金木犀と鱗雲

くれは

わたしの知らないわたし

「ケイカ。ケイカだ、見つけた」


 そんな言葉と共に手をつかまれた。タイミングを見計らったかのように桜の花びらをはらんだ風が吹き抜けて、制服のプリーツスカートのすそがふわりと揺れた。

 中学二年の新学期。振り向けば、真新しい制服を着た男子がわたしの手首を掴んでいた。わたしは瞬きをしてから、できるだけ落ち着いた声を返す。


「あの、人違いだと思います」


 それでも、その男子はわたしの手を離さずにゆっくりと首を振った。


「間違いない、俺にはわかるんだ。君はケイカだ。ずっと……ずっと探していたんだ」


 その男子の視線はあまりに真剣で、妙な熱を持っている気がして、わたしは怖くなった。手を振りほどきたいのに、掴まれた手首が熱くて、逃げられない。


「俺の名前はリンだ。ケイカも早く思い出して」


 同じ学校の生徒が、興味深そうな視線をちらりと寄越してわたしたちの脇を通り過ぎる。わたしは落ち着きなく周囲を見回して、それからもう一度その男子を見た。


「ごめんなさい、やっぱり人違いだと思います。あの……遅刻するから」


 わたしの言葉に、その男子は悲しそうな顔をした。それから小さく


「また会いに行く。きっと、思い出せるから」


 と呟くように言って、わたしの手を離した。解放されて、わたしは早足で逃げ出した。




 リンと名乗った彼は、放課後にまたわたしのところにきた。


「朝はすみません。突然だったから自分でも驚いて、とにかく何かしなくちゃって思って……その、強引だったって後から気付いて」


 そう言って頭を下げる彼は、確かに朝よりは落ち着いているみたいだった。そうやっていると、どうってことない普通の中学生だ。新品の制服がまだ馴染んでいなくて、小学生にだって見える。


「話を聞いてください。大事なことなんです、すごく、俺にとっては」


 その時には、彼の姿があまりに普通に見えてしまったからだと思う。わたしは彼のその言葉に頷いてしまった。

 それで帰り道を遠回りする。

 歩きながら彼は話してくれた。わたしを「ケイカ」と呼ぶ理由を。


「何も思い出せないですか、俺のこと」


 彼の寂しそうな言葉に、すがるような視線に、わたしは首を振る。


「何も」

「その……前世、というやつなんですけど」


 前世、と口の中でつぶやいた。わたしの戸惑とまどいを置き去りに、彼の言葉は続く。


「前世で、俺は戦っていたんです。リンという名前でした。戦って、傷付いて、ぼろぼろになって、そんな時に助けてくれたのがケイカでした。ケイカは優しく俺の手を握ってくれて……その……」


 リンと名乗る彼は、そこで言葉を途切れさせて目を伏せた。うつむほほが染まっている。


「そのケイカというのが、わたしなの?」


 自覚も何もないままに聞いてみれば、彼は俯けていた顔を持ち上げて、大きく頷いた。


「そう。間違いない。やっと見つけたんだ」


 彼の視線がはらむ熱を受け止めるのは怖くて、わたしは拒絶のつもりで首を振る。


「わたしは全然、その、前世とか思い出せないし。やっぱり人違いだと思うけど」

「思い出せないから信じられないんだろうってのも、わかります。でも、確かにケイカなんだ。間違いじゃない」

「あの、ごめんなさい」


 何に謝っているのか、自分でもわからなかった。彼の言う「前世」には付き合えない。彼と話を合わせることはできない。これで話はおしまい。多分、そんな気持ちをやんわりと伝えたかったんだと思う。

