二話 眩暈

「まぁ友達の恋なら応援したいもんでしょ」

 記憶の片隅にいるリクが、俺にそう呟いた。応援する、そう、応援していたはずだったのだ。なのにリクは、俺を差し置いて松前さんとデートに行っていた……?

 どういうことだよ、と責める言葉が思い浮かんだ。けれどどこに発したところで、それが言いたい相手に届くことは無いらしい。リクは、死んだらしい。あまりにあっけなく、言葉で伝えられた事実。普通なら信じられないようなその言葉も、すすり泣く松前さんの声が証明していた。

 ——リクが死んだのも、なかば裏切るような行動をしたのも事実。頭の中で反芻される言葉は、理解することと受け入れることの狭間で宙に浮いていた。


* * * * *


「もしかして、この先の十字路通ってるの?」

 リクが怪訝そうな顔をしてそう呟いたのは、桜の木がすっかり緑色に染まったある日のこと。今から一年と少し前の、出会って間もない頃だった。

 彼に教えてもらった少し遠いけれどかなり安いスーパー、その買い物袋を両手に抱えていた俺は、その言葉に

「どの交差点?」

 と反射的に返事をする。リクは「あ。そうか」とだけ呟くと、道の先を睨むのをやめて俺の方に向き直った。

「この道をまっすぐ行くとさ、狭―い通りがあるんだよ」

「あ——……確かに?」

「そこってさ、毎年交通事件が起きるような道路なんだよ」

 いまいち何処のことかぴんと来ない俺をよそに、リクは言葉を続けていった。

「こう——塀が高くてさ。見通しの悪い典型的な危険な場所って感じで」

 不自然に空中で手をわさわさと動かしながら、説明に苦心するリク。そうこうしているうちに、彼が言及したかったらしき場所に辿り着いた。

「事故が多い場所ってここのこと?」

 俺が周りを見ると、確かにそびえたつブロック塀が十字路の視界を狭めている。塀の頭頂部からは、その内側に生える木々が青い葉をのぞかせ空すら覆っていた。

「そうそう。去年も俺の先輩の自転車がここで巻き込まれたらしくて——」

 リクの返事を遮るようにして、けたたましいクラクションが鳴り響いた。遠く後ろからエンジンの轟音が走ってきて、振り向けば鉄材を積んだトラックが前進してくるところだった。両手に持ったビニール袋ごと飛びのいた俺は、リクともども道路に引かれた白線の内側——塀の間際に背中を合わせて、なかなかにギリギリのところでそれを躱した。

 トラックが巻き込んだ土埃と、排気煙が鼻をくすぐる。体のすぐそばを重たい車体が霞めて言った瞬間、自分の心音がやけに大きくなったように感じた。

「危ねー……」

 トラックのサイドミラーが、植木の葉をかき分けてがさがさと音を立てていく。それを見送りながら、リクは少し大げさな身振りで胸をなでおろす。

「な? 怖いだろここ」

 彼は俺に向き直りながらそう言うと、そそくさと道を引き返し始めた。俺は大人しくそれについて行きながらも、なんとなく十字路の方を振り返る。よく見ると道路に面したブロック塀だけが、周りに比べて一回り新しく見えた。

 目の前を通り過ぎて行った大質量の自動車を想像しながら、もしあんなものが直撃したら、そりゃあ塀も壊れるだろうと感じた。そうして塀が崩れ落ちるのを想像しながら、その十字路を使ってきた自分が恐ろしく呑気だったのだと思い知った。


* * * * *


 あの日想像した崩れ落ちた塀の想像図が、まさに目の前に広がっていた。十字路に面した塀の一角、あの日新しいブロックと古いブロックが混ざっているのを見つけた塀はもはや原形もないほど崩れ去っている。壊れた部分を覆うようにして掛けられたブルーシートの隙間から、伸び放題の草木が垣間見えた。

