色を掻き分け色の中

やきたか

色を掻き分け色の中

小さなころから世界は色で溢れていた。

真夏の空は胸がすく青、春に咲く桜はどうしようもなく抱きしめたくなるピンク。それどころか友達と笑いあう声にだって、からからに渇いたのどに流し込む水にだって、炊きたてのご飯の匂いにだって、確かに色は付いている。

そんな話は昔からたいてい人に疎まれたが、私は奇異なものを見るようなその眼差しを、私の絵でねじ伏せてきた。時に雄々しく時に繊細に、私の筆は口以上にものを語り、いつだって味方をしてくれる。目の前に広がる色さえ拾っていれば世界の主役はまさしく私で、それは揺るぎようのない摂理かのように思えた。

そう、いつだって……。


「のどか! あんたはいつまで寝てんの!」

 荒々しく開かれた扉は汚い色を垂れ流し、無遠慮にともる照明はのっぺらぼうのように白かった。そんな色を見たくなくて布団を頭まで引き上げる。こうしていれば、ほんの少しだけ楽になる。

「今日は朝から大学あるんでしょ! ちゃっちゃと支度しなさい」

 そう怒鳴る母に私は沈黙を返す。これが唯一の対抗手段だっていうのは我ながら情けない。それでも今顔を出せばどんなに嫌な思いをするのか知っていたので、ただ聞こえないふりをするしかなかった。

「……ご飯あるから早く降りてきなさいよ」

 朝の恒例行事はいつも母のため息で終わる。布の向こうに気配が無くなったのを確か、そろそろっと頭を出した。途端に天井から降り注ぐ光に顔をしかめる。LEDの白さはあんまり好きじゃない。

 空気に残る淀んだ色を払うように頭を振りながら、私はベッドを降りた。今日もとんでもなく嫌な夢を見た気がする。世界が狭くて、綺麗で、私が主役だったころの夢。

 ただただ憂鬱になるだけだった。あの時あんなに輝いていた世界はたったの一年と少しで汚くなって、もうどうやって色を拾い上げていたのか見当もつかない。

 それでも時間は歩みを止めず、私も適当な服に腕を通す。いっそのことすべてが停滞してしまえばいいとも思ったが、くすんだ世界に沈み続ける姿を想像しただけで手足が震える。精一杯の気力を振り絞り、廊下に出て階段に足をかけた。こうして時間さえ流していれば、たまに混ざる綺麗な色と出会えるかもしれない。それが自分のもので無いとしても、今の私には恋しかった。

「おはよ、おねーちゃん」

 階段の最後の段から足を下ろすと、そんな声が飛びこんで来る。ころころとしたその声は若緑色をしていて、いつ聞いても褪せるそぶりがない。目を上げると、声の主はトーストをむしゃむしゃと頬張っているところだった。待ちわびていた色だったのに、ビー玉のような瞳にくるくる見つめられて思わず視線を逸らす。

「おはよ、こずえ……」

「なんか元気ないねー! 牛乳飲み!」

 にかっと音が聞こえてきそうな笑顔を湛え、こずえはコップを差し出してくる。大げさに揺れた水面は真っ白で、目にも心にも優しかった。

 私の妹は、可愛い。それは身内の欲目と言えばそうなのかもしれないが、現に男女問わずモテているようなのであながち間違いでもないのだろう。三つ年下のこの妹に宛てたラブレターだって、経由地点として何度も渡されてきたのだ。妬けるほどに人が好く。

 でもそんなちょっとの嫉妬もかき消すくらい、私にとって妹の存在は大きかった。目まぐるしく変わる表情、くるくると輝く瞳、つややかな長い髪、きめ細やかな白い肌、そして何よりあの凛としてそれでいてどこかまん丸い声。そのどれもが鮮やかな色をしていて、傍にいるだけでただ見とれてしまう。それは世界の色が分からなくなった今も変わらず鮮やかで、愛おしかった。

「ありがと」

 受け取った牛乳を一気に飲み干してからそう言う。心地良い乳臭さがすっとのどを通り過ぎていった。

「いえいえ、おねーさまのご機嫌が直るなら何のこれしき」

「別に機嫌悪くなんてないってば」

 ちょっとすねた声を出してみる。ついでに机に並んだトーストをかじってみせれば、なんだか本当に晴れやかな気分のような気がしてきた。サクッと口で反響するその音は、憂鬱なんて全部砕く音。私はそれをまとめて一緒に飲み下す。

「のどか、行儀が悪いから座って食べなさい。こずえはそろそろ出ないと遅刻するよ!」

 台所から母がそう声を上げたが、寝起きよりその煤けた色も気にならなかった。ぶっきらぼうに「はーい」とだけ返事をすると、こずえが小声で「相変わらず仲悪いね」と笑いかけてくる。そんな些細なきらめきが、きっと私を元気にしているのだ。

「これくらいがちょうどいいの」

「ふーん、思春期は難しいね」

「あんたのほうがよっぽど多感な時期でしょ……。そういうとこだけ大人びちゃって」

「まあね、私は精神年齢が高いのさ!」

 ふふんと自慢げな様子が可笑しい。でも大人びているというのは事実だ。正確に言えば、彼女は常に安定している。

 どんな時でも笑って、どんな時でもおおらかで、どんな時でも自信があって、それがあんなに綺麗な色を映し出す秘訣なのだろうか。羨ましいな、と思わずにはいられない。と同時に、そんな強さを持っていた今朝の夢が脳裏をよぎった。残りのトーストを全部口に詰め込んで無理やり希釈する。あんなに美しい夢なのに悪夢でしかないのが悲しかった。

「こずえ、時間!」

「やば、ほんとに遅刻だ」

 こずえが慌てて立ち上がると、ほっぺたに残るパン屑は名残惜しそうにハラリ落ちていく。「自転車のカギどこおいたっけー」とぼやく後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと新しく牛乳を注いだ。いつも通りの朝の一幕、こずえの色を眺めれば今日も一日世界の色と向き合える。

「あったあった。では!」

 鍵を片手に敬礼するこずえに手を振った。満面の笑みで答えてくれて一層視界は華やぐ。

「そういやおねーちゃん」

 一瞬扉を抜けていった若緑の影はすぐさま戻ってきた。廊下から頭だけこちらに戻した体勢は、どこか新種の妖怪のようだ。

「大学で描いてる絵、今度見せてね! 最近見てないからさ」

 ドクン、と心臓が跳ねた。体中の血液は一気に逆流をはじめ、彼らの仕事を放棄する。体はどうやら正直で、関節がうまく動かせない。逆光ではないのに、こずえの顔が笑っているのか判別がつかなかった。

 それは昔は一番好きだった言葉で、今は一番嫌いな言葉。ごうと逆巻く血潮が音を脳まで運んでくる。しかしとてもじゃないけど、その色を直視できなかった。たった一滴の墨が、さっきまで鮮やかだった視界を塗りつぶすのが嫌で、目を閉じる。

