矢本智也は理解してしまった

湖城マコト

旅行のパンフレット

後生ごしょうよ、智也ともやくん。事件解決のために、どうか君の力を貸してほしいの!』

「後生なんて台詞を、高校生のうちに聞くことになるとは思いませんでしたよ」


 高校一年生の矢本やもと智也ともやは困惑していた。休日を利用して映画を見に行こうとしたら、家を出る直前に、顔馴染みの警察官である湖中こなか歌奈子かなこ巡査部長から着信が入り、開口一番に捜査協力をお願いされてしまった。一般人である智也にとってはいい迷惑である。


 智也は警視庁捜査一課所属の古日山こひやま弥彦やひこ警部補からその洞察力を高く評価されており、智也本人は不本意なのだが、事件の捜査協力を求められる関係性となってしまっている。この事実は古日山警部補の後輩で、共に智也の活躍を目の当たりにした湖中巡査部長も把握しており、彼女から連絡を受ける機会も時々ある。


「僕、これから映画を見に行く予定なんですが」

『五分。ほんの五分でいいからお願い。責任を持って映画館まで送っていくから!』

「……本当に五分だけですよ。もしお力になれなかったとしても、ちゃんと映画館までは送ってくださいね」

『ありがとう。恩に着るわ、智也くん』


 半ば押し切られる形で智也が折れた。事件がどうなったのか、気になったままでは集中して映画を鑑賞することが出来ない。連絡を受けてしまった時点で智也の負けだ。


「それで、到着はいつ頃ですか?」

『もう着いてるわよ』

「えっ?」


 智也が窓から外を覗くと、自宅の前に停まった車から湖中巡査部長が手を振っていた。協力してもらえる前提で、到着してから連絡していたようだ。


『さあ。乗って』

「……僕の平穏な休日はいったいどこへ」


 目立たず平穏な日常を送りたいのに、休日に警察官が捜査協力を求めてくるなど、非日常にも程がある。溜息交じりに通話を切ると、智也は戸締りをして、湖中巡査部長が運転する車に乗り込んだ。


 ※※※


「さてと、本題に入りましょうか」


 智也が向かう予定だった映画館の駐車場に湖中巡査部長は車を停めた。智也が映画に間に合うようにとの、彼女なりの配慮だ。


「昨日、旅行代理店の店長を務める夜田やだかぶとという男性が、店の事務所で殺害されているのが発見された。鈍器で後頭部を殴られたことが致命傷よ。容疑者は五人にまで絞られているけど、まだ犯人の特定には至っていないわ」


「僕は何について考えれば?」

「これを見てちょうだい」


 湖中巡査部長は捜査資料を智也へと提示した。資料によると、被害者は白い長机に突っ伏すように倒れており、机のパンフレットに血文字で何かを書き残そうとした状態で息絶えていたようだ。被害者が遺した血文字は、アルファベットの「C」のような曲線と、それを反転させたような曲線が向かい合う形となっている。やや曲線同士の間隔が空いているが、そのまま見ればひらがなの「い」のようにも、横から見ればひらがなの「こ」のようにも見える。


「これは被害者が最期の力を振り絞って遺したダイイングメッセージで、犯人の名前を最後まで書き切る前に息絶えてしまったというのが捜査本部の見解よ。被害者の位置を考えると、ひらがなで『い』と書こうとしたと考えるのが妥当だけど、見方によっては『こ』と捉えることも出来る。だけど、いずれにしても頭の文字だけじゃ犯人の特定は困難ね」


「なるほど。容疑者のはいずれも、『い』か『こ』から始まる名前をしているのか」


 智也は容疑者として名前が挙がっている人物の名前に目を通す。


 容疑者となっているのは、被害者が店長を務める旅行代理店の従業員である鴻巣こうのす明人あきと。同じく従業員の斑鳩いかるが志保しほ。元従業員の駒鳥こまどり篤彦あつひこ。被害者の友人である交喙いすか敬一郎けいいちろう。被害者の親戚にあたる古閑こが成美なるみ。以上五名。


