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理屈と感情についての愚考2

「ばーとるさんはどんな音楽を聴くのですか?」と聞かれることがあるが、僕はその質問の回答を毎回考えあぐねている。そもそも音楽は僕の趣味ではない。だから、いつも正直にそのように返す。それでも食い下がらない人は「でも、まったく聞かないということはないでしょう?」と言う。僕はいよいよ窮する。確かに、聞かないことはないのだ。ただ、聞いている音楽が軍歌やら童謡やらなのだ。そう答えると、今度は質問した人が困る。それもそのはずだ。彼らは、僕との共通の話題を探そうとしてくれている。だから、彼らが知らない音楽を僕が出した時点で、会話が途切れてしまうのだ。そしてそのうちの何人かは僕のことを、思いやりのない奴だとか、せっかく声をかけてやったのにだとか考えていることだろう。でも、僕も知らない音楽のことは語ることができないので、仕方がないで通す他ないのだ。こうして感情面の問題を、理屈で正当化するのがいつもの流れである。

 一般人に言って伝わるような音楽を、普段は聴かない僕だが、無理やり聴かされる分には抵抗しない。ちなみにこれは「この曲いいから聴きなよ」という社会的な圧力に抵抗しないことを意味しているのではなく、教育現場などの物理的に回避が不能な場面では耳に入れるしかないという話である。そのようにして聴かされた音楽の一つに、Micheal Jacksonの"Heal the World"という歌がある。聴かされただけでなく、歌詞も覚えさせられた。当時小学生だった僕は、なぜこんなものを歌わされなければならないのかという不満を抱いていただけであるが、最近になってこの歌の中に気になる表現を見つけた。


"Together we cry happy tears
See the nations turn their swords into plowshares"

-Micheal Jackson作詞・作曲 "Heal the World" より


 この歌は人種差別や貧困をテーマにしている。引用部分の歌詞の意味は、意訳で「国々が剣を捨て、プラウ(=鍬のようなものだと思えばいい)を持つことに、みんなで嬉しさに涙する」になる。ここでいうプラウは、平和の象徴であろう。

 平和をもたらすには武器を捨てる必要があるとはよく言う。なぜなら、AK-47で畑を耕すことはできないからだ。これは当たり前のことである。

 ここまでは、剣とプラウがそれぞれ戦争と平和のメタファーになっていた。では、このメタファーを理屈と感情に置き換えることはできないだろうか。人間関係に平和をもたらすには、「理屈」を捨て、「感情」を持つ必要がある。ツッコミどころはあるかもしれないが、間違いであるとも言えない。

 真実は人を傷つけるというが、真実の本体は理屈である。人を傷つける以上、真実も、その本体である理屈も、武器であると言えよう。

 なるほど、理屈で相手の口を閉じさせるのは、武器を持って相手の畑を荒らすのと同じことなのか。いくら理屈で勝ったとしても、それは武器で相手をねじ伏せただけであり、平和的な解決とは言えない。

 今までも、そしてこれからも、僕は暴力に反対である。その気持ちは、言論空間における暴力に対しても変わらない。しかし、僕は理屈を言葉の暴力だとみなしていなかった。さらに、理屈は「正しい」ことしか導き出さないので、相手が傷ついたとしても、それは相手の問題であると逃げる始末である。

 気づいてしまえばなんと情けないことか。これでは友達ができないのも仕方がない。理屈を使うことを理屈で正当化している。つまり、暴力を使うことを暴力で正当化しているということ。なんの証明にも成功していない。

 僕の理屈主義はもともと、自衛の手段として組み上げたものであるが、果たして僕が理屈を使った場面の全てが自衛のための物だったか。それをよく考えないといけない。

 この話に落ちはないので、ここで終わりにする。

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