おまけ 217.1

217.1

 東京箱根間往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝は、大手町をスタートし、箱根の山を登って再び大手町に戻ってくるという、言葉では簡単に説明できてしまう。正月二日間の午前中を全国のお茶の間に生中継されることもあり、見る、見ないは別として知らない人は少数派であろう。初めて開催されたのは、まだテレビが白黒の時代である。その脈々と受け継がれてきた道筋を走りたいと思う者は、おそらく全国に何人もいるのだろう。

 夏。盆を過ぎた頃。

 綾西大学は、東京都八王子市にある。文系の学科がひしめき合う広いキャンパスの中に、理系とも言える学科が一つだけあった。自然地理学科。地理と言えば社会系の学問であるが、地質や土壌の話となると途端に理系の分野になる。文系志望で入ってきた学生には、もちろん不評の学科であった。そのためか、他の学科が忙しそうに動く中、自然地理学科だけは、のんびりとした時間が漂っていた。学生からは、金環時間と呼ばれている。

 自然地理学科は、キャンパスの目立たないところに棟が立っている。文学科と社会学科の後ろにひっそりと立っているのだ。知らない学生も多いかもしれない。自然地理学科が独立しているのは、東日本では地理を理系と位置づけていることによる。では、最初からなければ、と言う問題でもない。社会学科がある以上、地理は避けては通れない。事実人文地理は社会学科棟にある。

 レンガ葺きの構内を左太ももをかばいながら歩く。手術をしてリハビリをしても、足は壊れたまま治ることはなかった。一歩を歩くのがもどかしく、走ってしまいたいのだが、この足はもう二度と走ることはない。疲労骨折など、くっついてしまえば元に戻るものだと、思っていた節がある。だから無理な練習もこなした。その代償にしては少しばかり重いような気がしてならない。

 監督にはまだ、走られないことについて、話してはいない。二年の時は補欠に選ばれた。次はお前だ、とも言われていた。その期待を裏切ったような気がして、初は逃げるように所属する自然地理学科の棟を目指していた。そこに安住の地があると信じ込んでいるようでもあった。

 他の棟が次々と新しくなっていくのと、逆行するように自然地理棟は朽ちていくようだった。直すつもりがないのだがから、棟の前のレンガの道はほとんどコンクリートだ。三階部分に当たる屋上から、ゴーヤが日よけのために植えられている。毎年、夏になるとできたゴーヤを持って帰らされる。

 初にとってこの棟はなぜか落ち着く場所だった。おそらく、走りに関して無頓着だからかもしれない。初が箱根駅伝の補欠に選ばれても、おめでとう、と言うまでだった。ここには地質学、気候学、土壌地理学の三つのゼミがある。その中でも最も長くのこの学校にあるのが、地質学で、そこの主である老翁は(といってもまだ定年していないらしいが)、特に走りに興味がないようだった。金環時間と呼ばれるものを作り上げたのも、その老翁だ。名前を金城環という。略して金環だ。

 とにかく動きもしゃべりもおっとりとしている。定期試験も緩いことで有名な教授であったが、実は学会の中でもその名を轟かせるような、スーパーすごい人であると、初が知ったのはつい最近のことである。

 とにかく、金環が作り出すあの独特な雰囲気が初と同調するようだった。地質学室は、奥に連なる部屋の一番手前にある。向かって左側が地質学の部屋で、その向かい側に金環の部屋がある。だが、金環は地質学室にいることの方が多い。

 部屋の前までくると、薄い壁越しに何か声が聞こえてきた。金環ゼミにはあと二人ほどいるが、どちらも四年生で今頃実地に出ているはずだ。そのレポートが彼らの卒論となるので、休んでいる暇はないはずだ。新しい二年生は後期からのはずだが、すでに挨拶に来たのかもしれない。

 初はそう結論づけて、ノックもせずに部屋に入る。南側の窓はゴーヤのおかげで日が遮られている。西側の窓には遮光カーテンが引かれているので、電灯で部屋を照らしている。室内はクーラーが効いていて、ひんやりとした風が、肌を撫でる。べたついた肌がとたんに乾いていくのを感じた。

