三角形の頂点から垂線を落とす
七種夏生
三角関係の頂点から垂線を落とす
恋とか愛とか、そんなことはよくわからない。
と、彼女が言った。
高校の合格発表の日。
住宅街の中の公園、それぞれブランコに腰掛けて。
男女共学の公立校に合格した彼女が、軽くブランコを揺らして前に出る。負けじと地面を蹴った俺が春から通うのは、私立の男子校。
合格者の番号が張り出されている掲示板の前で友達とはしゃいでいた彼女だが俺と目が合った途端、表情を消した。有名私立高校に受かっていた俺がまさか、普通の公立校に落ちると思っていなかったのだろう。
ごめん、先に帰ると友達に言った彼女が俺の元へ駆け寄って、自分の人差し指を俺の指に絡めた。
帰ろう、一緒に。と。
家に帰る前にどちらともなくふらっと公園に入った。親が言うには、言葉もまだ喋れない幼い頃にこの公園で俺たちは出会ったという。
その時のことは覚えていないが、毎日のように遊んだことは覚えている。
うまく乗れないと泣いた彼女に漕ぎ方を教えた、ブランコは色を変えて未だそこに存在している。
「高校生になったからって、なにも変わらないと思うなぁ。中学でも、男子は家族みたいなものだったし」
「小さい学校だったからな。でも、その中でも付き合ってるやつはいただろ」
「あれ? 知ってたんだ?」
「気づくだろ、普通に。あいつらも高校別々だな」
「電車も反対方向だしね。バラバラになっても、仲良くやれるといいね」
「…………」
無理だろ、別れるよ。
なんて言葉は口にしなかった。だってそれはつまり、別々の高校になったらもうダメだってことは、俺と彼女が恋仲になる可能性も否定するわけで。
「でも、高校に入ったら……出会いとかあるだろ」
だけどやはり不安で、口走ってしまった俺の言葉に、彼女は「うーん」と首を傾げる。
「恋とか愛とか、まだよくわからないからなぁ。高校入ってもきっと私は変わらない。彼氏もできないし恋なんてしないと思うよ」
「…………そう」
あの時なぜ、『じゃあ俺と付き合う?』って聞かなかったのか。
なぜ安心してしまったのか。
彼女の気持ちが俺に向いていないことはわかっていた。それなら一番近い存在のままで、幼なじみという関係を壊したくないなんて。
どうして俺はあの時、彼女を捕まえておかなかったのだろう。
*
高校に入学して二週間過ぎた、ゴールデンウィーク前のある日。道場の床が老朽化で壊れていたとかで部活が休みになり、部長の先輩と猫カフェに行くことになった。
俺の二個上、高校三年生。明るくて優しくて、誰とでも気兼ねなく話すことができる人気者。弓道部だけでなく他の生徒からも慕われている。内面だけでなく顔もいい。万人がかっこいいと言うであろう整った顔立ちに百八十センチ以上ある高身長。
少女漫画によくいる爽やか系イケメンのような人で、男子校でなければさぞモテていただろう。
部活中の何気ない会話で互いに猫が好きということがわかり、今度一緒に猫カフェに行こうという話になった。
そして今日、ちょうど部活休みだから行かないかと。
「男と行っても楽しくないでしょう」
という俺の言葉に、先輩はおかしそうにケラケラと笑った。
「猫カフェに一緒に行くような女の知り合いいないから」
「他校の生徒からよく声かけられてるじゃないですか。街中でもたまに、連絡先聞かれるんでしょ?」
「なに、おまえ、そういう女について行くタイプ?」
「行きませんね、絶対無理です」
「だろ?」
こういう潔癖なところが、先輩の彼女ができない所以だろう。
中学の時はそれなりに誰かと付き合ったりもしたが、高校に入ってからは浮いた話一つないという。
誰かの彼女が先輩に惚れて、そのせいで別れたなどの話は偶にあるらしいが、それは先輩のせいではないので誰も責めない。
