柱時計とゼンマイ

七洸軍

柱時計とゼンマイ

 誰かが消し忘れていった灯り。それがうっすらと当てられた室内。樹の香り、紙とインクの香りの染みついた部屋に、振り子の音が響き続ける。

 チク、タク、チク、タク、…………

 永遠に続くのではないかと思わせるような単調で気怠いリズム。空気を流動させることもない。心臓の音よりも正確な間隔……これほどに几帳面な物もない。雰囲気こそ堅苦しいが、同時にどこかだらしないこの部屋と比べたとしても、きっとそう感じる事だろう。

 六角の部屋の全面を埋め尽くす書棚。

 入っているのは厚い本ばかりだ。日本語、英語、独語、仏語、露語、羅語、伊語、広東語、アラム、ハングル、ギリシア、スワヒリ、スペイン……まだあるだろうか。そんな物の辞典が多く感じるが、医学書、歴史書、技術便覧、心理学書、背表紙のない物もいくつかあるし、逆に賑やかなレタリングで彩られた雑誌も少しだがある。棚に隙間が多く感じるのは、本の高さが合っていないせいだろう。乱雑という印象はむしろ、床には平積みにされた本達から受け取れる。そしてそういう物の上にも、あるいは棚の僅かな隙間にも、埃はしこたまに積もっていた。

 そんな乾いた木の匂いがする書棚が、床に沿って螺旋状に上へと続いている。それに倣って作られた天井も随分高い。

 ちょっとした図書館程はある。書庫として個人で持つにはあまりに贅沢な空間ではあるが、この部屋は、それを利用してくれる主人を失って随分経つ。掃除してくれる人も居ないのならば、埃が積もるのもしょうがない。

 ただ……

 チク、タク、チク、タク、…………

 壁のある一面、書棚で埋められた部屋の壁の一枚を完全に占有し、堂々と居座っているその柱時計だけは、そんな埃だらけの空間の中でも、まだ部屋の時間を刻み続けている。

 ……ボーン、ボーン、……

 不意にその音が鳴った。定時を知らせるその音も、すっかり埃を被って鈍くなっているのか、あるいは昔からこういう音なのか、それはこの部屋の埃っぽい乾いた空気によく馴染んでいた。

 八度だけ鳴って、それは止まる。

 トントントン……

 違う音が聞こえてくる。厚い絨毯を叩く靴音だ。開きっぱなしのドアをくぐってきたその人は、……あるいはこの部屋には相応しくない程に幼くはあったが、どこか奇妙に合致してもいた。

「ああ、大変。もうこんな時間」

 時計を見上げる瞳は碧、紅をひいた唇より呟かれる声はメゾ・ソプラノ。レース、フリルのドレスにエメラルドのブローチ、頭のキャップから零れる波掛かったブロンドをはためかせ、フレアスカートの中で赤い靴をパタパタさせながら、螺旋で繋がれた部屋の階段を一生懸命に昇っていく。段差は決して高くなかったが、少女には随分大きいように感じられた。

「急がなきゃ、急がなきゃ、時間が」

 螺旋階段を廻りながらも、その目は壁に掛かる柱時計に注がれている。

 七時五八分。振り子は尚も動き続けている。

 彼女は時計の下まで来ると、靴を脱ぎ、椅子を使ってそこにあった机の上に昇って、文字盤に手を伸ばし――――――

「あら?」

 直ぐに引っ込めた。

 おかしい。時計の針は七時五十八分。時計が八時を告げる音を聞いて駆けてきた筈なのに。

 ……首をひねり、曲がった角度から見える文字盤をじっと凝視する。

 そうしている間に八時になった。しかし時計は、振り子を揺らす音だけを何の疑いもなく鳴らしている。その時間を教えてくれるような事はしてくれなかった。彼女はもう一度針をよく見た。

