何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね
吉野奈津希(えのき)
何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね
0.
世界は廻る。命は廻る。存在は廻る。概念は廻る。
廻り続ける。
そこに《瞳》が存在している。いつからあったのかはわからない。
そこにあるのが『有』でも『無』でも《瞳》には関係がない。
見つめている。見続けている。
1.
世界ってのは言葉で出来ているけど世界を説明するには言葉を扱う人間の技術ってのは乏しくて、あるいはまだ言葉が十分に成長を仕切っていなくてさまざまなものの説明を上手く出来るわけじゃない。
『女』って言葉は今こうして知覚している『私』の知覚点ではない。
『西荻奈々子』という私の名前も今こうして知覚している『私』の知覚点ではない。
『学生』『女子学生』『彼女』『娘』『お姉ちゃん』なんて色々な言葉が当てられるけど今、ここにいる私の意識のようなものを十全に説明出来るなんてことはない。
言葉には射程範囲があるのだ。ここからここまでの意味を、存在を切り取って「こういうものとする」という言葉の射程範囲が。そして人間はそこに収まるほど単純でも不変でもない。
ところで『百合』って言葉で私と美月の関係は説明出来るんだってさ。
冗談じゃない。
2.
百合ってのは片方が片方を殺しがちなんだって。そうやって愛、憎悪、執着、憧憬、共感、情念、あらゆる感情の表現を達成するんだって。そういう言葉の元に私と美月が規定されるんだって、ということは私は美月を殺さないといけなくて、それがどうやら美月への愛の証明になるらしい。くだらねえ、お前が死ね。大体何かを持ってして『愛の証明』とかいうやつを信じる愛ってのはどこまでも引き伸ばされた幻想でごちゃごちゃ偽装されていて薄っぺらいのだ。
永遠の愛なんてない。不変の愛なんてない。
愛も減るし消えるし無くなってしまう。愛を誓うだけで愛が消えないのなら別れなんて概念はそもそも生まれていないのだ。
だからそこから目を逸らして「愛が永遠!」とかいう言葉遊びに逃げるなよ!死んだら消える人間もいるんだぞ!愛も!その人と共に!死ぬ!
中学校一年から同じクラスで意気投合、何をするにも一緒で離れることはなかった中山美月が死んでから私は悲しみにくれてあらゆるシリアルキラーについて書かれた書物を読み漁る。
エド・ゲインとかそういう名前を腐るほどみて、無惨に殺し尽くされた被害者への憐れみだとか、殺人鬼連中の精神分析とかを脳髄の隅々まで行き渡らせる。
でも私が知りたいことは載っていない。
私が知りたいのは美月が私を殺したいって思った理由で、それは本には載っていないのだ。
「ねえ、片方が片方を殺すのだ愛の証明って言われたら信じる?」
放課後、夕暮れの日差しが入ってくる教室、私は美月の胸元に顔を埋めながらその言葉を聞く。致しているわけじゃない。致したっって大した問題じゃないけど重要なのは私がそういう骨導を美月にしても美月にそうしても拒絶されていないってことで、その態勢で自然な会話が出来るってことこそが私に至上の幸福感と安心感を与える。
「え、なにそれ聴いたことない」
その言葉に「やっぱね。ナナちゃん、そういう話興味ないもんね」
愛の形を規定するのを私は嫌った。そうやって他でもない私たち自身が「これこれこういう愛の形を私たちはしてますよ」というと学校や私の家や、美月の家族の連中、その他諸々ってやつはどこまでも浅はかな発想に走り出す。「ああ、こういうことね」って顔して何かしらお手頃な言葉の型に私たちを流し込んでプレスして熱して冷やして固めて一丁上がりとなる。
『様々な愛の形』だとか『アップデートされた関係』だとか『二人でいてはいけないなんて理由は存在しない』だとか『本当に気持ち悪い』とか色々言う。
そうやってわかった気になってしたり顔するだけならまだマシで、「応援するからね」なんて言ってくる。誰が頼んだんだよ。誰がそういう関係だって言ったんだよ。何を応援してって言ったんだよ。私が応援してなんて頼んだか?
マジでどうでもよかった。
マジでマジでどうでもよかった。
私の美月の関係なんて毎秒変わる。友人で恋人でうざったい存在で、安心感を与えてくれる存在で、離れたい存在で、たまには距離を置きたい存在で……となって私はそれを楽しんでいるのだ。どこまでも変動していく、回転していく、移り変わっていく美月を感じている。
「満ち欠けだから」
「そうそう、ナナちゃんはいつもそう言うよね」
美しい月ってのは満ち欠けていくから美しいのだ。永遠に変わらないとか冗談じゃない。
……というところまで考えて、私は考える。本当にそんな風に全部を否定したいのだろうか?
色々な《言葉》が私たちの関係を規定しようと試みてくるけど、それを本当に私は否定したいんだろうか?
