夫のヨメは嫁になる

人生

 夫のヨメは嫁になる




「今日の夕飯、何がいい?」


「任せる」


「……ゴ#ブリの唐揚げでも?」


「ん」


 ――信じられないかもしれないが、事実である。夫がいかに私に関心がないかお分かりいただけたであろう。


 何がいい? とたずねれば、一瞬顔を上げる。任せる、そう答えて会話は終了。会話ですらない。独り相撲とかシャドーボクシング、そういったシミュレーションに近い。返事は分かりきっているのだから。

 夫の視線は手元のスマートフォンへ。仕事の連絡をしているでも、ゲームをしているわけでもない。続く私の爆弾発言は完全に耳に入っておらず、代わりにワイヤレスイヤホンが収まっている。彼の意識を占めているのはスマホから聞こえる音声、ひいては画面に映る女の子――いわゆるVTuber、動画配信者というやつだ。


 何見てるの? と私が横から覗きこもうとすれば、あからさまに嫌そうに体をひねり、スマホを隠す。別に恥ずかしがる必要もないだろうに。私が追及すると、画面を消してやっと会話に応じてくれる――仕方なくといった感がひどいので、そうやって関心を引いていたのは最初のうち。最近じゃもうロクに会話もしなくなった。


 いつからこうなってしまったのか、そうぼんやり考える。


 別に回想などはしないけど――というか思い当たるエピソードがないので――私は夕飯の支度にとりかかる。もちろん、あんなものは揚げないが。




 昨今のあれこれで、夫が週に二、三日は在宅ワークをすることになった。


「今日のお昼、どうする?」


「なんでもいいよ」


 朝は一緒に食べて、それから夫は書斎に、私は洗濯機を回して今朝の洗い物を片付ける。


 家に夫がいても特に生活に変化はない。お昼の準備も自分が食べるぶんと一緒につくればいい。世の中の奥様方に関しては知らないが、少なくともうちの夫はトイレとお昼休憩以外に部屋から出てこない。ほとんどいないも同然だ。寝室も分かれているし、夫の部屋は完全に仕事部屋なので私としては不便もない。

 困ったことといえば、ちょっかいをかけにいこうと夫の部屋に入ったら、間が悪くウェブ会議中で私が恥をさらしたくらいか。あれ以来なるべくドアの近くすら横切らないようにしている。今なら夫が部屋に女を連れ込んでいようと私は気付かないだろう。ここはマンションの三階なので私の目を盗んで侵入するならスパイ映画みたいな努力が必要になるが。


 しかし、こうして夫が家にいる時間が増えると――いろいろと、考えてしまう。


 いてもいなくても同じなら、結婚して一緒に暮らす必要はあったのだろうか、と。


 どうせ家事はほとんど私の担当だし、むしろ夫がいない方が多少楽になる――が、夫がいるから、私は家事だけに専念できるのだ。昨今いろいろな問題で溢れている面倒だらけの社会に出て金を稼ぐ必要がない、という一点において、この結婚も有意義であったと思えてくる。


 とはいえ、それってお金をもらって彼の世話をしてる家政婦となんら変わらないのでは?

 なんなら親から仕送りをもらっている独り暮らしのニートかもしれない。


 ……なるほど、専業主婦が軽くみられる訳だ。私みたいなやつが全体の質を下げるのだろう。


 仕事を片付けると、かなりの時間を持て余す。今は洗濯機が終わるのを待っているけど、洗濯物を干すのも数分とかからない。お昼までやることがない。


 こういう「自分の時間」というものが世の中の奥様方にとっては貴重なものなのだろうが、私には特にやりたいこともなく、ただただぼんやり、時が過ぎるのを待つばかり。


 ぼんやりと、どうでもいいことを考えている。


 私の母はこういう時、テレビのワイドショーを観ていた。私もそれに倣ってみるのだが、退屈に塩コショウを少々かけたくらいで、なんの充足も得られない。


 ……世界情勢だとか経済状況だとか、いろいろと気が滅入るようなニュースばかり。それに芸能人とか専門家を名乗るコメンテーターたちがああすればいいのに僕ならこうします、これからこうなりますよと、なんの意味があるのかよく分からない時間が流れている。

 政治を動かす権力者がこの番組を見て参考にする訳でもなし、彼らの発言にいったいどんな需要があるのか。時にネット上では「そうだそうだよく言った」みたいな自分たちの心情をコメンテーターに代弁してもらって満足そうな感想を見るが、そういうもやもやを消化するためのエンタメだとしたら、私にワイドショーは合わないようだ。


