千歳の契り

月庭一花

ちとせのちぎり

 その家の一番良い部屋には、すでに紋付の正装をして鯱張った主人が親族と共に、かしこまっている。

 小正月明けのこの日は朝から雪がちらついていたけれど、立て切られた部屋は人が詰めているせいで、まるで寒さを感じない。

 末席にはこの家の子どもたちも座っているが、皆静かなものであった。今日は命日で、大切なお祀りの日であることを、ちゃんと理解しているのだ。

 邑はこの家の刀自に手を引かれて座敷に入った。邑が姿を見せると座の雰囲気が変わった。雪の夜のように空気が張り詰め、子どもたちが緊張して、喉を鳴らすのが邑の耳に届いた。

 この日のために潔斎して、今朝は水垢離を取っている彼女の姿は、人よりも最早神の領域に近い。洗い清められた白装束は神々しく、大麻の鬘がなびく様は人の目をいやでも寄せるのだった。

 すでにおくない様はオセンダクを終えて、お座りになられている。その顔には……邑には見えないけれど……米をといた白粉が新たに塗られている。一対で祀られるおくない様は、それぞれ一尺程とお体こそ小さいが、お祀りする家にとってはとても大切な神様なのである。

「市子様、ようおいでくさいました。今日はどうぞ、おくない様とお遊びくださいませ」

 この家の主人が言う。邑はその声に返事をせず、軽く一礼するのみだった。そしてそのまま刀自に手を取られて、おくない様の前に座った。

 恭しく、そして深々と頭を下げ、祭文を読み上げる。

「手に取ればこそ手になづて遊んだ神かな。そもしもしらわの御本地、くわしく読み上げたのみたてまつる……」

 邑の声が朗々と座敷を浸していく。

 やがて顔を上げた邑は、おくない様を両手に一体ずつ捧げて立ち上がった。その場でくるりと体の向きを変え、祭文を唱えながら静かに、そして優雅に舞う。おくない様が邑の手によって、一緒に踊っているように見える。

 家の者すべてがその光景に息を飲み、しわぶき一つ立てることなく見守っている。

 やわらかな、優しい舞が続く。

 たわんだ笹から雪が落ちる音が、ひときわ大きく聞こえる。

 おくない様の遊ばせが終わると邑の額には大粒の汗が浮かんでいる。両の手にはまだ、おくない様が握られたままになっている。この家のおくない様は、馬と娘の顔をしていた。

 邑は手にしたおくない様で、一人ひとりの背中を祓っていく。どうか一年が健やけくありますように、と。


 邑は市子を生業としている。

 市子とはこの地方の巫女のことで、盲目の女性が就く。小正月明けの今日一月十六日は命日と呼ばれ、おくない様をお祀りする家では、おくない様の遊ばせをする特別な日なのである。

 三つの家を回って疲れ果てた邑は、さなしの杖をつきつつ、家路を急いだ。目の見えない彼女の足取りは、降り続ける雪のせいもあって、たいそうゆっくりとしていた。

 吐く息が白く、夕闇に溶けていく。杖をつく手がかじかみ、時々息を吹きかける。市子市子と大事にされても、こういうとき、自身の不自由さが身にしみるのであった。

 勝手を知る山あいの道を歩いていると、どこからかばさり、ばさり、と大きな音がする。立ち止まり、耳をすますと、ひときわ甲高い鳴き声が聞こえた。

 邑は恐る恐る声の方に近づいていく。

 声を上た何者かも邑に気付いたのだろうか、激しく暴れるのをやめ、その場でじっとしているのだった。

 やがて、杖の先がなにか硬いものに当たった。手で雪の中を探ると、それはくろがねで出来た鎖であった。鎖の先の一方は地面に打ち込まれ、ビクともしない。反対側に指を這わすと、ふかの歯のようなものに触れた。硬く冷たい歯が、何かを噛んでいる。声の主はどこにいるのだろう。息を殺してじっとしているらしく、邑には居所がわからない。

