女の肖像

位月 傘


 銀の刃が煌めいて、頬に血が跳ねる。悲鳴をあげそうになって、必死に歯を食いしばってそれを耐えた。その代わりにあふれ出る涙と共に、吐き気にも近いしゃくりあげたときの声が漏れる。

 剣を持った男は興味なさげに父を、母を殺し、いよいよ地に膝を付けた私の方を見る。


 父が王に反乱しようとしているだなんて知らなかった。そんなこと、娘の私になんの関係があるというのだ。関係ないはずだ。だけれどそんなことがまかり通らないことも、死への恐怖を感じるのと同じくらいに分かっている。


「お、お願いします。助けてください、なんでもしますから」


 この上ない屈辱だ。どうせなら家のために死んでやると言えるような生き方をしておいて、実際死が目前に迫ったらこれだ。貴族としての矜持も、令嬢としてのプライドも、これまでの人生も、全てが粉々に打ち砕かれる。

 熱い雫が冷え切った手を濡らす。死んだように冷たい肉体の中で、心臓だけが痛いほどに脈打っていた。


 情けない、恥ずかしい、怖い、悔しい、許せない…………この男を、殺してやりたい。


「うーん、俺も罪もない女の子を殺す必要は無いとは思うんだけど」


 祈るというにはあまりに強く握りすぎていた手を放し、縋るように顔をあげる。私にとって目の前の美少年は目前に迫るギロチンそのものであり、そして一縷の望みでもある。男は私の様子に困ったように笑う。子猫がした悪戯を咎めるような笑みだった。

 

「だから、ごめんね」


 銀色がきらめく。男の口元は、確かに弧を描いていた。






「初めまして、ベル」

 

 にっこり微笑む銀髪の美丈夫に、思わず喉の奥がひきつる。しかしこれでぼろを出すほど、私も愚かではない。同じように完璧に……完璧な作り笑顔を浮かべてドレスの端をつまみ上げる。


「ようこそいらっしゃいました、ミュール様」


 この男は今日から私の婚約者であり、我が国の騎士団の団長であり、そして何より――前世で私を殺した男である。


「お疲れでしょう?どうぞ楽になさって……あら」


 ぱしゃん、と音が鳴る。同時に傍に控えていたメイドの悲鳴が漏れて、それから重々しいほどの静寂が場を支配する。

 私は瞳を伏せて、それからいつも通りの笑みを浮かべた。


「ごめんなさい、手が滑ってしまったみたい」


 長い髪を濡らしている男は一瞬、呆気にとられたように私を見つめて、それからまた笑みを浮かべたが、今度の笑みは先ほどのように完璧なものではなかった。


 最悪の空気とは裏腹に、私の内心はかつてないほどに浮足立つ。


 やった!やってやった!


 殺されたことに対する復讐としては、ささやかすぎるものではあるが、相手が貴族であるのならば話は別だ。才能が有り、生まれが良く、地位も高く、プライドが高い男にとって、侮蔑は私にできる最上のやり返し方だろう。


 仮にこのことで家が何と言われようと、私に処罰が下されようと、後ろ指が刺されようと、どうだっていい。この瞬間のために、私はここまで生きて来たのだから。


「俺の勘違いでなければ、あなたはこの縁談に乗り気だったはずでは?」

「それはもちろん。ですが……えぇ、実際に会ってみないと分からないことって、あるでしょう?」


 声音は白々しければ白々しいほど良い。明らかな挑発は、より効果的に相手を怒らせることができる。

 

「ですから、貴方がもしこの婚約が嫌になったとおっしゃるなら、えぇ、非常に残念ですけれど、それも仕方がないと思いますわ」


 メイドは私の行動に目をむき、しかし何もできない。麗しの団長様の瞳にはいつしか剣呑な色が混ざり、そして私の予想に反して喉を震わせた。


「ふ、ふふ、あははは!」

 

 次に面食らったのはこちらの方だ。プライドのない貴族など存在しないので、少なからず彼を傷つけるということは分かっていたが、まさかあの程度でおかしくなってしまったのだろうか。

