花火にとけて消えていく

羞渋疑阻

一話 消えたものは

 昼休みが始まる直前、大学の学生食堂の前は賑やかになり始める。人がもたらす騒がしさが蝉達の声を掻き消して、どこか寂しげな気配ごと何処かへやってしまう。

 そうやって段々と活気が湧き始めそうな、十二時二分前。俺は建物の陰で真夏の太陽から隠れながら、二人のことを待っていた。日陰とは名ばかりに思える様な、じんわり蒸されるような暑さの中で、チャイムが鳴り響くのがやけに待ち遠しく感じられた。

 不意に片手に持ったスマホが微かに振動して、そこに松前さんからのメッセージが表示された。

『もうすぐ学食着くと思うよ!』

 通知に現れたそれにわずかに心臓が躍り上がった直後、追いかけるようにしてリクからの通知。

『授業五分くらい長引きそう』

『ごめん先食ってて!』

 松前さんからのメッセージを覆い隠すようにして、後から現れたそれが重なって表示される。少しだけ眉が吊り上がったのを自覚しながら、俺は画面を閉じて日陰を後にした。

 容赦を知らない日差しに身を晒しながら、ふと遠くの空に浮かぶ入道雲が目に留まる。段々と立ち上っていくかに見えるそれに目を奪われながら、俺は不意に夏の訪れを身に沁みて感じた。灼けつく太陽や滲む汗……こんなに暑いのに、何をいまさらと思う一方、あの雲のように高まる高揚感が、自分の中に芽生えているのを自覚した。


 実感した「夏」は、生憎と瞬く間に霧散していった。チャイムとともに学食の前に雪崩れ込んでくる若人の熱気は、空を眺めて感じた情緒など軽く押し流していく。あとに残るのはただ耐えがたい暑さだけだった。

 目の前を行き来する学生の色とりどりな恰好を眺めながら、明るい色のシャツたちが反射する日差しに瞳を傷めないよう、目を細めた。松前さんのメッセージを信じるなら、もしかしたらこの人だかりに彼女も紛れているかもしれない。どこかにその影が無いか、見落とさないように目を凝らしていると、またスマホが震える。反射的にポケットから取り出しそれを眺めると、

『見つけた! 声かけるね』

 という松前さんからのメッセージだった。彼女が見つけたということは、俺も見つけられるはずだ。そう思って携帯から視線を上げた瞬間、背中を柔らかく叩かれる感触とともに

「かーしわーぎ君」

 という呼び声が聞こえた。

 振り返ると彼女が——松前美羽みはねがそこに立っていた。少し息を切らしながら笑顔で俺を見上げる彼女は、人ごみも相まっていつもより十数センチ近くに見える。瞳の中に映り込むぼんやりとした俺の輪郭まで見えそうな気がしたところで、驚いたことすら忘れていた心臓が動き出す。

「うわ、びっくりしたぁ」

 数分の一秒ほどでしかない直視ののちに、俺の口からはそんな言葉が零れだした。驚きだけからじゃない心音に気づかれまいと、彼女の方に向き直りながら一歩後ずさる。そうやって眺めた彼女との距離は、いつも通りに戻っている。

「あはは、そんなに驚くことないじゃん」

 行きかう話声にかき消されぬよう僅かに声を張りながら、松前さんはにこにこと機嫌のよさそうな表情をする。

「いやぁまさか後ろにいるとは思わなくて……」

 未だに普段より弾む心臓を自覚しながら、俺はつとめて平静を装った。そうして出来る限り普通にしながらも、どこかくすぐったいような、嬉しいような感情が沸き起こって頬が不自然に緩みそうになった。

「——あ、そう言えば兵藤君は?」

 俺の気持ちなどよそに、松前さんはそう言って周りを見回し始める。兵藤——つまりリクのことだ。あいつから送られてきたメッセージのことを思い出しながら、浮かれていた心が緩やかに元に戻っていった気がした。