口は必死で言葉を探すものの、滑稽に喘ぐことしかできなかった。金魚鉢の金魚のように。

「……いってきます!」

長いのか短いのか分からない沈黙を挟んで、結局その言葉を絞り出すのが精一杯だった。とりあえず鞄をひっつかんで家を飛び出す。玄関前にいたこずえの顔を見ることすらできず、強引に押しのけた。「おねーちゃん!」遠くであの暖かくて澄んだ色が響いてきたが、振り返る勇気はとてもない。もしそれさえ汚れて見えてしまったら……私はそれが怖いのだ。




 吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて……乱れた息を整える。それと同調するように電車はガタンゴトンと揺れていた。通勤ラッシュの電車は人で溢れていて、肺を動かせば動かすほど息苦しくなっていく。それでも呼吸は落ち着かず、私の周りに二酸化炭素の壁が積みあがった。

 思わず駆け出した足は今更震え、湿気を含んだ空気は髪に顔にまとわりつく。どこかに座り込んでしまいたい気分だったが、満員電車はそれを許してくれない。背中と背中と背中に囲まれて、吐いたよりも淀んだ空気を吸う事しか許してくれない。地下を走る車内は、朝なのにどこまでも暗く見えた。

 一駅すぎて、二駅過ぎて、三駅すぎて。距離とともに澄んでいく思考は、ただはっきりと一つの言葉を捕まえて離さない。


「絵、今度見せてね」


 何の悪気もなかったはずだ。いや、むしろこずえは昔のように、ただ純粋に私の絵を楽しみにしていたのだろう。きっとそうに違いない。そんなことは分かっているのに。

 考えてみれば昔から私たちはそんな関係だった。瞳に映る世界を写し取る私の隣で、萌黄色の笑みを湛えたこずえはずっとそれを眺めている。どんな時も「おねーちゃん上手!」と言ってくれるのが嬉しくて、その度に世界の色相環はその輪を広げていった。

 大学に進学するときもそうだ。私が「東京の美大に行きたい」と言っても、父は「今時芸術なんて。つぶしもきかん」「確かにお前は絵が上手いかもしれないが、それで食ってはいけないだろ? 趣味じゃだめなのか?」と取り付く島もなかった。母は「上京なんかして悪い人に引っかかったらどうするの」とこれまた頓珍漢な言葉しか返してこない。いくら夢を語っても、いくら今までの功績を振りかざしても、一向に首を縦に振ってはくれなかった。

そんな絶望の中でこずえだけは「私おねーちゃんの絵好きだよ。もっとたくさん描きなよ!」といつものあの調子で言ってくれたのだ。その言葉と笑顔がどれだけ明るい暖色をしていたことか。

結局子供は無力で地元の総合大学を受けることしかできなかったが、それでも自分とこずえのために美術科という居場所はもぎ取った。願書を出す時、父はいい顔をしなかったけど、公務員目指すよと言っておけばひとまず頷いて判子をくれた。それが本当に嬉しくて、朱色の印影が今まで見たどんな赤よりも鮮やかだったのを覚えている。

大学生になったらずっと絵を描いていよう。才能と努力で世界の全部を描いてやろう。絶対に私は私の絵で、この世界の色を描いて成りあがってみせる。だって私には色が見えるんだから。ずっとそう思っていた。一年生の秋には絵を人に見せるのが怖くてたまらなくなってしまうなんて、微塵も思わずに。

「まもなく盛山―、盛山」

 そのアナウンスにはっと顔を上げる。いつの間にか大学の最寄り駅についていた。そっと鞄を開いてみると、あれだけ咄嗟に家を出たのにスケッチブックは忘れていない。一年生の春から使っているそれは、途中までしか埋まっていなかった。もうしばらく開いてもいない。そのくせ目に刺さる存在感が、やけに重たく肩にのしかかる。その重量に未練がましさが滲み出ているようで、なおさら肩が外れそうになった。

絵を人に見せるのが怖いのに、絵を描くことをやめるのも怖いし惜しい。そして何より、こずえすら疑ってしまう自分の心が、排水溝から流れ出た汚水のような色をしていて見るに堪えなかった。それなのに体裁だけは毎日大学に通う自分を、まるで筆を握ったゾンビのようだと胸の内であざ笑う。

 電車は目的の駅に近づくと途端にのろまになって、ぷしゅーと気の抜けた音で呼吸する。そして数秒の沈黙の後、どっさり人を吐き出した。私はその嘔吐に逆らえず、ホームに放り出される。後ろを振り返るとあれだけ吐いたのに、電車はまた人を飲んでいるようだった。

 人の波に流されて地上へ地上へとただ急ぐ。この道のりの先には改札しかない。そんな退屈な旅は嫌なのに、逆らう体力も気力も何一つ持っていなかった。

 大勢の革靴の音も、エスカレータの稼働音もすすけた茶色をしていて、見ているだけで気が滅入る。そっとこぼしたため息はそんな色に絡まって、さらに視界の彩度を落とすだけだった。

 徐々に近づく地上からは湿った藍色とサラサラした音が流れ込んできて、その時ようやく、周りの人間が手元に大小さまざまな傘を持っていることに気が付いた。慌てて家を出た私はもちろん、そんな文明の賜物を持っていない。

最悪だ、誰も恨めず心の中がまた濁っていく。こんな時、世界や神を憎めたら楽だろうに、まだその色彩の豊かさが網膜にこびりついていて気が進まない。呪詛の言葉を吐いたら最後、二度とあの色彩は戻ってこないんじゃないか、そんな予感があった。

改札へ押し出され、構内を抜け、気付けばもう一歩で屋根が無い。慌てて端へ飛びのく。さっきまで静寂に満ちていた人間は、ようやく声帯を思い出したのか途端に空気をざわつかせ始めた。喧騒は渦を巻き、上って空へと吸い込まれていく。

つられて視線を上げれば、梅雨の雨は冷たく強く、ざあっと視界を煙のように阻んでいた。その圧倒的な迫力を前に途方に暮れる。

いっそのことこのスケッチブックを傘代わりにすれば。雨がそう囁いた。どうせ大した絵なんて描けないんだから。

こんな小さな紙の束ではどうしようもなさそうな雨でも、もしかしたらと右手が鞄へ伸びる。頭では馬鹿なことをしようとしていると分かっているのに、右手が鞄に伸びる。

その時だった。

「もしかして傘なくて困ってる?」

 不意に後ろから声をかけられる。ビクッと体を震わせると、中途半端に伸びた手は宙を舞った。

 顔だけ不自然に後ろへ向ければ、妙に爽やかな笑顔の男が水色の傘を手に持って立っていた。明るいくせっ毛が、湿気を重たそうに抱えている。年のころは私と同じくらいだろうか。大きくも小さくもないその身長と体格は、何となく親しみやすさを醸し出していた。

「は、はぁ……」

 とはいえ、突然のことでこれだけ返すのが精一杯だった。それに彼が現状不審者であることには変わりはない。微かな警戒心も言葉に乗せる。

「やっぱり? ちょうどよかった」

 それに気付いてか気付かずか、あくまで彼は気さくに距離を詰めてくる。じりりと後ずさりたくても、屋根のない空間まであと半歩も無かった。これが本当の背水の陣か、と頭の中で独り言ちる。