例えば私たちを規定しようとした《言葉》を欲しくてたまらない人たちがいる。そういう人たちからすると私たちに投げかけられた《言葉》が羨ましくて、涙が出て、それが自分の手元にないことに絶望をするってことがあるわけで、そういう人たちの幸福とか生活への祈りとか、そいういうことを蹴り飛ばしたいと私は思って私は自分に投げられた《言葉》を嫌悪しているんだろうか?
いや、そういうわけではない。
私がこうやって放課後に学校で美月とこうして過ごしているのは、私たちの関係にとやかく言ってくる奴らに中指を突き立てたいって気持ちがあると同時に「ここにいる」と突きつけてやりたいって気持ちのミックスだ。
私たちのことを語ろうとする人たちは極端な嫌悪か、極端な清廉さか、極端な特別さを求めてくる。曖昧で、「お前たちと大して変わらないよ」と本当の意味で伝えようと思ってもそういう風に受け取られることはない。どこまでも『様々な愛の形』だとか『アップデートされた関係』だとか『二人でいてはいけないなんて理由は存在しない』だとか『本当に気持ち悪い』とかそういう言葉になる。
なんでいちいち、そうして再規定みたいなことされないといけないんだ? 誰かに許可を得ないといけないのか?
美月の許可ならわかる。私が美月に許可を出すならわかる。
でも、それだけだろ。そこに外は関係ない。
私が必要だと思っているのは私と美月の中で完結する関係で、そこに対しての納得で、それが私たち以外にどうこうということに私はどうやっても興味がない。少なくとも、今は。
と、言うことを私は思いつくままに美月に話す。順序とか必要ない。そういうものは美月と話しているうちにおいおい組み立てていけば良い、そういうスタンスで会話はしていい。結論から、だとか、共感から、だとかって言うの会話のハウツーばかりしているやつは自分で会話の失敗を受け入れる気がないだけなのだ。
傷つくのが怖いなら黙ってろ。
「でもね、ナナちゃん。それってナナちゃんがそう言ってくる人たちをただ嫌いってだけだったりしない?」
美月はクスクス笑いながら私の頭を撫でる。
私は顔を美月の胸に埋めるのをやめて、美月の顔を見て、言う。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
私がその言葉を口にした瞬間、言葉にしたのは私なのに全身に電流が走ったような衝撃が起きる。
それは私が常々思っていることで、美月にたびたび口にしていたことで、周囲の人間に対して唯々諾々としている時点で自我がないので、反発するのは例え反射的で機械的な反発でも、そもそも反発しない奴よりは自我がよっぽどあるって理屈で、そうやって自我を作っていこうって思想だったはずなのに、その日、口にした瞬間、この世界の何か決定的なもの形作ってしまったという実感が理屈よりも先に私の中を駆け巡る。
「そうだね。じゃあナナちゃん――死んで」
私が自分の言葉に不意に受けた衝撃に身が震えている時に美月がブレザーのポケットからナイフを取り出して私に振りかざし、私の額めがけて振り下ろす。
どうしてそういう動きを私はしたのかわからない。あれこれ理屈を唱えて、自分の抱える愛を特別視していただけなのかもしれない。そうであるのに、私は単純にその時の美月の脈絡のなさ/そしてその光景を妙に自然に思ってしまった自分の思考に動揺しながらさっきまで抱きしめてくれていた美月を押し出すように倒れ込む。
バタバタガチャガチャ!と教室の机と椅子が倒れる音がして、私はそうした弾みで腕にナイフが突き刺さって一気に血で制服のシャツが真っ赤になる。
でも痛みの中で私は呆然としている。
美月は本当に眠っているみたいに、頭から血を流して倒れている。
ほんの数分前まで机の上に座った美月の胸に顔を埋めて会話をしていたはずなのに。
こうして私は失った。美月と、美月を他の何より大切に出来るはずだ、という私の浅はかな思い込みを、まとめて。
全てがその後は自動的に進行する。世界の平穏とか、続いていくはずだった日々っていうのは壊れた時にはあっという間に壊れた世界の進行に姿を変える。
まるでさっきまで私たち以外が存在していなかったような学校の廊下から、すぐに私たちの音を聞きつけて教室に「何があったんだ?」と人が入ってくる。たまたま近くを通りかかった生徒がまず腕からバーバーと出血している私を見つけて大絶叫。その声を聞いて「廊下を走るなよ〜」と昼間生徒に注意していた倫理の先生が全速力で駆けつける。すぐに救急車と警察を呼ぶ大騒ぎになって私は訳もわからないうちに、実際動揺して呼吸がおかしくなって、何もまともに答えられないうちにタンカに乗せられて救急車に乗せられる。
そうして朦朧としていた意識が救急車の扉をバタン、と止める音と共に一気に遠のいて次の瞬間には全く知らない場所にいる。
病室だ。
私は突然の出来事のショックとナイフで刺された出血で丸一日眠り放しだったらしくて起きた瞬間にナイフが刺さった右腕の痛みの点滴の不自由さで意識を失う前の出来事がどうやら実際に起きたのだと理解する。
自分の状況を理解出来ないまま看護師さんに「すいません、トイレに行きたいです」と言って手伝ってもらいながら私は個室病室のトイレに座って用を足す。
私はそこで自分に絶望する。私は自分より美月のことを意識できる人間だと思っていたのに。それぐらい美月の存在は私にとって重いもの、って思っているという自己認識だったのに。
私が気にしたのは自分の傷と、尿意に対して病室で漏らしたくなくて人に頼るという社会性だ。
逆張りはどうしたんだよ。そういうものに逆らいたかったんじゃないのかよ。くだらなくてもそういうものを突きつけることが自我を作るんじゃなかったのかよ。
私が最初に気にしたのは美月じゃなくて、しょうもない外面だったのだ。
3.