「リクは、なんか授業が長引いてるらしいよ」

 あいつからのメッセージ画面を松前さんに見せながらそう言うと、彼女もそれを覗き込みながら「大変そうだね」と呟く。

「私のところの先生もね、今日も授業ギリギリかも~って言ってものすごいスピードで板書するもんだからメモするのが大変でさ」

 愚痴紛れにそう言いながら、松前さんはつんと僅かに唇を尖らせる。

「まぁ確かに、あんまり長引かないで欲しいもんだよね」

 彼女の方を眺めながら、俺は額に浮き始めた汗を手の甲で拭った。

 それを見ていた彼女は、今度はくすりと笑いを漏らす。

「確かに、こんなに暑い中待つのも大変だよね」

 そう言った彼女の笑顔を見ながら、俺ははっとして手を止める。手の甲をとっさにハンカチで拭きながら、

「いやそんなつもりじゃなくて」

 と慌てて弁解するものの、彼女はまた可笑しそうに笑った。

「分かってるよ。それに暑いのは事実だもん」

 そう言いながら、彼女は大きく息を吐いた。

「来週から、夏休みだもんね。こんなに暑いわけだ」

 どちらかと言えば独り言のような調子でそう呟いた彼女を見下ろしながら、心の内で緊張が走る。夏休みという言葉が会話に出てくるたび、刻一刻と近づくたびに、じわりと焦るものが胸の内にあった。

「松前さんは、夏休みの予定とかって決まってるの?」

「え? バイトとかはぼちぼちあるけど……それがどうしたの?」

 きょとんとした表情でそう答える松前さんとは対照的に、俺の心は穏やかとは言い難かった。平静を装おうとして押さえつけていた心音が、気が付けば緊張で目まぐるしく脈打っている。他の学生の作り出す喧騒が遠くのものに感じられる中で、前々から決心していたそれを言わんとして、俺は唇を開いた。遠くで誰かに呼びかけられた気もしたが、そんなことは関係ない——。

 しかしその誰かにとっても、俺の決心など関係ないらしい。

突然、激しく打ち付ける様な、それでいてのしかかるような衝撃が俺の背中の芯を捉えた。

「おまたせ!」

 という声が聞こえた気がしたけれど、それ以上に突然加えられた衝撃の大きさに気を取られ、なにも答えられない。思わずよろめいて、前のめりに倒れかけた。目の前の松前さんも、驚いたかのように一歩後ずさる。「うわ、ごめん」なんて慌てて口にする声の主に向き直りながら、気づけば文句を漏らしていた。

「急にどうしたんだよ、リク」

 背中を押さえながら発した言葉は、人ごみの騒音になかば飲み込まれそうな程度には弱々しい。それでも何を言ったかは伝わったらしく。リクはその明るい髪色とは似つかないような、この上なく申し訳なさそうな表情で俺を見る。

「ほんっとに悪い! 焦ってたら勢いが付きすぎちゃって……」

 確かに言葉通り、気温の暑さだけじゃない熱気が、走って来たことで上がった体温がリクの方から伝わってくる気がした。俺より一回り背が高いくせに、今のリクは反省のせいかなんとなく小さく見える気もする。元より悪気があったとも思ってはいないし、俺は彼の肩を軽く叩いていなした。

「まぁ良いって、それよりさっさと食堂行こうぜ」

 俺がそう言うと、リクの表情は目に見えて明るくなった。

「それもそうだな、早く涼しい室内に行こう」

 おいおい、待たせてたのは誰だよ。なんて思いつつも、なんだかんだ憎めないのがリクの好かれる点の一つだった。

「えーっと、二人とも大丈夫なの?」

 松前さんは俺たち二人を交互に覗き込みながら、少しばかり不安げな表情をする。

「そうだよ、怪我とか大丈夫か?」

 今更気が付いたように、リクも俺の体を見回した。

「あぁ、思ったより問題ないよ」

 そう言ってようやく炎天下の広場を去ろうとしながら、俺は大事なことを思い出した。松前さんに言いたかったこと、結局言いそびれてるじゃないか。


* * * * *


「じゃあ私は次授業あるから、そろそろ行くね」

 にこやかにそう言い残して、松前さんは食器の乗ったトレーとともに立ち上がった。冷房の効いた食堂の中、小気味よいBGMと雑談と皿のこすれる音が、幾重にも混ざり合っている。俺とリクは彼女の方に向き直って、ほとんど同時に「またね」と返す。食器返却口に向かう彼女の背中を見送りながら、俺はその姿が人影に隠れて見えなくなるまで小さく手を振っていた。リクは特に気にする様子もなく、カレー大盛の残りを掻き込んでいた。