 そんな私にお構いなしに彼はなぜか嬉しそうだった。持っていた傘をぐいっと差しだされ、思わず受け取る。

「これ貸すよ」

「貸すって……私あなたのこと――」

 そう言いかける私を遮るかのように、彼は手のひらをこちらに向ける。そして突如意味深な笑みを一層深くして「うおー!」と叫び声をあげると、雨煙の中へ駆け出した。手元には呆然とした感情と、男物にしては少し可憐な青い傘と、残り香のような鮮やかな梔子色だけが残される。

「知らないのに……」

 あっけにとられた口から漏れ出たその言葉は空気を漂い、やがて雨に交じって地面に落ちる。それはすぐに地面へ溶けていってしまい、後には濡れた地面と喧騒が私の周りを取り巻くだけだった。

 どれだけ呆けていただろうか。目の前をてんで不規則に何本もの傘の花が咲いては流れてゆく。たっぷりと水をたたえた雨雲は分厚く黒く、当分止みそうなようには見えない。

「どうしよ、これ」

 思わず独り言を漏らした。とは言ったものの降り続ける雨と半ば押し付けるように貸された傘、使わないというのも少々気が引ける。とりあえず雨に向けて開いてみると、ぼっという音を奏でて水色の花を咲かせてくれた。同時に開いた傘の内側から大きな紙が落ちてくるのを目が捕らえる。

 反射的に手を伸ばす。紙はふわふわ宙を舞い、おとなしく手中に収まった。少し乱暴に掴めば、湿気でよれたそれはいとも容易くしわしわになる。

『用があればこちらまで。』

 大きな紙には大きな文字でそう書かれていた。困惑はさらに深まり、眉間が皴を大量生産するのが手に取るように分かる。よく見ると紙にはそんな言葉と一緒に、ご丁寧に電話番号と『葦原』と署名まで記されていた。

「なんなの……」

 雨の音がいつもより耳にこだまする。じっとり水気を含んだ私の髪が重い。

その字は雑で、角ばっていて、湿気でにじんで汚れていた。しかし色は何故か煌めき、心は静かに、それでいて確かに震える。不思議とずっと見ていたいような色だった。暖かく、堂々とした綺麗な色だった。

とりあえず紙を無くさないように、ジーンズのポケットにしまい込む。雨脚は強まるばかりだが、さっきまでの暗い気持ちはちょっとだけ晴れていた。自分の単純さに少し呆れる。

お礼の電話くらいしてみようかな。

私は傘を肩にかけると雨の中へ一歩踏み出した。咲き乱れる花は揺らめいて、すぐさま藍を受け入れる。進めば進むほど色は入り混じり、それでも私の手から伸びる青い花は一層優雅に咲き誇る。

そうして意識が雑踏に埋もれるその間際、水たまりに飛び込んだスニーカーが、足元でポコッと間抜けな声で鳴くのが聞こえた。まるで蛙みたいだ。

褒めてはいない。




 梅雨を侮るべからず。そう実感したのは大学の講義室に着いてからだった。足元はすっかり濡れて、歩くたび床にしみを作っている。それでも上半身は家を出たまま乾いているのは、借りた青い傘のおかげだろう。

まだだれも来ていない講義室はやけに広くて、こうやってしみを増やしていると、なんだかとっても悪いことをしている気分になった。がらんどうの主になった私は、誰が見てるわけではないのに足元のしみを伸ばして誤魔化してみる。結局余計にひどくなり、やらなきゃよかったと気落ちした。

 私は自分の席に荷物を置くと、ぐしょぐしょのスニーカーでぐるっと部屋を練り歩く。水を含んだ足音はぱこぱこ響き、この一人ぼっちの空間の隙間を埋めてくれる。

講義室、そう言うと高校時代の友達は皆、椅子と机が整然と並んでいる部屋を思い浮かべるらしい。しかし私の知っている講義室はここだ。あちらこちらにいくつも立ち並ぶキャンバスと、決して座り心地がいいとは言えない木製のもろい椅子。油やアクリル絵の具の匂いが混ぜかえり、息の詰まるような、それでいて安心する空気に満ちている。色は空間を漂い流れ、まるでキャンバスに乗せられるのを待つかのように、混ざったり離れたりを繰り返す。

それらが支配しているこの空間が、私の知っている全てだった。

もちろん大学に入って一年以上、ずっとここで絵を描いていた訳ではない。でも絵を描くために入学した私にとって、ここ以外はあまり印象に残っていないというのも事実だった。それは、芸術の世界についていけなくなりかけた今も変わらない。むしろどうにかついていこうと醜くしがみつき、印象はより強くなる一方だった。雑然と整頓された色たちは、苦しみの数だけ脳の髄に染み渡る。

 静かな部屋はまるで眠っているかのように息をひそめていた。気まぐれに私は、そこに点在しているキャンバスを一つ一つ、値踏みをするように見て回る事にする。耳にはまだ今朝のこずえの言葉は残っていたが、それでもいつもよりちょっとだけ気分が良かったのだ。それはきっと、久しぶりにこずえ以外の純粋な鮮色を目の当たりにしたからに違いない。

何となく軽い足取りは、キャンバスからキャンバスへと私を運ぶ。ある日からここに集う同期の作品を鑑賞するのを避けてきた目にとって、なかなか新鮮にそれらは映った。

 一つ見ては目をそらし、もう一つ見ては顔をしかめ、一歩一歩足を進める。すでに平らに均された心はしなび、どれもが傑作のように見えてしまう。私には描けないような素晴らしい作品の数々。それらはあまりに眩しくて、私の影をひときわ濃いものにした。そんなものに囲まれていると、嫌でも気が滅入る。見知らぬ傘で上向いた感情は、たちまち俯き気味になってしまった。

 やっぱりもうおとなしく席に着こう。そう思った時、視界の端で何かが光る。ぱっと目をやって思わず息を飲んだ。

 ああ、これは……。

 立ち去らなきゃ。そう思ったけれど、足はそのキャンバスの前で硬直してしまって動かない。目に入った瞬間、後悔の念が頭を駆け巡った。うかつだった。変な気なんて起こさなければ良かった。そう思っても、もう遅い。

どこか異郷の山々を描いた風景画。素朴でいてもはっきりと描かれたそれは、迷いのない色をしている。その美しさに心を奪われた。無意識に作者の名を探すが、まだ未完成品なのか、署名は見つからない。

これはきっと。脳裏に浮かんだ名前を、私は無理やり抑え込む。今はこの衝撃をただ受け止めていたかった。モチーフは決して物珍しくはない。それどころか凡庸で、それなのに吸い寄せられるような魅力と迫力をはらんでいた。

