第2話

 


 悶々とした気持ちを抱えたまま仕事が忙しくなって、あっという間に一ヶ月が過ぎた。

 ううん、嘘。

 長い一ヶ月だった、早くお店に行きたかった。


 今日こそはと早めに仕事を切り上げ、電車に飛び乗る。駅のトイレで身なりをチェックして時計を見ると八時を過ぎていた。


「しまった……」


 思わず声が漏れてしまった。化粧なんか気にせず行けばよかった、間に合わなかった。

 肩を落とし、駅を出る。いつもより暗く感じる夜道、見上げた空の星の数は変わらないのに。


「違う、空なんか見ない」


 いつもは気にしたりしない。だから、この街から見える星の数なんて知らない。

 ポツポツと光る星の中に浮かぶ三日月の淡い色、視線を落とすと電柱の光に虫が集まっているのが見えた。カーテンから漏れる民家の灯り、アパートの部屋から聞こえるテレビの音。


「好きだな……」


 静かで賑やかな、この街が好きだ。

 唐突にそう思った。ここで暮らし始めて三年経つけれど初めて、そう思った。理由なんて簡単だ、お兄さんが出店することを決めた街だから。

 独り言が多くなったのも、街の風景に目が行くようになったのも、私が恋という魔法にかかったからかもしれない。

 なんて、ちょっと恥ずかしいことを思いながら寄り道していた時だった。

 暗い夜道の中に、光を放っている場所があった。


「うそ……もう八時半だよ」


 歩みが早くなり、光の元へ着くとお店の中にお兄さんの姿が見えた。


「あ! いらっしゃいませ!」


 一ヶ月ぶりに見る笑顔。箒を壁に立てかけたお兄さんが、私の方へ駆け寄る。お店の入り口に貼られていたロープ、【CLOSE】の表札をドアの脇へ避けて中に入るように促された。


「え、でも……」

「大丈夫です! 来週から営業時間の延長を検討してたので、プレってことで」

「あ、そうなんですか」

「だからゆっくりして……もしかして時間ない? あ、そもそも迷惑ですか?」

「迷惑じゃないです! 嬉しい……いや、えっと……珈琲、頼んでいいですか?」

「もちろんです!」


 笑顔のお兄さんがカウンターの前にある小さなテーブルの席に案内してくれる。

 少し前から店内でも飲めるように、システムを少し変えたらしい。


「お客さん増えるて嬉しいけど、忙しくなりました。あ、もしかして人多くて入りにくかったですか?」

「あ、いえ……それはないです」

「そうなんだ、よかった! ……よかった、のかな?」


 ぽそっと呟いたお兄さんの言葉は、聞こえなかったふりをした。

 湯気立つ珈琲メーカー、くるくると音を立ててかき混ぜれるミルク。三分ほど立って戻ってきたお兄さんの両手にはマグカップが握られていた。

 同じ柄の陶器が二つ、両方から湯気が上がっている。

 あれ? そういえば私、注文したっけ?


「ビターと砂糖ミルク入り、どっちがいいですか?」

「え?」

「あ、ビターって言うのは砂糖もミルクも入っていない珈琲だけの味でちょっと苦味があって、砂糖ミルク入りは甘くて……」

「えーっと、甘い方で」

「わかりました!」


 お兄さんがひまわりの絵が描かれたマグカップを私の前に置く。

 マグカップの中のふわふわ泡が今にも溢れ出しそうで、ラテアートとかしたら可愛いのになんてことを考えた。


「ラテアートとかしたらいいんだろうけど、センスないんですよ」

「は? えっ……」

「あ、すみません急に、自分のこと語っちゃって」

「いえ……」


 お兄さんが悪いわけじゃない。ラテアートしたらいいのにって考えていて、それに対する答えをくれたから驚いただけだ。

 同じことを考えていたからちょっと、嬉しくなっただけ。

 恥ずかしくて俯いているとカタンッと、椅子を引く音が聞こえた。顔を上げるとテーブルを挟んだ向かい側の席に、エプロンをつけたままのお兄さんが座っていた。


「珈琲熱いんで、ゆっくり飲んでくださいね」


 マグカップに両手を添えて暖を取るお兄さんの姿が可愛い。

 お店のロゴが印字された黒いエプロンがよく似合っている。

 間近で見てもやっぱりかっこいい。

 手元の珈琲に視線を落とすやや下向き加減の角度かな見る顔も素敵。

 頭の中がぐるぐるぐるぐるして、あまり見つめちゃダメだ! と、私も自分のマグカップを見つめた。

 淡い色した泡が、パチパチ弾ける。

 

 …………え、なにこの状況。


 どうしてお兄さん、悪いと同じテーブルに座ったの?

 珈琲を二人分用意してくれたのはなんで?

 あ、テーブルの隅にあったそのお洒落な容器、角砂糖が入ってるんだ。あれ、お兄さん自分の珈琲に砂糖入れてるけど……もしかして私、砂糖ミルク入り選んじゃいけなかった? ていうかお兄さん砂糖入れ過ぎじゃない? 甘党なの?


「お仕事、忙しいですか?」


 四つ目の砂糖を入れ終えたところで、お兄さんが言った。別のことを考えていた私は慌てて居住まいを正し、お兄さんを見つめる。

 目があって恥ずかしくて、ちょっと視線を下げて話を続ける。


「あ、はい、最近は……でももう少ししたら落ち着くので、また来れます」

「そうなんだ、よかった」


 よかったって何が? なんて聞けるわけない。

 どうして向い側に座ったの?

 珈琲が二人分あるのはなぜ?

 全部聞けない、聞けるわけがない。答えを知るのが怖いような、知りたいような。

 不思議な感覚に陥って、また頭がぐるぐるして黙り込むとお兄さんの声も聞こえなくなった。

 沈黙が続くけれど、話を切り出す勇気もない。だけどこのままじゃつまらない女と思われる。向こうも気まずい思いをしているに違いない、閉店後に招き入れてくれたのに、同じテーブルに座ったことを後悔させたくない。

 頑張らなきゃ、ここでアピールしないとダメだ。なにか話題を……喋らなきゃ!


「あの……」

「あの!」


 私の声とお兄さんの声が微妙にズレて重なって、思わず目があって俯いた。


「お先にどうぞ」


 その言葉もまた重なって、恥ずかしくて胸が熱くなった。

 あぁ、ダメだ、顔を上げないと。お兄さん今、何を考えているだろう、どんな顔してるだろう。

 怒ってないかな、困ってないかな?

 笑ってくれてるといいな、いつものように。初めてこの店に足を運んだ、あの奇跡の日のように。


 顔を上げたらお兄さんの目を見よう、彼のように笑ってみよう。

 私がされて嬉しかった笑顔を、彼にも贈ろう。


 そう決意して、拳を握って、ちょっとだけ視線を上げる。



 もし、例えば、この恋物語に続きがあるとして。

 二秒後に見せてくれた、照れたような彼の笑顔を私は一生忘れない。

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ビター珈琲と甘い恋のお店 七種夏生 @taderaion

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