後編

「わあ~広い! 壁も白いし、日当たりもいいな~」


 掃き出し窓を開けると初夏の風が入ってきて、蒸し暑い部屋に少しばかりのりょうをもたらしてくれた。


奮発ふんぱつしてよかったよ。これからはもっと仕事も頑張らなくちゃ」


 猫は相変わらず鳴き声を出すことができなかった。でも、新しい生活に胸をふくらませる都子みやこを見ていると、猫もうれしくなった。


 都子は仕事の合間をぬっていろいろな手続きを済ませ、ご近所さんにあいさつへ行った。家賃が上がったのでパートのシフトも増やした。新しい生活が落ち着くまでには、もう少しの時間がかかると思われた。


 猫には都子の生活を窮屈きゅうくつにしてしまった負い目があった。けれど、彼女は猫の前で忙しそうな素振りは一切見せなかった。どんなに疲れていても玄関をくぐるときは笑顔で。猫が見上げている横で料理を作り、一緒のテーブルで食べ、夜は同じ布団で寝た。


 もし生きていた頃に告白し、恋が成就じょうじゅしていたら、今のように都子の隣に居ることができたのだろうかと猫は思わずにはいられなかった。休日に二人で遊んで、雑談を交えながら夕食を囲む未来があったかもしれない。


 そう。猫と人という点を除けば、今と同じ未来があったのではないか。


 すべては『もしも』の話になってしまい、すべては戻せない過去になってしまった。


 同じ学び舎にいたのは遠い昔の話。かつて同級生だった彼女は今や三十歳を超えている。お付き合いしている人や好きな人がいてもおかしくない。自分の気持ちに気づいた今、それを考えると猫の胸はどうしようもなく切なくなった。


 都子はずっと歩き続け、猫の人生はあの日で終わってしまった。猫がこの世を去ってから、都子は猫の知らない人たちと出会い、猫が知らない経験を積んだ。同じ屋根の下に住んでいても、違う時間を生きているように猫は感じた。


 自分のために生活環境を変え、仕事の疲れをいとわずお世話してくれる。都子はとにかく優しい女性だった。もし都子に想い人がいるなら、自分が彼女の大切な時間を奪っているのではないか。猫は常に不安であり、何も恩返しができないことが哀しかった。


 でも、声が出せない猫に気持ちを伝える手段はない。うれしい時に尻尾を振り、ご主人様の足元をくるくる歩き回るのが精一杯。


 今さら芽生えた恋は、もうだれにも言えない。人の形を失い、たくさんの後悔と不安を抱えながら、それらに目をつむって今の幸せに身を委ねることしかできなかった。


 しかし、ささやかな日常にも終わりは近づいて来る。



「どうしたの? 今日はお腹減ってないのかな?」


 その日、体調の優れない猫は都子の料理をほとんど口にしなかった。一口だけかじった後、四本の足を体の下にしまいこむように、力なく座った。


「ごめんね、おいしくなかったかな?」


 違う、都子ちゃんは悪くないと猫は言いたかった。彼女はいつもおいしいご飯を作ってくれるし、猫に食べさせても大丈夫な食材や味付けを勉強してくれている。声が出せるなら、今すぐにでも日頃の感謝を伝えたかった。


 しかし、翌日になっても、その次の日になっても体調は回復しなかった。まるで水たまりに落ちた紙がはしから真ん中にかけて黒く浸食していくように、何かが自分の体をむしばんでいくように感じた。


 猫は寝ている時間が多くなった。起きていても目は半開きで、意識もうつらうつらしている。都子が病院に連れていっても原因は分からず、梅雨による湿度と気圧の変化が影響しているかもしれないという説明をされただけだった。猫は、不調の原因が病的なものでも季節性によるものでもないとなんとなく察していた。


 猫は死期が近くなると飼い主の前から姿を消す――ただの昔話か都市伝説くらいに思っていたが、当事者になった今、少女はそれが本当の話だと実感した。愛してくれた飼い主だからこそ、最期のみにくい姿を見せたくない。先立った同族の気持ちが少しだけ理解できた気がした。