 車通りが無いのを確認してから、十字路を横切った。壊れた塀に更に近づくと、そのすぐそばに投げ出された花々が目に留まった。白や赤、黄色の色とりどりの花びらが、通り過ぎていく車に轢かれて、足元でひしゃげている。萎れて土にまみれたそれらの下敷きになって、「兵藤陸へ」と書かれた紙が落ちていた。

 足元に——そして目の前に広がる情景全てが、リクの死を象徴していた。あまりにも綺麗に彼の死が示されているものだから、ある種のわざとらしさすらその景色から匂ってきそうだった。

 ——自分で「事故に気をつけろ」って言っていた場所で車に轢かれるなんて、笑えないぞ。リク。

 もう一度辺りを見回して、内心そう呟く。それからしばらくの静寂ののち、俺は下唇を噛んだ。

 強がった言葉以上に、何か言うべきものが見つからない。リクに何を言えばいいのか、何を言ってやりたいかが見つからなかった。そもそもあいつが死んだなんて、そう簡単に受け入れられるわけなかった。ついこの間まで呑気に俺の前で笑っていたはずなのに、今はもうその笑顔がどこにも存在しないなんて、にわかに信じられなかった。ここが彼の死んだ場所です、皆死を悼んでいますと言われて、「はいそうですか」と受け入れられるほど聞き分けはいい方じゃない。

 それに彼が死んだと認めたとして、それをどう捉えていいかもわからなかった。あいつは間違いなく、俺の親友だ。もちろんその死を悲しんでやりたい……。けれど今はそれが出来なかった。だってあいつが、俺の望んだものを、彼自身も応援してくれていると思っていたものを、手に入れてしまったからだ。松前さんに選ばれたのは、俺じゃなくてあいつだったのだ——そんな素振りすらなかったのに。なんで、お前だったんだ。せめて何か言ってくれなかったのか? 恨みにも似た泥のような感情が、悲しみを濁していく……。

 その時ふと、じわりと何かが首筋を撫でた気がして、反射的に手でそれに触れる。その正体は、なんてことはないただの汗だった。ほとんど部屋着のまま飛び出してきた俺の格好は寝汗と、炎天下の汗で知らず知らずのうちに肌に貼り付いている。額に浮かんでいる汗の存在にようやく気がついたとき、俺は初めて、暑さでめまいを覚えた。

 立ち眩みのようなその感覚によろめいた俺は、思わずえぐれたブロック塀に手を突いた。削れたその断面の、熱く荒い感触に触れた瞬間、それまで聞こえていたはずの蝉の声が一斉に耳に鳴り響いて来た。同時に、遠くから走って来た自動車が勢いよく俺の後ろを通って抜けて行く。車が消えて行った後の、暑さで揺らめく十字路を眺めながら、俺はあまりにも周りが見えなくなっていたことを思い知った。

 そのまま、足腰の力が抜けたようにその場にしゃがみ込んでしまった。熱されたアスファルトの温度が、さっきよりも近くなって上半身に押し寄せる。理由も分からないショックが全身を貫いて、酷くくたびれた気がした。

 

 どれくらいそうしていたことか、気づけばシャツはほとんど肌と一体化するほどべったりと貼り付き、地面に垂れた汗は、かがんだ俺の陰の下で道路に染みを作り出していた。こめかみのあたりがずきずきと脈打ち、立ち上がろうとすればまたふらついてしまう気がしていた。

 ふと「熱中症」という言葉が脳裏をよぎる。八月の太陽にさらされながら屈みこんでいるなんて馬鹿げたことだという自覚があった。それでも立ち上がることが、酷く億劫だった。何かをすれば、たとえそれがただ家に帰ることであったとしても、整理のつかない思考回路を決壊させる最後の一押しになってしまう気がしていた。

「あの、大丈夫ですか?」

 遠くでそんな声が聞こえた気がした。視線を上げる気力が無くて無視していると、声は少し大きくなってまた

「大丈夫ですかー」

 と叫んだ。それでも何も反応しないでいると、パタパタと一対の足音が遠ざかっていく。そのまま一、二台の車が通り過ぎて行った後に、再び足音が近づいてきて今度はさっきより近くで止まった。