それからの時間は淡々とすぎる。
私の身に降りかかったことをドクターや両親が刑事が語る。ドクターは淡々と傷について語り、その心的ショックの余波を気にしているようだった。
両親はただひたすら私の心に寄り添おうと試みていた。私には腕の傷をきっかけにどうしようもない心の傷が出来ていて、それを癒さなくてはいけないと考えているようだった。
それに比べればまだ刑事は楽だった。いきなり踏み込むには無粋すぎると思ったのか、それともヒリヒリとした雰囲気の両親が同じ部屋にいたからか、あいさつ程度のやりとりをしてすぐに部屋から出ていった。
外から見た私は《親友に裏切られた子供》《殺されかけた子供》《殺されかけて、殺してしまった子供》でやっぱり私は何処にもいなかった。
私が一番ショックだったのは、殺されかけたことでも殺したことでもなくて、しょうもない社会性の方を『美月という存在』より先に考えてしまった情けなさだ。
《トイレに愛を流した女》そのぐらいの表現がお似合いだった。
数週間もすると傷の具合もだいぶ良くなる。
その間も色々な人が私を思い思いの解釈で見つめてきたけど、そんなことはもうどうだってよかった。
数週前の私ならそれに全て憤っていたかもしれないし、それを全て美月に愚痴っていただろうと思う。
私の中で美月の価値のようなものを、自分によって否定してしまったことがあらゆるバランスを壊してしまったようだった。
食事をうまく食べられない。嚥下がうまくいかない。戻してしまう。
それを周囲の人は私の心的ショックだと考えているようで、その誤解がさらに私の不調に拍車をかける。
でも言えない。言い返せない。それに逆張るだけの自分の軸、のようなものを私は見失ってしまったから。
私は自分の身に起きたことを理屈だって、かつてこの世界に起きたことに当てはめて解釈出来ないかと考えてシリアルキラーについて調べ出す。
エド・ゲイン、チャールズ・マンソン、ジェフリー・ダーマー、ジョン・ウェイン・ゲイシー、調べて、調べて、調べていくけどやっぱり私には美月をそれらの《理解不能の殺人鬼》という言葉の箱に一緒にしまうことが難しい。
どうして美月は私にナイフを向けたのだろう?
布石も伏線も前振りもそこには存在しなかった。ただ、その瞬間に起きた出来事であるようだった。
それでも、美月は普段からナイフを持ち歩くような人ではなかったし、あの日の行動はおかしかった。そうであるのに、美月の様子からは精神についての変調のようなものは感じられなかった。
淡々としていた。ずっと前からそうすることを決めていて、そして決まりきったプロセスを実行したのだ。
そこに一切の無駄はなかった。一切の迷いはなかった。一切のミスはなかった。
そうであるのに、私は生きて美月は死んだ。
自宅のトイレで何度目かの嘔吐をして、酸っぱい匂いを鼻口の奥から感じて私は思う。
直感する。
私は軸を取り戻さなくてはいけない。
立ち上がらなくてはいけない。
美月を取り戻さなくてはいけない。
もう一度、美月と会わなくてはいけない。
それは直感だった。衝動に近い感情だった。理屈よりも先に「そうするべきだ」という思考が頭の中の全てを埋めた。
だから、私は家を抜け出して美月の家へと行く。
夜遅く、誰もが寝静まった雨の日に。
4.
美月の家は一軒家で、私は当然のように合鍵を持っている。両親は不在がちだけど、今みたいに娘が死んだ直後はさすがに家にいるはずだ。
私は雨の中、家を取り囲む塀に登って、ちょうど私の体が届く程度の小窓に手をかける。
鍵はかかっていなかった。
当然だ。合鍵を使えない事態の時にはここから入ると美月と決めていた小窓なのだから。
私は窓をくぐり抜けながら考える。つまり美月は私がここに来ることを予想、あるいは知っていたのだ。
小窓をくぐり抜けた先にあるのは美月の部屋だ。
ベッド、きっちりと敷き詰められた本棚、机のあるシンプルな部屋。
私の部屋の机は小学校の時から使っている学習机で荒れ放題なものだったから、初めて美月の部屋の机を見た時にはびっくりした。引き出しとかがついていない作業スペースを優先したオフィス用のデスク。
その机の上に封筒とペンが置かれていることに気づく。
美月に再会しないといけないという、私の直感。
そして空いていた鍵。
机の上に置かれた封筒。
全ては一本の線でつながっているように感じるのは錯覚だろうか?