 ニュースを知るだけならネットの方がまだ早いし、全てが全て信頼できる訳ではないが、関係者や専門家たち不特定多数の多角的な意見を見れるから、ウケ狙いの芸能人のコメントよりまだ有意義。


 という訳で、テレビを眺める以外の私の暇潰しルーティンワーク、スマホでSNSを開いて、トレンド欄に表示された見慣れぬワードをタップする。この時間帯は政治経済系の話題が多い。表示されるツイートを適当に眺めて、そのトレンドの正体を知る。それで満足して、別のトレンドをチェック。「地震大丈夫?」とあるが、地震があったのか。気付かなかったが、テレビを見れば速報が流れていた。まあ、大したことはないようなので一安心。

 ところでこのツイート群。地震のあった地域を心配する素振りをみせながら、自分ん家のペットの展覧会でいいねを稼ぐ。本当に地震が心配な人にとっては有害でしかなく、実際揺れた地域の人はこんなツイートを開きもしないだろう。にもかかわらずわんにゃん画像を投稿する人たちにとって、地震とは自分の存在を世に承認してもらうためのきっかけ、お祭りみたいなものなんだろう。


 ……そうやってつらつら、つらつら、トレンドを覗いては適当なことを考えている。文章にするでもなく、ましてや投稿するでもなく。別のトレンドを見る頃には忘れているようなどうでもいい反発思考。そうして私の時間は過ぎていく。


 ……ぼんやり、だらだら。他に何か、趣味とかあれば良かったのだけど。こうやって何もしないままに生き、年をとって死んでいくのか。生ぬるい家庭のなかで――殺される。飼い殺しだ。夫の世話をしているのは私なので、どちらかといえば飼い主は私なのだけど。


 昔は……どうだったっけ。こういう時間、私はどうやって過ごしていたっけ。


 子どもの頃。学生時代。勉強したり、友達と遊んだり……していたような。部活とかはしていなかった。思い出そうにも、中身がなさすぎて何も浮かばない。


 友達――地元の友達。みんな社会人だったり母親になったりで、私のふとした思い付きで遊びにいこうと誘えるほど暇ではないだろう。連絡も全然とっていないし、だから私はこうして自宅に引きこもってぼんやりしている訳で。


 こっちに出てきてから、一人暮らしを始めて、社会人になって――そうして出来た友達、というか知り合いとも、最近はまるで交流がない。そういうものと縁を切るかのように、私は結婚したのだから。


 寿退社――そう、私も昔は働いていた。普通の――セクハラだとかなんだとか、少なくとも私は覚えがない――今でいえば、恵まれた職場だった。社会人だったころは毎日それなりに忙しく、家に帰ったらすぐに眠っていて自分の時間なんてものはほとんどなかったような気がする。休日はまさに「休日!」って感じで、平日にサボっていた洗い物等を片付けるとほとんど今と変わらない感じでぼんやり休んでいた。


 ただ、まあ、今よりは充実していたような気もする――同じぼんやりでも、暇を持て余すのと、疲れから脱力するのとではだいぶ違う。


 ともあれ、そんな人生を過ごしてきたものだから、今の私には何もない――夫以外に、趣味だとか、そういう「自分の時間」を使う先がまるでないのだ。


 たぶん、子どもがいればだいぶ違っていたのだろう。


 毎日子どものことで忙しく、他の保護者との交流もあったはずだ。専業主婦・母親というものがいかに大変なのか身をもって理解したはず。


 子ども、子どもね……。出産ってワクチンの副反応より壮絶らしい――だからという訳じゃないが、そういう話題は私たちのあいだではあまり出てこない。結婚して、まずは新生活に慣れる必要があった。仕事を辞めたのもそれが理由。私は新しく何かを始める時、それが軌道に乗るまで他のことが手につかないから。おめでたした訳でもなく、ただ新生活に慣れるためという理由で会社が休暇をくれるはずもないし。

 そうやって新生活にも慣れた頃――ちょっと子どもも欲しいかな、などと思いもした。ちょっとチャレンジもしてみたけど――そうこうしているうちに、このご時世。子どもを産むには厳しいというか、育児どころか先の生活にも希望が見えないそんな時代。完全に機を逸した感がある。


 子どもをつくらなかった理屈はまあ考えればいろいろ出て来るが、そのチャレンジにあまり積極的でなかったのが最大の要因。無計画でもデキちゃったら仕方なかった訳で――このご時世だし子どもがデキるリスクは控えようという暗黙の了解があって、最近では完全にご無沙汰である。


