毒の果ての永遠
サトウ・レン
毒の果ての永遠
「ここに何か用ですか?」
背後から掛けられた声には気付いていたけれど、僕に向けられたものだとは、すぐに分からなかった。
振り返ると、女性がほほ笑みを浮かべている。年齢はいまの僕よりもすこし上くらいだろうか。初対面のはずなのに、彼女には、どこか懐かしさがある。彼女に、母の面影を見つけたからだ。もちろん口には出さない。いきなり見ず知らずの男に、母親に似ている、なんて言われたら、それは恐怖以外の何ものでもない。
「ちょっと気になりまして」
「気になる、って言っても、そこ更地ですよ?」
かつての建物の名残りはない。無造作に雑草の生える何もない空間を、ただぼんやりと眺めている僕の姿は、彼女にどう映っただろうか。好奇心程度に話しかけられたのならいいけれど、変質者と思われて、警察を呼ばれたりするのは絶対に嫌だ。それは本当に困る。
「変ですか?」
「そんな怖い顔しなくても大丈夫ですよ」ふふ、と彼女が笑う。すべてお見通しだと言わんばかりの表情だ。「私もここに長く住んでいまして。あなたの顔に見覚えがあったので、声を掛けてみたくなったんです」
中部地方の都市郊外にある、この町に僕が足を踏み入れるのは、二十年近くぶりだ。当時の僕と顔を合わせているとすれば、このひとはその頃、二十歳前後だろうか。こんなひとと面識あったかな、と思いつつ、ひとつ嫌な予感が浮かんで、ひややかな汗が背をつたう。
いや、例年よりもはやい酷暑に僕の頭はおかしくなってしまったのかもしれない。そんなわけがない。
「どうしたの?」
「いえ……。たいしたことじゃないんです。この家……あぁここにはむかし木造建ての一軒家があったんです。知ってましたか?」彼女は僕の問いには、何も答えなかった。「そこに僕は住んでいたんです――」
と言いながら、僕は記憶をたどっていた。懐かしい記憶が、更地になった空間に、ひとつの家を浮かび上がらせる。かすかな郷愁に浸りつつも、何よりも萌す感情は苦しみだった。少年時代の僕の、呪縛の記憶だ。
記憶というのは曖昧なもので、いつだって自信はかけらもないが、はじめて違和感を覚えたのは、小学四年生の時だった、と思う。それまでにも首を傾げてしまうような出来事はいくつかあったけれど、強烈な違和感として明確に意識したのは、あの一件からだ。成長によって広がった視野が、ようやくその歪さに気付かせてくれた、と言い換えてもいいのかもしれない。
きっかけは、クラスメートとの喧嘩だった。
喧嘩相手は大宮くん、という男の子だ。根は悪い子ではないのだけれど、ちょっと調子に乗ってしまいやすい性格で、口の悪いところがあった。リトルリーグにも所属している野球少年で、体格も良く、中学生に間違えられることもめずらしくなかったみたいだ。僕はスポーツ少年、というよりは、教室の隅で静かにしているほうで、性格も雰囲気も、僕たちは正反対だったように思う。
ただ意外に思えるかもしれないけれど、僕たちは決して仲は悪くなかった。類は友を呼ぶなんて言葉があるように、趣味や思考が似ていない者同士がいると、周りが勝手に敵対関係をつくろうとしてくる場合があるが、本人同士の関係は良好、ということは、すくなくない。僕たちの関係が、まさにそうだった。
なんでそんな大宮くんと喧嘩になったのか、原因までは覚えていない。好きな女の子がいるかいないか聞かれて、僕がかたくなに言わなかった、みたいな、たぶんそんな他愛もないことだ。お互いにヒートアップして、取っ組み合いの喧嘩になり、そしてその翌日には仲直りをした。
本来ならそれで終わるはずだった。
だけど三日後、朝から母の様子は変だった。いじめられてるでしょ、と僕に聞いてきたのだ。喧嘩したことを、僕は母には言わなかった。母が心配性な人間だ、とはこの時からすでに思っていて、必要以上に心配を掛けたくない、という気持ちはあったのだ。違うよ、と否定しつつ、学校へ行くと、教室の雰囲気もどこか異様だった。僕と大宮くんが喧嘩をした、という話が、いつの間にか、大宮くんが僕にひどいいじめを行っている、という話にすり替わっていて、先生がクラス内に共有していた。いじめっ子とレッテルを貼られて、彼はみんなから悪く言われて、僕ばかりがやけに同情される。その光景を見ながら、この状況のほうが、いじめのように思えてしまった。
