女無天―ミント――MINT


「あぁ、雨、いつの間にやらあがったんだねぇ」


 彼女の言うとおり、いつの間にか雨は上がっていた。傘の隙間から空を見上げると雨雲の切れ間から陽の光も射しこみ始めてきている。何故、晴れ始めている事に気づかなかったのだろう。そう思えるほどにハッキリと晴れが世界を塗り替えている光景がそこにはあった。

 これで彼女と、ひとつの傘を共有する隣り合わせな下校は終わりかと、僕は残念なような何処かホッとしたような複雑な気持ちで、彼女の触れた手をほどき、折り畳み傘を畳んだ。


「……見えるねぇ、太陽の光。眩しくて、爽やかな香りを強くする。大好きな陽光ひのひかりなんだよねぇ」


 背後で彼女のやけに弾んだ明るい声が耳に響き、妙に鼻周りがスーッとするミントの香りが強くなった気がした。僕が鼻を鳴らしつつ振り向くと、彼女はとても楽しげな高揚した笑顔で、ミントガムを一枚、僕へと差し出していた。


「傘に入れてもらったお礼、まだだったねぇごめんねぇ、はいミントガムを、どうぞぅ」


 そんな、お礼だなんてと言って、そのミントガムを断ろうとするが、彼女はいつの間にかミントガムを僕の手に握らせ、包み紙を半分に向いていた。


「それじゃぁ、朝と同じに半分こにしようかぁ」


 僕の手に握られたミントガムを指先で擦りながら、彼女はにこやかに笑うと。

 剥いたミントガムへと唇を這わせ、甘く噛むと、急に強く歯を立てて、齧り付いた。

 ぇ、突然の事に意味がわからずに彼女を見つめると、ミントガムをブチリと噛み千切った彼女は何度も口を咀嚼に動かしながら、上目遣いに僕を見つめ、切れ長な眼を半月に笑わせた。


「あれぇ、きみは食べないのう、こんなに美味しいのに?」


 そんなことを言われても、彼女の笑顔がなにか恐ろしい。どうしようもなくブルブルと震える手に握られた不思議な歯形後の付いたミントガムを僕は見つめた。それは、朝に見たあのプランターに生え広がったペパーミントの葉形に似ているような気がする。


「雨に打たれて寒いのかなぁきみは、そんなにカワイク震えちゃってぇ」


 彼女は僕のミントガムを握った手にサワサワと触れた。ヒドく、冷たい手だと感じた。清涼なメンソール剤を塗りたくられたような身体の芯が震える冷たい感覚に、腕が支配されていくようだ。動かしているのかもわからない、ただ、触れられている感覚だけは、ゾッとするほど、ハッキリしている。


「今度は包み紙はきみに、きみにあげるねぇ、そのミントガムを、いつでも捨てられるよ。きみ自身の手、で、ねッ」


 彼女が何を言ってるのか理解できないまま、僕は、彼女に濡れた地面へと押し倒されていた。冷たい、ツメタイ、触れられるもの全てが冷たい。


「おじゃまな雨はもうないよぅ。これから二人の時間はジックリと流れていくんだよぅ。大丈夫ダイジョウブダイジョーブ、ここには誰もダレモこられないから、きみは今、あたしだけを見てればいいんだヨゥ。アァ、よウやク、今朝見た時から、ずッと……ン、んン、フフフフ」


 恐ろしい、彼女がヒドく恐ろしいものに見える。どうしてだ、彼女は、僕と同じ街に住んでいる同じ学校に通うずっと憧れてた女の子だったはずなのになんでこんな――……あれ?


 何故だ、彼女の記憶がバカに薄い。まるで、今日の朝に始めてこの子に出会ったような、あれ、じゃあ、ホンモノの彼女はどこに、イヤ、そもそもあの子はホントウニ存在していた。ェ、今日ボクは学校で何をして、過ごし?……ハ、アレ?


「ン〜、ふフふッ、疑問を持ち始めたカオしてるねェ、ダメだよ~キづいちゃあ、ダメなんだヨ〜。あのコはいるの、メノマエにいるア・タ・シは、ア〜ノ〜コでしょウ?」


 まるで、子どもを優しく叱る母親のような穏やかさで耳元で彼女のようなモノが囁き、ジッと組み敷いた僕を見下ろし、唇を赤い舌でゆっくりと短く舐めた。


「ゥン、フフフフ、今から五まで数えます。それまで二、抵抗できたラ、自由にシてあげようヵなァ。ほら、この手にニぎッた包み紙であたしをクシャクシャポンて捨ててくれていいよゥ。チャンスは今アゲたからねェ。ドウするカハ、キミシダイ」


 彼女のようなモノは意味深に一方的に告げると、鼻先まで顔を近づけて吐息を吹きかけるようなカウントダウンを始めた。


「ゴ〜」


 強いミント臭が鼻をくすぐり、頭をクラクラとさせる。


「ヨ〜ん」


 こちらが全力で暴れればきっと、彼女を振りほどく事ができるだろう。ここから逃げ出す事もできるはず。よくわからないがこの握った半分のミントガムをクシャクシャに投げ捨てれば、この恐ろしさから脱出できるかもしれない。


