ビター珈琲と甘い恋のお店
七種夏生
第1話
近所にテイクアウト珈琲のお店ができた。
気になったけど中に入る勇気はなくて、何度もお店の前を通った。
いつ見てもたくさんの人が行列を成して、近寄ることすらはばかられた。
ある日の仕事帰り、いつものように寄り道するとお店の前はガランとしていた。
緊張が胸に走り、興味ないふりをして店の前を通り過ぎる。ちらっと店内を窺うと、私と同じくらいの青年の横顔が見えた。
お店から十メートルくらい離れたところで、意を決して踵を返す。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは先ほどの青年。マスク越しでも伝わる爽やかな笑顔。
「えっと、あの……」
普段このようなお店には近寄らない。注文の仕方がわからなくてメニューを見つめる私の顔を、お兄さんが覗き込む。
「珈琲お好きなんですか?」
「え? あっ、いや、こういうお店初めてで、よくわからなくて」
しまった、正直に言いすぎた。
誤魔化すように、英語のみで書かれたメニューに目線を落とす。
ダメだ、さっぱりわからん。
かろうじてoriginalの字は読める。オリジナルって何だっけ?
「あー、メニュー見づらいですよね、すみません」
「へ? あ、いえ……」
「初めてなら、オリジナルが飲みやすいですよ」
「えっと、じゃあそれで」
「ありがとうございます」
百円玉を三枚渡すと、「ちょうどですね、ありがとうございます」と微笑んだお兄さんがレシートを手渡しで返してくれた。
ぴったりの額で支払う事は彼のメリットになるのだろうか、よかった……小銭持っててよかった。
小銭を納めたお兄さんが、慣れた手つきで機械を操作する。
「お仕事帰りですか?」
「はい」
「この辺ですか?」
「いえ、会社は電車で三十分かかります」
「あー、じゃあお家がこの近く?」
「はい」
それ以上、会話は続かなかった。
なにか、何かと思えば思うほど声が出なくなって、お兄さんは視線を私から機械へと戻した。
一分は経っただろうか。
湯気立つ珈琲の紙コップにプラスチックの蓋をつけたお兄さんが、私に振り返る。
「お待たせいたしました」
「あ、はい……」
ぎこちない動作で、カウンターに置かれた珈琲を受け取る。
レシートは手渡しなのに商品は置くのか……などと考えている事に気が付いて、はっと顔を上げた。
不思議そうに首を傾げるお兄さんと目があって、慌てて顔を背ける。
「また、来ます」
精一杯捻り出した言葉。
ぱあっと花が咲いたような笑みが、お兄さんの顔に浮かんだ。
「お待ちしてます」
「……ありがとうございます」
小さく返した言葉は、彼に届いていただろうか。
何か、なにか言いたい……そう思って口を開いたところで、背後で物音がした。
「あ、いらっしゃいませ」
お兄さんの視線が、私の後ろへと移る。
振り返ると、綺麗な黒髪ロングヘアの女性がドアの前に立っていた。
「こんばんは」
ぺこりと会釈をした女性が店の中に入る。
咄嗟に、私は後ずさって彼女に位置を譲った。
「今日早いですね」
「定時で帰れたの。えーっとミルクの気分かな」
「カフェオレですね、四百円になります」
注文が終わると、お兄さんの視線が私を捉えた。
あ、そっか、帰らなきゃ。
軽く頭を下げると、「ありがとうございました!」と笑顔が返ってきた。
踵を返しそそくさと歩き出す。
「今日空いてるわね」
「そうなんですよ、暇です」
「中で飲めるようにしたら?」
「あ、それ検討中です。そしたらゆっくりしていってくれますか?」
「もちろんよ、毎日来るかも」
甘いミルクのような二人の会話がそれ以上聞こえないように、急足で店を出た。
たぷたぷと揺れるホットコーヒーが熱くて、火傷するかと思った。
*
家に帰ってネットでお店の評判を調べて、私みたいな人はたくさんいる事がわかった。
人というか、私みたいな女性? 女の子?
たしかに、行列を作っていたの女性ばかりだった……いや、覚えてない。
そこまで見てないや。
冷めたホット珈琲、彼がお勧めしてくれた初めての味。
明日も行こうかな……だけどきっとまた、たくさんの人が列を成しているに違いない。
私が並ぶのは最後尾になるだろう。
ひとまず珈琲を飲もうと、紙コップに口を付けた。
甘い香りが鼻をくすぐって、好きだと思った。
忘れてしまおうと一気に飲み干した最後の一滴、苦味が喉元過ぎて。
テーブルに置いた紙カップにカメラを向けた。
「私もいきます、毎日でも」
短編小説のタイトルのようなハッシュタグを添えて投稿した珈琲カップの写真。
初めての一杯と甘い恋の物語。
#ビター珈琲と甘い恋のお店
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