 こんな絵が描けたら。まっすぐ引かれた筆跡は、世界の色たちをきっちりまとめ上げている。きっととんでもなく楽しいに違いない。

そんな思いが頭をもたげた。目を凝らせば凝らすほど、キャンバスは視界に大きく広がって、その存在感で私をいっぱいにする。

「どうこの絵?」

 ひたすらぼうっと眺めてどれくらい経っただろう。不意に耳元で声が響いた。思わず「ひゃあ」と声を上げて飛びのくと、「ひゃあ、だってー」と声の主は無邪気に笑う。

「森さん、だっけ」

 そう顔をのぞき込まれる。肩で揃えられた髪がさらさら揺れるのが目に入った。耳から上だけ黒くなった明るい茶髪は、まるでプリンのように目の前で踊る。

私がまだ暴れまわる心臓を抑えつつこくこく頷くと、彼女はほっとしたように息をついた。

「良かった! あんまり話したことないもんね。もう二年生になってしばらく経つのに」

 あくまで笑顔で話しかけてくる彼女の目を、私はどうしても見ることができなかった。「そうだね」と口を濁す。

 村田朱莉。この絵はやっぱり彼女のだったのか。そう知ったとたん目の前で山々が色あせていく。さっきまでと構成する色は何も変わらないはずなのに、その変化は著しかった。目に下ろされたフィルターは、こうして世界の色を汚く濁らせる。

嫉妬、不信、劣等感。瞳は曇る一方で、私はもうずいぶん前から心に惑わされず、純粋に色を判断できなくなってしまっていた。その事実を久しぶりに突きつけられ、こっそり奥歯を噛み締める。

 初めて衝撃を受けたのは一年前の春だった。あの頃自信に満ち溢れていた私は、最初の授業で片っ端から同期の絵を見て回っていた。生意気にも自分が一番才能があると信じていた。私は誰よりも絵を描くために生まれてきた、そう信じていた。

しかしそんな思いはしょっぱなから彼女の、村田朱莉の絵を見た瞬間に吹き飛ばされることになる。

どこか知らない神社をただ描いただけの小さな絵。何の変哲もなさそうなそれを、いまだに忘れることができない。鉛筆と紙のたった二色、それだけしか使われてないのに私の瞳にはぶわっと幾万もの色が流れ込んできたのだ。強くたわみ弱くしなる線は、一本一本が飛び出さんばかりの生命力を主張する。そのどれをとっても初めての経験だった。結局私はその時も、息ができなくなったのかと思うくらい、呼吸も忘れてそれ眺めることしかできなかった。

 これが同い年の人間が描く絵なのか。

 自信は粉々に打ち砕かれた。追いつくために見えている色をどんなにどんなに写し取っても、遠く及ばない。筆を取れば取るほど色の描き方は分からなくなって、すぐに自分がどれほど井の中の蛙だったのかを思い知った。

 日々尽きていく絵への想いと、濁る視界。焦れば焦るほど筆は遠のき、いつのまにかあんなに好きだった描くことさえ、苦痛を内包するようになってしまう。そうするとますます描けなくなって、やがて気が付くとあんなに鮮やかだった世界は見る影もなく、ほとんどが雨上がりの川のように泥まみれになってしまっていた。

 講評のたびに褒められる彼女の横顔を何度見てきたことだろう。教授はもちろん手放しで褒めることはなかったが、それでも「いい出来だね」という言葉は彼女だけのものだった。「ありがとうございます」という彼女の言葉は、いつも少し物足りなげでそれが余計に私の身をえぐる。

 対して、とりあえず絵の体裁を整えた何か。それが自信を失った私にできる限界だった。曇った目で描いた世界はさほど新鮮じゃないし、ただ感性に任せてこれまで描いてきた私には目を見張るような技術もない。「なるほどね」と言ったきりしばらく黙る教授の前で、絵を同期に晒しながらひたすら待つのはみじめで仕方なかった。結局幾つかの問題点を指摘され、作品の価値が定まる。そうすると周りの人間の沈黙が「あれは大したことないね」と囁くのだ。

それは次の人の講評に移っても薄く大気に滲み出て、酸素の居場所を少しずつ奪う。否定が怖くて、これ以上自信を失うのが怖くて、次第にほとんど人に絵を見せることはできなくなってしまった。あんなに昔から絵を見せて、あんなに褒めてくれたこずえにだって、もし否定されたらと思うと勇気がわかない。そんなことはないはずだって、言い切る自信はもうどこにも残っていなかった。

私を叩きのめした村田朱莉は、どこに不満があるのだろう。あの素晴らしい絵ではだめなのか。私はあなたが満足できないその絵すら、描けずに苦しんでいるのに。それなのに。

「でさ、この絵どう? なーんかいまいち決まんないんだよね」

それのどこが気に入らないの? どうして私を苦しめるの? 喉から出かかる言葉を必死に飲み込む。嫉妬は醜い渦になって空気中に漂う色を巻き込み、手が付けられないほど汚染は広がる。

完全なる逆恨みだった。自分の才能のなさに嫌気がさして、それで人の才能を嫌悪する。そんな自分が、私は大嫌いだ。

「……このままでいいんじゃないかな」

か細い声で答える。「とても綺麗だと思う」言いたくない言葉は息に混ぜてそっと押し出す。

「そう? へへへ、ありがと!」

 屈託ない笑顔に打ちのめされた。この笑顔は褒められるのに慣れている笑顔。自分への自信に裏打ちされた笑顔。だからこんなに眩しくて、あまりに残酷だった。こんな顔で笑えた一年と少し前が、生まれるよりずっと昔のことのようでうまく思い出せない。

「いやー、森さんっていつもすごい真剣に私の絵を見てくれるからさ、ずっと気になってて。一回話してみたかったんだ!」

「そう、なんだ……」

 愕然とする。あの衝撃が態度に表れていたとは思っていなかった。人前ではなるべく冷静に振舞っていたつもりだったのに。知りたくなかった事実を突きつけてくる声の明かりが、輝かしくて胸に痛い。

それは光栄なことで、心の中で強がりながら嫌味を言ってみた。しかし声には出せなくて、行き場のない言葉はドロドロに溶け、毒々しい色を放ちながら胸にこびりつく。

「今日はなんか用あったの? いつもはこんなに早くないよね」

「いや特に何もないんだけど。村田さんは?」

 一生懸命声を取り繕う。話すのが、彼女を知るのが怖い。嫌なら適当に会話を切り上げればいい。それは分かっていたが、邪険にする強さも無くて、ずるずると会話は続く。

「私はちょっと手直ししようと思ってね。てっきり森さんもそうなのかと。ほらそろそろ締め切りヤバいしさ」

 手直し、その言葉を受け私は彼女の作品をもう一度仰ぎ見た。相変わらずそこには完璧に見えるキャンバスが鎮座していて、見ていられずにすぐ視線を逸らす。これの何が不満なのか。ふつふつと湧き上がる感情は、全部の絵の具を混ぜた黒色で、もしかしてと言葉を紡ぎだす。