 松前さんが完全に見えなくなった後、俺の中に気が滅入るような憂鬱な感情が舞い戻って来た。リクに遮られて言いそびれたもののことを思い出しながら、またあれだけ緊張しなければならないことを恨めしく感じる。その感情のままリクに向けた視線に、さすがの彼も何かを察したのか口を開いた。

「どうしたんだよ海斗。そんな怖い顔で睨みつけてさ」

 不思議そうにこっち見るリクに、「別に何でもない」と言いかけて口を閉じる。代わりに数拍の間をおいて、

「難しいなぁって思っただけ」

 と何を言いたいのか良く分からない言葉を口走る。変な言い方をしてしまったと反省した直後、リクもリクで

「何が? 期末テスト?」

 と勘の悪さを発揮した。

「いや違くて、その——」

 訂正しようとして言いよどむ俺を見て、彼は僅かにはっとしたように目を見開いた。

「好きな人に、ものを伝えるってことが難しいって話」

「つまりデートに誘うのに苦戦してるってことか」

 俺がわざわざ回りくどい言い回しをしたのにもかかわらず、リクは直球な物言いで返事をする。まぁまさにその通りなのだが、あまりにそのまま言われたものだから俺は僅かに面食らった。とっさに周りを見回したけれど、いまだに混んでいる食堂の中に俺らの話を聞いている人間などいなかった。

「なんだよ、まだ誘えてなかったのか」

 僅かにコップに残っていた水を飲み干しながら、リクは思ったままの言葉を俺に浴びせかける。ほとんど図星の俺は、空の食器を持ち上げながら

「簡単なことみたいに言わないでくれよ、お前が来なけりゃあとちょっとだったんだから」

 と苦し紛れに言い放つ。

「それって俺のせいなの?」

 と不思議そうにしながら俺を見るリクに、図星の俺は何も言い返せなくなった。あのままこいつが来なかったとして、果たして俺は彼女を誘えていただろうか? 生憎俺はリクみたいに、コミュニケーション強者ではない——。

「早くしないと、誰かに横取りされるかもしれないぞ?」

 悪気無く事実を言う彼の言葉に、耳が痛かった。


 松前さんのことが気になっている、と最初に相談した相手はリクだった。あれはたしか去年……大学一年目の梅雨の頃だったろうか。

 進学を機に上京した俺に最初にできた友人が彼だった、というのが相談をした理由。実際に当時も今も、あいつは俺にとって一番気の置けない友人だ。

 東京に来たばかりで右も左も分かっていなかった俺に対して、幼いころから大学近くに住むあいつは色々と相談に乗ってくれていた。おすすめのバイト先を紹介してくれたり、安いスーパーのことを教えてくれたり。彼にもし相談していなかったら、危うく見掛け倒しの飲みサークルに入ってしまうところだった時もあった。

 そんなこんなで信用していた俺は、松前さんに関してもリクに相談した。あいつは馬鹿にするでも面白がるでもなく、真面目な調子で俺の力になってくれた。

「松前さんかぁ、確か同じ高校だった気がする」

 地元住民の進学先としても人気な大学だからか、リクは彼女と面識があるらしかった。そしてそれを介して、リクは松前さんとの仲を取り持ってくれたのだ。

「なぁリク、なんで俺のためにここまでしてくれたんだ?」

 松前さんと交換した連絡先を眺めながら、俺はあいつにそう聞いたことがある。日の暮れた帰り道、街灯のぼんやりとした明かりではよく見えなかったけれど、リクはうーむと僅かに考えこむような表情をする。そうしてしばし唸った後に、