 怪訝さを隠しもせずにミュールを見つめると、私の困惑がおかしいのか、男は一層笑みを深めていて不快だった。


「いいえ、いいえ。俺はあなたとこうして顔を合わせ、言葉を交わし、より一層あなたのことを好ましく感じました」

「ふふ、そんな風に言われたら照れてしまうわ。あんまり揶揄わないで?」


 本心を隠すことは、貴族であるのだから当然の行動だ。それでもここまでやられて一つも言い返さないなんて、他者は殺せるというのに、想像よりもずっと気が弱いのだろうか。


 最低な初対面はお開きとなり、そして婚約は無事に破棄される……はずだった。

 実際は幾日経とうとも私もこの家も何か罰を受けることはなく、婚約が解消されることも私の悪行が外部に漏れることもなかった。


「お嬢様、ミュール様からお手紙が……」

「捨てておきなさい」

「そ、そんなこと……」

「出来ないというのなら机の上に置いておいて。自分の手で処分するから」

「お嬢様ぁ……!」


 メイドの声を無視する。どうにも今生の家族は使用人に甘い。このメイドだって私のためを想ってなんて振舞いをしているけれど、私の婚約が上手くいかずに家が傾いて職を失うことを恐れているだけだろう。

 愛情だとか、心配だとか、そういう感情が心底から私に向けられることなんて無いし、別に欲しくも無い。だから誰かに心を砕くことも無い。


「ベル」


 中庭を散歩していると、後ろから声をかけられる。今生の何もかもが私は気に食わないけれど、この庭だけは悪くないと思っていた。

 振り返れば人の好い笑みを浮かべた男が、美しい庭園の中に立っていた。似合ってはいるが、どうしても拭えない異物感も同時にある。私にとって本当に初めて見たミュールの姿が、あの凄惨な現場だったからかもしれない。 


「……あら、手紙の返事も待ちきれずに来てしまったのですか?」

「えぇ、あなたのことを想うとどうにも自分が自分でいられなくなってしまうようです」


 白々しい。そして何より男が何を考えているか分からないことが不気味だった。ミュールはたびたび私の屋敷にやってきて、そして両親は私たちの仲が良好であることを非常に喜んでいるようだった。どうせ彼らも頭の中で今後甘受できる利益の算段でもつけているに違いない。


 このまま放置するわけにいかないので、部屋に案内する。メイドはもてなしの準備だけして出て行き、部屋には2人きりとなる。封を開けていない手紙を見つめて男は目を細めたが、見なかったことにしたらしかった。

 紅茶を口に運びながら、男の顔を見る。相変わらず見た目だけは憎らしいほど美しい。

 今生でも女個人の意思で婚約破棄することはできない。両親が私の決定を支持してくれれば話は違うが、普通に考えれば同意するわけもない、無理な相談だろう。

 

 で、あれば。どうにかして男の方に言わせるしかない。狂人のふりでもしてやろうかと一度は思ったが、そんな恥ずかしいこと出来るわけない。


「……せっかく夫婦になるのですから、もう言葉遊びはやめましょうか」


 男は相変わらず人を魅了する笑みを浮かべたが、瞳の剣呑さだけは隠そうともしていない。最近ではあまりに視線が熱烈すぎて憎まれているというよりも、執着されているというほうが正しいような気さえしてきた。


 眉を下げて視線を彷徨わせる。困っている「フリ」は当然相手に伝わっているだろう。


「俺はあなたのことが嫌いです」

「そうでしょうね。ならさっさと婚約破棄なさってはいかが?」


 間髪入れずに、今度は取り繕わずに返事をすれば、男は眉を一瞬ぴくりと持ち上げた。先に線を越えたのはあちらなのだから、これくらいの報復当然だろう。

 婚約してから分かったことだが、ミュールは恐らく貴族の中でも相当にプライドが高い部類だ。だから一層彼が婚約を取りやめないことも、罵倒を浴びせることも悪評を広めることも、何か罰を与えることもしないことが不可解だった。