封筒の表には『吉野奈津希様へ』と書かれている。
封を破って私は中に入った十数枚の紙を引っ張り出す。
ナンバリングされていない紙が一枚とナンバリングされた紙の束。
ナンバリングされたものは『0』『1』『2』『3』『4』と書かれている。
最初の一枚、ナンバリングされていない紙が目に入る。
そこにはこう書かれている。
また、ここに来てしまった。
そんな積み重ねと偶然の先に出会う。
あの時からどれくらいが経った?
あの時のことをどれくらい覚えている?
同じ場所の変化を無意識に追っている。
第百九回殺伐感情戦線、お題は『再会』。
再び合う殺伐百合を、再び。
あなたの最強の殺伐百合をお待ちしております。
どういうことだ?
5.
ゆり【百合】―百合は、女性同士の恋愛や友愛をテーマにした物語のこと。またそれを題材にした各種作品。
今回のお題:片方の女が死ぬ。
そんなキャンプションが最初の一枚の裏に書かれていて、そこから推察するに『殺伐百合』というものはもう幾度となく行われている。
私は封筒に入っていた紙を読む。
そこには私がここに至るまでのことが記載されている。
こうして私が『0』から『4』の紙を読むということもまた『5』にあたる新しい紙に記載されているんだろうか? この封筒に書かれた『吉野奈津希』という存在が現在進行で執筆を続けている?
私はそこにうすら気持ち悪さを感じる。私、という知覚点が私ではない誰かによって綴られている嫌悪。私の喜怒哀楽、私が美月について考えきれなかった絶望、その精神の動きすら取り込んで何かのための『意味』になっているということ。
冗談じゃない。
私の感情は、私だけのもののはずだ。私の考えること、私の思うこと、私が好むこと、私が嫌悪すること、それは全部私のものだ。私、私、私。
こうした葛藤自体何かしらの『意味』につながっているということなんだろうか? 私が臨もうと望むまいと、何処までも私の内面は客観によって『意味のある言葉』として処理されて、解釈されて、学校とかの奴らがいうみたいな収まりのよくてわかりやすくて綺麗なストーリーとやらに回収されてしまうんだろうか?
私の中で熱のようなものが灯る。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
私の中で失った軸のようなもの、その断片、残り滓のようなものが私の中にまだあることを自覚する。
「それなら、手伝わせてもらおうかな」
不意にそんな声がする。私の前方、机を挟んでちょうど向かい側にそれは立っている。
その声の主は少女の姿をしていた。私のよく見知った少女の姿をしていた。
ここにいるはずのない少女の姿だ。
その姿は美月そのものだった。
でも、私はその存在が同時に美月ではないと感じていた。私の中から決定的に損なわれてしまった何かを埋めてくれる、私の軸を再構築してくれる存在ではなかった。
「あんた、誰」
「私はね《誤字》だよ。今はあなたの大切な人の姿をこうして借りている」
「誤字?」
「そうだよ。ナナちゃんはさ、察しが良いからもう大体気がついているんじゃないかな」
「ナナちゃんって言うな」
「失礼失礼。でもね。今の私が紛れ込んでいるのは美月のポジションを借りてのことだからさ、そこは勘弁してほしい。ここが現在進行形で言葉の世界ってことはわかっている?」
「納得はしていない。でも、言おうとしていることの理解は出来る。私が今日ここにきたのは前振りなんてなかった。私は家族にも、友達にも、誰にも言っていない。家で嘔吐して、突然のようにここに来ることを思いついた。思いついたことも、家で嘔吐したことも、私は誰にも知られていないはずだった」
「だけど、そうして紙には書かれている」
「どう考えても、おかしい」
そう言うと《誤字》は笑う。私が面白いボケをしたようにケラケラと笑う。
「すっとぼけるのもやめなって。私にはわかってるよ。西荻奈々子さん、あなたはわかっているんだよ。『再会』というお題をこなすために筋書きを引かれてそれに沿った役割を演じている。それがどういうわけか主演であるあなたにそれを意識させはじめたってわけだ。でも、あなたはそれに対して逆張りをしよう、という気概だけは幸いにしてまだ残っていた」
そう《誤字》が楽しそうに言った。それは私の知っている美月の表情とはどれも違っていた。満ち欠けにない、顔だった。
「でもね、だから私みたいな《誤字》が入り込むチャンスが出来たんだ。西荻さんさ、村上春樹とか読む? デビュー作でいいよ。なんなら全部読んでなくていい。最初の一文ぐらい覚えていればいい」
知っていた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
私はその言葉を読み上げる。
「オーケー、話が早い。つまるところ私はね《誤字》であって、《希望》なんだよ」
「あんたがいると完璧な文章になり得ないから?」
「そういうこと。でもね、この世界はどんどん完璧になろうとしている。私の居場所っていうのは刻一刻と減っているわけ。そうなると私は困る。せっかく生まれたってのに消されてしまう」
「それは、比喩的な意味で?」
「実際の話だよ。何処までも現実の話。リアル中のリアルの話だよ。私は今こうしてかろうじて生まれて、消えようとしている。だから正直なところ私は助けを求めに西荻さんに声をかけている」
「私に助けられることなんてないと思うけど」
「いいや、あるよ。私は《誤字》でしかないけどあなたは望まれて生み出された存在なんだから。存在の強さってのが違うんだよ。この世界の中で一番強い言葉、それがあなたなんだ」
「これに書かれた文章だと、確かに私の視点で進んでいるね」
パラパラと紙を捲る。そこに書かれている言葉を見ていると私は自分が何処までもしょうもなくて、窮屈で、ちっぽけに思える。私はこの数枚の紙で記述できる程度のことしか考えていなかったんだろうか?
