猫の声も聞きたい
礫奈ゆき
前編
知らない部屋にいた。テーブルに本棚、壁にかけられた洋服。見上げるものすべてが巨大で、少女は自分が
扉が開いてだれか入ってくる。巨人の女だ。この部屋の
食べられてしまうと少女はおびえたが、巨人は雲のように大きなタオルで少女のぬれた体を拭いてくれた。
「寒かったね」
巨人の言葉は、タオルの生地と同じくらい温かった。その感触が、これが夢ではないことを物語っている。
ここはどこ。この巨人は何者。自分の身に何が起きている。様々な疑問が頭の中をうめつくした。
近くにあった鏡を見て、少女は目を見開く。そこに映った姿は、少女のいくつかの疑問に答えを出し、いくつかの疑問をさらに深めた。
少女は猫になっていた。
まぶたをぎゅっと閉じて、開く。猫だ。角度を変えて鏡の中を観察する。やはり猫だ。耳と尻尾を生やし、四本足で立っている白の三毛猫がそこにはいた。
当たり前だが、少女はもとより猫ではない。人間である。その証拠にこうして人の心は宿っている。ところが、少女は自分の名前と顔が思い出せなかった。気づいたら猫になっていて、人の言葉はしゃべれず、鳴くこともできない。
猫を保護した
自分のことは思い出せないのに、不思議と、都子の顔にはどこか見覚えがあるような気がした。けれど、記憶が欠けている猫に正常な思考はできなかった。
「ご飯にしよっか? ああ、その前に――」
「まずはお風呂、だね」
梅雨に入った六月、猫と都子の生活が始まった。都子はすぐに猫用のブラシやトイレを買ってきた。キャットフードは与えず、自分のご飯のおかずを猫に分けてあげた。その日の出来事を猫に話しながら夕食をとるのが二人の日課になり、猫は彼女の話を聞くのが大好きだった。
休日の午後は窓から差し込む
特別なことなんて起きない穏やかな日々が流れていった。いつしか都子との生活は猫にとって居心地の良いものとなり、都子にとっても猫は新しい家族となった。
ある日、仕事から帰ってきた都子は落ち込んでいた。着替えて、晩ごはんを作る都子の足元に猫が寄ると、彼女は不満をもらした。
「今日、
自分のせいで都子に迷惑をかけたと思い、猫は申し訳なく思った。けれど、都子は猫と目線を合わせるように屈んで、明るく言った。
「君が住めるように、新しいお家探さなきゃね」
新居はすぐに見つかった。ペット可で、職場からの距離も今までとそれほど変わらないアパート。
平日の夜や休日を使って、少しずつ引っ越しの準備を始めた。都子はもともと一人暮らしだったということもあり、家具や食器の数は多くなかった。猫の目には、必要以上に物を増やそうとしていないようにも映ったが、とくに気に留めなかった。
引っ越しを一週間後に
一冊の厚い本を手に取ると、都子は何かを
猫も気になって彼女に近づき、腕の間から顔を出してのぞき込む。それは卒業アルバムだった。若かりし頃の都子が見れるかもしれないと、猫の胸は高鳴った。が、その軽率さを猫は永遠に悔やむことになる。
突然、得体の知れない寒さが足元から猫をおそった。それは見てはいけないものだった。今すぐ見るのをやめるべきものだった。
猫は残酷な真実を思い出した。人間だった頃の猫はすでに亡くなっていることを。そして、生前の猫と都子は同級生だったことを。
かつて、猫は少女だった。十六歳の高校生だった。どこにでもいる普通の女の子で、どこにでもいる若者と同じく、無限の可能性を持っていた。しかし、水平線の彼方まで続くような未来を、少女は自らの手で
いじめがあったわけではない。交友関係にトラブルがあったわけでもない。命を絶つ理由はなかった。でも、生き続ける理由もまた、少女は見つけられなかった。
寝て起きて、学校に行く。大人になったらそれが仕事に変わるだけ。趣味もない。
次に目を覚ました時には猫に生まれ変わっていて、都子に拾われていた。しかし、死後すぐに転生したわけではなかった。部屋のカレンダーに視線を移すと、アルバムの制作日から十五年の年月が経っていた。
猫は自らの行いを後悔するようになっていた。都子への恋心に気づいたからだ。
都子とは別々のクラスだったが、芸術の選択科目で週に一回だけ同じ教室で授業を受けた。一回も話したことないのに、少女は次第に都子にひかれていった。初恋と言ってもいい。
先生からの出席確認を利用して名前をこっそり覚え、授業から意識を外しては離れた席に座る都子の横顔を目で追った。
しかし、当時はそれが恋だと気づかなかった。気づけなかった。発芽前の種は心の支えにならず、長い砂漠の道を歩くような人生に絶望した少女は、そのまま死を選んだ。
猫が今後悔していること――それは輝かしい青春時代を送らなかったことでも、都子に告白しなかったことでもない。
だれかを想う気持ちを、自らが生きる希望にすることができなかったことだった。
今になって、都子と過ごす時間がこんなにも楽しい。奥歯を強くかむように、猫はやり場のない悔しさをにじませた。
都子はもう女子生徒ではない。かといって、『老いた』という言葉も適切ではない。薄く刻まれたほうれい線も、ふんわり漂う人肌の匂いも、美しく年を重ねた証拠だった。
眠る赤ん坊をなでるような手つきで都子はアルバムをめくる。文化祭、修学旅行、体育祭。彼女にとっては
どれだけ生前の風景がよみがえっても、猫は自分のことだけは思い出せなかった。卒業する前にこの世を去った少女の足跡は、アルバムには記録されていない。
本当の名前も容姿も思い出せないのは、おまえはもう世界の一員ではないと言われているように、猫は感じた。
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