チョコの湖

ばーとる

第1話

 俺はかねてより人を殺してみたいと思っている。しかし、現代日本には刑法という法律があり、殺人を良しとしてはいない。だから、俺がナイフを持つのはいつも妄想の中だ。


 このような猟奇的な思想が神の逆鱗にでも触れたのだろうか。俺は今、空と太陽以外の全てがチョコレートで出来た世界に居る。


 チョコレートで出来た地面。風に靡くことのないチョコレートの草花。そんな草原に立つ、いくつかのチョコレートの木々。どれをとっても精工な出来で、色だけがチョコレートのそれになっている。生命の息吹が感じられない中、涼やかな甘い風が肌を撫でる。それだけが、この世界に時間という概念があることを証明していた。チョコレートは嫌いではないが、長い間ここにいると気が狂ってしまいそうだ。


 だから俺は、さっそくこの世界からの脱出を試みることにした。とはいっても、今のところ手掛かりになりそうなものは何もない。とりあえず歩いてみるか。


 俺は、どこまでも続くチョコレート色の大地を、何時間も何時間も歩いた。不思議と疲れは感じないし、喉だって乾いていない。やはりこの世界が神の手によって作られたからだろうか。体力が底をつくことは当分なさそうだ。空気の流れに乗って鼻腔をくすぐる糖分多めな匂いも、最初こそは不快で仕方なかったが、もう慣れてしまった。


 暇になると、俺は決まって人の殺し方を考えた。いくら刑法があろうと精神の自由だけは保証されているので、妄想の中ではやりたい放題する。だから、今回もそのようにした。最近は絞首がマイブームだ。血液の流れを妨害することで、頭に流れる酸素を減らし、脳細胞にダメージを入れるという方法。自分の首を触って太い血管を探してみるが、意外とこれが見つからない。このような情報は偉大なるインターネッツにも殆ど掲載されていないので、考察のし甲斐がある。まあ、俺が医学部に進学することができれば、このあたりの問題は一挙に解決できるわけであるが。


 遠くに女の子を見つけた。ようやく自分以外の人間と会うことができる。そう思うと、もう走らずにはいられない。自然と足取りが軽くなる。


「おーい!」


 手を振りながら、女の子に聞こえる声で叫ぶ。


 これだけ孤独な世界なのだ。女の子も寂しい思いをしているに違いない。そう思っていたが、あろうことか彼女は俺に背を向けて走り始めた。まるで捕食者から逃げるような必死さで。


「待ってくれよ!」


 せっかく、せっかく人に会うことができると思ったのに。ここで逃げられてしまってはたまらない。チョコレートの大地を蹴る。砂糖がまとわりついてくるような風をかき分ける。俺は全力で追いかけた。女の子は全力で逃げた。


 時間はかかったが少しずつ距離は狭まってきた。あれ? その制服、うちの高校の女子のものではないか。


「いだっ!」


 疲れからか、女の子は何もないところで盛大にこけてしまった。


「だ、大丈夫か?」


 手を差し伸べると、女の子の目が潤んでいるに気がついた。紳士たるものは、女の子を泣かせてはならないと決まっている。反省反省。俺はポケットに入っていたティッシュを差し出す。どうも、この世界に来る前から身に着けている物はチョコレートにはなっていないらしい。


「ありがとうございます」


「悪いな。泣かせるつもりはなかったんだ」


「だ、大丈夫です。こけたのがちょっと痛かっただけで」


 それはそうとして、どうして逃げていたのだろうか、この子は。


「あの、私、おか田夏央だかおって言います」


「岡田か。よろしくな。俺は燻吉吉輝だ。北高の2年C組。俺のことは先輩とでも呼んでくれ」


「わかりました。こちらこそ、よろしくお願いします」


 さて、自己紹介も済んだことだし、これからのことを考えないといけない。どうしたら元の世界に戻れるのだろう。


「岡田、お前この世界について知っていることは何かあるか? 俺は気が付いたらここに居て、この世界がチョコレートで出来ていること以外、何もわからないんだ」


「だったら、私の方が知っていることが多いですね。神様と話しましたし」


「神?」


 やはりこの世界は神がつくったものなのか。だとしたら、俺がここに飛ばされてきたのも何らかの意図があると考えていいだろう。


 岡田は続ける。


「私がこの世界に来たとき、神様に会ったんです。その時、『あなたは死ぬことを恐れている。死の恐怖を克服したら元の世界に返してやろう』と言われました。だから、何らかの方法で、死の恐怖を克服したらいいんだと思います」


 俺はそれを聞いて、瞬時に一つの答えをはじき出した。


「つまり、この世界で死ねばいいんだな?」


「へ?」


「自分で自分を殺す。つまり、自殺をするんだ。自らの意志で死ぬということが、死の恐怖を克服したという紛れもない証拠になるだろ」


「考えてみると、確かにそうですね」


 そんなことは思いつかなかったと、岡田は首の後ろをかく。そのしぐさが、彼女が死に恐怖していることの表れだと思う。


 問題は俺の方か。ここに来た理由もわからなければ、脱出の条件も不明。今のところは手掛かりがゼロである


「とりあえず岡田の手伝いをするよ。俺もこの世界からの帰還方法を調べないといけないし、1人よりは2人の方がいいだろ」


「ありがとうございます」


 と言いつつ、岡田はあまり嬉しそうではない。「死になさい」と言ったようなものだから、無理もないけれど。それに、俺自身に何か彼女が苦手に思う要素があるのかもしれない。最初は俺から逃げていたわけだし。


 俺たちは、岡田が死ぬ方法を探しながら歩みを進める。


 周りを見ても高い山や崖はないので、飛び降り自殺をすることはできない。植物を使って首を吊ろうにも、それがチョコレートで出来ているのでこれもまた選択肢から除外される。


 ようやくたどり着いたのが、チョコの湖だった。ここでなら溺れて死ぬことができる。


「先輩」


「なんだ?」


「私、ちゃんと死ぬことができるんでしょうか?」


「神様が作った世界だから、ひょっとしたら無理かもしれないな。ここに来るまで空腹も披露も感じていないし」


「そうじゃなくて、苦しさに耐える自信がないんです。死ぬこと自体も怖いですけど………………いや、死ぬのは怖くないです。怖がっていたら帰れないし。この世界で死んでも、現実世界では死なないから、本当に死ぬわけじゃない。大丈夫大丈夫。その、なんていうか、息が続かなくなった後に、そのまま潜っているだけの力が私にはない気がするんです」


 岡田の声は震えている。やはり怖いものは怖いのだ。


 そして俺は考える。果たして彼女が死ぬことが、本当に死の恐怖を克服したことになるのかを。仮に彼女がこの世界で死んで、神様がそれを死の恐怖を克服したと認めなかった場合。彼女はどうなってしまうのだろう。もし、この世界での死が現実世界での死も意味しているのだとしたら、俺はこのまま彼女に自殺をさせるべきなのだろうか。


「岡田。神と言葉を交わしたのがお前だけである以上、俺には自殺することの是非を最終的に判断することはできない。ここまで来て酷いことを言うようだが、最終的には岡田の自己責任になる。どうする? 自殺をするか、それともしないか。しないのであれば、この世界にずっといるという道も考えられるな」


 岡田が答えを出すのに時間がかかるだろうと思ったが、彼女は即答する。


「私、死にます!」


「じゃあ決まりだな」


 岡田は、ローファーとソックスを脱いで、両足をチョコの湖に向けた。

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