 そのときだった。邑の手がぬるりとしたものに触れた。驚いてさっと手を引く。指と指をこすり合わせ、匂いを嗅いで、心臓が止まる思いをした。それは、血の匂いだった。

「おまえ、おまえはなんだ。獣か。そこにいるのか? 猟師の罠にかかったのか?」

 邑が声をかける。相手は答えない。

「待っていろ。今、取ってやるから」

 市子……それもおくない様を遊ばせるお役目を持つ者は、古くから肉を口にしないしきたりだ。けれど禽獣が罠にかかっているを、助けなければならない道理はない。

 猟師には猟師の生業があるのは十分理解している。獲物を逃したら、彼らが飢えることも邑にはわかっていた。それでも、そのときの邑は、助けなければ、と思ったのだ。

 虎挟みは獲物に長い時間苦痛を与える。同じ猟をするのでも、痛みを長引かせる方法は、邑には酷なことだと思えた。それも、助けようと思った一端だったのかもしれない。

 ゆっくりと触れると、足が細い。

 獣ではない。

 鳥だ。

 それも、とても大きな鳥。

 傷に触れて痛かったのか、その鳥は大きく羽を広げ、邑の頬を打った。そして激しく鳴いた。

「暴れるな、暴れないでおくれ。もうすぐ、もうすぐに取ってやるから」

 鳥に人の言葉がわかるとは思えないが、邑なるべく優しく、語りかけるのだった。

 鳥はそれを理解したのだろうか。

 急におとなしくなり、邑の手に任せるように、雪の上にその身を伏した。

 雪の冷たさに、くろがねの冷たさに、指の感覚がなくなっていく。何度も指先に息を吹きかけ、自分自身に大丈夫、と言い聞かせて、どのくらいの時間が経っただろう。

 やがて、がちゃり、と大きな音がして、罠の口が開いた。

 その一瞬の間に、鳥はばさり、ばさり、と大きく羽をうち広げ、鋭く一声鳴くと、空に飛び立っていった。

「もう捕まるなっ。おまえは、……自由なのだから」

 邑は声を枯らして叫んだ。

 なぜか頬に涙が伝っていた。

 どうして泣いているのか、邑にはわからなかった。


 それから月を跨いだ夜のこと。

 朝からの雪に降り込められ、外に出ることも儘ならなかった邑は、囲炉裏の火にあたりながら、そろそろ寝支度をしようとしていた。寒さを紛らわせようと、おくない様をお遊びさせたときに村でいただいた御酒を軽く口に含んだ。胃の奥が、ほんのりと熱を帯びた。

 さりさり、という、雪の降る音と、囲炉裏の炭が時々爆ぜる音がするだけの、寂しい夜である。

 御酒をいただくと聴覚が鋭敏になるもので、邑もこのときはなかなか寝付けず、何度も寝返りを打っていた。

「あの」

 急に戸口から声が聞こえて、邑は慌てて跳ね起きた。続いてトントン、と戸を叩く音がする。

 人の気配なんて今の今までしていなかったのに。

 それに一体、こんな夜更けに訪ねてくるなんて……。

「あの、ごめんくださいまし。旅の女でございます。慣れない雪の道で迷ってしまいました。どうか一晩でいいのです。泊めてはもらえませんでしょうか」

 震えるような、か細い、女の声だった。

 まだ若いのだろう、その声はまるで琴の音のように張り詰め、美しく澄んでいた。十七八、二十には届いていないであろう、瑞々しい声。

 邑はその声に少しだけ緊張を解き、恐る恐る戸を開けた。

 市子の鄙びた家に押し入るような不逞などいやしないだろうし、取られて困るのは命くらいなものだった。もちろん、おだいじや数珠、軸などは皆、大切な商売道具なのだが。価値のわからぬ者には唯のがらくただ。

「あいにくと何もない四阿同然の家で、かえって申し訳ないとは思うけれど、それでもよければお入りください。わたしはこの家で市子をしている、邑と申します」

「本当にありがとうございます。奇遇ですね。わたしの名も夕というのです」

 女が頭をさげるのが、気配でわかった。

 香粉だろうか。白梅に似た、甘い匂いが鼻を掠めた。あるいはどこぞの小糸さんなのかもしれない、と邑は思う。

「市子様というと……不躾で申し訳ありませんが、おまえ様は目が不自由でいらっしゃるのですか?」

「ええ。そのせいで行き届かぬところも多くて……さあ、そんなことより早く囲炉裏のところへ。外はお寒かったでしょう」

 邑が夕の手を引き、客座に案内する。

 夕の指は冷たく、柳のように細かった。働いたことのない手のように思えて、少しだけ邑の心が乱れた。

「どうしてこんな夜更けに、山越えをしようなどと思ったのですか」

 もうすっかり眠気も飛んでしまって、邑は白湯を勧めながら、囲炉裏の火にあたる夕に問いかけた。

「どちらからおいでに?」

「西の国から」

 と夕は答えた。

「絹糸の買い付けで参りました。従者は途中流行病に罹って、そのまま伏せってしまって……郷に返しました。わたしも慣れない旅でしたから、どうしていいかわからず、難渋しておりました。もうすぐ村に出るはずだと思い気が急いてしまったのが悪かったのだと思います。雪に気を取られているうちに道がわからなくなって……この有様です」