怖くなった。帰って、怯えながら僕がその話をした時の、母の満足そうな表情がいまも忘れられない。これが最初の強烈な違和感だ。
大宮くんとの関係は疎遠になり、五年生になった時にクラスが離れてしまって以降は、一度しか言葉を交わしていない。小学校を卒業する直前だ。四年生の時の一件がどうしても気になって、あの時に何があったのか、聞こうとしたのだ。
「お前の母さんが、俺の家に急に来てさ」
とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
母の行動は、すべて僕に対する善意だ。僕のためだ、と思って、つねに行動している。だけどそれが歪になってしまう。僕の気持ちを無視したうえで成り立つ、善意、だからだ。
父は夜遅くまで仕事をしていて、休みの日もほとんど家にはいない人間だったので、僕にとって、家での生活は母とのふたり暮らしみたいな感覚があった。父がもっとこの家の中で存在感を持つ人間だったなら、僕たちはまた違う結果をたどっていたのだろうか。答えのない、虚しい問い、だ。
母の善意に反抗したい気持ちはあった。それでも、悪気はないのだから、と自身の心に萌した違和感や不快感を無理やり収めてしまった。僕がもっと物分かりの良いふりをしない子どもだったなら、僕たちはまた違う結果をたどっていたのだろうか。分かっている。これも答えのない、虚しい問い、だ。
母は僕の人生を管理するために、僕のすべてを知ろうとした。母の描くもっとも美しい、息子のストーリーを、僕の前に敷こうとしたのだ。どこからそんな情報を仕入れるのだろう、と思ってしまうことも多かった。誰かとのちょっとした雑談、学校での立ち振る舞い、好きな女の子の変遷……、僕自身はそれらを一切語らなかったのに、母はそれを知っていて、「お母さんは、そういう正義感のない行動は嫌いだな」「あの子は、親に問題があるから、近寄らないほうがいい」みたいなことを急に言ってきて、背すじが冷えた経験も一度や二度ではない。その言葉自体よりも、母親に隠し事ができない事実を突きつけられているようで、ただただ怖かった。
中学生の時は、高校進学に関することで、よく母と学校の間でトラブルが起こった。特に記憶に残っているのが、三者面談で、担任の先生との会話だった。
「希望の高校は、彼の学力ではすこし難しいかもしれません」
「いえ、この子の受ける高校はそこに決まっています。まだ時間もありますし、大丈夫です。勉強量を私が管理すれば、問題ありません。ここで決まりです」
「彼の意思も聞きたいのですが」
「この子の意思は、この子よりも私のほうが知っています」
「いや、あのですね――」
「長々と、うるさい!」
担任の先生を怒鳴った時の、母の顔がいまも忘れられない。鬼の形相という言葉があるけれど、あの時の母の表情ほど、それに似合うものはなかった。担任の先生のトラウマになっているかもしれない。あの頃はおとなに見えても、まだ若い二十代なかばくらいの先生だった。
母はもちろん、僕が周囲から腫れ物のように扱われていたことも知っていたはずだ。これだけ僕を注視していたのだから。だけど母にとって大切なのは、今後僕が進んでいく路のことだけで、僕自身の気持ちには恐ろしいほどに無頓着だったのだ。小学校の頃はまだ、たとえそこに屈折したものがあったとしても、多少なりとも僕の気持ちについて考えていたように思う。もしかしたら、そうであって欲しい、という僕のただの願望に過ぎないのかもしれないが。
中学生の時だと、他にはこんなことがあった。
僕はバスケ部に所属していた。僕は小学校の頃から変わらず、運動全般が苦手なままだったので、本当なら将棋部とか美術部とか、あるいは文芸部とか、そういった部活に入りたかったのだが、運動部に三年間いた、という実績は進学の時に印象が良い、と母に説得され、あまり強くはなく、そして自由な雰囲気のあったバスケ部に入部したのだ。
二年生の時、三年生が引退して、新しいキャプテンを決める際、なぜかほぼ満場一致で、僕に決まってしまった。正直僕はキャプテンなんかやりたくもなかったし、もっと適任の部員なんていくらでもいたし、何よりも僕は周囲から人望のあるタイプではなかった。
母が何か絡んでいるのは分かったけれど、最初のうちは誰も教えてくれなかった。