 もしかして、私を馬鹿にしてるのでは。

 一度染み出した思考は急速に漏れ出て広がり、周りの空間はスポンジのようにそれをぐんぐん吸収する。たちまち目の前は真っ黒に埋め尽くされて、絶望的な気分になった。

 大した絵を描けない私をからかって、笑ってやろうとしているんだ。悩んでいるふりをして、腹では馬鹿にしているに違いない。確信めいたその言葉が、違和感なく頭に居座る。

「それで十分でしょ……」

がさついた声を振り絞る。今自分がどんな顔をしているのか、気にする余裕は無い。

一刻も早くここから立ち去りたかった。暖かい布団の中に、誰もいない机の下に、どこでもいいから逃げ込みたかった。

まぁ森さんの絵よりはねー、そんな幻聴が頭の中を右に左に飛び回る。だから彼女の次の言葉が、最初はうまく理解できなかった。

「いや、これじゃだめだよ」

 それはひどく青い声。それも氷のように澄んだ白緑。

 思わず息を飲んだ。その一瞬の表情は、どこか苦しそうに強く輝く。しかしそれは瞬く間に掻き消えて、後には何もなかったかのように天真爛漫な笑顔が顔を出す。

 そこに恐れていた嘲りの色は、全く見出せなかった。むしろ想定外の色彩に面食らう。

「まあ今はそんなことは置いといて。それよりもさ」

 一転、声に黄色の光を乗せて、彼女は真っ直ぐな眼差しで私を見つめる。

「森さんは今どんなの描いてるの?」

 あ。今朝と同じように体中の血液が喚きだす。ぐるぐる回る血流は、全く言うことを聞いてくれない。この先の言葉は絶対……脳が考えるより早く、脊髄は言葉を伝達し、

「見せ――」

「いやだ!」

 気付いた時には、そう覆いかぶせるように言葉を重ねていた。しいんと静寂が脈を打つ。はっとして彼女の顔を見ると、心底驚いたように目を見開いて固まっていた。人懐っこい笑顔は、形だけ保ってその色を失っている。

やってしまった。一気に顔の血が引いていく。沈黙は私たちの間に分厚い幕をたらし、黙れば黙るほど取り返しのつかない距離が開いていくのが分かる。

「いや、あの……」

 慌てて言葉を探す。朝から同じような事をしてばっかりだ。ささくれ立って錆のように赤茶けた私の心は敏感で、些細な衝撃に牙をむく。

 凍り付いた時間は動きを止めて、空気は彼女の鼓動が聞こえそうなほどに透き通る。お互い一歩も身じろぎできず、しばらく停滞だけがそこに横たわっていた。

「ごめん……」

 沈黙を破ったのは私、ではなく村田朱莉の方だった。一向に言葉を紡げない私の前で、彼女は小さくそう呟く。その言葉は私が言わなきゃいけない言葉だったのに。本当に申し訳なさそうに項垂れるその様子は、なけなしの罪悪感を呼び起こす。

 何か言わなきゃ。焦って舌は絡まるばかり。そうしている間に講義室へ他の生徒が何人か、まとめて入ってきた。一瞬空気が緩んでほどけ、体の自由が戻ってくる。

それに乗じて私は彼女に背を向けた。追う視線を強引に引きちぎり、自分の席へまっすぐ向かう。いつも逃げてばっかりだ。そう胸の内で声がする。それを必死に無視することで、心は無色に平らになった。

 背後で追う彼女の気配が、誰かに話しかけられているのが微かに聞こえる。それに感謝すらして私は席に着いた。時を積むごとに人は増え、それが強固な壁となって私を守る。それでも時々遠くから感じる視線は、やがて講義が始まってもなお確かに絡みついて離れなかった。

 それを全部無視して断ち切り、真っ白なキャンバスを九十分間ただひたすらにらみ続ける。そんなことをしても絵は浮かび上がってこないけど、黒に黒を混ぜたような感情をぶつける相手が欲しかった。

 誰にも話しかけず、誰にも話しかけられず、自らの殻に籠城してただ時が過ぎるのをじっと待つ。やがて講義が終わると、潮が引くように人は消え、始まる前と同じように絡みつく視線と私だけが残された。

 その視線の主を、私は確かめることができない。寄せては引くように私の近くを漂う気配は、二限のはじまる少し前になってやっと消えていく。

どうしても振り返ることができなかった。もしそこに村田朱莉が居たら、今度こそ瞳は溺れてしまう。そんな確信があったのだ。

彼女に悪意がないのだとしたら、醜いのはきっと私なのだから。誰もいない講義室。静寂と色に満ちたその場所を、そっと後にする。スケッチブックを置き去りにして。




 湿った廊下をあても無く彷徨う。ずるっと滑って転んで、借り物の傘を杖代わりに何とか立ち上がった。二限が行われている構内は静かで大きく、巨大な生物の胃の中に迷い込んでしまったのかという錯覚に陥りそうだった。

 逃げるしか、なかったんだ。自分にそう言い聞かせてみる。けれど潮騒のような沈黙は「お前が悪い」と何度も何度も責め立ててきた。

 それは何も間違っていない。自信のなさは猜疑を生んで、好意も善意もすべてをくるみ、真っ黒に染めあげる。結局世界は昔から変わらずに、私の瞳がただ汚くなっただけなのだ。こんな醜い心になってしまっては、もう二度とあの頃のような無邪気に世界を見つめていた時代には戻れっこない。そんな絶望感が足元から這い上がってきた。

 降りやまない雨によって増幅された湿気は、体にまとわりついていつもより一層足取りを重たくさせる。無理やり引きずってどれだけ歩いても、大学の構内に居場所は見つからなかった。ただできもしない芸術に捧げた一年と少し。気が付けば学科に友達は一人もいなかった。部活にもサークルにも所属してこなかった私は、まさにこの空間で天涯孤独そのもの。それがたまらなく苦しい。

 誰かと話したい。誰かに認められたい。

 そんな思考はどんより脳からはみ出して、床にぼとりと落ちていく。熟れたそれは、腐った果実のように甘ったるい異臭を放っていた。あてもなくただ歩く私の背後を、ぐずぐずの思考は吐き気を催す色で彩る。一歩足を進めるごとに腐敗は空間をむしばみ始め、目に映る景色は下水のような淀みをまとう。

 孤独を思えば思うほど乾いていく心は、ポケットの中に手を伸ばす。自分本位な思いは紙を掴んで、しわくちゃに握りしめた。

 電話を掛けてしまおうか。

 この紙に書かれた色に、縋る思いが湧き上がってくる。消えかけの理性は「また傷つくかもよ」と警鐘を鳴らすけれど、私は自分の一番醜い部分を目の当たりにして、どこか吹っ切れたような感覚に陥っていた。今更孤独に強がってみせて何の意味がある。自信も曇りのない瞳も失って、これ以上さらに何を失うものがある。そんなことよりも、手っ取り早い安らぎが欲しかった。