「それはお気の毒に」

 憐れに思って、邑はぽつりとそう呟いた。

「雪が止むまでいらっしゃればいい。何もないところだけれど、火だけはあるから」

「そうさせてもらえると助かります」

 ぱちり、と炭が火の粉をあげた。

 家には接ぎの寝具が一つしかない。夕にそれをあてがうと、邑はまた囲炉裏のそばに座った。

「おまえ様は眠らないの?」

 夕が不思議そうに訊ねる。

「どうかご一緒してくださいませんか。まだ、体の芯が冷えてしまっていて、寝付かれないから」

 帯を解く、しゅるしゅるという音が邑の耳に届いた。

 邑は小さく、聞こえないように嘆息して、自分の帯を解いた。

 布団の中に、自分の体ではない体、自分のものではない匂いがする。今までひとり寝が寂しかったなどと思ったことはない。それでもこの胸を締め付けるような気持ちに、邑は名前をつけることができないでいた。

「おまえ様の体も冷たいのね」

 夕が囁くように言う。邑は布団の中で俯いて、答えない。声も、匂いも、甘い。自分の中の何かが溶けていってしまいそうだった。どうしていいかわからず、手持ち無沙汰で差し出した邑の手に、絹のごとき夕の髪が触れた。

 艶やかで、なんて豊かな髪なのだろう。

 嫉妬なのか、それとも憧憬なのか、邑の胸がちくりと痛む。

 慌てて手を引こうとすると、夕がそれを押し留めた。

「髪を撫でられると、幼い頃を思い出します。どうかそのまま、やめないで」

「そんな、童のようなことを」

「わたしはまだ十六。十分子どもですよ。おまえ様は?」

「……二十三」

「それは、大人ね」

 夕は邑の胸に顔を押し付けて、くすくすと笑みをこぼした。振動が喉に伝わって、邑はなんともこそばゆい思いをしながら、それでもなぜか……嫌な気はしなかった。

「もう寝なさい」

「ふふ、おまえ様も」

 いったい何が起きているのかよくわからないまま、夜が更けていった。白梅に似た香りだけが、いつまでも邑の心を淡い波のように、ゆらゆらと揺さぶるのだった。


 ……はて、いつの間に寝てしまったのだろう。

 朝の明るさを僅かながらに感じて、邑は目を覚ました。さりさり、という音が止まないところから、雪が降り続いているのをなんとなく知覚する。

 だが、少しおかしい。

 布団の中には自分一人しかいない。

 思わず手を延べて布団の中を探る。

 夕は……どこに行ってしまったのだろう。

 それとも、あれはすべて夢だったのだろうか。確かにまだ、白梅の匂いがするというのに……。

 そんなことを考えつつ、白い息を長く吐きながらのそのそと布団から這い出ると、

「おはようございます、おまえ様。失礼かとは思いましたが、寝ているあいだに勝手をお借りしました。朝餉ができていますので、起きてくださいまし」

 夕の声がすぐ近くから聞こえてきた。

「……朝餉? まったく気づかなかった。あまり食材もなかっただろう?」

 邑の問いかけに、夕が小さく笑い声を返した。

「わたしの荷から少しばかり。一宿の恩がございますゆえ。……おまえ様は、命の恩人ですから」

 差し出された膳には香の物と汁、粥と、一揃え据えられている。邑は狐につままれたような心持ちで、朝餉を口に運んだ。

「……美味しい」

「それは良かった」

 夕がまた、くすくすと笑う。何がそんなに嬉しいのか。邑にはよくわからない。

「外はまだ雪だろうか」

「ええ、まだまだ止みそうにありませんね。ねえ、おまえ様、もう少しここに置いてもらうわけにはいかないでしょうか」

 夕の声が僅かに揺れる。邑は香の物を囓り、白湯で飲み下した。

「……雪が止むまでいていいと、昨日も伝えたと思うのだけれど。急ぐ旅なら引き止めはしないが……夕の好きなだけいていいよ」

「おまえ様、わたしの名前をおっしゃってくださった」

 夕が不意に、華やいだ声を上げた。

 そういえば彼女の名前を呼んだのは、初めてだっただろうか。同じ読みの名前なので、なんとなく、口にするのが気恥ずかしかったのかもしれない。

「嬉しい」

 夕がまた楽しそうに、囁くように、言う。

 鈴が転がるような、というのは、まさにこんな声なのかもしれない、と邑は思う。不意に胸が高鳴って、女を相手に、どうしてこんな気分になるのだろうと、邑は自分自身の心の動きが不思議だった。