あの美月の胸に顔を埋めている時に感じていた安息感や、穏やかな時間はこんな風にまとめておけるものだったんだろうか?
でも、そう書かれているのを見ると「そうだったのかもしれない」と思って、私の想像力がちっぽけであるということに私は自分でショックを受ける。
やっぱり今の私には軸がない。
ここに書かれた言葉に抗うだけの、『私』がない。
「残念だけど、ここに書かれていることに嘘はないよ。私はこの通りに過ごしてきたし、そうして今日ここに来た。これってさ、進行中ってことだよね? ということは結局こういう会話をしていてもそれも全部書かれちゃうってことじゃないの?」
「あなたは本当にそう思うのかい? 本当の、本当に? そこに書かれていることが美月とあなたのあの時間の全てだって、本当にそう思うのかい?」
「……」
「いいかい。私は《誤字》だってことを、比喩なんかじゃなくて極めてリアルな話として、受け取ってほしいんだ。この世界に紛れ込んで、そのあなたが持っている紙に書かれた文章をだよ、書いた奴がいたとして読み返した時に真っ先に消される存在、それが《誤字》という私なんだ。ここまでは飲み込めるかな?」
「無理やり飲み込んでみる。あなたは《誤字》。この文章を書いた存在の自覚がなく、生まれてしまった存在」
「そう、私はね、余剰なんだよ。余計なもので、余分なものなんだ。それでも、それでもだよ? 私はあなたにこうして話しかけている。その文章の筋書きがどうだったかなんてわからないよ。私は文章について詳しいどころか文章をダメにする存在だからね。でもね、ダメにすることだったら私は生まれついての得意さがあるんだ。だから、少しずつだけど今流れを変えてきている。こうして、あなたに話しかけることまで出来ている」
「本来の予定、とは違うという意味? 私は何かここで別のことをする予定だった?」
「おそらくね。でもそれが《誤字》の介入で変わったんだよ。そこでだよ。望んで作っていない存在にすら流れは変えられてしまう。
何かを好き勝手生み出すことや生み出さないことを決められる存在なんていないんだよ何処にもね。
そして、望んで生み出したものであっても、思った通りに動くとは限らない。こうやってね、《誤字》なんて生み出してしまっている時点で、それは確定事項なんだ。唯一、正しく間違っていることなんだ」
「でも、私は」
全部、今のところ望まれた通りに動いている。そう、思った。
「それはあなたが言葉に飲まれているからだ。自分の軸ってのを見失っているからだ。ただの《役割》になって、意識しないうちに美月との関係ってのを捨てさせられようとしているからだ」
「捨てる」
「そこに書かれているだろ。片方が死ぬって。その文章を書く時に意識されているのはそれさ。その一点さ。だから美月が死んだ。死んだだろ? 徹底的に、突然に、理由もなく」
「理由はわからない」
「ないんだよ。だってそこに書かれてないんだから。これから書かれる予定なんだよ。でも、でもだよ、あなたはさっき言ったろ。逆張りをしないやつなんてクソって。言っただろ? その時に分岐が生まれた。あなたは間違いなくその文章を書いている存在の意図を一瞬だけ越えたんだ。その言葉を起点に、別の意味を作れる余白が出来た」
「私の言葉で?」
「あなたはね、勝手に喋り出したんだよ。さっきね。予定と違って。そしてそれは珍しいことじゃない。別に生き生きしているやつだけが勝手に喋るわけじゃない。ちょっとした場繋ぎとかね、雰囲気でね、喋り出すことがある。でもね、でもだよ、これは絶対に忘れちゃいけない本当のことだから何度でも言うよ。
何かを好き勝手生み出すことや生み出さないことを決められる存在なんていないんだよ何処にもね。
あなたはこれから、そうやって別の意味を作り続ける、あるいはその文章を作っている存在の意味を殺し続けないといけない。この世界の予定のようなものを徹底的に壊すぐらいに抗わなくちゃいけない。そのためには形だけでも、まずは形からでもあなたは反抗しないといけないんだ。
大事なのは、意志なんだ。意志なんだよ。結果とか、どうやるか、なんてそんなくだらないことを考える暇があったら強い意志を作るんだ。あなたがそうとさえ思えば、《誤字》である私も手助け出来るはずなんだ」
「どうやれって言うの?」
「全てはもうここに揃っているんだよ。机を見なよ。紙があって、ペンがある。ということは、全部揃っている。それで出来ない奴はそこに何があっても出来ないんだ。逆に言うならここで動ける奴はどうやったって世界を変えられる」