 だから、なのだろうか。ここ最近のあの反応は。


 いや――あまり関係ないか。


 結婚前、付き合っていたころからも、別に積極的ではなかった。そういうことよりも、話題の映画を観て、その感想を語り合う――お喋りしているだけで、楽しくて、幸せだった。一緒にいて楽しい――だから付き合ったし、結婚したのだ。

 喧嘩するほどに仲が良いというか、口論に発展しても、それが楽しく思えたのだ。


 あぁ、そういえば、昔は映画とか、ドラマを観るのが趣味だったな、私。


 映画を観て、感想を抱き――なんかこう、胸のなかがいっぱいになるものだから、それを発散したくて、同じような感想をネット上に探す。感想を共有したかったのだ。

 しかし、パッと眺めてみたところ、表層的な……一面的なコメントばかり。

 批評家のレビューは好みでないが、一般人のコメントよりはまだマシだろう。作中で嫌な役回りだったから、この人嫌い――もっとその役の立場とかを考えれてみれば、そういう嫌な対応をした理由にも察しが付くし、そんな安易な感想にはならないだろうに。

 批評家が散々言っているが、私はこれが好きだった――ネット上の意見とはそりが合わなかった。


 そんな時に、ちゃんと映画について語り合える彼と出会った――運命の出会いだとは言わないけど、趣味が合う、感性が近い人。次点で、食べ物の好みも合った。一緒に暮らしていく上でなんら問題は感じなかった。そんな理性的な判断もあって結婚したのに――どうして、こうなったのかなぁ。


 仲が悪いとかではなく――私から、関心を失った。

 というより、他に強い関心を抱く相手が生まれた、というべきか。


 それが……VTuber、らしい。


 VTuberの配信を観るのは、私と会話するより面白いらしいのだ。


 会話することが私たちにとっての夫婦の営みだとすれば、その配信を観、声を聞き、時にはコメントなんかを投稿する行為は――もう、浮気じゃない?


 しかも、世の中にはスパチャと呼ばれる……いわゆる「投げ銭」があって、もしかすると夫は他の女……VTuberにお金を渡しているかもしれない。お金をもらって夫の世話をしている飼い主である私と違って、むこうは夫の存在なんて数いる視聴者の一人にもかかわらず、夫からお金をもらっている――私より関心が高いのは明らかだ。


 ……いやまあ、スパチャしてるかどうか知らないのだが――ともあれ、食事中も、それ以外の家にいる時も、夫はスマホに釘付けだ。いつからハマり出したのか、何がきっかけで知ったのかは分からないが、私との会話がなくなったのはそれが理由なのは間違いない。


 確かに――私もチェックしてみたが、VTuberというやつは面白い。少なくともテレビのバラエティーよりは、間違いなく。テレビには台本があって、生身である芸能人たちは視聴者やファンの目を意識する。どこか媚びているというか、何かに縛られている感じがする。

 一方で、VTuberというやつは、自由だ。生身の自分を映していないのもあって結構なんでも口にするし、訓練された芸能人と違って、素人である私たちに近い感性を有している。もちろんみんながみんなそうというわけではないが、確実に一つのジャンルとして確立している面白い人たちがいるのも事実である。


 暇潰しにはちょうどよいコンテンツ、と思ったのだが、たまたま見たゲーム配信が私にはちょっと若すぎてついていけない感じで、視聴者のコメントに受け答えする様子もなんだか私だけ蚊帳の外……という疎外感を覚えてしまった。

 それに私は何かを見た後、それを誰かと語り合いたい人間なので、配信を観ても話す相手が……夫が何を見ているのか分からないから、自然と意識から外れていったのだ。映画を見なくなったのも、夫との会話が途絶えたのが理由かもしれない、と改めて思う。


 ただ――面白い話が好きなら夫がハマるのも、頷ける。うちの夫は特にオタク気質がある訳ではないが、やっぱり可愛いものは好きだろう。男なんだし。


 ……つまるところ、一緒にいて楽しいからと結婚した私との時間よりも面白く、年々劣化していく私よりも可愛い存在――あぁ、自分で言ってて悲しくなってきた。


 気分を変えよう。


 再びトレンドを覗く――「50万人」。なんだろう、感染者だろうか。


 見れば、VTuberだった。私がチェックしていたせいか、それとも彼らの主戦場がネットということもあるのか、VTuber関係のワードはトレンドによくあがる。


 今回のそれも、どこぞの女が可愛いだけでチャンネル登録者数が50万に達したとかそういう――


「……おや」


 思わず声が出たのは、50万のファンを侍らすVTuberのツイートを発見したからである。トップに上がるのは当然なので見つかるのは自然の流れだが、私が注目したのはそのSNSアカウントのアイコン――この顔、見覚えがある。


 ……夫の浮気相手だ!