「ご馳走様でした」

「いえ、お粗末様です」

 朝餉が終わると、夕が手際よく食器を片付けていく。その小気味いい音が聞こえる。どこぞの小糸さんだと思っていたが、どうしてなかなかの働き者だ。

「そういえば、厠に行くとき奥の間に機があるのを見たのですが、あれはまだ、おまえ様がお使いになっていらっしゃるのでしょうか」

「ああ、あれは……」

 邑はそういえばそんなものもあったな、と思う。最近は触れてさえいないが、整えればまだ使えるはずである。

「昔はわたしの目が、今よりも明るかったのだけれどね、今ではもう、すっかり盲てしまったから。機を織ることはかなわなくなってしまった。……活計の足しにしていたのだけれど」

 自嘲を込めて、邑が言う。この辺りは昔から土地が痩せていて、稲作には不向きであったから、村人は皆蚕を飼うことで収入を得て生きてきた。邑も市子として生きる前は、そうだったのだ。

 夕は少し思案しているそぶりであったが、それなら、と声を上げた。

「わたしにあの機を、使わせてくださいませんか」

「古い地機だけれど」

「大丈夫です」

 どうせ使い道のない代物だ。好きにすればいいよ、と言うと、夕は邑の手を取って、ありがとうございます、一生懸命織らせていただきます、と言った。


「ただ、一つだけお約束してください。わたしが機を織っているところを、決して覗かないで欲しいのです」


「……変なことを言うのだね。いいよ。約束」

 小指を探り、互いに絡める。

 邑が触れた夕の指は、やはり昨日感じたように、働く女の手ではないように思う。嫋やかで、折れてしまいそうなほど細く、繊細な作りをしている。

 この指で、どんな布を織るのだろう。

「……わたしは朝のお勤めがあるから。しばらくは祭壇の前にいるよ。祭文を唱えているけれど、気にしないでおくれ」

 邑は絡めた指をほどきながら、言った。

 この雪に足止めをされて、夕も手持ち無沙汰なのやもしれぬ。知らない土地の、知らない家での逗留なのだ。だから心細さの慰めになればと、邑は勝手を許したのである。

 まさか、夕の機織に、秘密があるとも知らずに。


 雪がさりさりと降り続いている。

 あれから三日を数えるが、雪の止む気配はなかった。

 夕は家事や雑用をこなしながら、それでも一日の大半を奥の間で過ごした。杼を使う音が、途切れなく聞こえてくる。熱心なことだ、と邑は思う。そして、どんな布が織り上がるのか、それを想像すると心が華やいだ。夜一緒の布団で共寝をするときに、疲れた夕の髪を優しく梳いてやった。最初の頃よりも幾分乱れ、ツヤが落ちたような気もするが、それも疲れのせいだろう、と思った。夕は邑の手を、くすぐったそうに受け入れていた。

 もちろん、この三日のあいだ、邑が夕の様子を覗くことはなかった。もとより、邑は覗くための目を持っていなかった。

 四日目に村で市子の仕事を呼ばれた。

 雪の心配を夕はしたけれど、村までは通い慣れた道である。大丈夫だからと言い聞かせ、邑はひとり出かけた。

 子どもの霊を呼んでほしい、という依頼だった。昨年のこの時季、流行病で死んだ七つの子だった。礼に、餠をもらった。一生懸命機を織る夕に少しでも精のつく物を食べさてあげたかったから、邑としてもありがたかった。