「まぁ友達の恋なら応援したいもんでしょ」

 と当たり前のように言い放ち、にっと笑って見せた。

「なんだそれ、カッコつけてんなぁ」

「いやいや、本心だって!」

 慌てたように返事をするリクの声に思わず笑ってしまいながらも、俺だって彼の言葉を疑う気なんてなかった。そして、こうやって他人のためにしてやれるリクに対して、純粋に感謝の念が湧いた。


 とはいえ、その感謝と目の前の問題は別の話である。リクのおかげで松前さんとはかなり仲が良くなった自信はある、けれどだからと言って、簡単にデートに誘えるかと言ったらそんなわけではない。

 今まで何回か彼女と遊んだ時も、毎回リクと一緒に三人だったり、そこに松前さんの友達が加わって四人だったりといった具合で、まだ二人きりで誘ったことなどなかったのだ。

「そんなに気負わずに、思い切っちゃえばいいのに」

 いかにも簡単なことのようにつぶやきながら、リクもカレー皿が載ったトレーを持ち上げる。二人して食器返却口へと向かいながら、俺は何かを言い返そうとリクの方を向き直って、そして何も言葉を見つけられずに前に向き直る。人ごみをかき分けながら進む傍らで、向かい合わせに座って楽し気に食事をする男女の姿がふと目に留まって、言いようのない歯がゆい気持ちが心のうちに湧き出す。妬みが口をつついて出てくる前に、俺は彼らから目を逸らした。

「まぁ、真剣だからこそ難しいってこともあるよな」

 後ろを歩く彼のつぶやきがまた聞こえる。

「まぁそういうことにしといてくれ」

 そう返す俺の声は、自分でも思ってもみないほどには覇気が無かった。

 食器を返した後、俺は無言で食堂の出口へと向かった。もう一度すれ違った向かい合わせカップルは、なおも楽し気に会話を繰り広げている。よく見るとさっきから、一切食事が進んでいなかった。自分たちの世界に浸っている、っていう感じだろうか? 羨ましさと妬ましさの混ざり合った一瞥をくれてから、俺は彼らから再び目を離した。

 少なくともあの二人は、俺が乗り超えられていない問題を超えているはずである。あるいは俺が気にしているだけで、二人きりで出かけることなんて大したことないのかもしれない……。

「おーい海斗、ちょっと待った」

 さっきまでのつぶやきとは打って変わって、リクは明らかに俺に声をかける。

「この後どこ行くつもりなのさ、日差しとか、やばいぞ」

 彼に言われて前に向き直ると、食堂の出口目の前までたどり着いていた。自動ドア越しに伝わる熱気が、クーラーの冷気と押し合うようにして鼻先で漂っている。ぼうっとしている間に、逃げ込むようにして学生が駆け込んできた。ドアが開け放たれると同時に流れ込んだ熱に、俺もリクも思わず顔をしかめた。

「うわ、ほんとに暑いじゃん」

 そう呟きながら外を眺めると、日差しに焼かれたアスファルトが僅かに空気を揺らめかせているかに見えた。頭の片隅で、鉄板の上に生卵を落とした時のジュウジュウと言う焼ける音が思い浮かんで、鳴り始める。