 猫は自分の命がもう長くないことをさとり、なすすべがないことを知った。


『あなたはもうすぐこの世からいなくなります。どうにもなりません。だから、死に場所をあなた自身で探しなさい』


 出会ったこともない神様から、そう言われているようだった。


 ふざけるな、と猫は思った。希望が持てない人生を終わらせたくて身を投げたのに、こちらの意思も問わずに生まれ変わらせ、昔好きだった人に再会させて、けれど鳴くことも許されず、やっとなじんだ生活を手放せなんて。


 生まれ変わったのには何か立派な理由があると、猫は信じていた。自分にはやるべきこと、やらなければいけなかったことがあるのだと。そのためのやり直しの機会が与えられたのだと。


 でも、そんなことはなかった。これは第二の人生なんかじゃない。意地悪な神様が気まぐれで与えただけの、わずかな命の延長戦だ。


 この世界は捨てたものじゃなかったと思い始めた矢先だった。都子と過ごした短い同居生活は必ず少女にとって未練になる。だったら、最初から夢を見せるなと、神様を強く呪った。


 都子は仕事を休んで何日も猫の看病をした。看病と言っても特別なことはしない。隣で見守り、少しでも食欲がありそうなら消化の良いご飯を作る。しかし、都子の努力をあざ笑うかのように、猫は日に日に衰弱すいじゃくしていく。


 そして、一ヶ月ほど続いた梅雨も去った。


 七月下旬の晩。窓から生ぬるい夜風が吹いてくる一室で、都子と猫は布団の上で向かい合わせに横になっていた。寝る時に窓を開けて扇風機で涼をとるのは、エアコンの風が動物の体に長時間あたるのは良くないからと、猫を気遣ってのことだった。


「私ね、離婚してるの」


 深いような、浅いような息をくり返す猫の体をさすりながら、都子は口を開いた。


「周りの子たちが次々に結婚していって、あんたも早く結婚しなさいって両親もうるさくてね。当時いいなって思っていた人と籍を入れたの。それが三年前の話」


 婚約していた事実は、かすみゆく意識の中でも、猫の胸を強くしめつけた。


「でもね、長くは続かなかったわ。会話も弾まなくなって、食事の時間もわざとずらすようになって、別々のベッドで寝るようになった。あれ、なんで私この人と住んでるんだろうって思ってからは早かった。家の中が急に冷たく感じたわ。勢いでする恋愛なんてそんなものよね。子どもを作らなかったのは正解だったかも」


 旦那は悪くないの。悪いのは私だから、と都子は補足した。


「昔ね、好きな子がいたの。告白はできなかった。クラスも違ったし、同性だったから。女の子が好きだなんて周りに打ち明けるのが恐かったし、あの子にも良くないうわさが立つと思って。『友達になって』すら言えなかった。私が結婚を急いだのは、きっと、あの子を忘れるためだったのね。バカよね、十年以上も前の思い出を引きずるなんて」


 都子の声色は単に過去を振り返るものではなく、後悔や償いがひしめき合った複雑なものだった。


「その子ね、遠い所に行っちゃったの。まだ高校一年生だった。私の恋はだれにも言えず、始まることもなく、終わっちゃったの」


 都子は夕暮れの空に飛んでいく紙ヒコーキを見送るような表情をした。


「君は……いなくならないよね」


 猫の頭を都子は優しくなでた。


「君の声、聞きたかったな」都子は最後にそうつぶやいた。


 なでる手も、声も、徐々に弱々しくなっていき、やがて健康的な寝息を立てながら都子は眠りについた。


 猫は立ち上がった。ふしぎと体は軽かった。白い月の光に照らされた都子の寝顔は、紛れもなく、猫がかつて想いを寄せた女の子そのものだった。その時、


『もし、また生まれ変われるなら――』


 一言だけ猫は言葉を発することができた。猫の声ではなく、一人の少女だった頃の声で。か細い声は外で合唱する虫の音にかき消された。それが別れの言葉だったのか、今までの感謝だったのか、あるいは。


 隣で眠る都子をもう一度だけ見て、猫は寝ている彼女に尻尾を向け、ベランダから夜の世界へ旅立つ。


 足音は立てなかった。静かな夜に、きれいな満月だけが浮かんでいた。

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猫の声も聞きたい 礫奈ゆき @rekina_yuki

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