 山の日暮れは早い。帰りはすでに暗くなっていた。

 雪と風がまた、少し強くなっているようだった。

 深めにかぶった笠に、薄く、雪が積もっていく。

 邑は白い息を吐きながら、歩いた。そしてふと立ち止まると、そういえばあのとき罠にかかった鳥の声を聞いたのは、この近くだっただろうか、と思った。

 目の見えぬ邑にとっては、足裏の感覚と、杖、そして周囲の音がすべてであったから、正確なところはわからない。でも、なんとなく、この辺りだったような気がする。

 山道とはいえ、人の通りがあるところからそれほど離れていない場所で、獣用の罠を仕掛けるなどやはりどうかしている。改めて邑は人の業に対して、憤慨する。

 ……あのときのあの鳥は、今、どうしているのだろう。不意に邑は思う。元気にしているのだろうか。もう、人に……ううん、誰にも捕まらなければいいのだけれど。

 自由。自分にはないもの。そのことを考えると、邑の胸は塞いだ。そして、……何がしたかったというわけではないのだけれど、ふらふらと罠があった方へ、足が向いた。

 そのときだった。

 がちゃん、という大きな音がして、杖が何かに奪い去られた。邑は小さく悲鳴を上げた。恐る恐るかがんで、手を延べてみると、虎挟みの罠に杖が挟まれて、真っ二つにへし折られていた。邑はゾッとした。がたがたと震え、もしもこれが自分の足であったなら、今頃は骨が砕かれていたかもしれない、と思った。

 罠はまだ、生きていたのだ。

 でも、どうしよう。

 杖がなければ、家に戻れない。

 こんな夕暮れを過ぎた雪の山道に、人が通りかかるとも思えない。

 歩き出そうとして、しかし勝手がわからず、木の根に足を取られて転んでしまう。雪が冷たい。……痛い。

 笠の紐がほどけて、風に飛ばされていく。

「誰か」

 か細く声を上げる。

 けれどその声は雪と風とに遮られて、どこにも届きそうになかった。ただ、絶望だけが、重くのしかかってきた。


 ……どのくらい雪の中でうずくまっていたのだろう。

 不意に誰かの声が聞こえて、邑は僅かに顔を上げた。

「おまえ様、おまえ様、どこにいるの? 返事をしてくださいっ」

 ……夕?

 夕が、探しに来てくれた?

「おまえ様、……邑、邑っ、どこにいるのです?」

 ひょう、ひょうと、風雪が鳴る。

 邑は凍える指先で木の幹に触れ、ゆっくりと立ち上がった。けれど挫いた足に激痛が走り、思わず悲鳴を上げてしまう。

「邑っ」

 誰かが駆け寄る音が、邑の耳に微かに聞こえた。まぼろしでも、夢でもない。細く嫋やかだけれど、でも、確かな腕が、邑を包み込む。

 甘い、白梅の匂いがした。

「夕? ……本当に、夕なの?」

「遅いから、心配で心配で、いてもたってもいられなかったんです。よかった。邑が無事で、本当によかった……」

 震える手で、腕で、夕が邑の体を包み込む。

 その確かさに、思わず邑の目から涙が溢れる。

 すると邑の頬に、自分のものではない、温かな雫を感じた。

「……夕、どうして泣いている?」

「だって、もしも邑がいなくなったらと思ったら、怖くて、恐ろしくて……」

 夕の瞳からも五月雨のような涙が零れていた。

 二人は抱き合いながら、声を上げて泣いた。


 夕の肩を借り、挫いた足を引きずるようにして、這々の体で家に辿り着いたときにはすでに深夜に近い時刻だった。

 囲炉裏の火も消えかけ、家内は氷のように冷たい。入り口の戸の隙間から吹き込んだ雪が、三和土の上で凍りついている。

「今、すぐに火を熾しますから」

 そう言った夕の声も寒さに震えている。

「ありがとう。今日はね、夕に食べてもらおうと、餅をもらってきたんだ。ずっと機を織っていて、疲れただろうと思って。精をつけてもらいたくて。それなのに……」

「もう、その気持ちだけで十分です。十分ですから」

 囲炉裏に薪をくべながら、夕が切ない声を出す。

 邑はそれには気づかぬ様子で、訥々と話し続ける。

「なのにわたしは杖をなくして、怪我までしてしまった。夕が探しに来てくれなかったら、どうなっていたかしれない。本当にありがとうね。夕はわたしの命の恩人だね」

 邑の眦に涙が浮かぶ。

 その様子を見た夕が、そっと指先で涙の粒を拭う。冷たい手だった。けれども温かな、仕草だった。

「これからは、わたしが邑の目になります。ずっと傍にいます」

 邑は、そう言った夕の手を、静かに握り返した。

「そんなことをしてはいけない。夕には、夕の旅があるのだから。もうすぐ雪も止むだろう。そうしたらもう、夕は自由だ。商いが恙なく済んだら、西の国に帰りなさい」

「……邑」

「もう、機は織り終えたの? 夕の織った布はさぞ美しいのだろうね。……よかったら一度、触れさせてはくれないだろうか」

 夕が、邑の手を、そっと胸に押し抱いた。

 それから邑の傍を離れ、奥の間から、一反の絹織りを持って戻ってきた。邑の傍らでそれを広げ、邑の手を導く。

 驚くほど滑らかな絹地であった。このときほど、邑は自分の盲の目を恨んだことはない。絹地の上に現れた色彩は、どれほど美しいのだろう。それを一生知れないことが、ただ、悔しかった。

