竜葬

鳥辺野九

湖畔の竜


 プロシキマ星系第九惑星ラケルタは竜が棲む星である。


 その生き物は地球の架空生物ドラゴンによく似た大型両生類で、ラケルタ人類の土着宗教において信仰の対象として崇められている。


 地球のあらゆる生物とは異なる特殊な生態を持ち、寿命という概念がない原生生物。生物という枠組みを超えた生と死を司る自然現象のような存在として祀られている。


 特別な名を持たない彼らを地球人類たちはドラゴニアンと名付けた。




「ドラゴニアンって名前を呼ぶこと、あっしらは今でも抵抗があるんすよ」


 ラケルタ人のツアーガイドは軽やかに言った。口は悪いが愛想はいい。典型的なラケルタの民だ。


「あっしらにとって、アレはあんたたち地球人の神に近い存在ですんで」


 ラケルタ人ツアーガイドは自嘲気味に言う。


「アレなんて言っちまってやすがね」


「たしかに。その土地の神様に余所者が勝手に名前を付けるだなんておこがましいか」


 その神々にも固有の名称があり、平気でそれらを言葉として口にしている地球人の価値観とは違う。ラケルタ人は信仰深い。陽気な人も原色の土地も神秘に満ちている。


「人ごときが神に名前を付けるだなんて、怒りやせんかね?」


「怒らないから神様なんだよ」


「そういうもんすかね」


 地球人旅行者の信仰心のかけらもない口調にラケルタ人ツアーガイドは肩をすくめた。


 この地球人にとって信仰とはそんなものなんだろう。そんなものなのだからこそ、人様の惑星の聖域にまで土足で踏み込んで、竜葬を観測したいだなんて言い出す始末だ。


「どうなってもあっしは知りやせんよ」


 ラケルタ人は聖域を目指して再び歩き始めた。欲深い地球人旅行者たちの知的欲求を満たしてやるために。




 「水が滴る谷」と地球人によって名付けられた土地は、惑星ラケルタでもよく見られる切り立った翠色した渓谷の合間に空色を映した透明な水が溜まった湖水地方である。


 色鮮やかで豊かな水資源に人も動物も寄せられて、生態系の頂点に立つその存在もこの湖水に棲んでいる。


 湖の水は空気のように澄みきっていて、かなり水深があるのにも関わらず湖底を這う魚類の姿まで見える。


 そんな限りなく透き通った湖水中層を、それは悠然と漂っていた。


 全身を青白い表皮と若草色した苔で覆われたドラゴニアンだ。乳白色の棘のある背をゆっくりとくねらせて泳いでいる。透き通った水による光の屈折のせいか、記録動画で観たものよりも小さく見える。若い個体だろう。


「近くの集落で子を産んだ女が病を患いやした。ラケルタの医療技術でも治る見込みのある一般的な病気です」


 地球と惑星ラケルタとの交流が始まってはや数十年。文明レベルでは地球の方が上位に位置し、地球の近代技術がラケルタの未開の地へと持ち込まれるのは宇宙文化交流においては自然な流れだった。


 地球の高度な医療分野も持ち込まれた文化の一つである。しかしラケルタの医療技術が飛躍的に進化することはなかった。ラケルタにドラゴニアンがいたからだ。


「その女性が竜葬されるのか?」


「そのようで。まだ若いはずですが、生きることに欲深いですね」


 湖に小舟が浮かぶ。空色に白い雲が映る湖面に波紋が湧いた。


「欲深い?」


「ラケルタで生きるってのはそういうことなんすよ」


 集落の民が小舟を見送る。丸く青い空そのものの鏡のような水面をするすると滑る小舟。女が一人、丸い青空に静か、浮かんでいる。


 ラケルタ人類とその生物との関係は単純に被捕食者と捕食者という食物連鎖にない。惑星生態系の頂点に立つ生物とそれに依存寄生する共存体生物だ。ラケルタでは人は竜に生かされていた。