 いずれも名前が「い」か「こ」から始まる人物であり、ダイイングメッセージが特定の誰かを示しているとは言い難い状況だ。


「鋭い智也くんなら、何か気づけることがあるんじゃないかと思って。ダイイングメッセージについて、少し考えてみてもらえないかな」

「あまり期待はしないでくださいよ」


 予防線を張りつつ、智也はより深く捜査資料を読み込んでいった。


「鳥取県のパンフレットか」


 被害者は鳥取県の観光案内のパンフレットにダイイングメッセージを残していたようだ。旅行代理店なのだし、都道府県別のパンフレットが置かれていても不思議ではないが。


「どうして被害者はパンフレットにダイイングメッセージを残したんでしょうか」

「どういうこと?」


「血文字を残すなら、真っ白な机に直接書けばいい。それなのに被害者は態々腕を伸ばして、印刷が施されているパンフレットの表紙に血文字を残している。ただメッセージを残すだけではなく、パンフレットの上に残すことが重要だったのかもしれない」


 智也は鳥取県のパンフレットに残された血文字の写真を凝視する。このパンフレットであることに意味があった。だとすれば、そもそもダイイングメッセージの解釈自体が間違っているのかもしれない。そもそもあの血文字には、初見の時から妙な違和感があった。


 血文字で書かれた向かい合う曲線は、ひらがなの「い」や「こ」にしては間隔が空きすぎている。致命傷を負った中で必死に残そうとしたメッセージだ。バランスが崩れていても不思議ではないが。


「これ、本当にひらがなの『い』や『こ』なのかな? 途中で息絶えたにしても、このサイズ感で血文字を書いていたら、パンフレットにはとても収まりません。ひょっとしたらダイイングメッセージはすでに完結しているのかも」


「成程。だとすれば、ダイイングメッセージには別の解釈があるということね」


 残された血文字はそれ単体で、鳥取県のパンフレットのほぼ端から端まで及んでいる。犯人の名前を書き続けようとしても、確実にパンフレットからはみ出してしまう。それなら智也が言ったように、初めからスペースの広い白い長机に血文字を書けばいい。


「ひらがなでないとすれば、可能性があるのは記号だろうか。視力検査の方向を示す記号にも似ているけど、それが何か意味を成すとは思えないし。これ単体で完成する記号といえば……」


 瞬間、智也に閃きが走った。この記号は普段、何かの文字と組み合わされることが多く、単体で見る機会は少ないが、確かに記号そのものはこの血文字で完結している。


「湖中さん。この血文字、ひょっとして括弧かっこの記号じゃないですか?」

「本当だ。文字を閉じていないから分かりにくいけど、単体なら確かに括弧と捉えることも出来るわ」

「鳥取県のパンフレットの上に書かれた括弧の記号。もしかしてこれは」


 閃きの確証を得るべく、智也はスマホで何かを検索し始め、容疑者のリストと照らし合わせた。


「湖中さん。ダイイングメッセージの意味が分かりましたよ」

「本当! 智也くん」

「このダイイングメッセージは犯人の名前を如実に表していました。解説するので、手帳とペンを貸してもらえますか」


 智也は湖中巡査部長から借りた手帳に、漢字で「郭公かっこう」と記入した。


「被害者がパンフレットに残した括弧の記号は、鳥の名前である『郭公』を表していたんです。息も絶え絶えの中、より短い表現でメッセージを伝えようとしたのでしょう。容疑者全員の名前が鳥に関係していたこともヒントになりました」


「鴻巣明人。斑鳩志保。駒鳥篤彦。交喙敬一郎。古閑成美。確かに名前に鳥が含まれている人も多いけど、郭公と関係する名前なんてあるの?」


「ありますよ。それもかなり的確にね」


 続けて智也は手帳に、「閑古鳥かんこどり」と記入した。


「閑古鳥。まさか」


 智也の言わんとすることが、湖中巡査部長にも分かったようだ。


「郭公の別名は閑古鳥なんです。しかもダイイングメッセージは鳥取県のパンフレットに残されていた。『鳥取』すなわち『鳥を取る』。郭公の別名である『閑古鳥』から鳥を除くと『閑古』だけが残る。容疑者の中でこの名前を持つのは、『古閑こが成美なるみ』だけです」