「おつかれ」

 大きな机を二つ並べた、南側の席には金環が座っていて、いつものように穏やかに初を迎えた。だが、その向かい側に座っている人物に、思わず顔をしかめてしまった。

「お客さんが来ているよ」

 初はこの場に背を向けてしまいたかった。そのお客さんが、問題なのだ。

「向島、なんでいるんだよ」

 なるべくいつも通りの自分を演じようとしたが、逆にちぐはぐになってしまったかもしれない。向島と呼ばれた青年は、ぺこりと小さく会釈をした。

「初さん、監督のところ行きましょう」

 それは初にとって死刑宣告も同じだった。この青年には初の状態がわかるのだ。凛とした声にわずかに違和感を覚える。向島はこんなにはきはきと喋るやつだっただろうか。いつもどことなく根暗なイメージを貼り付けていたように思う。

 向島拓人は、陸上部長距離部門のマネージャーだ。文学部の二年生で、一年の夏までは選手として走っていた。夏以降、どういう経緯があったかは知らないが、今はマネージャーリーダーとして動いている。ぼそぼそというしゃべり口調とは裏腹に、てきぱきとこなしてく事務作業には驚かされた。

 その向島がやってきた、ということは監督もわかっているのかもしれない。逃げ回ることは潔いとは言えない。心証も悪くなるだろう。

「あ、監督はリハビリだと信じてます」

「え?」

 黒い髪を揺らして、向島は初の目の前に膝をついた。左太ももを掴まれて思わずのけぞるが、後ろのドアにごんと軽く頭をぶつけただけだった。今日は監督にリハビリに行くと言って、部活を休んだのだ。部活に出る、ということはその時点で走られないのを伝えなければいけないのだ。

「骨、ちゃんとくっつかなかったんですね」

「わかるの?」

「親が整体してるんで、ちょっとだけですが」

 金環を見るが、我関せずを貫くらしくこちらを見ようともしない。もうどうにもならないのだとわかって、初は大きくため息をついた。監督に知られていないのは幸いなことだが、どうせ今日のうちにわかってしまうのだろう。

 向島が立ち上がると、頭頂部がちょうど初の鼻のあたりだった。座りましょう、と手を引かれたので初は近くの椅子に座った。それと同時に主である金環が退出した。わざわざ場所を譲ってくれたのだ。だんだん自分が情けなくなってきた、初はもう一度ため息をつく。

「初さん、マネージャーしてみませんか?」

「・・・・・・いや、悪いけどマネージャーも走り回るだろ。無理だ」

「そっちじゃなくて、事務の方をお願いしたいんですけど」

 外務と会計を一手に受ける、地味に大変な役回りだ。それを聞いて初はもっと嫌だと思った。それが素直に顔に出ていたらしく、向島は薄く笑った。予想通りな反応だったのだろう。それが逆に面白かったらしい。

「じゃぁ、もう、走りませんか?」

 走らないのではない、走ることができないのだ。しかし向島の視線は妙にきつく、初は心が波立つのを感じた。元来、鷹揚な気質をしていると思っていたが、このときだけはそれを苛立ちだと考えた。

「もう走ることはできないんだ。いつでも走ることができるやつは、いいよな」

 向島のこめかみがひくついたのを初は見た。怒ったな、と思ったが、それでいいとも思った。皆に同情されて部を去るよりは、なにかしら軋轢があった方が、納得できることもある。

「・・・・・・走ることはできないです」

 いつもの通りぼそぼそと喋る声が聞こえてきた。

「俺が初さんの代わりに走ることなんてできるわけがないじゃないですか。馬鹿にしているんですか」

「走ること、諦めたやつに代わりなんてつとまらないよ」

「俺はそれでも皆と走っているつもりです」

 給水で走るわけでも、ストップウォッチを持って走り回るわけでもないのに、一緒にどうして走ることができるのか。

「俺は初さんの気持ちがわからないですけど、初さんも俺の気持ちなんてわからないですよね。水掛け論になりそうなので、もう、いいです。でも、部に迷惑なので、さっさと辞めてください」

 話し合うつもりもなかったが、言葉で殴り合うつもりだった初は一方的に平手を食らったような気分で、向島の後ろ姿を見送った。


 箱根駅伝、往復路の長さはおおよそ二百十七㌔だ。つまり、一日で百㌔以上を五人で走り抜ける過酷なレースなのだ。中にはコンディションが悪く脱水を起こしたり肉離れを起こす選手もいる。レース中の選手交代などできないので、棄権をするか走り抜くかの二択。たとえ走り切れても、順位を大きく落とし、シード権はもちろん、繰り上げスタートで母校の襷を繋ぐことが叶わない、などと言うこともあり得る。

