第2話

 温かいチョコレートは、岡田の素足を優しく包み込む。


「それじゃあ先輩、行ってきます。死んだ私の体に悪戯をしないでくださいよ」


「しないよ。たぶんだけど」


「まあ、死んでしまったら私もわからないので、尊厳を傷つけない程度の悪戯なら、ひょっとしたら許すかもしれません」


 許すのかよ。


「それではさようなら」


 岡田は、湖の奥へ奥へと歩みを進める。チョコレートはどんどん深くなっていく。最初はくるぶしの高さだったのが、ふくらはぎ、太ももへと上がっていく。否、岡田が少しずつ深みに向かっているのだ。彼女の白くて細い脚が少しずつ呑みこまれる。やがて、スカートの端が液面に触れるようになった。岡田はなおも進む。強い意志を感じさせる、しっかりとした足踏みで、前へ。スカートの後ろの方が液面に浮かび、靡く深さになる。後ろの方が、液面に浮かぶ。そして、へその辺りまでチョコレートに浸かる深さになった。彼女は振り返らない。彼女はこれから死ぬのだ。この世界で死んで、現実世界で生きるのだ。へそから腹、腹から胸へとチョコレートは岡田を包み込んでいく。岡田はチョコレートに包まれていく。スカートはもう液中に引きずり込まれてしまった。岡田は立ち止まる。時間が止まった気がした。


 人が自ら溺死するには、途轍もない意志の強さが必要である。ここに来て俺は思った。果たして、現実世界での生を餌にしたこの世界での死は、死の恐怖を克服した証明になるのだろうか。俺が考えても仕方がないことなのだろう。これは、岡田と神様との間での約束なのだから。


 岡田は一瞬飛び上がる。そして、その勢いを殺さないままに、小さな頭はチョコレートの湖に沈んでいく。あっという間に、彼女の姿は見えなくなってしまった。覚悟は決めたのだろうが、本当の闘いはこれからだ。彼女は本能的な生への固執に、意志の力で打ち勝つ必要がある。がんばれ岡田。お前にならできる。


 2分くらい経っただろうか。それよりも長かったかもしれないし、短かったかもしれない。こちらの世界に来てから、どうも時間の感覚がよくわからなくなっている。それまで静かだった液面が暴れだし、そこから岡田は頭を上げてしまった。やはり、そう簡単にはいかないのだろう。彼女は一歩、また一歩とこちらに向かって引き返した。


「ごめんなさい」


 岡田はそう言った。全身からチョコレートを滴らせて。そして甘い匂いを漂わせて。


「謝るなって。むしろ凄いと思うぞ、俺は。自分の意志であそこまで頑張ったんだから。お前は凄い。俺が認める。もう死の恐怖は克服した」


「でも、現実世界には戻れていないです」


「そうなんだよなあ。いったいこれ以上何をしたら神様に認めてもらえるんだ?」


「私を殺してください」


 俺の性分だと、この言葉を聞いたら本来歓喜すべきところであるが、なぜかその感情が湧いてこなかった。もしかしたら俺は、死を受け入れた人を殺すことには何の興味も抱かない人間なのかもしれない。だとすると、俺の感覚が反応しなかった以上、岡田は死の恐怖を克服したと言ってもいいのかもしれない。だから、俺が少し自殺を手伝った程度で、彼女の行動の意味は微塵も変わりはしないと言えよう。


「それでいいのか?」


「大丈夫です」


 彼女の目は闘志に燃えているようだった。今度こそは何が何でも成し遂げるという、先程よりもさらに増した覚悟が見える。


「わかった」


「私を湖に沈めてください。そして、浮かび上がろうとしたら全力でそれを止めてください。その時は、私の心が折れたのではなく、体が勝手に生を望んでいるだけだと思ってください。私を確実に殺してください」


「そうか。じゃあ手伝おう。これは、俺が殺すのではなく、岡田が死ぬんだ。そういうことでいいよな?」


「もちろんです。今度こそよろしくお願いします」


 岡田は再びチョコレートの湖に足を向ける。今度は俺もそのあとに続く。俺は殺すのではない。死ぬための妨げになるものを排除するだけだ。岡田を強引に沈めてはならない。あくまで手を添えるだけ。生理的な動きを封じるだけ。


 先ほどと同じ深さのところまでやってきた。ズボンが脚に張り付いて気持ち悪い。


「じゃあ、先輩お願いします」


「オーケー」


 岡田はチョコレートの中に潜った。空気の泡が、ゆっくりと上がってくる。俺は、彼女の頭の上にそっと手を乗せた。上がってきそうになるのを待つ。10秒……20秒……。これくらいなら、岡田も余裕で息を止めていられるようだ。30秒……40秒……。音は全くしない。空は青く、太陽は白い。50秒……60秒……。そろそろ苦しくなってくる頃だろうか。70秒……80秒……。頑張れ。90秒……100秒……。頑張れ岡田。頑張って死ね。110秒……120秒……。チョコレートの液面に波が立つ。下で岡田が息苦しさと格闘しているのが伝わってきた。でも、彼女の意思は生存本能に打ち勝っている。ここが踏ん張りどころだ。あと少し。