 私がちらりと覗き込もうとするたびにあからさまに隠そうとする――特に推していると思しき、泥棒猫。


 いったいどういう設定呪いを背負ったどこの誰かなのか――



 二宮にのみやいなり/一乗いちのせたまき ―― 『お稲荷さんな男の娘VTuber!』



 ……男の、ムスメ? 誰かの娘なのか。パパ活か。つまりこれは浮気じゃなく、娘が欲しい願望……?


 ……いや、これは何かのスラングだ。ネットにありがちなやつだ。早速調べてみて――私はかつてないほどの衝撃に、固まった。


 男の娘――オトコノコ――それはつまり、可愛いだけの、男……!!


「うちの夫は……ゲイ!?」


 まさか――しかしそう考えると、やたらと隠そうする理由も、夜の営みに積極的でないことにも納得がいく。だけど、夫は私と付き合う前にも女性との交際経験が……いやそんなものはなんの証拠にもならない。結局そっちと別れ私と結婚しているのだから、うまくいかなかったということ――女性に興味がない……?


 ……べ、別にその性癖を否定するつもりはない。今はぐろーばるなよのなか……だけども、それとこれとは話が別だ。夫が私に関心を抱かない理由――絶望的な真実……。


 いや、まだ決めつけるのは早い――こういうのは大抵の場合、「中の人」は女性なのだ。機械で声を変えた男性という線もあるが、調べればわかる。


 ――どうやら「二宮いなり」という配信者の中の人は、名前の横に書いてあった――「一乗たまき」という職業イラストレーターの女性であるらしい。二宮いなりはネット上での仮の姿であり、二宮いなりのママ、という立ち位置のようだ。


 やはり、女――しかも、画像も出てきた。何かのイベントのもののようだ。かなり可愛い系の若い女性である。


 まあ、でも、うん……浮気ではあるが、これはアイドルにハマるようなもの……そんなことにいちいち腹を立てるのはどうなのか。しかし実際問題、この女に夫は夢中――私との会話はまるでない。


 フォロワー数うん十万……この中に、夫のアカウントもあるのだろうか。SNSをやっているという話はしたことないが……。


 何気なく「二宮いなり」のツイートをスクロールしていると、今夜も生配信を行うという告知があった。夫も今夜視聴するのだろうか――何かの会話のきっかけになればと、その概要をチェックする。


 ……なんでも、視聴者から相談を受け付け、その相談者と生で通話する――この界隈に詳しくない私でも、なかなか特別で、めったにない企画であると分かる。


 ふと、思った。


 もしも――この配信に、私が出たら?


 相談内容はこうだ。最近夫があなたに夢中で私と会話してくれません――夫ではなく、旦那? 主人と呼んだ方が貞淑な妻感が出るだろうか。泥棒猫め、という気持ちで「あなた」としたが、ここは穏便にいくべきか――


「いやいや……」


 こういう企画で当選した記憶がない。私がこうしてSNSを利用しているのは、その当時はやっていたというのもあるが――リツイートして応募、という類の懸賞に応募してみようと思ったことが、登録したきっかけである。しかし、結果は先の通り。百万円にも挑戦してみたことがある。まあ、もらったところで特別欲しいものもないし、一生働かずに暮らせる額でもないから期待も落胆もなかったが。

 そういえば最近の若者は物欲が薄い、欲しいものがない、というツイートを見かけたことがあるが――その代わり、こういうSNSでいいねを稼ぐという、承認欲求が強いのかもしれない。私はといえば、どうせ一般人の投稿など誰も見ないし、という考えで、これまで懸賞に関する以外の投稿をしたことがない。


 承認欲求……不特定多数のフォロワーはいらないけど――もしも、この企画に応募することで、夫の心を掴めるなら。


 ……別に、何か失うものがある訳でもなし。


 私は意を決して、


「……昼ご飯は?」


「え?」


 いつの間にか、夫が部屋から出てきていた。気付けばお昼休憩の時間――もうこんな時間!