 大学駅伝の花形とも言える箱根の、悲劇だけを見ると悲惨でとても走りたいとは思えない。だが、それ以上に光の部分にあてられた人たちは多く、箱根駅伝が輝くのは、またその人たちが輝くからであった。二十㌔前後を走るのだから一瞬の輝きではない。ずっと輝き続けて、いつか燃え尽きるのではないか、と思えるようなそんな星のような、光。

 初がそれに憧れ始めたのは、小学生高学年の頃だ。すでに陸上を始めていた初は、毎年祖父母の家で見る箱根駅伝に魅了された。毎日箱根駅伝があればいいのに、と思うくらいだった。だが、当人たちとっては、たった四年間なのだ。四年間のうちに出ることができる者もいれば、補欠にさえ入ることができない者もいる。

 高校の三年間が、あっという間に過ぎたように、大学もあっという間に過ぎる。そうして初は三年目を迎えた。綾西大学は毎年シード権争いをする学校だ。昨年度ではシード権を無事獲得できた。初は順当に行けば、今年度の戦いには挑めるはずだった。

「そうか・・・・・・」

 監督の重い声が競技場の廊下に響いた。部員たちは走り込みを始めたばかりで、誰もそばにはいない。マネージャーも外に出て走り回っている。「俺がここに残る価値はないんで、辞めます」

 ぐっと監督は言葉を飲み込んだようだ。そんなことはない、という慰めが誰にも効くとは限らないことを知っているのだ。だからといって、退部届を提出してくれ、とはいいにくいのだろう。うーん、とうなり声が廊下に響く。すんなりと、やめてもかまわない、と言ってくれると思ったのだが、なぜか監督は頷かない。

「今度退部届を顧問に出しておきます。今までありがとうございました」

 結局、初からそれを言うことになった。監督を長く引き留めることも躊躇われて、初はすぐにそこから立ち去った。陸上だけのために作られた競技場は、綾西大学から五百㍍ほど離れたところにある。近隣の高校や中学校なども使用できるが、主に綾西大学生が使っている。競技場には控え室や更衣室の他に、多目的室としていくつかの小部屋がある。大きな会議室や、余った場所を部屋にしたような小部屋など全部で十部屋。その中の小さな部屋の前を通っていると、開いたドアの向こうに、つい先ほど見た顔があった。今は机に突っ伏して眠っているようだ。

 二年生にしてマネージャーリーダーをしているのだ。中には彼を鼻白む輩もいる。会費を集めたり、日程を立てたりするのも彼の役割だからだ。初は特別に彼を意識したことはない。よく動くマネージャー、というのが印象だった。

 飲み物も置いてないので気になって、持っていたペットボトルで彼の頭を軽く叩いた。このくそ暑いのに冷房も入れずに何をしているんだ、と。おもむろに開いた目が初をぼんやりと見つめた。

「なんですか?」

 先のやりとりなど忘れたような声音だった。そこからは嫌悪を感じ取れない。頭の上に乗せたペットボトルを彼の目の前に置く。

「水分、飲めよ」

「・・・・・・あ、あぁ。ありがとうございます」

 何も話すつもりはない、そう思ってすぐに立ち去ろうとしたのだが、ペットボトルを置いた手を握られた。白い顔に白い手とは裏腹に、体温は高かった。

「先輩、走らないんですか?」

 もしかしたら廊下の声が聞こえていたのかもしれない。目の下にくっきりとくまができていて、激務を象徴している。まだ言うか、と初は呆れた。あのなぁ、と続けようとしてそれを遮るように、向島はしゃべり始めた。

「一年の夏に戦力外通告をされたんです。走りたくても走ることができないのは、一緒なんですよ。同じですよ。だって、お互い、箱根は走ることできないじゃないですか」

 早口でぼそぼそ喋るので、初が口を挟む隙がない。

「でも、あそこを走っている人たちが、俺の夢まで走ってくれるんですよ。つまり、俺もあそこを走っているんですよ。その人たちを後押しする仕事がマネージャーなんです。考えてみませんか。俺はずっと初さんを見てきたから、わかる。初さんは、まだ走ることができる」

「・・・・・・お前が思うほど、俺は強くないよ」

 とりあえず、向島が自分を買ってくれていることはわかったが、それほど初は自分を評価してやることはできなかった。もし強ければ、向島に当たり散らすこともなかっただろう。

「価値は、自分で決めることではないです。価値は、周囲の人間の決めることです。俺は、初さんがここにいる価値のない人間だとは思いません」

 座ってください、と言われたので、初は素直に従った。走らないものに価値がないとは言わない。そうするとマネージャーや監督たちはここから排除される。それは初にもわかっていた。ただ人をマネジメントすることなど、したことがないので想像がつかなかった。

 それに、箱根に出ると意気込んで東京へ出てきた初だ。マネージャーになったと言えば、笑われるのではないかと、内心怖かった。そんな初に、向島は一冊のノートを出してみせた。そこには選手の体重、身長、体調、その日の五千㍍の記録が記録されていた。それは監督が毎日書かせている、課題ノートの項目と酷似いていた。

(こいつ、毎日全選手分のノートを見て要約しているのか?)