もはや手元を制御する術は残っていない。これはお礼の電話。大義名分は大手をふるって思考を鈍らせ、私はただ自分の為だけに番号を押す。

プルルルル、呼び出し音が頭蓋骨に響き渡った。永遠かのような一瞬、息をつめてじっと待つ。

「――はいもしもし。葦原です」

 しばらくして機械的な雑音の少し後、耳にあてた携帯電話はそんな言葉を発した。それはスピーカー越しでも明快で、あの文字と同じ色をしている。

 束の間後ろめたさが口を塞いだ。しかし開き直った私の心は鈍感で、すうっと息を吸って言葉を紡ぐ。

「あ、あの、森という者なんですけど」

 今は自分の為に、確かな鮮やかさが必要なのだ。




 その後はとんとん拍子に話が進んだ。いつもの私なら多少なりとも尻ごんでいたはずだろう。しかし半分自暴自棄になっていたのもあって、その日のお昼には傘の持ち主と、葦原と名乗る男と喫茶店で会うということになった。もちろんお礼を言いたいという名目で。

 電話口での挨拶がてら、不用心にもお互いの自己紹介を済ませた私たちは、同じ大学に通う学生同士だと知る。いつの間にか雨は霧のように細かくなって、それを眺めながら私は喫茶店の前で青色の傘を携えていた。

「こんにちは! 待たせちゃったかな」

 しばらくして駆け寄ってきた男はそう声をかけてきた。改めて顔を見ても相変わらず知らない人ではあったが、その声に、柔らかそうな髪に、見覚えがある。

「いえ、私の方こそ急に連絡してしまってすみません」

「いいよいいよ。俺暇だから」

 気の良さそうな笑顔は、やはり綺麗だった。雨の中で冷えた肌に暖かい。

 とりあえず入ろうか、そう促されて店内に進む。シックで落ち着いた内装は、それでいて気おくれを感じさせない確かな懐かしさがあった。そんな雰囲気は知らず知らず緊張していた私の全身を、ゆっくりほぐしてくれる。

背の高い店員に案内されて、私たちは窓際の席についた。ぶ厚い窓越しに雨音は微かなメロディーを刻み、豊かな色となって場を満たす。

「いやぁ、わざわざ電話くれてありがとね」

 彼はそう言うと、テーブルに置かれたお水を一気にあおる。ごつごつしたのどが上下にうねった。その動きを眺めていると、彼は気が付いたのか照れくさそうな笑みを浮かべる。言い訳がましく「この店水が美味いんだよ」と呟いた。それに促されて口をつけてみて驚く。本当だ、おいしい。

「大学同じなんだよね? 今何年生?」

「二年です」

「じゃあ俺のほうが一年先輩だね。改めて、国文科三年の葦原裕也です。よろしく」

「あ、美術科二年の森のどかです。よろしくお願いします」

 お互い丁寧に頭を下げた。静かな店内にはほかの客の姿はない。この席だけが明るく華やいでいて、その輪の中に自分もいるのかと思うと少しだけ場違いのような気がしてくる。

「じゃあ森っちゃんって呼んでいい?」

「はぁ……」

 元気な人だなと思った。それは駅での僅かな邂逅の際にも感じたことではあるが、こうして直接話してみて確信に変わる。

この人は、こずえと同じ人種なんだろう。堂々としていて、私にはない溌溂とした色を持っている。それでいて決して不快ではなくて、むしろあの子と話しているときと同じような安らぎが、そこにはあった。

「よっしゃ! 決まりね」

 彼がそう言ったところで、さっきの店員が注文を取りに来た。葦原さんとはどうやら顔なじみらしく、親しそうに軽く会話をしている。そんな横顔にはどこにも影がない。

 梅雨の空気をめいっぱい吸ったくせ毛が重そうにたわんでいる。笑うたびに赤に黄色に目まぐるしく変化するその色は、はじけて宙を舞いそこかしこを鮮やかに彩った。今朝は急でじっくりと見ることができなかったが、こんなにも輝く存在だったとは。どうりで字すらも色づくはずだ。自分とは遠い世界の住民だと半ば感心する。

「――森っちゃんはどうする?」

「え?」

 つい見とれてしまっていた。意識を戻すと葦原さんと店員さん、四つの瞳がこちらを見つめている。その視線すらも優しい色をしていて、妙に居心地が良かった。

「注文。コーヒーだめ?」

「いや、大丈夫です!」

 慌ててそう答える。コーヒーは苦くてちょっと苦手だったけど、今日は空気の柔らかさのおかげで飲めるような気がした。

「じゃあ俺と同じブレンドコーヒーで」

 注文を受けた店員は「彼女さんにもブレンドね」と伝票にペンを走らす。「違うって」と言う芦原さんの言葉を受け取らず、店の奥へと去って行ってしまった。

「ごめんね。あいつ自分が彼女持ちだからって、すぐああいうこと言い出す奴でさ」

 その言葉にぶんぶん首を振る。むしろこんな内向的な人間を彼女だと思わせてしまったことに、申し訳なさを感じた。私はこの輝かしい人間の、色彩をほんの少し分けてもらえたら。それだけで十分だった。

そして汚くなってしまった瞳を通してでも、わだかまりなく綺麗だと思えるこの空間に心底安心する。そんなわけはないはずなのに、自分の汚れが拭い去られてしまったかのようだった。

「あの、傘ありがとうございました。今日はまだ濡れてますし、後日ちゃんと干してからお返しします」

 まずはお礼から。色に浸るにも大義名分をまずは果たしておきたかった。

「どうも。ま、あげるつもりで貸したから返すのはいつでも大丈夫」

 そう朗らかに笑ってくれてほっとする。勢いで会いに来てしまったため、お礼の言葉を言うくらいしかできることはなかった。それでも邪険にせず向き合ってもらえるのが嬉しい。

そんな私の心情にはお構いなしに、葦原さんは「それよりも」と声のトーンを少しだけ上げて話し続ける。

「俺さ今回みたいに連絡先入りの傘貸すの、これで三ヵ月目、通算八人目なんだよね」

 あくまでハキハキと紡がれる言葉に少し目をむいた。常習犯だったのかという思いがよぎるが、それでもあまり不快には思わなかった。それはきっと、どうしても彼に悪意のあるようには見えなかったからだろう。

「……もしかしてこれ新手のナンパでしたか?」

「そんなつもりじゃないんだけど、やっぱそう見えちゃう?」

 肯定も否定もできない。確かに連絡するにはいささか怪しすぎる気もする。色が見えない人の視界は知らないけれど、この行動が無色だったら怖いかもしれない。私だって、あの鮮やかさを渇望していなかったら番号をコールする勇気が果たしてあっただろうか。うまい言葉が見つからなくて、小さく首をかしげて誤魔化した。