 彼がわたしの手を握って足を止めた。それでわたしも足を止めることになる。わたしの左手が、彼の両手に包まれて、持ち上げられる。


「ケイカ、ずっと好きだ。助けられたあの時から、俺の手をこうやって握ってくれたあの時から、今もずっと。ケイカのことが好きなんだ」


 彼の言葉も視線も真っ直ぐだ。あまりに真っ直ぐ、わたしの心をじ開けてこようとする。それに、熱い。ずっとこんな風に触れられていたら、きっと溶けてしまう。

 でも、彼の熱が向かう先は「ケイカ」という人なのだ。彼を救ったのも「ケイカ」という人だ。それがわたしのことだとは、どうしても思えない。


「離して」


 わたしの声は、彼の顔をゆがませた。彼はまるで痛みをこらえるように眉を寄せる。


「ケイカが思い出すまで、諦めないから」


 そう言って、彼はわたしの手を離した。わたしはほとんど走って逃げ出した。




 夜の食卓で母親がお酒を飲んで酔っ払っていた。この人は、時々こうやってお酒を飲んで、赤い顔で上機嫌に思い出話をする。

 わたしは回鍋肉ホイコーローを食べながら、その思い出話を聞いていた。

 今日は、わたしがどれだけ保育園に行くのを嫌がったか、登園がどれだけ大変だったか、という話だった。

 その頃のことはあまり覚えていない。だから大変な思いをさせたのは申し訳ないと思いつつ、どこか他人事のように母の話を聞き流していた。


「大泣きするあなたを抱えて保育園まで走ったりもしたんだよ」


 母親はわたしの顔をじっと見てから、笑った。

 わたしが知らないわたしの話に、どんな反応を返せば良いのか、わからない。わたしは目を伏せてお味噌汁のお椀を持ち上げた。


「でもさ、いつだったかな。あなたより小さいクラスの子がさ、道端で寝転んで大泣きしてるのに出くわしたことがあるんだよね。隣でその子のお母さんが困っちゃっててさ。そしたらあなた、自分も大泣きしてたのに、泣き止んでその子の隣にしゃがみこんで『どうしたの?』って話しかけたのね」


 母の言葉にちらりと視線を向ければ、食卓に置かれた桂花陳酒けいかちんしゅの瓶が目に入った。ラベルの絵に描かれた金木犀きんもくせいの絵を見て、ふと、その香りを思い出す。


「それでさ、手を繋いで『一緒に行こう』って。自分だってあんなに嫌がってたのにね」


 金木犀の香りの中、その向こうに見えた青い空を思い出す。鱗雲うろこぐもが浮かんでいて、それを指差した。手を繋いでいたのは、わたしよりも小さい誰か。


「あなたがあんまり保育園嫌がるものだからさ、その頃すごく悩んでたんだよね。だけど、それを見てさ、この子は優しいな、こんなに優しいんだからこのままでも大丈夫だなって思ったんだよね」


 思い出した景色はその時のものかもしれない。でも、はっきりと思い出せるわけじゃない。それでも、母親が語るその優しさはわたしの中にあるものらしい。

 自分の知らない自分だ。

 わたしをケイカと呼ぶ声を思い出す。前世というのが本当かはわからないけど、あれも自分の知らない自分、なのかもしれない。

 だからもしかしたら、母が語る優しさがわたしの中に本当にあるのだとしたら、ケイカという人がリンという人を救った優しさだって、わたしの中にあるのかもしれない。わたしが思い出せないだけで。




 リンと名乗る彼は、それから度々わたしのところにやってくるようになった。それで、放課後に時々二人で遠回りして散歩する。

 彼はいつも「思い出した?」って聞いてくるけど、わたしはやっぱり首を振るだけ。でも、それ以外の彼はどうってことない普通の男の子だった。とても優しいし、それに、笑ったときのちょっと気が抜けたような表情が可愛い。

 そうやって二人で過ごしているうちに、自分でも思いがけないことなのだけど、彼との時間を楽しみにするようになっていた。最近は手を繋がれることもあるけど、それも受け入れてしまっている。

 そうやって手を繋いでいると、ふと、金木犀の香りを思い出すことがある。それから、青い空に浮かぶ鱗雲うろこぐも

 ──もしかして同じ保育園に通っていた?

 その質問はなんだか、前世の話よりもずっと唐突な気がして、まだ聞けないでいる。




 わたしはやっぱり彼の言う前世のことは、何も、思い出せない。

 でも、わたしが「リン」の言葉を受け入れるように、彼は「ケイカ」じゃないわたしを受け入れてくれている。

 それを確かめるように、二人で手を繋いで散歩する。

 絡んだ指先が、熱い。こうして触れ合っていると、溶けそうだと思うくらいに。




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金木犀と鱗雲 くれは @kurehaa

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