 それだけでも、ある意味重労働だ。加えて金銭管理に外務や他のマネージャーの管理および、選手のマネジメントだ。

(というか、選手の記録をマネージャーがここまで把握する必要があるのか?)

 いや、必要があったのだろう。疲労骨折をする前、監督から練習量を減らす指示があった。だが初はそれを戦力外通告のように感じて、練習量を落とさなかった。あの監督の指示は的確だった。そして、その指示を出すように言ったのは、きっと向島だった。二年生である彼が言うと角が立つと思ったのだろう、監督を使って伝えたのだ。

 練習量を減らさずに骨折したことに、どれだけ向島が歯がゆい思いをしたのか、想像に難くない。初はきゅっと口を結んだ。

「初さんは、目がいいから、俺よりも情報量が多いはずです。それに三年生だから、いてほしいです。俺じゃ、ダメなこと多くて」

 できるだろうか、自分をマネジメントできなかったくせに、人を見る能力などあるような気がしなかった。

「会計は、是非やってもらいたくて、俺は、こんなだから、実は会費が集まってなくて・・・・・・」

 それは初耳だった。思わず目をむくと、向島は申し訳なさそうに身を縮ませた。何もかも向島の責任ではない。初の怪我も会費が集まらないのも。どれだけ向島が舐められているのか、とわずかに憤りを感じた。向島は、今まで自分の走りを託した相手に、どれだけないがしろにされてきたのか、想像すると初は自分の無責任な言葉にやり場のない後悔が襲ってきた。

 思えば、マネージャーは二年生以下しかいない。上級生のマネージャーは、向島に一通りの仕事を教えたらさっさと選手に戻った。結局その人たちは成績を残さなかったが。

 耐えがたい苦労もあったかもしれない。それが、初が入れば少しは改善されるのかもしれない。初の心がぐらりと動いた。

「そのかわり、外務はします。リーダーは譲り」

「いや、リーダーはお前がしろ。キャリアが長いんだ。その方が合理的だ」

「え?」

 初は気恥ずかしそうに頭をかいた。

「マネージャー転向、してみる」

 その瞬間、根暗が吹き飛んだような笑顔が、はじけた。


 会費をすべて回収した。初の最初の仕事であり、マネージャーの権威の復活のであった。もちろん、あくまでマネージャーなので、選手が優先される。しかし、選手である前に、人である。同じ人なら土俵が違うことはない。それが初の生み出した答えだった。

「せいぜい俺の残した綾西最速を超えてから文句を言え」

 体を酷使した結果、得たものもあった。それが綾西大史上最速の五千㍍の記録だった。今までの記録よりも十秒も更新してしまったので、早々に抜かれることはない、と思われる。

 初はそれを枕詞に、会費を回収したのだ。

 いつもの小さな部屋に、向島と初は陣取っていた。競技場の使用料からスポーツドリンクの粉代まで、ありとあらゆるものの金銭を管理するのが会計だ。その日動いた収支をノートに書き留め、領収書を几帳面に別のノートに貼っていく。

 向かい側に座る向島は、九月のど真ん中にある合宿先に電話をかけていた。最終調整をしているようで、彼のメモ帳にはびっしりと何事か書き綴られている。綺麗な字だった。大きさがそろっていて読みやすいのかもしれない。

 電話が終わったのか、向島はほっと息をついた。外務は会計と切っても切れない関係になる。合宿費やグラウンド使用料を払ったりしなければならないからだ。だが、向島一人でしているときは、些細な出費に目をつむることは多くあったらしい。アイス代を全員分だからと、会費から出したエピソードには、呆れた。監督からのおごり、と何度か全員でアイスを食べたが、それも会費だったらしい。

 部を回す金には三種類ある。部員から集める会費と、OB会からまとめてもらうOB費、そして学校から支給される部費だ。特に使い道に差はないが、アイス代や絆創膏などの所謂雑費や飲み会代については会費から捻出される。もっと汎用性の高い陸上用具(ユニホームや襷など)や、移動費、宿泊費などは部費から。また横断幕など学名を語る物に関しても同じだ。OB費は危急の場合のためにとっておく。何事もなければ飲み会費に消えていく使用だ。