「この後バイトに行かなきゃいけないんだよね……リクは?」

 俺がそう尋ねながら見上げると、リクは

「ん? 俺も」

 と気だるげに答えた。そうして二人して、乾いた笑い声をあげる。

「はーもうほんと、嫌になるよ」

 リクは自分のシャツの襟元をつまんで、扇ぐように前後させる。

「リクのバイトって、今から行かないと間に合わないんだっけ?」

 俺が尋ねると、彼はそうそうと気だるげに頷いた。

「授業が無いからって、二時から入れちゃってるからな。出勤が暑くて暑くて」

 うへぇ、と顔をしかめて、彼は降り注ぐ太陽を睨みつけていた。

「まぁ俺はバイト頑張るから、海斗もデートに誘うの頑張れよ」

 わざとらしく親指を立てながら、リクは俺に笑顔を向ける。

「お前なぁ……」

 俺はあきれながらもそのまま

「分かったよ、頑張る」

 と言葉を続けた。

「まぁその前に、俺も今日の夜バイトなんだけどな」

 俺がそう言うと、リクは「そうじゃん」と呟いてけたけたと笑う。

「まぁお互い頑張ろう。応援してるぜ」

 そう言い残して彼は、一足先にぎらつく日差しの下に歩き出していった。一瞬遅れて、俺もその後に続いて外に出る。

 見上げた空に浮かぶ入道雲は、さっきよりも僅かに近づいてきている気がした。


* * * * *


「お疲れさまっしたー」

「はーい、お疲れー」

 静かな店内に放った挨拶に、遠くから返事が返ってくる。裏口から覗いた店長は、帳簿とお札を見比べてどこか忙しそうだった。

 しんと震える店の空気につい一時間前の盛況を重ねながら、俺は出来る限り静かに戸を閉めた。

「柏木君、店長の様子はどうだった?」

 裏口を離れて数歩歩いた先で、先輩従業員のムツさんが腕を組んで待っていた。

「真剣な顔つきで、まだお会計数えてましたね」

 と答えると

「だよなぁ、今日は大盛況だったし」

 と言ってがははと笑った。ガタイのいい体から発せられる低い声は、通りの店明かりの間を反響して空気を震わすかのようだった。そしてまるで呼応するかのように、別の店からお客の馬鹿笑いが噴き出しては街を反響していく。

「去年もそうだったけど、これからもっと忙しくなるからなぁ。いやんなっちゃうよ」

 ムツさんはそう零しながら、やれやれと肩をすくめる。斜め前を歩くあごひげが目立つ横顔は、ネオンや提灯に照らされて赤やピンクに変化していった。

「やっぱりビールとかって、夏の方が美味しいんですかね?」

 ジョッキを運ぶために店内を駆け回っていたことを思い出しながら尋ねると、彼は半ば反射的に

「そりゃまぁね! 大人の楽しみなんてお酒くらいしかないからねぇ」

 とこれまた大きい声で答えた。

「兵藤君は、お酒飲まないのかい?」

「あ、はい。二十歳になるのは来月なので……」

 へぇ呑んでないの、偉いねぇと答えながら、ムツさんはまたがははと笑った。上機嫌に笑うその姿が、いつも若干酔っているかに見える。仕事中に商品のお酒を盗み飲んでいるんじゃないかと、時たま疑いそうになるのだ。

「まぁ飲まないならそれでもいいんじゃない?」

 うんうんと一人頷く彼の顔が、通りかかった店につるされた提灯に照らされて赤く染まった。

「若いうちはまだ色々楽しいことがあるからね。それこそ来月夏祭りがあったりするからね」

 夏祭り。という言葉を聞いて、心が焦りを思い出した。働いている間は忘れられたはずなのに、思わぬ角度で思い出されてしまうものだと感じた。

「お祭りなんてあるんですか?」

 俺がそう訊き返すと、ムツさんは少し大げさにこちらを振り返って

「そうだよ~。規模はそんなに大きくないんだけどねぇ」

 と嬉しそうに語る。

「友達とかと行ったら楽しいんじゃないかな。そういうアテはないの?」

 無邪気に笑ったムツさんの表情を見て、苦々しい思いが胃を伝ってせりあがってくる気がした。

「まぁ、無いこともないですかね?」

 あやふやな返事しかできない俺に、「そうかそうか」と機嫌よく彼はまた頷く。

「まぁ若いうちに楽しめよー」

 そう言って大げさに手を振って、彼は俺と反対側に歩き始めた。

 気づけば、いつも別れる通りの端までたどり着いている。のんびりと夜の闇に消えていくムツさんの背中を見送りながら、さっきまで気づいていなかった、にじり付くような日中の余韻が肌に貼り付いてくるのを感じた。