「大丈夫ですか? 立てますか?」

 芯の通った女性の声とともに、俺の肩が揺さぶられた。さすがに無視も出来なくなって顔をあげると、そこに居たのはどこか見慣れた雰囲気のある女性だった。

 「大丈夫です気にしないで」と確かに答えようとしたが、長いこと発声していない乾ききった喉元からは、ねばついた咳が噴き出した。むせる俺を見て「わ」と小さく驚いた声を上げたけれど、彼女はすぐに手に持っていたペットボトルの麦茶を差し出した。

 渡されたそれは、自販機から買ったばかりのようにじんわりと冷気をまとっていた。一瞬遠慮しかけたけれども体は正直で、俺はそのふたを開けるとすぐお茶に口をつけた。水分不足なことを初めて思い出したかのように、そのままの勢いでボトルの半分ほど喉に流し込む、そしてまたむせた。

 その様子を見て慌てた様子を見せた女性に、俺は今度こそ

「大丈夫です」

 と発声した。それから僅かな間をおいて、

「お茶も、ありがとうございます」

 と言葉を続ける。その様子を見て、彼女はようやく安心したようだった。

「無事なら全然いいんです。一人で歩けますか?」

 その言葉にうなずくと、女性も満足そうに微笑んだ。俺が立ち上がったのを見てから、彼女は背を向けて去っていこうとした。

「あ、ちょっと待ってください」

 俺がその後姿に声をかけたのは、彼女に見覚えがあったからだけではなかった。

「お茶のお礼と言うか、代金を——」

 そう言いかけてポケットに伸ばした手は、何も掴まなかった。もう一度確認して、俺は自分が財布すら持たずに出歩いていたことに気がついた。

「すいません、今お金の持ち合わせが無くて……」

「いいんですよ、お茶の一本くらい」

 慌てる俺を見て、女性はなぜか少し寂しそうに笑った。

「それに、私はもうここで誰にも……いえ、何でもないです。ごめんなさい」

 呟くような、独り言のようなその言葉の後に、女性は少し大げさに笑った。

「とにかく、大したことなくてよかったんです。あとこの十字路は車とか危ないので早く帰った方がいいですよ」

 早口にそう言い切ってから、今度こそ彼女は立ち去ろうとした。けれど俺は、再び彼女のことを引き留める。今度は声をかけるだけでなく、反射的にその腕をつかんでいた。今度こそ、彼女の正体が分かったのだ。

「あの、もしかしてリクのお姉さんですか?」

 俺が放ったその言葉に、彼女は足を止めて振り返った。困惑とも恐怖とも取れる様な見開かれた瞳を向けながら、言葉を選んでいるかのようにゆっくりと口を開く。

「リクを——知ってるんですか?」

 その声には、何かにすがりたがるようなか細さが表れていた。


「弟が亡くなった時、家に……というかこの町に居なかったんです。私」

 傾き始め赤みを帯びた太陽が、つま先のさらに少し先に差し込んでいる。事故現場を離れた俺とリクの姉は、近くにあるこぢんまりとした公園に移動して、そのベンチに腰かけていた。

 木々の落とす影はゆっくりと長くなっていって、虫の鳴く声も酷暑から解放されて賑わいを取り戻していく。なのにもかかわらず俺と彼女の間には、誰かに遠慮しているかのような静寂が広がっていた。