 1000秒数え切った。ここまできたらさすがに大丈夫だろう。岡田は最後まで頭を上げることがなかった。俺の助けなしで、自分の力だけで逝くことができたのだ。


「おめでとう岡田。ゆっくりとお休み」


 俺は、チョコレートの湖を出ようとして、ふと思った。なぜ俺は現実世界に帰ることができていないのだろう。岡田を助けることが、俺の帰還の条件だと思っていた。しかし、俺がそう思っていたというだけで何の根拠もない。


 悩んだ末、俺は沈んだ岡田の体をほとりまで引き上げることにした。神様と言葉を交わしたと言っていたから、彼女がカギを握っていることに違いはない。


 だらりと力が抜けた体をチョコレートの中から引き上げる。想像していた以上に力が必要だった。やっとの思いで彼女を背負い、ほとりに向かう。当然、俺の体に後ろから抱き着いてなどしてくれないので、運ぶのがとても大変だ。


 チョコレートの湖の、チョコレートで出来た地面に岡田を寝かせた。彼女は眠っているような優しい顔をしている。まとわりついたチョコレートを、できるだけ手で拭う。水でもあれば、綺麗にしてあげられたのにと、少し残念な気持ちになる。


 ……そういえば岡田、少しなら悪戯をしていいって言っていたよな。


 世界の中に、岡田の体と2人きり。何をしても俺のことを咎める人はいない。なるほど、出会ったときに彼女が怯えていたのもわかる。


 これくらいなら尊厳を傷つけないで悪戯ができるだろう。


 俺は、岡田の唇に、自分の唇をそっと重ねた。理由は自分でもわからないけど、なんだか無性にそうしてみたくなったのだ。しびれるほどに柔らかくて甘い。頭がぼーっとしてくる。


 気が付いたら、俺は見慣れた部屋の、見慣れた布団の中に居た。現実世界に戻ってきたのだろう。時計を見る。月曜日の午前6時過ぎ。学校か……。


 チョコレートの世界での出来事は夢だったのだろうか? しかし、夢にしてはリアルだった。そんなことを考えながら、制服に着替え、母の作った朝食を食べる。テレビを見るのは、1日の内で朝ご飯を食べるときだけだ。いつものように聞き流していると、気になるニュースが入ってきた。


 『高校生の娘を殺害した容疑で、40歳の男が逮捕されました』


 岡田のことだ。でも、どうして? 彼女は死の恐怖を克服したのだから、現実世界では生きているはずなのだ。というか、このニュースが流れているということは、チョコレートの世界は夢ではなかったということなのか? どうにも理解が追い付かない。


 結局、今日1日は何一つ集中してできたことがなかった。岡田の件が意味不明過ぎて、そればかりが頭の中をぐるぐると巡るのである。そんな状態では「山月記」も、三角関数も、三単現も頭には入るわけがない。


 家に帰っても何かをする気にはなれなかったので、まだ日が沈み切らないうちに床に入ってしまった。


 「先輩、不貞寝ですか?」


 その声に、これが現実世界でないことを、俺はすぐに悟った。俺は今夢を見ている。布団に入った記憶もある。たぶん、明晰夢とか言うものだろう。


「ごめんなさい。私、先輩にいくつか嘘をついていました」


「だろうな」


「実は私、殺された瞬間にあの世界に飛ばされたんです。あの世界がチョコレートで出来ていたのは、私がチョコレート好きだからなんだと思います。神様の計らいで、死ぬ時くらいは大好きなものに囲まれていたいという私の願いをかなえてくれました」


「死の恐怖云々は何だったんだ?」


「あれは、私がちゃんと成仏するための嘘です。本当は、現実世界に戻ってこられないことはわかっていました」


「じゃあ、なんで俺があの世界に飛ばされた理由は何だったんだろうな」


「それは私にもわかりません。神様には考えがあってそうしたのかもしれませんね」


 この夢はここで途切れた。目が覚めたわけではなく、この時点から目が覚めるまでの一切の記憶が残っていない。


 結局俺があの世界に飛ばされた理由はわからないずくだ。


 死ぬときに、岡田が俺と一緒に居たかったとかいうロマンチックな理由でないことは確かだ。憶測にすぎないが、恐らく俺が、彼女の死を止めない数少ない人間の内の一人だったからだろう。


 そういうことにしておく。

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チョコの湖 ばーとる @Vertle555a

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