「駅前に一軒あるみたいなんだけど、そこ行く?」
「マジで行くんですか?」
「え? 行かないの? 俺、本気だったんだけど」
「男二人で?」
「だから俺、そういう……あ、おまえ彼女いるんだっけ?」
「……はい」
咄嗟に、嘘をついてしまった。
付き合ってはいない。
恋愛というものがわからない、と面と向かって言われるような関係、ただの幼なじみ。
俺の一方的な片想いなのに。
「でも、彼女とは猫カフェに行くような関係じゃないので」
「え、なにその関係」
「だからいいですよ、行きましょうか」
鞄を抱える俺の横顔を見つめ、先輩が言葉を飲み込んだ。なにかを勘違いして気を遣ってくれているのだろうと思ったが、訂正はしなかった。
好きな子がいるのか。
そう聞かれたら嘘なんてつかなくてすんだ、はいっと大声で返せたのに。
*
駅と聞けば、彼女のことを思い出す。
彼女の通う高校は電車で二駅行ったところにある。徒歩通学の俺が駅に近寄る必要はないのだが、気がつくと夕方、駅前の噴水岩に腰掛けて駅ビルを眺めている時がある。
一度だけ、駅ビルを出てきた彼女と目が合って、「なにしてるの?」と笑われて一緒に帰った。
水色カッターシャツにチェック柄グレーのスカートという格好の彼女と、白シャツに濃い緑ズボンの俺の制服。
違う学校ということは明らかだが、周りからはどう見えただろうか。
そんなことを考えて、ちらっと駅に目を向けた時、見覚えのある制服が目に入った。
「あれ? なにしてるの?」
俺の姿を認めた彼女が、小走りで駆け寄ってくる。
「ここで会うの二回目だね、買い物?」
「いや、猫カフェに行こうって、今から……」
「猫カフェ? すぐそこにある? いいなぁ、私も行きたい……」
朗らかな笑みを浮かべていた彼女が、俺の隣にいる存在に気がついた。
表情を消し、申し訳なさそうに小さくうつむく。
はっとして横を向くと、先輩も俺に視線を向けて「知り合い?」と尋ねてきた。
「もしかして、さっき言ってた彼女?」
「いえ……幼なじみです」
嘘がつけなかった、目の前に本人がいたから。
その彼女が、うつむいたまま両の手のひらを俺たちに向けた。
「あ、はい。幼なじみです。猫カフェ行くんですよね? 邪魔してごめんなさ……」
「一緒に行く?」
先輩の言葉に、彼女がぱっと顔を上げた。
「え? 私もですか?」
「行きたいって聞こえたんだけど……あ、ごめん、嫌なら……」
「いえ、行きたい……行きたいです、一緒に!」
大声で必死に返事する彼女だが、先輩と目が合うとやはり恥ずかしそうに顔を背けた。
頬どころか、耳まで真っ赤にして。
まるで先輩の顔を直視できないように。
待って。
待て待てまて、ちょっと待て。
胸に妙な感情が渦巻いた。
視線を上げると、俺の隣に立つ先輩が困ったような笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
すぐにわかった。
嫌悪の困惑ではない、むしろ逆の……
恋とか愛とか、そんなものをとうの昔から知っている俺だからわかる。
先輩の表情の意味。
「すみません……俺、今日、用事あったんで」
また嘘をついた、この場を切り抜けようと。
帰ろう、彼女を連れてこの場を離れようと。
「え、そうなの? あー、じゃあ、二人で行く?」
先輩の言葉の意味が、一瞬、理解出来なかった。
彼女も同じだったようで、しばらく惚けたあと、耳を赤らめてぱっと下を向く。
「二人って……私とですか?」
「あ、嫌だよな。初対面の男と二人でとか」
「え? いや……嫌じゃないです、行きたいです!」
今度は顔を上げて、大声で彼女が言った。
自分の声量に驚いた彼女が「ごめんなさい」とうつむいて、それを見た先輩が面白そうにくすくすと笑う。