「……至急、捜査本部にも報告するわ。今は任意で古閑成美の聴取を行っているところだから、新たな追及で一気に捜査が動くかも」


 映画館の駐車場に到着してからまだほんの五分程度。五分でいいから時間を貸してほしいとお願いはしたが、智也は推理を本当に五分の枠に収めてしまった。映画の上映時間にも余裕は十分だ。


「後は捜査本部からの連絡待ちね。それにしても、郭公から古閑成美を連想させるなんて、被害者は鳥の名前に詳しかったのね」


「前述したように被害者の身の回りには鳥に関する名前を持った人物が多かったですし、自然と頭の中に知識があったのかもしれないですね。被害者の名前も鳥と無関係というわけでないようですし」


「そうなの? 夜田甲という名前自体に、あまり鳥の要素は感じないけど」


「先程の鳥を取るとは逆で、鳥を足すとそれぞれ鳥に関係した字になりますよ。『夜』に鳥を足すと『ぬえ』。『田』に足すと『しぎ』。甲に足すと『かも』です。あるいは以前からこういう発想があったからこそ、ダイイングメッセージに応用出来たのかもしれませんね」


「……智也くん。あなた実は、どこかの諜報機関に所属するエージェントだったりしない?」


「そんな映画みたいな話し、あるわけないじゃないですか。僕は休日に映画を楽しみたいだけの、普通の高校生ですよ。そろそろチケットを買いたいので、僕はこれで失礼しますよ」


 湖中巡査部長の車を後にすると、智也の背中は映画館へと消えていった。


 ※※※


「お帰り智也くん。映画は楽しかったかな」


 智也が鑑賞を終えて映画館を出ると、入り口付近で湖中巡査部長が笑顔で手を振っていた。その様子を智也は訝しむ。


「……まさか、新しい事件が発生したんじゃないでしょうね」


「安心して。無事に事件が解決したからその報告。ダイイングメッセージの件で追及したら、古閑成美は素直に犯行を認めたわ。古閑自身、ダイイングメッセージの意味に薄々気づいていたみたいでね。このままやり過ごせればと思っていたようだけど、追及が及んだことで腹を括ったそうよ。君のおかげで犯人を特定することが出来ました。本当にありがとう」


「僕はただ、閃きを口にしただけですよ」


 これは謙遜ではなく本音だった。推理というほどでもない。たまたま閃いただけというのが智也の自己評価だ。


「送っていくから車に乗って」

「それでは、お言葉に甘えて」


 湖中巡査部長の車に乗って、智也は帰路へとついた。


「映画は何を見て来たの?」

「今日は流行りのSF映画を。来月は異世界転生もののアニメの劇場版を見にいく予定です」

「ミステリーとかサスペンスは? 何となく智也くんが好きそう気がするけど」

「昔は好きでしたけど、最近はご無沙汰です。湖中さんや古日山さんと知り合ってからは、現実でお腹いっぱいですから」

「うっ……その件については本当に申し訳なく思ってます」


 確かに、度々事件の捜査協力なんて求められていたら、ミステリーやサスペンス系の映画と距離を置きたくもなるかもしれない。巻き込んでしまっている身としては、反省するばかりだ。


「だったら、なるべく僕に頼らない方向でお願いしますよ」

「努力します……」


 ぐうの音も出ない正論に、湖中巡査部長はそれ以上何も言えなくなってしまった。


「……でも、まったく協力しないってわけではないので」

「ありがとう。智也くん」


 結局、最後まで突き放せないのが智也の甘さであり、優しさだった。湖中巡査部長が事件の解決のために一生懸命なことは、智也もよく理解している。


「せっかくなので、映画の話でもしましょうよ。湖中さんも映画好きでしたよね」

「いいね。それじゃあお互いのお勧めでも教え合おうよ。私のお勧めはね――」


 智也の自宅に到着するまで、終始和やかに二人の映画談義は続いた。




 了

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