「さ〜ン」


 だけど、僕は。


「ニ〜」


 彼女から逃げ出す選択肢を


「い〜チ」


 なぜだか、選ぶ事はできない。


「ゼ〜――ろゥッ」


 彼女の突き出した舌が、僕の唇をこじ開けてきた。押し付けられた唇は冷たく、絡みつく舌は土に根を降ろす地下茎ちかけいのように細かく、執拗に、絡みついてくる。舌落ちる彼女の唾液は息ができなくなる程に、ミント臭が口内を蹂躙し、頭の中を彼女のニオイミントでいっぱいにする。



 あぁ――わかった――彼女は――。



 ―――――魔性ミントそのモノなんだ―――。




 身動ぐ僕の身体は、冷たく、動けなくなってゆく。ただ、目の前で揺れる、妖艶に歪む彼女の顔だけが、世界の全てであるように、繋がり絡む、冷たく濡れる舌の感触と、吸われ続ける淫らな水音が強く耳を支配し、耳穴が水に入り込まれるように冷たく、ゴボリとした音が、口から漏れた。僕の身体は、地面を落ち、爽やかな水の中へと堕ちていった。そんな摩訶不思議な事を疑問に思うことは無く、僕はただ、きみに全てを貪られる事が、幸せなのだと思い、冷たい身体を抱き寄せた。それが、人の身体の形をしているかどうかなんて、誰にもわからないさ。僕はもう彼女の水の中を堕ち続けるしかないのだから。







 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「――ね――きて――ねえ」


 ……。


「――起きてってばっ」


 誰かに揺り動かされて、僕は目を覚ます。ボーッと見上げると、そこには心配げな顔をした「彼女」がいた。


「もう、着いたよ。ねぇ大丈夫?」


 言われて周りを見渡す。ここはバスの中? 僕は頭を横に振って、窓の外を見た。バラバラと激しく雨が打ちつけている。


「ねぇ本当に大丈夫なの? うなされてたみたいだけど、学校休む? 直接先生に言った方がいいと思うけど、無理そうならこのまま帰って、あたしが変わりに――」


 いや、大丈夫だよ。すぐに降りよう。他の乗客の迷惑になるから。

 僕はまだクラクラとする頭を掌で押し、無理やりにでも笑顔を作って、彼女と一緒にバスを降りた。


「あ〜、やっぱ雨はやまなかったねぇ、憂鬱だなぁ」


 彼女はゲンナリとした顔で恨めしそうに雨空を見上げた。だけど、僕はなぜだかこの雨が、凄く安心できるものに感じた。願わくば、やまないで欲しいとさえ思えた。


「え〜、やまないで欲しいとか意味分かんないんですけど〜」


 彼女はやはりゲンナリとした顔で雨空と僕の顔を交互に見つめた。


「でもまぁ、いい事も、あるかもだけど」


 彼女は急に頬を朱色に染めたような照れた表情をする。ん? どうしたんだろう?


「あ〜ッ、忘れているなぁッ。傘に入れてくれるってバス停で約束したじゃんかぁッ」


 彼女は途端に表情を変えて拗ねた顔でお怒りだ。そういえば、そんな約束をした気がする。でも、本当に僕なんかと一緒でいいの?


「はぁッ、いいに決まってんじゃんカレシなんだから」


 カレシ? 僕が?


「そうだよ付き合ってんじゃんあたし達ッ。まぁ、昨日からだけど」


 今度はちょっと、照れくさそうに下唇をちゅーと小さな子どものように吸っている。なんとも可愛い仕草に笑顔が溢れた。


「なにぃ〜、おかしな事なんてなんもないじゃんかぁッ」


 ごめんごめん、だいぶ怖い夢を見てたから、ちょっと気持ちがおかしくなってるのかも。


「怖い夢? そういえばうなされてたけど本当に大丈夫?」


 大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて。


「そりゃ当然、カノジョですからね、心配のひとつやふたついくらでもしてあげますって」


 彼女は得意げにふんぞり返る。そうか、きみが僕のカノジョか、これが現実なんだ。よかった、本当に。


「な、なんか泣きそうだけど大丈夫? やっぱ一緒に帰ろうか?」


 だから、大丈夫だって、さぁ、いこう。学校に遅れてしまう。

 僕は、折り畳み傘を勢いよく開く。


「よし、おとなりゲットだあッ」


 カノジョは僕の隣で嬉しそうに傘の柄を握る僕の手を上から優しく手を添えるように握ってくれた。その手はなんて―――



 ―――なんて冷たいんだ。



「あぁ、そうだ」


 カノジョはおもむろに内ポケットから何かを取り出した。


はんぶんこしようか?」


 カノジョは眼を半月に笑わせていた。








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