「いやね、こうやって連絡くれたのは森っちゃんが初めてなんだ。正直自分でも怪しい気はしてたし、むしろなんで連絡くれたのか気になる。なんで?」

 声を弾ませながら向けられる、まっすぐな視線に絡めとられる。問われた理由は明白で、だからこそ口ごもった。

「なんでってのは……強いて言えば話したかったからですかね……」

薄氷を踏むように言葉を選ぶ。決して踏み抜かないように、慎重に慎重に。不純な動機も隠してしまえばきっと気付かれない。

「あとは色が綺麗だったから……」

 掻き消えそうな声しか出せなかった。ぎりぎりまで言おうか迷った言葉は、口の端から転がり落ちる。大学生になってから、色の話を誰かにするのはこれが初めてだった。

こんなタイミングで二人分のコーヒーが届けられる。苦みの乗った湯気は視界を一瞬烏羽色に覆って、すぐさま大気に溶けて消えた。

「色?」

 熱いカップを両手で抱えて、葦原さんは不思議そうな声を上げる。話して分かってもらえるだろうか。一抹の不安がよぎるが、同時に話さないという選択肢も何故だか浮かんでこなかった。きっとずっと誰かに話したかったのだ。話して、それを認めてもらいたかったからに違いない。

「私、色が見えるんです。景色にも音にも色がついていて。世界は色で溢れているように、見えます」

 それが今はほとんど見えない、とは言いたくなくて言葉を止める。ちょっとだけ見栄を張りたくて、それは言わないことにした。それくらいは許されるだろう。

「葦原さんの場合は字の色がとても綺麗な柑子色で……それでこんなに堂々とした色を持っている人と会って話がしてみたかったんです」

 嘘はついていない。とはいえ下手に真実を曝すつもりもなかった。せっかくの落ち着けるこの空間に、黒い雫をたらしたくはないのだ。

「俺ってそんなに堂々として見える?」

「はい。とっても明るく真っ直ぐな色にあふれていて」

 憧れそうです。そんな言葉は恥ずかしくて口の裏に隠した。それに「そっかー。明るく見えるか」と応える葦原さんの顔は、どこか安心したような、気の抜けたような笑顔を作っていた。それが一層輝かしい。

「それにしてもなるほどなー。面白いしすごいじゃん! 俺そんな人初めて会ったよ」

 その言葉は陰りなく私を照らし、柔らかい薄紅でそっと包み込む。電話してみて良かった、そう思った。この優しい色をした空間が、丸ごと私を肯定するようだ。

「それで美術科なんだ?」

「まぁそうですね……」

 少なくとも初めの動機は。あの時の希望に満ちた私はもうどこにもいないけれど、色をもっと描きたくてこの道に進んだのは事実以外の何物でもない。

「へー、じゃあ将来は大学出て画家とか目指してたりすんの?」

 急に風向きが怪しくなってきたのを肌で感じる。そうなんです。一年前の自分ならそう答えることができただろうか。

「あ、いや……」

 胸の中に様々な思いが行ったり来たりを繰り返し、やがてそれは一つの形になってごろっと転がり出る。

「もう私……大学辞めようかな、なんて」

 ずっと押し隠してきた想いだった。口に出した途端、それは既成事実化のような顔をする。まるで随分前から決心していたかのように、すんなり心臓は受け入れた。

置いてきたスケッチブックが脳裏で揺らめく。あの瞬間から、予感はあった。だからこそずっと持ち歩いていたスケッチブックと、あそこで別れてきたのだ。

「私才能ないし、こんなとこに居ても無駄だったんですよ」

 言葉にしてようやく楽になれた気がした。一気に胸のつかえが取れていく。なんでこんなに苦しい思いをしてまで、芸術にしがみついていたのか。ちょっと目を上げればもっと楽な生き方が、もっと生きやすい人生があるじゃないか。絵の道を諦めて、色を見ないようにそっと目を閉じて生きる。そんなに簡単なことでこの苦しみから救われるんだ。

「いや、そんなことは言うもんじゃないよ」

 しかし浮きたつ気持ちは次の瞬間、葦原さんの言葉に引きずり降ろされた。どうして。反射的ににらんでしまう眼光を、私は制御することができない。

「大学を辞めるとか、そんなことは俺が決められることじゃない。まあ好きにすればいいと思うよ。けどさ、才能ないなんて言葉は軽々しく言っちゃダメなんだ」

 意志の強い瞳に射抜かれる。それは恐ろしく重厚で、とても正面から受け止めることはできなかった。

「芦原さんは……何も知らないじゃないですか!」

 どうにかそんな言葉を喉の奥から吐き出す。自信を失う苦しみも、描けない苦しみも、世界の鮮やかさを疑ってしまう苦しみも。知らないじゃないか、と。

さっきまでの居心地の良い店内は、もう見る影もなかった。声は形になって粘りつき、すぐに視野を泥のように覆う。

「まあね、俺はなんも知らない。何なら森っちゃんと知り合ってからまだ半日も立ってないしね。森っちゃんが実際どんな絵を描くかなんてのも知らない」

 そんな私の目の前で、葦原さんは淡々と言葉を重ねる。それは曇った目のせいで彩度を落とす世界の中で、何故だか強く藍の光をまとって色あせない。

「それでも才能がないって言葉にして欲しくないんだ。そうやって言ってしまったら、本当に無くなっちゃうから。それでも良いの?」

 ぐっと目をのぞき込まれる。

「言葉は呪いだよ」

 答えることができない。さっきまで手放そうとしていた描くことも才能と呼べるのかも怪しい力も、突然惜しくなってくる。いや、ずっと惜しがってここまで来たのだ。一度迷えば気持ちはまた、離れる決心を失う。

「でも私にはもう、昔のように鮮やかには世界は映らないんです……。世界は変わらずそこにあっても私の目が汚れちゃっていて、どうしても淀んだようにしか見えないんです」

 言いたくなかった言葉がぼろぼろこぼれ出る。言えば言うほど自分のみじめさを突きつけられるようで、胸が痛い。それでも口は閉じようとしても閉じてくれなかった。

「それは私が醜いせいで、なんでもすぐに疑って、世界の色を信じていきれないせいで」

 止まらない。

「本当は綺麗な色でさえも全部、全部私が汚してしまうんです! そんなの嫌なのに。だから私には才能が――」

 そこまで言ったところで、割り込むように声が入ってくる。

「いいじゃんそれで」

 はっと顔を上げた。見ると、葦原さんはあっけらかんとした顔でそう言い放っていた。

「これは俺の自論、ではあるんだけどさ」

 コーヒーカップを左右に揺らしているのが目に入る。その動きには迷いが無くて、彼の言葉にも迷いが見つからない。

「人ってちょっと醜いほうが魅力的だと思うよ」

 この言葉を聞いた時、私はどれほど間抜けな顔をしていたことか。自分の醜さが大嫌いだった。素直に世界と向き合えない、卑屈な心が大嫌いだった。それをこの人は「魅力的だ」と言ったのだ。そんなこと、今まで考えたことすらなかった。

「きっと綺麗ごとだけじゃこの世は回っていかないし、人間は醜くできている。だからこそ人は世界に飽きないんじゃないかな」

 滔々と語りかける声だけが響く。

「だって考えてみ? 空っぽの人間よりも、悩みに悩んでそれでも何とか生きてる人間のほうが遥かに魅力的でしょ。それが醜くたって、無様だって、その人の生きた証なことには変わりがないし、泥にまみれればまみれるほど見ている人にずしんと響く。そういうもんじゃないのかな」