* * * * *


 遅くまでバイトをしていた翌日、どうしようもなく湧き出しては溢れそうになる欠伸を噛み殺しながら、俺は律儀に午前授業に参加している。熱心な様子で教室の前方に視線を送るほとんどの受講生は、黒板に詰め込むようにして講義内容を書き込む教授など眼中にない。俺を含めてほとんどの人が、その黒板の上に掛けられた時計の針が早く回りきることを期待している。

「ということから、次の決論が——」

 元から小さい声をマイクで気持ち程度に大きくしながら、それでもなお聞き取りづらい声が教室に響いている。再び湧き上がって来た欠伸を飲み込んで、俺はそれ以上授業を聞くのを諦めた。

 もう一度時計を眺めて、時間がしっかりと進んでいるのを確認する。教授から目を離した俺は、そのまま少し手前に視線を動かした。

 松前さんは、俺よりも数列前の席に腰かけていた。彼女の友人らしき生徒が傍らで舟をこいでいるのとは対照的に、松前さんは至って真面目に黒板に視線を送りながら、冗長な授業内容をノートにまとめていた。

 来月夏祭りがあったりするからね——というムツさんの声が頭をよぎる。夏祭りと言えば、まさしくデートの定番だろう。人の声と祭り囃しの音とが反響する街を歩きながら、露店を覗いたり花火を見たりして笑顔を見せる松前さんの姿を想像する。さすがに気が早いけれど、それくらい期待が膨らんでもいた。後の問題は、彼女を無事誘えるかどうかだった。

 決心がつきかねている俺をよそに、時計の針はどんどんと終わりの時間に近づいて行っているかに見えた。生憎今日は、夏休み前に彼女に直接会える最後の機会だった。ここを逃してメッセージで誘うのは甘えだと、俺の中のちっぽけなプライドが囁いている。のろのろと進む秒針が一周するたびに、緊張で一段と気が滅入っていく実感があった。

「ということで授業は一区切りだけど、何か質問ある人はいるかな?」

 今までの講義内容なんてほとんど聞いてなかったのに、そんな教授の声だけははっきりと耳が拾い上げた。案の定誰も挙手していない教室を眺めまわした後、

「テスト代わりのレポートはちゃんと提出するように!」

 と言い残して彼は学生たちに背を向けてしまった。時計ばかり眺めていた学生たちは、ワンテンポ遅れてそれが授業終了の合図だと理解し始めた。

 まずい。と、立ち上がり始める人々の中で思っているのは多分俺だけだ。伸びをする声、レポートを面倒くさがる声、それら全てが耳にまで上ってくる血の脈打つ音に上書きされる。けれどそうやってどうにも動けないでいる俺も、松前さんが席を立ったのを見て動かずにはいられなくなった。

「松前さーん、ちょっといい?」

 目立ち過ぎないよう抑えた声は、教室に満ちた話声に呑まれていく。隣で眠る友人を揺り起こし始めた彼女に近づきながら、焦る鼓動が気分を悪くしていった。

「松前さん、今ちょっと時間ある?」

 次に俺がそう声をかけた時、俺は彼女の肩を慎重に叩いていた。同じように友人の肩を揺さぶっていた松前さんは、そこで初めて俺に気づいたらしく「わ」と小さく驚きを口から漏らした。

「あれ、柏木君? どうしたの」

「あぁ、いやなんというか……」

 普段通りの調子で返事をした彼女に面食らって、固まっていたかに思えた覚悟が簡単にほつれてしまった。

「ほら、今日夏休み前最後の授業だからさ。それで」

 デートのお誘いに、なんて直接的な要件の言い方が出来ずに、ぶつ切りになった言葉が発せられる。言いよどんだ言葉を口の中で転がしながら、普段通りに話せない自分が酷くもどかしく思えた。