後になって、同級生の部員で、特によく話していた奴がこっそりと教えてくれたのだ。
「実はあの時、みんなのところに手紙が届いたんだ。丁寧だけど、脅しみたいな文章で、お前の母さんから。キャプテンに、お前を推薦しないと、悪い噂を流す、ってさ。そんなになりたいもんかな、キャプテンなんて」
本当に彼の言う通りだ。
たかがそんなことのために、何やってんだよ、という気持ちになった。母に不快感を抱いたけれど、何よりも怒りを覚えていたのは、自分自身に対してだ。明らかにおかしいと感じながら、何も言えず、ただ時間が解決するのを待つだけの自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。
これもだいぶ後、中学を卒業して以降に知ったことなのだけれど、中学の時の僕は一部のクラスメートや教師から、陰でモンペくん、というあだ名を付けられていたらしい。モンスターペアレントの略だ。彼らを責める気になれないのは、彼らが母の行動に相当苦しめられたことは、じゅうぶんに想像できるからだ。彼らよりも、元凶は母なのだから。責めるべき相手がいるとしたら、それは――。
ふと意識がいまに戻り、「どうしたの?」と会ったばかりの女性は更地のうえに立ち、僕を見ている。彼女の正体に、僕は気付いている。だけど記憶のよみがえった嬉しさは、ひとつもない。
「すみません。ちょっと懐かしさに、むかしのことを思い出して……」
かつての僕たちの会話は、こんなにも他人行儀ではなかった。だけどいまのふたりの関係を考えると、似合いのやり取りなのかもしれない。
高校に上がった時、僕は県外の大学を受験しようと決めていた。おそらく母からは地元の国立大学に行くよう言われるとは思っていたが、地元の国立大学は僕の学力ではすこし厳しいだろう。県内の私立大学ならば、隣県の国立大学のほうが良いと母も感じるだろうし、説得できる自信はあった。だけど僕は母の呪縛から逃れることができず、このまま一生を過ごすのではないだろうか、と一抹の不安はあった。
周りのクラスメートを見れば、母親への反抗などたいしたものではないように見えるのに、実際に母を目の前にすると、何も言えなくなった。恐怖なのだ、と思う。暴力的な怖さではなく、もし僕が反抗した時、母がどんな行動に出るのかまったく分からない。そんな得体のしれない恐怖があった。
高校二年の夏だ。いまみたいに暑さに汗がだらだらと流れてくるような日だった。仲の良い友人ができて、僕は彼の家に遊びに行くことがあったのだ。友人の家に行く、と言えば、嫌な顔をされると思っていたが、軽く、いってらっしゃい、と言われるだけで、拍子抜けしてしまったのを覚えている。母から見て彼は、特に害のなさそうな男子の友人、という評価だったのだろう。
そして僕は彼の家で、ひとりの女性と出会った。
友人の姉で、
「あれ、弟の友達?」
そう言ってほほ笑んだ彼女は当時十九歳の女子大生で、地元の国立大学に通っていた。細身に色白、茶色く染めた長い髪の螢さんに、僕は思わず見とれてしまった。元々の美しさもあったとは思うけれど、高校生にとって大学生のお姉さん、というのはおとなびて見え、容姿以上の魅力を感じたのかもしれない。それまでも異性を綺麗に思う感情はあったけれど、一目惚れ、そして恋愛感情をはっきりと意識したのは、この時がはじめてだった。
「は、はい」
「緊張してるの?」そう言いながら、螢さんが僕の顔をじっと見る。「へぇ、私の弟の友達は、イケメンなんだね」
僕はいわゆるイケメンと呼ばれる顔の持ち主ではない。客観的に自分の顔立ちの程度を判断するのは難しいが、中の下、といったくらいだろう。なので、螢さんの言葉は、冗談か、社交辞令みたいなものだ。ただ分かっていても、その言葉は嬉しかった。
その日から、僕はよく友人の家を訪れるようになった。仲の良い友人と遊びたい、という建前はもういまさら必要ないだろう。目的は、螢さんと会いたい、その一心だ。
好意を隠すこともなく、僕は自分でも驚くほど、彼女に対して積極的だった。
ふたりで映画を観に行ったり、書店に行ったり、それまでデートなんてものをしたことのなかった僕は、緊張も相まって、醜態を晒すばかりだったが、デート終わりには、背伸びをしないところが信用できる、と落ち込む僕を励ますように、耳もとで囁いてくれた。
