浮かんではくれない。

「あぁ、あぁねさぁん?しぃかくぅに、えぇびすぅがおぉ?」

 違う気がする。なんだか語呂が悪い。心なしか膜ごしの関西弁が嘲笑うものに変化した気さえしてきた。

「しわぁは、ぶっつけ、まつまぁん、ごしょおぉ、・・・・もういいや」

 絶対に違う。もう歌うのはあきらめて、恐怖から涙でぼやける瞳を袖口で乱暴に擦りながら周りを見回してみる。

 相変わらず誰も居ない。

 居ないのに声ばかりは途切れない。

 活気溢れる商店街の中にポツンと取り残された寂れた店の中から外の音を聞いているかのようで、どうせなら自分も辛気くさい店を出て明るい商店街を練り歩きたくなってきた。


 ーそやし言うたったん・・・ほんまあんたは・・・あいさに寄ってくれはったら

 ー・・・から入ってくるのがよろしお・・・すかしこうにあぼしとってな・・・炊いたんが・・・よう言わんわけったいな


 黒塗りの空、竹矢来に囲まれた家々、風もないのに揺れる木々。

 壁の向こうから聞こえるようなざわめきを聞くともなしに聞きながら、それらをぼんやり眺めているうちに、自分の手がうねるように勝手に動いているのに気がついた。

「・・・あ」

 伸ばされた親指と人差し指と中指、薬指と小指は拳を握るように丸められ、肘を基点にして規則的に宙をなぞる。

 手が何の理由もなく動いた訳ではないことも、右手の指が何故その形を取ったのかも、都はよく知っていた。何しろ、つい半年前までこの三本指は毎日毎日飽きもせずにその形をとっていたもので、人差し指の第2関節と中指の先など石のように固くなっている。何度も何度も出来ては潰れ出来ては潰れを繰り返した胼胝たこだ。

 半年前までは毎日毎日握っていたから、何か珍しいものを見ると手は無意識の内に動くのか。これが習い性というものか


「・・・そいつはなんとも情けない」


 思わずこぼれた呟きを聞き付けて、滑らかに動いていた手はいたずらを親に見つけられた子供のようにぱたりとその動きを止める。

 そしていたずらを咎められた子供がそうするように、己の咎をしらばっくれながらだらん、と腰の横にぶら下がった。


「ま、まぁる、たッけ、えんびすぅに、おっし、おぉいけぇ」


 元のふしを歌うのは諦めて、覚えている一小節だけをアレンジしながら口ずさむ。

 自分はバスの中で事故に遭ったのだろうか。うたた寝している間にあのバスは交通事故に遭って、珍しい名前だと少し驚いた停留所も本当はこの世に存在しないものなのかもしれない。

 だって、何とか前、とか何とか町何丁目、ならともかく

 柊野別れなんて聞いたこともないバス停だ。


「まるぅぅたぁけぇ、えびぃすぅにぃ、おぉしおぉぉいけぇぇ、ぇえぇ、ぇええ」


 自分は死んだのか。この寂しい場所はあの世なのか


「まぁる・・・」


 ここがあの世なら、死んだ人のいるところなら


「・・・師匠」



 あの糞爺も居るのだろうか

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