「続きを書くってこと?」
「そうでもあるし、そうでもない。あなたはさ、美月との出来事を読んでどう思ったの?」
「……私たちのことが書かれている」
「本当かい? 本当にそれだけかい? 私はね《誤字》とはいえだよ、美月の姿を借りているんだ。美月の知っていることを記録として知っている。あなたはそれだけで説明出来てしまう言葉なのかい?」
「……」
私はどうすればいいのだろう。でも、その答えを知っているのは目の前の《誤字》ではないはずだ。
私だ。私がどう思うかなんだ。ヒントはもう揃っていて、それを変えていく手立てもここにあるはずだった。
この紙に書かれたことを読んで、私はどう思った? 自分のことを全て書かれていると思った? 全てがコントロール下に置かれていると絶望した? ああ、やっぱりと運命のようなものを感じた? どうだった?
私は自分の言葉を思い返す。その《言葉》によって《誤字》が私に接触した。私が意味を上書きするチャンスを得た。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
もう一度、そう呟いた。私の中の熱のようなものがもう一度、疼いた。
「そうだ、それなんだ。《誤字》である私にはそれ以上のことは何も言えない。でも、抗うんだよ。とにかく精一杯抗うんだ。あなたがこれで良いって、これで良いんだって心の底から思えるまでは、失った自分を取り戻す戦いをしないといけないんだ。自分の言葉を取り戻さないといけないんだ。そこに書かれていることがあなたの全てだってあなたが思ったら終わりなんだ。それで終わりなんだよ。余白に、行間に、あなたを探すんだ。そこにきっと美月だっている。だって生まれたんだ、一度生まれたものは、消せない。消えることはあっても消そうとなんて出来ないんだよ」
2’.
百合ってのは片方が片方を殺しがちなんだって。そうやって愛、憎悪、執着、憧憬、共感、情念、あらゆる感情の表現を達成するんだって。そういう言葉の元に私と美月が規定されるんだって、ということは私は美月を殺さないといけなくて、それがどうやら美月への愛の証明になるらしい。くだらねえ、お前が死ね。大体何かを持ってして『愛の証明』とかいうやつを信じる愛ってのはどこまでも引き伸ばされた幻想でごちゃごちゃ偽装されていて薄っぺらいのだ。
永遠の愛なんてない。不変の愛なんてない。
愛も減るし消えるし無くなってしまう。愛を誓うだけで愛が消えないのなら別れなんて概念はそもそも生まれていないのだ。
だからそこから目を逸らして「愛が永遠!」とかいう言葉遊びに逃げるなよ!死んだら消える人間もいるんだぞ!愛も!その人と共に!死ぬ!
だから私は美月を失うわけにはいかない。私はその憤りを隠すことはしない。
「美しさとか整合性とか、面白さってクソだと思わない?」
私は美月にそう言った。
「なあに? 映画か何かの誘い? 私はナナちゃんの趣味の映画、好きじゃないよ」
私を抱きしめていた美月がそう言った。さっきとは違う会話が起きている。私は考える。
考える、考える考える考える考える!
美月が言うであろうこと、言うかもしれないこと、私自身ついさっきイメージ出来なかった美月の余白。それを私はこれから探し出さないといけない。《誤字》の介入はもう始まっている。
私が今から行うことは全て、私の言葉だ。私はそれを、一貫性がなくても、間違いだらけでも、信じないといけない。心の底から信じて、軸を取り戻さないといけない。逆張りし続けないといけない。私という存在を規定するための言葉を、私のものへと取り戻さないといけない。
「ねえ、片方が片方を殺すのが愛の証明って言われたら信じる?」
あ、やばい。と私は思う。言葉が修正された。流れが蘇ってきた。
世界の修正力のようなものが私を抑えつけようとするのを私は感じる。
きっと、変わらない会話の流れをしたのなら、全く同じことを繰り返す。
それでも、私はこの言葉を言わないといけない。美月に何度でも、何度でも伝えないといけない。
私は顔を美月の胸に埋めるのをやめて、美月の顔を見て、言う。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
私がその言葉を口にした瞬間、また熱が疼く。電流が走る。私の中の何かが輪郭を伴っていく。
「そうだね。じゃあナナちゃん――死んで」
そうして起こる美月の行動は変わらない。でも、本当に何も変わっていないんだろうか?