呆然とその様子を見ていた俺だが、用事があると言ってしまったことを思い出して片手を上げた。
「あ、じゃあ……俺はこれで……」
「え? 本当に行かないの?」
「用事があるって、言った……」
「あ、ごめん。お前が行きたいって言ったのに。今度また」
「嘘ですから……」
「うそ?」
「俺は行かなくていいんで……楽しんで来てください」
それ以上取り繕うことが出来なくて、逃げるようにその場を離れた。
振り向かなかったせいで、二人の表情は見えなかった。
運命とか、一目惚れとか。
そういうものが本当に存在するのか、俺は知らない。
気がついた時には好きになっていたから。
愛することが当たり前になっていたから。
一番近くにいるのは俺と思っていたから。
偶然が重なったんだと思う。
先輩の人懐っこさとか気兼ねなく誰とでも話ができるところとか、あと背が高くて顔がかっこいいとか。
彼女の断れない性格とか、動揺すると耳が真っ赤になってその仕草がとても可愛いとか。
たくさんのことが重なって、運命とか一目惚れとか、そういうものに繋がったのだろう。
恋とか愛とか、そんなことはよくわからない。
彼女が言った。
その言葉に甘えて、俺は逃げ出した。
彼女は大丈夫だと。
徐々に伝えていこうと、その言葉の意味を。
そしていつか、恋とか愛とか、そんなものを知りたいと彼女が思った時に俺が手を差し伸べればいいと。
恋なんて、愛なんて、一瞬で成るものなんて思ってもみなかった。
時間をかけてゆっくり、ゆっくり自覚していくものだと。
俺がそうだったから。
そういう恋とか愛しか、俺は知らなかったから。
あんな表情をする彼女を、俺は知らなかった。
*
それから二週間、彼女と会うことはなかった。
メッセージにも全て素っ気なく返し、ゴールデンウイークが明けるころには連絡が来なくなった。
また一つ、嘘をついた。
体調が悪いと言って部活をサボろうとする俺を本気で心配する先輩が、困ったように顔を背ける。
「あのさ、相談したいことあるから……ゆっくり休んで、明日は部活来いよ?」
その表情の意味を、俺はわかっていた。
当たり前じゃないか。
あんたがそれを知る前から、彼女が恋とか愛とかいうものを知る前から俺はずっと、その感情を抱えて生きてきた。
どう返事したかは覚えていない。
気がつくと俺は、駅前の噴水岩に腰掛けていた。
ぼーっと駅ビルを眺めているとやはり、見慣れた制服が姿を表した。
彼女はちらっと俺の隣を一瞥し、そこに誰もいないことを確認して、普段通りの態度で俺に近寄る。
「なにしてるの?」
「……部活、サボった」
「サボったの? そういうの厳しそうだけど、なにも言われなかった?」
「……帰ろう、一緒に」
歩き出す俺について、彼女が足を速める。
なんで知ってるんだよ、俺の部がそういうの厳しいって。
そんな言葉は言えなかった、責めれなかった。
*
相談したいことがあったの。
と、彼女が言った。
住宅街の中の公園、それぞれブランコに腰掛けて。
男女共学の公立校の制服を来た彼女が、ブランコの鎖を握りしめる。
軽く地面を蹴った俺の格好は、私立男子校の制服。
漕ぎ方がわからない、押してよーと言って泣いた幼い彼女はもう、そこにはいない。
「高校生になったからって、なにも変わらないと思ってた……中学の時は、男子は家族みたいなもので……」
「変わらないものなんてないだろ。小さな子どもがいつの間にか、一人でブランコに乗れるようになるように……別々の高校は、うまくいかないと思う」
眉間にシワを寄せた彼女が、唇をきつく結んでうつむいた。
なにを考えているかなんてもう、俺にはわからない。怒っているのか、困惑しているのか。自分たちは例外だ、私と先輩はうまくいく。なんて思っているのかもしれない。