「あ、そう言えばそうだよね。今日過ぎたらなかなか会えなくなるもんねぇ」

 少しだけ寂しそうに眉を傾けながら、彼女はそう返す。

「そう、それで、もし暇だったらどこかに行かない? って話をしたくて」

 不自然に絞り出す言葉でも、松前さんは怪しみもせずに「あ、それいいね」と相槌を打った。

「この前の春休みみたいに、兵藤君も誘って三人で遠出する? それとも——」

 楽しそうに言葉を続ける彼女をが、なんだか眩しく見える気さえした。自分の言葉が、酷く邪なものに思えて喉が締め付けられる。それでも、

「そういうのじゃなくて、二人で、出かけない?」

 そう言い放った声はひどく震えていて、大半がざわめきに隠れていた。

「え? 今なんて——」

「二人で、どっかに行きたいなって……」

 言い直した言葉は、さっきよりも幾分か聞き取りやすいものだった。どちらかと言えば、言い出した手前後に引けなくなったやけくその声にも思えた。そうして言い放った後、俺は改めて彼女と視線を合わせた。その瞳は——どこか怯えているように見えた。

 ——あ。

「ほ、ほら知ってるかな。来月このあたりで夏祭りがあってさ? いや例年開催してるやつだし、松前さんの方が詳しいかもしれないけれど——」

 彼女の表情に浮かんだものを見て、心の中で何か支えのようなものが剥がれ落ちたのを感じた。なんとなく返事は分かった気がしたけれど、それをごまかすように震える声で、話し続けていた。

「それで去年はお祭りらしいお祭りは行かなかったから、折角だったら——」

「ごめんね」

 さっきまでより一段落ち着いた声で、松前さんはそう言った。俺はそこでやっと口を閉じる。それ以上何を言っていいかも分からなくて、幼い子供のように下唇をかみしめた。

「その日、実は大事な用事が入るかもしれなくてね? せっかく誘ってもらって悪いんだけど——」

 そこまで言ったのを聞いてから、俺は遮るように

「いや、こっちこそごめん」

 と呟いた。

「もし三人で出かける計画とかあったら、また誘ってね。それじゃあ、今日はありがとう」

 それだけ言い残すと、俺は逃げるように松前さんに背を向けた。既にほとんどの人が出払った教室から帰る俺の背に、声をかける人はいなかった。


* * * * *


 てことで、見事に振られちゃったよ。

『単に用事があっただけじゃないの?』

 そんなわけないだろ。明らかに別の人とお祭りに行くとしか思えないよ。

『じゃあお前の考え通り、フラれたってことになるな』

 ダイレクトな言い方やめてくれよ、刺さるから。

『ごめん』

 いや別にいいけど。

 てか相手どんなやつなんだろ?

『知ったらショック受けそう』

 確かに。

 あーなんもやる気でない。

『まぁまぁ、きっと他に素敵な人が見つかるって』

 なんだよ、その言い方。


 薄っすら開けた窓の外から、微かに祭りの音が響いてくる。未練がましくその音に耳を傾けながら、俺は自分の部屋でスマホの画面とにらみ合っていた。画面に映りっぱなしのリクとのトーク画面は、あいつからのふざけたスタンプで締めくくられている。どこが可愛いか良く分からないマスコットが「まぁまぁ」なんて言いながらコミカルに動くそれは、繰り返し眺めているうちに無性に憎たらしく思えてくるのだった。

 いい加減マスコットとのにらみ合いに嫌気がさして、俺は画面から目を逸らした。電気もつけずにいるその部屋に、薄っすらと開いた窓から街灯の冷たい明りが差し込んでいる。床に転がしっぱなしのクッションを枕代わりに寝転がれば、その明かりが筋のように伸びて、薄暗い天井に光の線を浮かび上がらせていた。

 なんとなく目を閉ざしてみる。さっきまで耳ざとく聞いていた夏祭りの太鼓の音やら笛の音が、這うようにして耳の中に入り込む。それに交じって、換気扇の稼働音と、隣の部屋の水道が流れる音が聞こえる。

 ふと俺は、自分が一人であることを今までになく強く意識した。気分の悪さを感じてつばを飲み込んだ音が、のどを伝ってやけに大きく聞こえた。クーラーをケチっていたせいか、首元にじんわりと汗が浮かんでいるのを自覚して、酷く気持ちが悪かった。