「部費でどうにかなりそうか?」

 向島は笑顔で頷いた。いつも使ってくれるからと、宿泊施設の料金を安くしてもらったらしい。合宿と言っても、八月の本合宿のように県外へ出るわけではない。競技場を使って行う。だが、競技場には宿泊施設はないし、学校に泊まるには複雑な手続きが必要だった。一人で勝手にゼミ室などに泊まるのは勝手だが、さすがに大所帯が泊まるとなると話は別だった。

 そこでいつも近くの旅館の大部屋に泊まっていた。一人二千五百円とリーズナブルだが、さらに安くなって、二千円。部費は残り十五万なので、充分と言えた。もし足りなかったら、そのときこそOB費の出番だ。

「初さんがマネージャーになってから、お金の使い方が安定してきました」

「そうか?まぁ、俺が三年だから言いづらいんだろうな」

「そうじゃないと思いますけど・・・・・・」

 向島の口ぶりが、はきはきとしてきたのを初は感じていた。他の部員やマネージャーには相変わらずぼそぼそと喋るが、初に対しては明るい。目が見えなくなるほど伸びた前髪が邪魔だなといつも思う。どんな表情をしているのか、いまいちわからないのだ。

 わずかに下を向いた隙に、初は向島に手を伸ばした。前髪をかき上げると、小さな瞳が見開かれた。若干うつむいた状態から動こうとはしないが、耳まで真っ赤になっていた。初もつられて、頬がほてるのを感じた。手をゆっくりと離すと、向島は前髪を直すように手で押さえた。

「ごめん、つい、出来心で」

 昔、といっても、数年前の話だが。白い髪をした少年に、言われたことがあった。赤い目が嫌でそれを隠すように前髪を伸ばしていたと。向島の目が赤いとは思わなかったが、何か理由があるのかと、つい、手が伸びていたのだ。

「俺、赤面症で・・・・・・すみません、気持ち悪いですね。誰にでも、こうなっちゃうんです」

「いや、おれこそ。気持ち悪くはない、よ」

 ただ、少し面白くはなかった。誰にでもなるのか、と。赤くなった耳に少しだけときめいたのだ。長らくそんな気持ちとは離れていたので、心が浮ついたのだが、瞬殺だ。高校時代に付き合っていた彼女とは、大学進学を機に別れていた。お互いやりたいことに差が大きく、とても関係を維持できないと、初が判断したのだ。彼女はそれでも、とすがったが初には箱根駅伝の夢の方が大きかった。

「赤い顔、可愛かった」

「か、からかわないでくださいよ」

 少しだけもごもごとしゃべり始めた。おそらく、彼は自分のコンプレックスを刺激するような何かがあったりすると、途端に口ごもるようだ。可愛いというのは、方便ではない。渋谷の交差点などにいると一瞬で迷子になってしまいそうな顔つきをしているが、少しばかり幼い顔が赤くなることで少女のように可憐になるのだ。

「からかってないよ」

 ぐっと息を呑む声がした。

「もう一回、見ていい?」

 わずかにうつむいていた頭が持ち上がる。案外やすやすと見せてくれる、と喜んだのもつかの間。廊下から監督の声が聞こえてきた。すぐに、向島が立って行ってしまう。残念感が拭えない。

(何が残念だ、男だぞ)

 ただの可愛い後輩だ、と言い聞かせて、収支表の作成を続けた。


 合宿。

 夏の本合宿は、能力の底上げをはかるものであるが、九月の合宿は箱根駅伝に出る者を決めるために行う。十月の体育の日には出雲駅伝もあり、それにむけた調整でもあった。気合いが入っている者と、緊張している者と、はなから諦めている者の、三者に別れているようで、合宿の雰囲気は早々にただならぬものとなった。

 それは毎年のことなので、マネージャー陣営が何か特別なことをするわけではない。女子マネージャーでもいるところは、もしかしたら、応援グッズなどを作り始める頃かもしれないが、男だけのマネージャーに期待できるものではない。

 そのかわり、五人いるマネージャーは選手それぞれに監督の言葉を添えたここ最近のデータグラフなどを作成して渡した。昨年も初はそれをもらっていたので、おそらく向島が先導して作っていたのだろう。昨年のマネージャー数は三人だ。選手数はほとんど変わっていないので、一人あたり十人を見ていたことになる。

