君が溶けたあの夏

白江桔梗

君が溶けたあの夏

 今年も夏がやってくる。むせかえるような土の匂い、やかましいほど騒ぎ立つ蝉の声、限界まで絞り出された日焼け止めクリーム。

 人それぞれ、思い出す夏があるだろうが、私が思い出すのは、当然あの想い出だ。

 今思えばなかなか猟奇りょうき的なことだったと思う。

 だって――冷凍庫に人間を入れてたんだよ?



「暑い゛〜!!」

 地球の平均気温は年々増加していき、冷房の生息域は拡大を続けていた。

 一刻も早く自宅に帰り、冷房が効いた自室で親に内緒で買ったアイスを片手にダラダラしたい。テレビは地球温暖化がどうとか言っているけども、正直今を生きるアタシたちには関係がないことじゃないか。

「ねー、こんなに暑いと溶けちまうって」

「ははは、何バカなこと言ってんの。人間が溶ける訳……」

 そう言う傍らの友人は、溶けていた。炎天下に晒された氷菓のように、ぽたりぽたりと滴りながら、隣の友人はどろりと溶けていたのだ。汗とかの婉曲表現でもなく、肌色に濁った液体が地面を湿らせていた。

 もちろん、私はこれに絶句。『開いた口が塞がらない』とはこのことだ。次に小学生にすれ違ったら、素敵な家庭教師よろしく、『見てみな、あのことわざってね、こういうことなんだよ』って教えようかな。

「いやいやいや、溶けてるっ、溶けてるって!!」

 熱で正常な判断ができなくなっていた私は寸前のところでなんとか息を吹き返した。

「ふっ、人が溶ける訳ないじゃん。暑さで頭おかしくなったんじゃねえの?」

「ちょっ、待て! 鏡出すからそれ見て同じこと言ってみろ!!」

 私はポーチから手鏡を取り出した。それをすかさず彼女に振りかざす。

「えっ、怖。アタシ溶けてんじゃん」

「えっ、反応薄くない?」

 友人は至って冷静だった。ひょっとして、もうコイツの脳も溶けてるんじゃないかと思うほど、取り乱している様子がなかった。

 ならば、命と同じくらい大事なもので、ことの重要性を気づかせなければ。

「……アンタの周り湿度凄いせいで髪の毛ヤバいことになってるよ」

「マジ!? それを早く言えって!!」

 なんとか友人に危機感をもってもらうことに成功した。なら、次にすべきことは解決策を見つけることだ。こんな田舎にも電波が通っていることに感謝しながら、タプタプとスマホで対処法を検索してみる。

「アタシの髪を救う方法ありそう?!」

「ん〜、ないわ!!」

 田んぼの周りでギャーギャーと騒ぎ始めた私たちの声に驚いて鳥たちが羽ばたいていく。

 そりゃ人が溶けるなんてホラー展開の対処法なんて検索してヒットする方がおかしい。もしかしたらコイツを慌てさせたのは失敗だったかもしれない。

「とりま、そこの日陰に避難しよ!」

 随分こじんまりとした避暑地は、二時間に一本あるかどうかのバス停だった。とはいえ、ずっとここにいる訳にも、溶けた友人をバスに乗せる訳にもいかない。だって、彼女は現在進行形で溶けているのだから。

「手ですくう……のは無理だし、ペットボトル……じゃ足りないだろうし、どうしたら……!」

 何か無いかと首をブンブン振り回し、辺りを見渡すと、川にバケツが流れていることに気づいた。これは渡りに船だ、大急ぎでそのバケツを取って彼女の元に帰る。

 だが、戻ってみれば、彼女は熱しすぎたチーズのように、原型を留めていなかった。それでも、混乱する脳と、謎に震える手はなんとか彼女をバケツに入れることに成功した。

「えっと、大丈夫……なの?」

 捕まえたザリガニに話しかける少年のように、私は変わり果てた友人に声をかける。

「意外と大丈夫だわ。それよりこのバケツちゃんと洗った? 田んぼ臭いんだけど」

 とりあえずほっと一息つく。思考が停止した私でもなんとか役に立てたようだ。だが、問題は依然としてある。

「うーん、冷やせば元に戻るのかな……」

「アンタ、アタシのことゼリーかなんかだと思ってないか? まあ、物は試しだし、冷凍庫にでも入ってみるか。じゃあ、アンタんちまでレッツゴー!」

「歩くの私じゃん……。てか、なんで私んちなの?!」

「だって、アンタんち父親が猟師だし、でっかい冷凍庫あるって言ってたじゃん。それに今の時間両親いないっしょ? なら好都合ってもんじゃん!」

「私の事情ガン無視じゃんか……」

 炎天下の中、ため息をつきながら、バケツに詰まった友人を持って歩き出す。図々しいコイツに一矢報いてやりたかったけど、そんな労力より、家に帰って冷房に当たる方がよっぽど有意義に感じた。