 ぱーん。と、炸裂音が響いたのはその時だった。続けて低く地面を揺らすような、爆発音。閉じていた眼を見開けば、天井に映る光の線が色とりどりに煌めいて、その度に音たちがはじけて行った。

「花火かぁ……」

 呟いてみた声は本当に小さくて、乱れ咲く火花の音に飲み込まれていった。窓の外から見えた光の輪郭に、言いようのない衝動が俺の体を駆け巡る。胸が掴んで潰されるような気がして、気が付いたときにはスマホを開いていた。

 今頃誰かが松前さんと花火見てるって思うと、なんか辛い。

 愚痴まがいのそんな言葉を送ってしまった後で、こんなものリクが言われたところで困るだけだろうと思いなおす。送信を取り消そうかと改めて見ると、「既読」のマークがついていた。

「げ、間に合わないな」

 またしても呟いた独り言が、花火の音に飲まれることは無かった。どんな反応が返ってくるか、さすがに謝った方がいいかなんて考えてみたが、珍しいことにリクからの返信は一向に来ない。不思議に思って画面を観察し続けても、なぜかその状況が変わることは無かった。花火の音だけが、空に響き続けている。


 急に変なこと言ってごめんな。

 迷惑だったよな。すまん。

 おーい、大丈夫?

 ……生きてる?

「怒らせたんなら、謝るから、返事をしてく、れ……と」

 祭の日の既読無視から、二日は経っていた。リクからの返事は一向にくる気配がなくて、ついには既読すらつかなくなっていた。さすがに不安になって、返事のこないメッセージ欄に言葉を打ち込み続ける。それが意味のないことだとは、薄っすら理解していた。

 軽やかな電子音が響いて、通知がスマホの上部に現れる。

『ごめん俺も知らない』

 と答えたのは、リクと俺の共通の友人だった。あいつが今どういう状況なのか、知っていそうな人全員に連絡を送った直後のことだ。

 現れたそのメッセージに落胆するとともに、暑さ以外の原因から現れる汗が背筋を伝う。不安で気持ちの揺らぐ俺のスマホが、その時再び通知に震えた。

『今って電話しても大丈夫?』

 そのメッセージの送り主は、松前さんだった。夏休み前のことを思い出して、返事をしようとする指先が止まりかける。それでもそのまま「大丈夫」と返すと、直後に電話が鳴り始めた。

「はい、もしもし」

 電話に出ても、しばしの間耳元で沈黙が鳴り続けていた。深く息を吸うような音が微かに聞こえて、その直後に

『柏木君、あのね』

 という彼女の声がした。

『私、柏木君に謝らなきゃいけないことが——いや、なんて言ったらいいんだろう……』

 謝らなきゃいけないこと……? リクのことに関して何か言われるかと思っていた俺は、松前さんのその言葉に何か引っかかるものを憶える。そうして気になってしまった俺は、段々と彼女の声が弱々しく、震えていくのに気が付かなかった。

『あの日、実は私リク君とお祭りに行ってたの』

 尻すぼみな声が告げたそれが、何のことを言っているのか分からなかった。

「え?」

 と思わず聞き返した俺は、しかし頭の中で彼女の言葉の意味を理解していたのかもしれない。聞き返したその言葉には、疑問より非難の色がうっすらと滲んでいたかもしれない。しかしそんなことは大した問題ではなかった。怯えるような調子で話し続ける松前さんの言葉が、俺の耳元で響き続ける——。

『お祭りの帰り道にね、二人で歩いてた時に……トラックが来て』

 ひっく、としゃくりあげる音。辛そうな息遣いが、沈黙の中で響いている。

「落ち着いて、ゆっくりでいいよ」

 なだめる様に口にした俺は、自分の心音がやけに早くなっているのに気が付いた。次に何が語られるか、分かってしまったようで恐ろしかった。そうでないことを、願った。

『トラックに轢かれたの』

『リク君、——死んじゃった』

 すすり泣く声が、電話越しに部屋の中に——そして俺の頭の中に響き続けていた。

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