 六人ほどを見ていても大変なのに、さらに四人いたことになる。監督が向島を引退させなかったのは、この能力を見込んでいたからに違いない。もし同じ能力を初に見いだしていたら、初もマネージャーに引き留めただろう。

 箱根駅伝に先駆けて行われる出雲駅伝には、マネージャーリーダーだけが付き添うことになっている。選手も箱根を走るかもしれない少人数メンバーだけだ。幸いなことに、初は出雲駅伝には昨年でた。生まれ故郷と同じ県であるために、盛大にテレビに映ったらしく、その夜は電話が鳴り止まなかった。

 その日を思い出して、小さく笑った。ほんの少し口角を上げたに過ぎないのだが、向島は視認したらしく、小首を傾げた。競技場のいつもの部屋だった。合宿に入ると、前日までの忙しさなど夢のように、暇になった。この期間だけは、会計も外務もほとんど動きがない。それもこれも前日までに用意してしまうからだ。必要になれば、その都度動くものではあるが、現在、必要にかられていることはない。

「いや、去年のこと思い出して」

「初さん、すごく頑張ってましたね」

 仕事がないと言っても、外務や会計職に動きがないだけで、他にもやることはある。いつも以上に動くことがないというだけだ。今は昼休憩で、貸し切り状態の競技場の至る所で、談話がなされている。

 まずは選ばれないと意味がない、初は去年の今頃、特に気合いが入っていた。それを向島は覚えているのか、あれやこれやと話し始める。人から指摘されると恥ずかしいものだった。逆に向島の様子がどうだったか、初はわからない。

 マネージャー業務は決して暇ではない。なのに、向島が何をしていたのかこれまで知らないでいたのだ。

(知らないって罪だよなぁ・・・・・・)

 労いの一言でもかけてやればよかった、と今さらながらに思うのだった。それは選手の宮島初からでなければならない。マネージャーの初ではダメだった。

「あの、気づいてないかもしれないかもですけど、初さんのデータグラフ作ったの、俺なんですよ」

「ん?それはさすがに知ってるよ」

 その瞬間、何がスイッチだったのか知らないが、火山が噴火を起こすように首元から徐々に赤くなっていった。

「し、知って、て、くれた、んですね・・・・・・」

 ごにょごにょと言葉が途切れるが、なんとか聞き取れた。大きさの整った綺麗な字だったので、この前わかったばかりだ。その当時は誰が作ったのかわからないながらも、感謝はしていた。正確なデータグラフは、客観的な事実だったからだ。

 初は、向島が顔をうつむける前に、彼の前髪をかきあげた。真っ赤になった顔が、驚きで固まる。

「お前、可愛いよ。見た目もだけど、一生懸命なところ、いいところだと思う。赤面症、気になるならしょうがないけど、たまには向島の目が見たいな。・・・・・・拓人」

 名前で呼ぶとさらに赤が増したような気がした。顔を近づけると、ゆっくりと目をつむった。夏の魔物が見せたのだろうか、きゅっとまぶたを閉じた姿に、愛しさが増す。白い肌に赤い唇がよく映える。色つきのリップクリームでも塗っているのか、と疑いたくなる。

 うっすらと向島が目を開けた。キス待ち顔を堪能していた初は失笑してしまった。こんなに夢中になって眺めるとは思わなかったのだ。さっさと口づけるつもりでいたのだが、向島はそれがからかいだと思ったらしく、むっと眉がしらを寄せて、いっそう真っ赤になった。

「いいの?キスするよ?」

「・・・・・・じらさないでくださいよ」

 声に涙がにじんだのを確認して、初はゆっくりと口づけた。触れるだけのキスだった。離れても、しばらく至近距離で見つめ合い、遠くで監督が名前を呼ぶまで、時間が止まったかのように動かなかった。


 合宿が終わる日。

 マネージャーの手から渡されたのは、深い緑色の襷であった。毎年、綾西大学は襷を変えている。脈々と受け継がれるそれは終わると、部室の一角に飾られることになる。色だけはどの代も変わらないが、さすがに何代も前のものになると、色あせる。だがきっと、想いだけは色あせないのだろう。きっとこの先、代が変わっても、託したい想いは色あせない。

 向島はその冬にかける思いを託した。誰も知らない。マネージャーの想いなど、知らない。けれども、真っ赤になった耳を見て、初だけは知っている。その、走りを託した気持ちを。

 始まろうとする冬をすでに待っているのか、秋風は冷たかった。


おわり

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RUN!! いちみ @touhu-003

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