無理だよ別れるよ、とは言えなかった。
目の前にいるからわかる。目の前で見たからわかる。
俺の言葉はきっともう、彼女には届かない。
「連絡先は? あの時聞いたの?」
「え? あ、うん……一緒に猫カフェに行った、最初のとき……私から」
「珍しいな。女友達でさえ自分から連絡先聞かなくて、そのせいで高校入ってすぐは他校のやつらと疎遠になってたのに」
「それは……先輩の時はなんか、聞いとかなきゃって思って」
それを人は、運命とか一目惚れとかって呼ぶのだろうか。
面と向かって言われてもやはり、俺には理解出来なかった。
「それで、ゴールデンウィークの休みも一緒に出かけたりして……今週末ね、水族館行こうってなってるの。その時に大事な話があるって……そ、そういうことかな?」
「そういうことって?」
「告白、とか?」
「……なんで俺にこんな相談してんの?」
「え? だって共通の知り合いだし。あと、彼女いるって聞いたから。恋とか愛とか、そういうこと詳しいかと思って」
「……彼女?」
なんの話だろうと思ったが、俺が言ったんだった。
彼女がいると、先輩に嘘をついた。
先輩にしか言っていない、ましてや彼女にそんな話をした覚えはない。
「嘘だけどな」
「うそ?」
「いろんなことが全部嘘だけど……そうだな、恋とか愛とか、そんなことはよくわかってる」
「すごいね、私はそういうの全然わからなくて……」
キィっとブランコの鎖の揺れる音。
首を傾げる彼女と目が合って、身体をそちらに向けた。
気づいた時には好きになっていた。
愛とか恋とか、彼女に対してしか知らない。
だから俺は、運命とか一目惚れとか、そんなものは知らない。
だけどもし、それが存在するとして、彼女の運命線上に俺はいないのだろう。
例えばそれが、彼女と先輩を繋いでいるとして。
二人の運命線から離れた場所の、中間に俺がいるとして。
その形が、三角形のようになっているとして。
二人を繋ぐ線の上、頂点に俺はいるのだろう。
例えば、もし、俺がそこから真下に線を引いたら。
二人の運命線を垂直に、引き裂いたとしたら。
「でもこれが、そうなのかな……」
彼女が言った。
はにかむような笑顔で、照れくさそうに、嬉しそうに。
先輩の顔を思い浮かべながら、耳を赤らめて。
「これが、恋とか愛とか……そんなものなのかな?」
わかってる。
俺が線を落としてもきっと、俺が彼女の運命線上に並ぶことはない。
垂線はそのまま、真下に落ちて三角形は傘の形になるだろう。
下手をすれば、彼女と先輩を繋ぐ相合い傘を作ってしまうかもしれない。
だけどもう、どうしようもなかった。
知らなかった、こんな感情。
今になって嫉妬とか、後悔とか。
そんな感情を抱くなんて思ってもみなかった。
わかってる。
これは一度しか使えない。
失敗すれば俺はきっともう、彼女の隣に並べない。
それでも今、欲望そのままに。
彼と彼女の運命線上に、垂線を落とす。
「そうだな、それが……恋とか愛とかいうものだ」
好きな人の顔を思い浮かべる時の表情が。
大切な人のことを想う瞬間の目の輝きが。
照れたような顔が、真っ赤に染まる頬と耳たぶが。
「どうしても、好きだ」
危ないからブランコを横に揺らすな、と小さいころ散々怒った。
それでもやめない彼女がかわいくて、俺は呆れたように笑った。
鎖から離した手を彼女の後頭部に回し、首筋を掴んで引き寄せる。
柔らかい髪の感触、花の香りがするシャンプーの匂い。
ブランコを横に揺らして顔を近づけた俺と彼女の、唇と唇がぶつかるように重なった。
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