「本当は、織り上げた布を残して、去るつもりでした。邑は命の恩人でしたから、その布を売って、お金に変えてもらえばいいと思って。でも、わたしは」

 夕が意を決したように、息を継いだ。

「わたしは、あなたのことが、好きになってしまったのです。邑とずっと一緒にいたいと、思ってしまったのです」

「気持ちはありがたいよ。わたしも、夕とずっと一緒に過ごせたら、どんなにいいかわからない。でも、西国にはご家族もいるのだろう? 商いだってあるだろう? それを放っていい道理は……」

「嘘なんです」

 夕は、邑の言葉を遮るように、一声そう言った。

「嘘? 嘘というのは」

 邑が恐る恐る、訊ねた。

「わたしは、わたしの正体は、いつぞや罠にかかっていたのを助けていただいた、……鶴なのです」

 邑は思わず息を飲んで、夕の手を探った。

「邑が動けなくなっていたあの場所で、わたしも猟師の罠にかかりました。覚えておいででしょう? 邑はわたしに、もう自由だと、そう言ってくれました。虎挟みの罠から救ってくれました。わたしは、わたしはあのときの、鶴です」

 そのような不思議が、本当にあるものなのだろうか。邑は半信半疑のまま、夕の手を握りしめていた。

 でも、確かに、あのとき邑は言ったのだ。

『もう捕まるなっ。おまえは、……自由なのだから』

 と。

「わたしの羽と目を、一つずつ、邑に差し上げます。だから、共にいきませんか?」

「羽と目? それに、行くって、一体どこに」

 夕が小さく首を横に振ったのが、気配でわかった。

「わたしと一緒に、生きて欲しいと言ったのです。地から離れて、空の世界で、自由に。共に暮らしませんか」

 自由に。

 その言葉に、邑の心が震えた。

 目を患い、だんだんと弱る視力で、必死に生きてきた。市子の仕事が嫌なわけではないけれど、もしも、夕の言うように、この身を鴻毛のように軽くすることができたなら。どんなにか素敵だろう。

 思案する邑の唇に、やわらかなものが触れた。白梅の匂う、夕の唇だった。

「わたしは、邑が好き」

 そっと触れていた唇を離して、夕が囁く。

「好きなのです」


 市子の邑が消えてしまったことは、少しだけ騒ぎになった。村人たちが山の彼方此方を探したが、見つからない。春の雪解けのあとにも邑の体は、どこにも見当たらなかった。

 家には家財道具一式がそのままの形で残されていた。大事な勢至菩薩の軸も、仕事の道具も。

 ただ、大きな鳥の羽が数枚、奥の間の地機の近くに散っていたのが、不思議といえば不思議であった。

 やがて村人たちは、彼女がいつも唱えていたおくない様の祭文にあるように、天に昇ったのでなはいだろうかと噂しあった。


「一度訊きたいと思っていたの」

 傍らに侍っている夕に、邑はそっと問いかけた。

「はい、なんでしょうか」

「わたしが今着ている……夕が織ってくれたこの絹のことなのだけれどね。あなたは鳥の身で、どうしてこんなにも美しい絹地を織ることができたの?」

 邑は自分の着物の裾を少しだけ持ち上げてみせた。夕はその仕草を見て苦笑を浮かべ、頬をほんのりと赤らめた。

「自分の羽を、緯糸に織り込めたのです。わたしの一族に伝わる秘伝でした」

 あの雪の、共寝のとき。夕の髪が日に日に痛んでいくように思えたのには、そんな理由があったのか。邑はそっと夕の髪を撫でた。今ではすっかりツヤを取り戻している、その美しい黒髪を。

「馬鹿。もう、二度と自分の体を犠牲になんてしないで」

「ええ。わかっています」

 くすくすと美鈴の如き笑みを零し、甘えるようにすり寄る夕が、邑には愛おしい。

 次はどこに行きましょうか。邑は自分の羽を広げて言った。夕も邑に身を添いながら、ゆっくりと羽を延ばした。片羽の鳥がゆっくりと睦みあう。

「どこへでも。邑の好きなところに」

 鶴の命は千歳。比翼となれば二千年。

 だから好きなところに、好きなだけ。

 もう二人を縛るものは、何もないのだから。

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