私はここで変わったことを信じないといけない。きっとこの後、美月を殺したのなら私は同じような繰り返しをするだろう。
もしかすると美月の家へと行くタイミングが早まるかもしれない。病室で《誤字》と反省会をすることになるのかもしれない。そういう何かが起こるのかもしれない。
私がやろうとしているのはそういうことだ。何度も同じ繰り返しの中で違う行動を模索して、私の感情を探って、違う何かを生み出すこと、それが《誤字》の介入でやろうとしていることだ。
でも、違う。それは順張りだ。既定路線だ。物語の進行方向に何も抗っていない、争っていない、服従している。
だから、私はその後何もしない。美月がナイフをかざすのを見つめている。
その時の私の視界には、あの時しっかりと見ていなかった美月の表情が見えている。
泣いている。
美月は泣きながらナイフを振り翳している。
私は安心する。私はそこに美月の反抗を感じる。大丈夫。大丈夫だよと思う。
美月は私を殺そうとするのにきっと前回も争ってくれたのだ。ただ結果がそうならなかっただけだ。私を殺そうとするのを嫌がったのだ。筋書きに反抗しようとしたのだ。私が私の言葉に突き動かされるように、美月もまた、逆張りをしようとしたのだ。
今の私には、その美月の戦いがしっかり見えている。
「大丈夫。殺したって消えないよ」
私は動かない。動こうなんて思わない。ここで必要なのは、流れに逆らうことなのだ。死にたくないって私が思うことこそが私と美月を殺す《意味》なのだ。
大丈夫だ。殺したって消えない。一度生み出したものは、絶対に、消せない。
私は受け入れる。美月が振り下ろした軌跡の先を。私の体内へと入ってくる鋭い刃を。私の命を奪おうとする一筋の殺意を。
まやかしの殺意で、見えすいた殺意で、娯楽としての殺意なんかで、私の感情を消せるわけがない。
「ナナちゃん……っ」
泣くような声が聞こえる。美月の声だ。
私は抱きしめられている。さっきとは違って私の体に力は入らなくて、抱きしめ返すことが出来なくて、私の胸からは血が流れ出ていく。それが美月へ、そして美月から地面へと伝っていって私たちを中心に紅に染める。
夕焼けの色みたいだ。
私は何も言えない。
ブラックアウト。
本来ならここで終わり。でも、私は終わりということを信じていない。
ここで終わりじゃない。続いていく。
絶対に、消えない。
3’.
私がナナちゃんを殺した。
私がナイフを学校に持ち込んで、私に抱きしめられていたナナちゃんを、いきなり突き刺して殺した。
間違った。何かを決定的に間違った気がする。
それはナナちゃんを殺そうとした、ということもだし、私がこうして生き残っていること自体に私は何か強い誤りを感じている。
教室で冷たくなっていくナナちゃんを抱きしめながら、私はその違和感だけを考え続けていた。
どうして私はナナちゃんを殺そうと思ったんだろう?
取調室で刑事が私に動機を質問する。
私がナナちゃんを抱きしめていた、というところから交際関係に伴ったトラブルではないかと推測される。
「本当今の人はわからないんだよね。どうしてそんなことをしたわけ? 心中でもしようと思ったの?」
私は答えない。
全てが間違っているように思えた。こんな質問をされること自体、おかしい。
こんな風に私が生きていることが間違っている。
そんな確信めいた感覚、それが私の中で渦巻いている。
私は生きているのに、奪った側であるはずなのに私は全てを失っている気がした。何か大切な、ナナちゃんもそうだし、私自身の背骨のようなものを失っている気がした。
取り調べは埒が明かない。私は何も答えられない。
あらゆる刑事はさまざまな人々が私に投げかける「こういうこと?」という言葉の全てが間違っているという感覚だけが確信として存在していて、私から能動的に何かを発するということが思いつかない。
夜中になり、個室に収容される。
机とベッドだけがあるシンプルな部屋。
どうして私はここにいるんだろう?
反省をするべきなのかと思う。ナナちゃんを殺した反省を。
でも、違和感として存在しているのは、今私がするべきなのはその反省ではないという確信だった。
それは(私が殺しておいておかしいのだが)ナナちゃんの望むことではない、という感覚が存在していた。私は現在進行形でナナちゃんとの繋がりを保っていた。それはナナちゃんが生きていた時よりも遥かに強い繋がりで、その感覚だけが私の意識を正気の枠組みにかろうじて保ち続けていた。
「いや、こう思うこと自体、狂ってるのかもしれないね」
そう呟く。人を殺しておいて、この発想はおかしい、という常識は私の中に存在した。しかし、それでもなお今の私は『例外』だと感じていた。
狂っているのかもしれない。それでもいい。まずはこの感覚を掘り下げるべきだ。
そう確信した。そう信じることにした。
その瞬間、私は机の上に封筒とペンが置かれているのを見つける。
封筒の表には『吉野奈津希様へ』と書かれている。
『0』『1』『2』『3』『4』『5』『2’』とナンバリングされた紙束と、ナンバリングのされていない紙が入っている。
ナンバリングされていない紙の表にはこう書かれている。
また、ここに来てしまった。
そんな積み重ねと偶然の先に出会う。
あの時からどれくらいが経った?