「……地方でお仕事されてるんですか?」

 当たり障りのない言葉しか選べなくてそう言うと、

「まぁそんなところです」

 と言って、彼女は悲しげに笑う。

「それでまぁ当然のことなんですけど、私は弟が死んだときに見送ってやることも、両親を支えてあげることもできなかったんです」

 そこまで言うと、また二人の間に気まずさが横たわる。リクの姉は深く息を吐いた後、鼻音交じりに息を吸った。次の瞬間には、彼女は僅かに俺から顔を背けていた。

「俺も、多分同じだと思います」

 気がつけば自分の手元に視線を向けながら、俺はそう口にしていた。

「俺もリクが死んだことすら、今日初めて知りました。大変なことが起きたのに、俺はそれすら知らずに——もっと早く知っていれば」

 それ以上口にするのがはばかられて、何かがつっかえたように声が出なくなる。もっと早く知っていれば、何か変わったのだろうか。辛い思いをしている松前さんを支えることが出来ただろうか。そもそも、もっと早く知りたかったのはリクの死ではなくて、リクと松前さんの……。

 見つめる先、なんとなしに握りしめていたペットボトルが音を立てて僅かにへこんだ。その音でふと我に返る。俺は、この期に及んでまだリクのことを責めたいのか? けれどその思考は、隣に座る女性の声にかき消された。

「じゃあ私たちは、似た境遇ってことね」

 ずび、と鼻をすするような音がしてから、彼女は俺の方に向き直った。その瞳はさっきより微かに潤んでいて、夕暮れが作り出す濃い木陰の中でもうっすらときらめいた。

「似て……ますかね?」

 俺が遠慮がちに答えると、リクの姉は「たぶんね」と頷いた。

「間に合わなくて、それでもあいつの……弟の死んだ場所に足を運んで。そこに大きな意味があるかは分からなかったんだけどね」

 言葉が一瞬途切れて、ゆっくりと瞬きをした後に彼女は再び口を動かす。

「でも、君に会えたからよかったよ。弟のことを想ってくれる友達が、悲しんでくれる友達がいるって知れたから、私も少しはあいつの死を受け止められた気がするから」

 そう言って悲し気に微笑んだ後、彼女の表情はまた辛そうに崩れて俺から背けられた。俺は気まずさと申し訳なさで、何を言えばいいかもわからずまた黙り込む。俺は彼女と同じで、悲しんでいるのだろうか、リクの死の意味を受け止められているのだろうか?

 答えの出ない疑問を抱えた人間と、家族を亡くした悲しみに沈む人間が黙り合う中で、蝉達は容赦なく声を張り続けている。空が鋭い茜色に切り替わり始めて、公園の街灯が青白い光を発し始める。

 周りをさまよう虫の羽音が聞こえ始めたころ、ようやく片方が沈黙を破った。

「なんだか今日は駄目ね。ごめんなさい」

 リクの姉は、わざとらしく背伸びをしてその場に立ち上がった。

「もういい時間だし、引き留めたら悪いものね」

 彼女は自分のスマホで時間を確認したのち、そう言って俺の方に顔を向けて気まずそうな表情をする。もう一度生まれかけた沈黙を断ち切ろうと、俺も

「そうですね、もう遅いですし」

 と内容のない返事を返した。居た堪れなくて、申し訳なくて、早くこの場から離れたかった。

「じゃあ、またどこかで」

 言い捨てるようにして俺も立ち上がると、その場を離れようと足の向きを変えた。けどそこで、彼女は以外にも俺を呼び止めた。

「もしよかったら、リクの葬式に来てくれないかな?」

 葬式。以外でもない言葉の筈なのに、発されたその言葉の耳慣れなさに思わず振り向いた。

「きっと弟も喜ぶと思うし……良ければなんだけれど」

 リクが本当に俺に来てほしいかなんて分からないけれど、俺はその場で頷くしかなかった。


 別れ際に「詳しく決まったらメールを送るから」と連絡先だけ交換して、リクの姉は帰っていった。教えられたメールアドレスと今日の出来事を思い返しながら、ふと俺は、彼女のことが羨ましくなる。

 似た境遇、と彼女は言っていたけれど、少なくともリクを恨む理由はあの人にはない。悲しむだけの葬式でいいのならどんなに気まずくないだろうかと、自分の感情を恨めしく思いながら、ため息をこぼした。

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花火にとけて消えていく 羞渋疑阻 @syuzyugiso

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