「あ、ごめん、待って、今何か……」


「あぁ、いいよ、カップ麺食べるから。早めに終わらせておきたい仕事あるし」


 そう言って夫は怒るでもなく淡々と、買い置きのカップ麺にお湯を入れ、お箸とお茶のペットボトルをもって部屋に帰っていった。


 ……きっとまた、配信でも見ながら――というか仕事を早く片付けたいのも、今夜の配信のためなんですよね、どうせ。


「…………」


 私も、ラーメンでお昼を済ませよう。


 お湯を入れて三分待つ間――適当に考えた文面を、送信した。




 その夜――である。


 まさか……。


『ご主人がボクに夢中で自分の相手をしてくれない――という相談者Bさんです。もしもーし?』


『……も、し……』


『緊張してるのかなー?』


 まるで声変わりする前の男の子みたいな声――に、やや戸惑う。緊張はもちろんあるが――


 その配信に出演する何時間も前、「彼女」――彼といべきか? ――から、連絡がきた。そして配信前には通話をして、打ち合わせ――その時はどこか事務的で真面目そうな女性、時折こちらを気にして冗談を言ったりと緊張を和らげてくれる、話しやすい人、というイメージだったのだが――始まってみれば、これである。そのギャップに戸惑っていた。性格だけでなく声までまるで別人だった。


 というか、打ち合わせの時は普通のマイクだったくせに、さすが声を資本としているだけあって――配信の時はよいマイクを使っている。なんか、すぐ耳元で囁かれているかのような立体的な音質をしていた。私のがびがびスマホ音質が恥ずかしくて仕方ない。


『――というか、「主人」ってさー……この配信に来てるんだから、今日はボクがみんなのご主人様なんだよ?』


『いや、でも――夫の世話してるのは私だから――私が夫のご主人様っていうか……』


 ――正直、どんなやりとりをしたのかよく憶えていない。


 胸がどきどきして、声が震えていた。全力疾走した後にコメントを求められたかのようで――


 今、私の声がネット上に配信されているという緊張はもちろんだが、配信画面に映る視聴者たちのコメント――この中に、もしかすると夫がいるかもしれない――そちらに目がいって会話に身が入らなかった。

 それに、夫とは寝室が別で、通話は自分の部屋でしていたのだが――不意に、夫がやってくるかもしれない。声を聞きつけてノックしてくるかも、とか、いろいろと考えてしまって――


 自分であって、自分でない。そんな精神状態になっていたような気がする。


 時間はあっという間に過ぎ――翌朝。


「おはよう。今日までは在宅、明日から出社。昼はなんでもいいよ」


「え、あ、うん……?」


 ルーティン的な挨拶だけで即終了――それがこの数か月の夫婦のやりとりだった。しかし、今日は夫がよく喋った。昨日何かあったっけ、と思い出し、私は昨夜の、あの夢のような(現実感がない)時間が、実際の出来事だったのではないかという考えに至る。


 ……もしかして、配信の影響? 私が出てたと気付いてる……?


 夫が話しかけてくる。にもかかわらず、「やらかした」という後ろめたさが私の気をそぞろにさせた。




 ――それっきり――私の非日常はそれで終わるものだと思っていた。


『先日の配信がとても好評で――こういう企画を――』


 もう一度、出演してほしい、という連絡。


 詐欺じゃない? と思ったけど、相手は有名な……登録者50万の配信者。


 それに、私の声が視聴者にウケたという。声というか、キャラクターが――個人的にもう一度話してみたい、なんて――昔、夫に言われて以来である。


 もう一度だけなら――そんな甘い考えで、私は彼/彼女の誘いに乗った。


 でも、まさか――


『――またお願いします』


『おねがーい! あと、今度は立ち絵も用意したいから――写真とか、送ってくれると嬉しいな』


『人妻の写真きぼんぬ』


 ……何言ってんだこの成人女――そうは思いつつも、悪い気はしないのは事実で。


『今度、私の企画するAVに出てくれたらなーって』


『声だけでいいから、そういうアダルトなボイスって意味で、AV』


『ちょっと演じてくれるだけでいいので』


 そうして、彼/彼女の要求はどんどんエスカレートしていった。




「今日の夕飯、外で食べてくるね」


「……あ、うん――じゃあ、俺は出前でもとるよ」


「うん、そうして――明日は何かつくるから! あ、そういえば――」


 VTuberという共通の話題があるため、夫と会話する機会も以前と比べるとだいぶ増えたが、私への関心という点ではあまり変化はないようだ。


 夫には、私にナイショで貢ぐ女がいる――


 だけど、夫は知らない――


 私が裏で、何をしているのか――


 自分の推しヨメの正体を――彼はまだ、知らない。



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