僕の態度が功を奏したのかは分からないけれど、結局、螢さんと付き合うことになった。
母に隠して。
だけど僕の態度に敏感な母が、気付かないわけがなかった。
「何か隠してない?」
「何も、隠してないよ」
「本当に?」
「うん」
甘い日々は、ほんのひと時だった。
僕と螢さんが交際していた期間は、本当に短かった。真夏に付き合って、秋に入ろうとする頃に別れた。
彼女の家近くにある公園に呼び出されたのだ。
「きょう、あなたのお母さんに会ったよ」
「えっ、なんで」
「別れて、だって。私の認めた子以外と、あの子を付き合わせる気はない、だって。どうする?」僕が言いよどむと、螢さんがため息をついた。「そういう時は、嘘でも、嫌だ、ってすぐに言えるようになったほうがいいよ」
「ごめん……」
「そう言えば、あなたの家族の話、いままで聞いたこと一度もなかったよね。親に逆らえないタイプのひと、それとも、ただのマザコン?」
母に何を言われたのだろう。螢さんの言葉は、どこまでも辛辣だった。
「違うよ……、違うんだ……」
「ごめん。言い過ぎた。ちょっと私もかなり言われて、頭に来てる。正直、私の答えは決まっているんだ。あなたに何を言われたとしても、別れるつもりだから……。だって、あなたと付き合う、ってことは、あのひとと関わり続ける、ってことでしょ。絶対に、嫌だ」
「僕と……母さんは、……違う」
「だったらなんで、さっき言いよどんだの? でも、さ。良かったんじゃない。お互いに情がわきすぎる前で。……じゃあ私、帰る。もう会いに来ないで、ね」僕は何も言えなかった。「最後にひとつだけ、良い。一番許せなかったこと。あなたのお母さん、私にすこし似てるね」
帰るまでの間、疲弊しきった心はずっとひとつのことだけを考えていた。
螢さんの、最後の言葉だ。
螢さんは、母と似ているだろうか。一度も考えたことはなかった。いまも別に似ている、とは思わない。だけどその言葉は衝撃だった。
僕は母の呪縛から逃れたい、と思っていた。その一方で、無意識のうちに、矛盾した感情を抱えていたのではないだろうか、と。僕はどこかで、母を、母の呪縛を求めていたのかもしれない。そんなわけない、そんなわけない……萌した想いを振り払おうとしたけれど、離れてくれず、頭がおかしくなりそうだった。
家に戻ると、もう帰ってきていた母が、僕にほほ笑んで、
「おかえり」
と言った。
その表情と、かつて見た螢さんのほほ笑みが重なる。
あぁ駄目だ、と思った。このままだ、と僕は母から永遠に離れることができない。気付きたくもない、僕と母の間にある強固なつながりを自覚してしまったからだ。生半可な覚悟では断ち切ることはできない。
唯一の方法があるとすれば、それは――――。
僕は、母を殺した。
「久し振り。私のこと、思い出した?」
口調で分かった。彼女は、自分の正体を隠す素振りをやめたようだ。
僕の回想の終わりを狙いすましたように、僕よりすこし年上の、謎の女性が言った。いや、もう謎でもなんでもない、か。年齢的には、螢さんでもぴたりと合う。もしそうなら、ちょっとは嬉しさもあっただろうか。……仮にそうだとしても、苦しいだけか。はやく消えて欲しい、と心の中で、僕は願った。
「久し振り。母さん」
僕の言葉に、母は嬉しそうな表情を浮かべる。そうか、僕はもうすぐ、母の死んだ時の年齢を抜くのか。幽霊なのか僕の妄想なのか、は分からない。すくなくとも実体のある存在ではないだろう。
「どうして私を殺したの?」
眼を、のどを、胸を。何度も刺した。場所はリビングで、父はいない時間だった。その手は震えていた。確実に殺さなければ、起き上がってくるような気がして。あの時の感触は二十年近く経ったいまも、手のひらに残ったままだ。
僕の回答を待たずに、母は消えてしまった。
断ち切りたかった。
母、という呪縛から。殺して、でも。
だけど刑期を終えて出所した時、僕が最初に行きたいと思った場所は、呪縛、そして殺人の記憶の詰まった、あの家だった。
家も、家族も、もうどこにも存在していないはずなのに、こうやって記憶と母の幻想に縛られている。
やがて僕が死ぬまで、永遠に。
毒の果ての永遠 サトウ・レン @ryose
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