 長針は0とⅠの間を、短針は真っ直ぐにⅧを差し示している。振り子だって、正確に揺れている。当然だ。この時計は、部屋の中で一番几帳面なのだから。

「……あ」

 分かった。少女は気が付いた。

 曲がっているのだ。長針が、弓のようにしなってなっている。それが原因か。

「……悪いこと、しちゃった。ごめんね」

 謝る。自分がやったことだから。

「でも、我慢して。こうしないと、私、あの人に捨てられちゃうんだから」

 しかし声をとがらせながら、少女はその柱時計に囁いた。

 時間は三分まで進んだ。あと八分だ。

 八時十一分になったら、私は捨てられる。

 そんな予感を抱えながら、少女は八時を知らせる音が聞こえるたびにここへやって来ていた。

 ……文字盤に手を伸ばす。つま先で立ち上がると足場になった机ががたがた震えた……あるいは自分の足の方が震えていたのかもしれないが、その怖さを我慢しながらも、時計の長針の下に指を滑らせ、なんとか一周だけ回した。

 七時。針が曲がっているので、実際はそれよりも少しだけ進んでいるだろう。けど、それ以上は戻さない。

 それ以上戻すと、時計の音をうっかり忘れてしまいそうで怖い。時計が鳴ったら八時。自分にそう言い聞かせながら、今までこうして針を動かしてきた。

 本当は八時にだけ鳴らしてくれればいいのだけど、針が曲がっても正確に音を鳴らすような几帳面な時計だ。そんな器用な事などできはしないだろう。彼女も、そんな事を期待してはいない。

 しかし、針が曲がってしまうのには彼女の心も痛む。さっき戻したから、また少し曲がってしまっただろう。いつか、正確な時間など分からなくなってしまうのではないだろうか。

「時計なのにね」

 囁き、疲れた笑い声を響かせる。

 …………

 ずっと愛して貰えるなら、針を曲げてまで時計を戻す事なんてしなくてよかった。

 時間が過ぎると心も通わなくなって、いつかは捨てられてしまう。

 けど時間を戻せば、今が永遠になる。嫌な時間は永遠にやってこない。ずっと針を戻して……何十回転も何百回転も戻して、はじめの幸せな時間から繰り返してやればいいのかもしれないけど、少女はそこまではやるつもりにはどうしてもなれなかった。

 幸せだった頃……あんなに愛されていたのがいつだったか、……それが少女にはもう分からないから。

 そして、……一度過ぎ去った時間はセピアに染まるから。白黒写真のように、不思議な時間が思い出の中に閉じこめてある。それを開けてはいけない。

 ……思い出の中にある幸せに飽きたくないからかもしれない。思い出になったからそれが美しいのだと、少女は常々感じていた。

 勿論、時間が過ぎては戻す……こんな空虚な作業を続ける『今』だって、好きではないけど、捨てられたり、思い出を繰り返して台無しにしてしまうよりは、この空虚な時間からその思い出を見つめ続ける方がよっぽどいい。

 繰り返す時間の中に閉じこめられ、人の入ってこられないその書庫は、この少女だけの特別な空間となっていた。時計が刻む一瞬の喧噪に、思い出の一つ一つを重ねながら、少女の乾いた時間が過ぎていく。

 チク、タク、チク、タク、…………

 少女は机から降り、椅子に座りながらさっき脱いだ靴を履いて、そしてその柱時計を見上げた。

 随分長く動いている。少女が生まれたときから……この乾いた音を響かせ、そして同じ時間を過ごしてきた。まるで少女の中に、この柱時計と同じ振り子があるように。

 あの人に愛された時間も、この時計が刻み続けてくれていた。

 よく憶えている。……この椅子だった。彼はそこに座っていて、少女の手を取り「好きだよ」と囁いてくれた。少女が、「私もよ」と返したなら、彼は嬉しそうに笑っていた。

 柱時計は、少女のそんな壊れない時間をずっと閉じこめてくれている…………きっと、永遠の物にしてくれるはず。

「また、一時間後」

 こうやって針を動かしていれば大丈夫だ。八時十一分は永遠に訪れない。少女は捨てられることは無い。また、一時間後……時計の音が鳴ったら、針を動かしてやればいい。ずっとずっと、それを繰り返していれば、彼は私を捨てたりはしないだろう……