 なにより私がミュールとこの気分の悪い逢瀬を繰り返していることに飽き飽きしてきたところだ。冷ややかな視線を向ければ、彼はにっこりと微笑みながら足を組む。

 私の瞳には嫌悪があったが、彼の瞳には泥のような憎悪と、別の何かが炎のように揺らめいていた。


「それは出来ません。俺はあなたを好ましく思っていますから」

「『言葉遊びはもう終わり』ではなかったかしら?」

「もちろん。あぁ、でも、確かに言葉が適切ではなかったかもしれない。俺は君のことが憎らしいけれど、同時に興味を持っている、が正しくかな」

「……あなたがどう思っているかなんて、本当はどうでもいいの。だからさっさと私のことは諦めてくださらない?」


 煙に巻くような言葉が不快だ。つい手の甲に爪を立ててしまって、慌てて肩の力を抜く。思い通りにいかないときの、散々叱られた昔からの癖だった。

 ミュールは顔に似合いの役者みたいに大業に、皆が憧れる騎士にしては品のない仕草で私の手を取る。


「俺はそんな君にこそ興味がある。君が初対面のときから嫌悪を抱いていたのは何故?自分で言うのもなんだけど、俺の評判は悪くないはずなんだけど」


 確かにもっともな疑問だ。そして私はこの問に馬鹿真面目に答えるよりも、はぐらかすべきだ。


 だけれど、どうしても、些細な意趣返しがしたかった。私はやっぱりそのために生まれて来たのだから。それに面倒なことはさっさと終わらせてしまいたい。

 掴まれた手を払って立ち上がり、男の方へ歩み寄る。それから小さく息を吸って、酷薄に笑って見せる。私は昔から、誰かに傅くことなどふさわしくないのだ。


「えぇ、えぇ!そんなに気になるというのなら教えてあげるわ!」


 久方ぶりに口に出した名前は、私の心にすっかり馴染んでいて、同時に多少の違和感もあった。


「私はアストラエア=フォン=ベルナール!あなたが殺し辱め、そしてあなたに屈辱を与えるために生まれ変わった女の名前よ!」


 これで彼が私のことを狂人だと思おうと、それで構わなかった。ただミュールが己のことを年端もいかぬ少女に憎まれている存在なのだと分からせれば、それでも良かった。誰からにでも好かれていることが当たり前だとでも思っていそうなこの男に、たった爪先でなぞる程度の傷でもつけられれば、それでよかった。


 しかし男は予想に反して、私の言葉を聞いて肩を震わせる。こんな子供みたいに笑う人間だとも、笑う場面だとも思っていなかったから思わずこちらが面食らう。


「ふ、ふふふ、あははは!」

「……何がおかしいの」

「あぁ、怒らないで、ただ、ふふ。紅茶をひっかけられた時は随分腹が立ったけれど、生まれ変わってまでした復讐があの程度だなんて、随分可愛らしくて驚いただけだよ」

「あなたが一瞬でも私のことを憎んだのなら、あれは効果的な手段だったらしいわね」


 実際私に出来るのはあの程度だ。殺すだなんて出来るわけが無いし、かといって地位を失墜させることは現在の私と彼の立場を考えれば殺すことよりも難しいだろう。

 

 それにしてもミュールのこの態度。狂っているのは私ではなくこの男なのかもしれない。考えが顔に出ていたのだろう。なおも笑いが抑えきれていない男は私の顔を見て、こほん、とひとつ咳をした。


「それにしてもベル、あぁ、アストラエアって呼んだほうがいい?」

「どちらも呼ばないで」

「じゃあベル、それって死んでも思い続けてくれるくらい俺のことを想ってくれてたってこと?」


 首を傾げて男が問う。私が品のない人間であったなら、今すぐにこの男の顔をひっぱたいていた。

 ただ彼の言葉が遊びではなく、心の底からのものであるというのは分かっていた。男の瞳に揺らめいていた憎悪が消えて、しかし今も同じだけの熱を残していたからだ。


「感情が正しい意味を持つのは感受性豊かな人間だけだ。だけど空っぽならば初めに己の持つ感情に名前をつけることが出来る」

「何を――」

「君だって分かっているだろう?家族からの愛を拒んだのだから」

「違う、私は本当に愛されてなんていない」

「そう、君は愛されていないと思っている」


 こんなものはただの言葉遊びだ。嘘だ。虚像だ。

 だが真実を真実とする根拠は?嘘を誠としない理由は?詭弁を詭弁とはねつけれるのは何故?


 理由は単純明快、贋作を贋作と見抜けるのは、真作を知っているからだ。


「だから他者からの愛を打算によるものだと名付けた。婚約破棄程度、両親に泣いて頼み込めばどうにかなっただろうに、そうはしなかったのが答えだろう」

「……何が言いたいの」

「君が愛を知らないようだから、教えてあげようと思って」


 彼は席を立って、私の手を取った。見下ろしていたはずの顔が、随分と高い位置にきて威圧感で一歩引きそうになる。

 ミュールは愛のように私の指先に口づけて、それから愛し合う恋人のように私の手を握った。


「ベル、君の執着は恋だ。君の憎悪こそが愛だ。前世から抱き続けていたものこそが、君が真に欲しかったものだ。そして俺だけが、君が欲しいものを与えられるだろう」


 銀の刃がきらめく幻覚が見えた。赤いカーペットが血に見えた。風の音が悲鳴に聞こえた。それでも私は、跪くことはしなかった。


「ほんとうに……殺してやりたい…………」

「うん、俺も君が好きだよ」

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