 私の家はそう遠くない。カップラーメンにお湯を注いでも、麺がまだ粉っぽいうちには到着する。

「えっと……うん、いないな」

「よしっ、じゃあアタシを冷凍庫にぶち込んじゃってくれ!」

 両親が出かけていることを確認してから、家の鍵を開け、地下に到着する。相変わらずここは夏でも肌寒いくらいだ。

「てか、冷凍庫だとそのまま凍っちゃわない?」

「時間ないし、アタシ早く帰って推しのメイク生放送見たいから、さっさと冷える方が良いっしょ!」

 コイツの能天気さに頭を抱えながらもとりあえず冷凍庫の中にバケツごと入れる。

「じゃあ、一時間経ったらお迎えよろ!」

「はあ……面倒臭いなあ」

 私はとりあえず自室に戻る。あのまま地下室で待っていても肌寒いわ、インターネットは繋がらないわ、横にもなれないわで居心地の悪い監獄だ。いや、監獄なら居心地が悪い方が良いのかもしれないが。

「疲れた……少しだけ、ベッドで……」

 怒涛の展開に振り回され続けた私のまぶたは重かった。ふかふかのベッドは私を包み込むと離そうともしない。そうしてそのまま、社会科の授業のように私を眠りへと誘っていった。



「ただいまー」


 私はベッドの上で目を覚まし、勢い良く身体を起こす。窓から玄関の方を覗くと、大量の保冷バッグを背負った軽トラックが停められていた。

「あれ、待って、そういえば――」

 昨日の食卓の会話を思い出す。確か、今日は冷凍食品の特売日とかで、隣町の大型スーパーまで行ってくるから帰りが遅いって言ってた気がする。

 時計の針は十八時を指している。つまり、約束の時間を大幅に過ぎていたのだ。

 サーッと血の気が引いてく。怪談話で涼むなんて嘘でしょと思っていたが、今、私の体感温度は相当低い。あながちその話は間違ってないんだなと感心する。

「いや、そんな暇ないじゃん!!」

 ドタドタと階段を降りて大急ぎで地下室に向かう。しかし、私より先にパパが地下室に到着していた。

 親から見れば、自分たちの帰りを心待ちにしている娘に見えたのだろうか。荷物を持っている手とは逆の手で、呑気に手を振っていた。そしてそのまま、冷凍庫を開けようとしている。

「ちょっ、待っ――!」

 間一髪、私は間に合わなかった。宙に浮いた手は空を掴み、慣性が残った脚で冷凍庫の元まで駆け寄った。

 ああ、終わったな。そう思いながら、力強くつむった瞼を開く。そして私の視界、開け放たれた冷凍庫の中には、変わり果てた友人の姿が――――なかった。

「ん、どうした。さては母さんに見つからないようにアイスでも隠したのか〜?」

 頭を突っ込んで覗き込んでみても、バケツもなければ、彼女の姿もない。私の胸には猟奇的な現場が見られなかったという安堵より、彼女がどこに消えたのかという不安感が渦巻いていた。

「でも……じゃーん! 実は父さんたちもアイス買ってきたんだ。一緒に食うか?」

 そして、ハプニング続きでショート寸前の私が、そこでとった行動は――――

「……うん、食べる!」

 熱されすぎてバグったこの頭を、目の前の氷菓で冷やすことだった。



 あれから年は経ち、私は専門大生になった。

 冷房代節約の為に夏休みは相変わらずこの田舎に戻ってくるが、風鈴の音を聞くと今でもあの友人を思い出してしまう。

 溶けてしまった友人、それは暑さゆえの幻影か、熱さゆえの陽炎か、今となっては分からないことだらけだ。ただ一つ、唯一確かなことは――

「おいっす! 今年も溶けて来ちゃった!」

「ひゃあ!? ねえ、毎年いきなり水道から出てくんのやめてくれない!?」

 君が溶けたのは見間違いでも幻覚でもない、紛れもない事実ってことだ。

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