「うん」

 身を翻そうとして、目線を落とす。

 ……そこで奇妙な物が目に付いた。

 柱時計の振り子の部屋。その内側だ。

 黄ばんだセロファンテープに止められて、何かがそこに張り付けてあった。

「何かしら」

 磁石止めの振り子の扉を両手で開き、それを見る。

 ビニル袋だった。……少女の両手の広さよりもう少し大きいくらい。

 二重に折り畳まれて、内側に張り付けてあった。中には、銀色の何かが入っている。

「……ゼンマイかな」

 きっとそうだ。こんな所に張り付けてあるということは、絶対に無くしちゃいけない物の筈だから。時計に関係のあるものならば、ゼンマイしか思いつかない。

 ならば、無くなったら大変だ。ここにあるという事を憶えておこう。

 少女はまた扉を閉めようとして、

 ……また、そのビニルに包まれたゼンマイを見た。

「無くなっちゃったら、どうかな」

 いけない考えが浮かぶ。

 時計が止まってこれが無かったなら、もう時間は動き出すことも無いだろう。

 いちいちここにまで昇ってこなくてもいい。彼と、ずっとこの家にいられる。……彼と一緒にいられる。それも永遠に。

 いいかもしれない。時計には悪いけど、それが私達の為に一番いいこと。針を曲げなくても、永遠に時間を止めていられる。八時十一分は永遠に来ることはない。

「うん」

 少女は満足げに頷いてから、丸い爪先でセロファンテープを懸命に引っ掻き、そしてついにビニル袋を引き剥がした。急いでそれを開けると中から重みのある銀色の蝶々形が飛び出し、机の脚にぶつかってから絨毯に落ちた。それは間違いなく、時計のゼンマイだった。

 古い柱時計を見上げる。

「もう針を曲げなくてもよくなるよ」

 と、そう呟いてから、部屋に一カ所だけある窓を開け、暗い宙に向けて、そのゼンマイを遠く放り投げた。

 これで、もう時計を動かし続ける物は無くなった。あとは時計が止まるのを待っていればいい。しばらくは針を戻してやらなければいけないけど、やがて時計のバネが止まってしまえば、彼といられる時間が永遠になる。

 チク、タク、チク、タク、…………

 音だけが、まだ響き続ける。捨てられることがなくなると言うのに、時計は喜ぶ様子さえ見せない。きっとギリギリまで頑張るつもりなのだろう。

「本当に生真面目」

 少女はそれが止まる時が待ち遠しいというのに。

 ………そう、もうここから離れたくもない。下に降りず、時計が止まるまでここに居る事にしよう。彼との永遠をずっと夢見ながら。

 そう心に決めると、少女は柱時計の直ぐ横に腰を下ろし、時計の音を楽しもうと耳を澄ませた。

 チク、タク、チク、タク、…………

 乾いた時間が流れ、

 ………


 そして、時計の時間は止まった。



=================



 音の無いその場所に、開きっぱなしの扉をくぐり抜けながら、二人の男が入ってきた。

「ここはお前も入ったこと無かったろう?」

 そう言いながら、背の高い男……この家の主がもう一人を迎え入れる。

「お前ん家、広いもんな。知らない場所ばっかりだよ」

 うんざりしながら、招かれた男は息をつく。

「文句垂れるな。商売だろ。親友のよしみで声をかけたんじゃないか」

「大掃除したいんじゃなかったのか?」

「利益はお前のだよ」

「まぁそうだけどよ」

 背の低い方は、男の友人で小さなアンティークショップを営んでいる。

 この古屋敷の大掃除をするというので、何かめぼしい物があったら持っていったらどうかと誘ったのだ。

 もっとも、友人の方は大した期待などしていないようだった。昔からある家ならば、確かにそういうのもあるだろうけど、いかんせん彼の性格は不精の典型みたいなものだ。どうせ保存なんかもめちゃくちゃだろうと高をくくっている。