 その言葉の群れは流れとなって耳から胸に滑り込み、確かに私を支える礎を築き始める。

「そう考えてみると挫折ってむしろラッキーじゃない? 綺麗なだけの色もいいけどさ、混色すればもっと描ける幅が広がるはずじゃん」

 目の前に今まで見えていなかった扉がどんどん開かれていくようだった。知らぬ間に内向きになっていた思考が、葦原さんの手で真っ直ぐ日の当たる方向へ引っ張られていくのを感じる。私の嫌いな私を、こんなに正面から肯定されて、戸惑うと同時にどこかが確かに満たされていく。

「芦原さんって、すごいポジティブなんですね……!」

 あまりの前向きな言葉の数々に、思わずそう言ってしまった。彼の一言一言は自信に満ちてまっすぐで、とんでもなく羨ましかった。「よく言われるー」と笑う芦原さんは、顔を覆い隠すようにお手拭きで拭う。表情は見えない。

「なんかちょっと元気になりました。そうかぁ……」

 私は何を勘違いしていたのだろう。汚い色が見たくなくて大学を辞める。それはやはり逃避以外の何物でもなかったのだ。こずえから逃げて、村田朱莉から逃げて、絵を描くことから逃げて。ただただ目を塞いでいれば、もちろん生きることはできるかもしれない。だけど、それは私が一番恐れていた淀みの中に停滞することと何にも変わりはしないじゃないか。そんなことに今更気が付く。

「……やっぱりもう少し描いてみます。苦しいけど、もがいてみます」

 ゆっくりとそう言う。依然視界にはそこかしこに汚れがこびりついていたが、それでも今しがた吐いた言葉は鈍い鮮やかさを持っていた。

「だから葦原さん、描けたら見てもらえませんか?」

 勇気を振り絞る。これから私がどんな絵を描けるのか、それは分からない。でもきっと無様で醜くて目を逸らしたくなってしまうような、私の人生を筆に乗せることになるのだろう。そこに、葦原さんの言う魅力があると信じて。そしてそれを彼に見つけてもらいたい。

「俺でよければ喜んで」

 その言葉に安堵する。この瞬間までくすぶっていた絵に対する情熱が、静かに汚らしく燃えあった。その炎は決して見栄えはよくなくて、少し前の私ならすぐ踏み消してしまっただろう。それでもこれを抱え込むことが、きっと今私が絵を描く第一歩なのだ。

「そうだ。これからも絵を描くなら、私謝らなきゃいけない相手がいるんです」

「へぇ?」

「同じ学科の同期で。今朝ひどい態度をとっちゃって……」

 謝りたい。謝って今度はもっと素直に嫉妬を混ぜて、もう一度彼女の作品を見てみたかった。歪んだ瞳であの素晴らしさを知りたかった。でも「会いに行くのが怖いけど……」そう呟くと葦原さんはゴホンと一つ咳払いをした。

「じゃあ一つおまじないを教えてあげよっかな」

「おまじない……?」

 首をかしげる私に、よく分からない種類の笑みを向けてくる。そして勿体ぶりながら、重々しく口を開いた。

「ルダプコルダプコ・プイ。これがおまじない」

「るだぷ……? 意味は……?」

「ないしょ! まあ俺は森っちゃんの才能を信じて応援してるよ、って事にしたらちょっとクサすぎるかな?」

 思わず吹き出す。「クサすぎますね」と言い放つと少しだけ傷ついたような顔をして、それがさらに面白かった。

「あははは、ありがとうございます」

ひとしきり笑ってみると、頭がすっきりする。視界に鮮やかな色は多くないにもかかわらず、それでも生きていけそうだった。

「それじゃちゃんと謝ってきますね」

 席を立つ。決意が鈍らぬうちにと、私は店の出口へと足を進めた。

「頑張ってー」

 背後で気の抜けた色が手を振るのを感じる。それに応えるように私は拳を振り上げた。

 



 ルダプコルダプコ・プイ、胸の内でそう唱える。たちまち気持ちが楽に、なんてことはなかったが、それでも少しの勇気は湧いて出た。

 大きく息を吸って吐いて、今朝あとにしたきりの講義室の扉をガラッと開く。傾き始めた日差しに目をくらまされながら、部屋を見回すと、やはりいた。

「森さん……」

 午後特有の柔らかい光に包まれて、村田朱莉は自分のキャンバスに向き合っているところだった。右手に握られる筆が日の光を浴びている。

「今朝はごめんなさい」

 何か言われるより先に頭を下げた。こういうのは最初が肝心だ。

「私こそ気に触るようなこと言っちゃって……ごめんなさい」

 ひどく申し訳なさそうなその声が、胸に痛い。あなたは何も悪くないじゃない。

「ううん、私が悪いの」

 私の卑屈さが、その言葉は飲み込んで笑顔を作る。それにつられてか、彼女もあの明るさに満ちた笑顔を見せてくれた。

「この絵、やっぱりこのままじゃ」

言いかけた私を遮って、彼女は首を振る。茶色のプリンが一瞬乱れた。しばしの沈黙に、私はあの白緑の声が、すっと口から飛び出すのをじっと待つ。

「これじゃだめなの」

 滔々と語りだした声は凛としていた。

「筆が言うこと聞いてくれなくて、私が描きたいものが全然描けてない。色の使い方だって、線の引き方だって絶対もっと良くできるはずなのに、どうしたら良いか分かんない。それで毎日眺めてるんだけど、これが中々上手くいかなくてね。煮詰まっちゃってたんだ」

 そんな言葉を聞いて、私は自分の腹の中からくつくつと笑い声が湧き上がってくるのを感じた。「ちょっと、私は真剣に悩んでるんだよ!」そう彼女が抗議する。

「ごめんごめん、でもなんか可笑しくって」

 それはきっと、自分に対しての笑いだ。一人で殻の中に閉じこもって、ちょうど梅雨のようにうじうじと湿るだけだった私に対して。

「いや、村田さんも上手くいかないなんてあるんだなって」

「しょっちゅうだよ」

 拗ねたようにそう言われる。

「そっかぁ」

 一歩踏み出せばこんなに簡単な事だった。そのきっかけをくれた彼には、感謝してもし足りない。

「今日はもう帰るけど、今度一緒に絵を描こうよ」

 本心からそう言える。私はなんて愚かだったんだろう。濁りを恐れて真実を見ることができていなかった。

「是非!」

 満面の笑みで笑う彼女は、とても可憐で、新品の絵の具をたらしたみたいだった。

じゃあねと手を振りあって、講義室を出る。湿気と静けさで膨張した構内は、朝よりも威圧感を失っていた。

だから、私は駅に向かって歩きだす。帰ってこずえにも謝らなくちゃ。そしてどんなに不格好でも、諦めずに絵を描き続けよう。

世界は相変わらず汚く見えるけど、その色さえもどこか愛おしい。そう思えるその日まで。


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色を掻き分け色の中 やきたか @yakitaka

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