「生きることが罪なのか?」


「そうでしょう? あんただって何かを食って生き永らえているやないすか」


 地球人旅行者とラケルタ人ガイドは湖の畔に身を潜めて竜葬を待った。


 そもそも竜葬という言葉も地球人類が持ち込んだ名前だ。ラケルタ人があの生物に喰われる現象そのものに名前はない。


「さあ、お静かに。始まりやす」


 透明な水に悠然と泳ぐドラゴニアンが小舟を認識した。長い胴体を器用に捩り、ヒレ状の手足で水を掻いて羽ばたく。


 水中なのでその飛ぶ姿に音はなく、屈折した光がまるで古い動画をスローに再生しているように狭まった世界を揺らめかせる。


 眠る子を気遣うようにゆっくりと浮上するドラゴニアン。波音一つ上げずに透明な水のヴェールを脱いで水面に顔を浮かべた。


 小舟の女はかすかに揺れる湖面のリズムに細い身体を預けて、つと伏していた顔を上げた。その目の前に巨大な生き物が神々しく口を開けている。


 やはり、それに音はなかった。


 竜は大きな首を水面から捻るように持ち上げ、若く苔むした顔から透き通った水を滴らせる。小舟の女を洗うように水滴で覆わせると、巨体を捻り、白い牙をちらりと覗かせて女の上半身を横から咥えた。


 一瞬だけ両腕を震わせる小舟の女。しかしすぐさま竜は女の身体を持ち上げる。甘噛みするみたいに口を軽くもぐもぐさせて女の身体を真っ直ぐに咥え直した。女が軽く抵抗する素振りを見せたがあまりの体格差でどうしようもない。


 最後にはつるりと女の全身を口の中に滑り込ませて透き通った湖面に潜った。


 ドラゴニアンはラケルタ人の女を食べた。


「はい。おしまいです」


 口の悪いラケルタ人ツアーガイドは早口に言う。


「でも、まだ……」


「まだ、何ですかい?」


 巨大な原生生物が湧き起こした波紋はすぐに消えた。翠色の渓谷と遠い青空を写した鏡のような水面に隠れて、その生き物の姿は見えなくなる。


 きっと数百年以上昔と変わらぬ止まったままの光景だけが残された。


「おしまいなものはおしまいなんすよ」


 やがて、ラケルタ人の女を捕食したドラゴニアンは湖の畔に一個の卵を産み落とす。その中で新しい命として産み直されたラケルタ人の女が育まれる。


 命の営みに変調をもたらす病や異物はドラゴニアンが吸収し、ラケルタ人は心身ともに新しく作り直されて健康な状態で産み直される。人としての記憶や経験を継承し、まっさらな身体になって古い自分と再会する。


 それが竜葬だ。ドラゴニアンによる人間の産み直しのメカニズムさえ解明されれば、地球人類はより永く、より健康に寿命を延ばすことができるはずだ。


 地球人旅行者は湖面に身を乗り出した。もっと近くで観測できないか。何ならドラゴニアンの卵でも入手できれば。卵の中身、新しく産み直された人体を解剖してでも、その謎を解明しなくては。


「お次はあんたらの番ですぜ」


 ラケルタ人は口悪く言った。


 不意に鏡のような湖面が盛り上がり、一頭の原生生物が巨大な頭部を持ち上げた。青白い皮膚に若草色の苔を髭のように蓄えて真っ黒く濡れた瞳で小さな地球人たちをじっと見つめる。


「アレの聖域に土足で踏み入るような知識欲に蝕まれたあんたはもはや病気ですぜ」


 ぱっくりと大きく口を開けるドラゴニアン。見知らぬ星からやってきた未知の動物はさぞや旨そうに見えることだろう。


「それと、あんたも」


 地球人旅行者の同行者、あなたを指差すラケルタ人。


「竜葬だなんて作り物の言葉に惑わされてのこのこと。あんたも病気ですかい?」


 もう一頭、その生物が湖面から姿を現す。静かにあなたを狙っているようだ。


「きれいさっぱり産み直されて、またお会いしやしょう」


 その生物の口の中は真っ赤で、細かくて真っ白な牙がびっしりと並んでいた。ばくん、と最後の音が聴こえて──。

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