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理屈と感情についての愚考1

 僕のような理屈人間なら多少は共感していただけるだろうが、僕は常に誰かに言い訳をして生きている。ここでいう誰かと言うのは「みんな」のことであり、つまり社会そのもののことだ。何か行動をするとき、この行いは正当化することができるのかということをよく自問している。この際の正当化の裏付けとして、僕は理屈に頼ることが多い。これを中学生の頃から続けてきているものだから、僕の頭は理屈で考えることに最適化されてしまっていると言えよう。

「思考回路」とは「路」の字の如く、道ことであると言える。人間が計算をするとき、脳の中に細い道ができる。その細い道も、何度か通れば草がなくなり、何十回か通れば幅が大きくなり、何百回か通れば走り抜けることができるようになる。多くの人が1+1=2という計算を瞬時にこなすのは、1+1=2の思考回路が脳の中で幹線道路になっているからだ。

 この考えをもとにすると、僕の頭の中には理屈を使った思考回路が大量に張り巡らされている。どれも立派な幹線道路や高速道路だ。メタ認知やロジカルシンキングは、意識せずとも僕の頭は自動でやってくれる。むしろ、やらないと居心地が悪い。

 逆にいうと、感情の扱いがかなりぞんざいになっている。僕の小説の感情描写が雑なのは、この辺りが原因だと思う。僕の中の感情をベースにした思考回路は、未舗装で細いところが多い。中学生という多感な時期に理屈に頼りすぎたため、この辺りがあまり発達しなかったのだ。

 今の僕は、感情ベースの思考回路を発達させようと画策しているところである。そうしなければ面白い作品は書けないし、人付き合いの問題も解決ができないからだ。

 次の作品は感情を重視して書きたいが、おそらく生まれてくるのはゴミだ。「みんな」の前に胸を張って出せる作品を作ることができるのが一番だが、これは仕方のないことである。

 描いた作品をゴミだというのは読者に対して失礼だという反論があるかもしれないが、理屈の上では次の作品がゴミになる可能性が高いのだ。

 と、ここまで書いて、上の段落がまさに理屈を用いた言い訳の好例になってしまったことに気づく。

 しばらくは理屈人間を止めることができそうにない。

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