「しかし埃臭いところだな」

「書庫だからな」

「掃除しろって言ってるんだよ」

 指摘され、彼は中を見回してみた。

 確かにそうかもしれない。書庫だというのにそこにある本は埃を被っている。……床に平積みにされた本もあり、掃除どころか整理だってしたことがないのだろう。かくいう彼も父が死んでからは、昨日久しぶりに入っただけだ。

 二人は螺旋階段を昇った。上には机もあった筈だ。あるいはその引き出しに、貴重な国宝級のお宝が眠っているかもしれない。まさに夢物語のようなそんな期待は抱いて直ぐに捨てたが、

「切手帳ぐらいはあるかもしれない」

「………」

「なんたら万博の」

「期待しておくよ」

 と、友人が答えたところで、その肩がビクッと震えた。横目でも分かるほどだ、よほど何かに驚いた様子だが。

「どうした?」

「あれ」

 そう言って友人が指さした先に、生きているのかと見間違うほど綺麗な人形があった。

 人形にしてはやや大きめだ。白いレースのドレスに赤い靴を履いた、可愛い女の子。それが、碧眼をこちらに向けながら、柱時計の隣に座っていた。

「ああ、こんな所に居たんだな。最近見ないなと思ってたけど」

「やめろよ、そういう言い方」

 友人が、肩を震わせる。

「なんか、生きてるみたいじゃないか」

「お前、仕事はそういうのやってるくせに、人形とか弱いのな」

「アンティークと怪談は関係ないよ。人形だって扱う。けど人形は、どんなに生きているように見えても、生きていないから価値があるんだよ」

「生きてたら?」

「人身売買は最低だってこと」

 そう言って、友人は恐る恐るその人形に近づいていった。虚空をじっと見つめる、無表情な視線を避けながら。

「どうだ? いい仕事してるんじゃないのか?」

「お前に言っても分からないだろうさ」

「そりゃないだろ。この子とは長い付き合いなんだ」

「ままごとでもしてたのか?」

 友人が、ふっと笑った。からかうおうとしたようだが、その声はどこか引きつっていた。

「俺はずっとこの人形が好きでさ。“好きだよ”って言えば“私もよ”って言ってくれるんだ、そんで人形は花が咲くように笑ってさ。その笑顔が可愛くて」

「だからやめろよ。そういうの。これから引き取るってのにホント悪趣味だぞ」

 本気で嫌らしい。

 彼はからかうのを止めて、友人が人形を調べる間、部屋の中を見回した。

 やはり本が目立つ。これも全て売り払いたいのだけど、自分にはその価値が分からない。骨董好きだった父なら、現在の価値を知っていたかもしれないが……いや、そんな筈はないか。本は本だ。書庫にある以上、読むために買ったのだろう。そういう価値を期待してはいけない。

 もう一度見回す。次に目立つのは、大きい柱時計だろうか?

 こっちも随分昔からあって、この書斎の時間を刻んできた。それが止まっているのを見ると、何となく時間の流れという物を考えずにはいられない。

「?」

 そう言えば、いつ止まったのだろう? 昨日確かめに来たとき、動いてはいなかったか?

 ……よく憶えていない。でも誰かと来たはずだ。もっとも、その人も、この人形があるのに気が付かなかったようだが。

(いつ止まったかだって? そんなの決まっている)

 心中で呟き、文字盤を見る。

(七時五十二分だよ。八時の八分前だ)

「なぁ」

 柱時計の隣にいる友人に、彼は呼びかけた。放っておくと、人形ばかりに夢中になっていそうだから。

「なんだ?」

「隣の柱時計はどうだ?」

「柱時計?」

 友人がその時計を見上げる。本当に、見上げるほどに大きい。

「大きいな。こういうのって、売るのも難しいんだ」

「そこを何とか」

「処分したいだけなんだろ」

 呆れたように呟きながらも、友人は時計の方に手を伸ばし始めた。

「ああ! しかも長針が曲がってるじゃないか」

「修理すればいいだろ」

 何か文句を垂れながら、今度は振り子部屋の扉を開ける。

「ゼンマイもない」

「そんなの、代用品でいいだろ」

「そうだけど」

「文句が多いよな。お前」

 友人がふてくされる。……まぁ、言い過ぎたかもしれない。

 ケースも含め、備品は出来る限り残っているのが望ましいというのは、アンティークに詳しくない彼も想像がつく。というか、テレビでやっていた。

「やっぱり、ゼンマイはないな」

「こだわるね、センセ」

「ああ」

 ふざける彼に言いながら、友人は振り子部屋の扉を閉めた。

「代用はできるだろうけどさ、違うゼンマイなんか使ったら、別な時間が動き出しそうで」

「そうか?」

「……やっぱお前に言ったのが間違いだった」

 彼はそう言いながら、人形の方へと目を戻した。

「怪談は苦手なんじゃなかったのかよ」

「ロマンだよ。これは。時計って言うのは動き始めてから止まるまでずっと、その時計だけの時間を刻んで動いているのさ。人生ってのがそれぞれにあるようにな」

 よく分からないものだ。時計なんぞ、時間を教えてくれるだけのものだ。人間一つの時計ばかりで生活するわけじゃない。時計が止まっていたら、別の時計を見るだけだ。

 一つの時計だけで暮らしている人間が居たとして、その唯一の時計が止まったからと言って、その人間の時間までが止まったりはしないだろう。

 そんな奴がいたら見てみたいものだ。呟いて、なんとなく少女の人形の方に目が吸い寄せられた。精巧なアンティークドールは、表情が無さ過ぎて生きているようには見えない。背中を預けている柱時計と同じだ。

 もう一度柱時計の文字盤を見る。

 何度見ても止まった時間は変わらない。七時五十二分。……いや、針が曲がってるから、もう少し先か。いずれにしても、止まったままだ。こいつは時計の役割を果たしていない。

 彼は自分の腕時計と見比べて、時計の針の曲がりを直しながら、その時間を直してやった。

 ―――八時十一分。

「この人形もつけてくれるなら、引き取るよ」

「ああ、そうしてくれ」

 いまだ人形の方ばかりに気をとられている友人に二つ返事で返すと、彼は時計を見つめたまま、一つため息をついた。時計を正確な時間に合わせてやっても、勿論時計の振り子は動かない。

「………動く訳ないんだけどな。ゼンマイがきれてるんだから」

 ふと見つけたゼンマイの穴に指を触れながら、彼は呟いた。

「?」

 ふと何かの視線を感じ、彼は一度辺りを探る。

 人形がある。スカートを広げてぺったりと、しかし愛らしく座っている。大きさは子供と変わらないが、目を見開いたままの無表情が、彼女を人形と思わせる。ただ、昔はこの人形から表情を読み取っていた。

 子供の頃、いつもこの人形と一緒にいた。子供心に、確かに好きだったのだ。イマジナリーフレンドの類だろうか。

 ……いや、違う。さっき友人に言った人形の話は事実……ただ、人形が笑うはずがないから、きっと親戚の女の子の思い出と一緒くたになってしまったのだろう。もう顔も思い出せないけど、確かに彼はその子の笑顔が好きだった。“好きだよ”と言うと、その子は“私もよ”と返し、そして可愛く笑ってくれたのだ。

 恋愛というのとは違う。歳も随分離れていた筈だから。ただ、その子の兄のようなつもりでいたのだ。なのに人形の事しか憶えていないだなんて、おかしな話であったけど。

 彼は顔を上げた。その人形が、無表情に自分を見ていた。

 勿論、動くことはない。止まった柱時計を背に、写真の風景のようにそこにあった。

「どうした?」

「いや、何も」

 ……気のせいか。

 友人が手にとって調べている人形が、視界の隅で動いただけだろう。

 ここは自分と友人以外は、誰もいない。その筈だ。

 彼は、何度もそう言い聞かせながら、それ以降はそっちを見ないようにして、友人との交渉を進めていった。


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