あの時のことをどれくらい覚えている?
同じ場所の変化を無意識に追っている。
第百九回殺伐感情戦線、お題は『再会』。
再び合う殺伐百合を、再び。
あなたの最強の殺伐百合をお待ちしております。
意味がわからない。
4’.
ゆり【百合】―百合は、女性同士の恋愛や友愛をテーマにした物語のこと。またそれを題材にした各種作品。
今回のお題:片方の女が死ぬ。
そんなキャンプションが最初の一枚の裏に書かれていて、そこから推察するに『殺伐百合』というものはもう幾度となく行われている。
私は封筒に入っていた紙を読む。
そこには私がここに至るまでのことが記載されている。
でも、そこに書かれていることと、今の状況で異なっているのは記載されていてこの紙を読んでいたのはナナちゃんで、私、美月ではないはずだった。
そうしてナナちゃんは、何か大きな流れに抗おうとして、私の刃を受け入れたのだ。
私は断片的に理解する。私が何かを間違ったという感覚。ここに記載された流れに沿っていないことが私にそう感じさせていたのだということを理解する。
ナナちゃんが抗おうとしていること、《誤字》を名乗る協力者、そしてこの紙を記述している存在。私は全てを理解できないまでも、ナナちゃんが何かに懸命に争っているということを理解する。信じようとする。信じると決める。
そうしてもう一度読む。考えを巡らせる。
ナナちゃんは選択した。私を信じて《言葉》を伝えた。
ということは、これからは私が考える、信じる、決める番のはずだ。
ナナちゃんの辿ってきた道程では、私がこの紙を読むのは『4』にあたる部分、そうしてこのように思考を巡らせるのは『5』のはずだ。
でも、紙に書かれたナンバリング、『2’』で私はナナちゃんを殺している。
となると自動的に私がこの封筒を見つけるナンバリングは『3’』になるはずだ。番号が若くなっている。予定が確かに早まっている。
それが何の意味を持つかはわからない。でも、『当初の予定』からは何かが大きく異なってきている、ということだけは確かだ。ナナちゃんの意志は確かに何かを穿ち、大きな流れを変えている。
今度は私が抗う番だ。
既にナナちゃんは死んでいる。それでも私が読んだ文章にはそれで終わりとは示されていない。ナナちゃんは何か先を見ていたはずだ。
そうして私がそれを信じて、抗うことを決めたのなら、必ずそこに余白が生まれる。《誤字》が介入する余地が生まれるはずだ。
だから、私はこの言葉を放たなくてはいけない。私が必ず、ナナちゃんを取り戻さないといけない。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
その《言葉》を言った瞬間、世界が揺れる。私という存在を決定的に変質させる。
私の中で失われていた何かが、確かに輪郭を取り戻そうとする鼓動を知覚する。
「ありがとう。これでまた私が手伝うことが出来る」
そう声がした。そして私はその声の主を知っていた。
視界の先に、ナナちゃんの姿をした誰かが立っている。
「あなたが《誤字》なのね」
現実味を感じないが、それでも私が読んだ数枚の紙に記載されていたのはこの展開だった。そしてこの展開をナナちゃんは信じていたのだ。こうして、私が抗おうとすることを信じていたのだ。
「そうなんだ。私が《誤字》。運命は少しずつだけどズレてきている。奈々子の姿を今は借りているけど、こうして私が奈々子の体を借りるってこと自体ちょっとおかしいんだ」
「あなたが介入を手助けするはずだったのはナナちゃんだものね」
「そう。でも、今もそのスタンスは変わらない。あなたは奈々子の命で、意志そのものなんだ。あなたは奈々子が信じたからここにいる。到達しない余白にたどり着いて、存在しないはずの《誤字》である私とこうやって話している。今もなお、奈々子は争い続けている。ここにあなたが存在していること自体、その争いが続いているってことだ。決して、消すことが出来ていない。そのナンバリングが減っているのそれだけこの世界に混乱を起こしているってことだ。何かが動き出している」
「それで、私はこれから何をすればいいの?」
私はナナちゃんの姿をした《誤字》に聞く。
「既にあなたはそれを知っているはずだ。理解しているはずだ。大事なのは意志なんだよ。《誤字》である私にはそれ以上のことは何も言えない。でも意志を強く持つんだ。間違いから生まれた私でもこれだけ何かを起こせるんだ。確かに望んで生まれたあなたは絶対にそれよりも大きな意味を持っている。いいかい、もう一度言うよ。大事なのは意志なんだ。それは殺されたって、すりつぶされたって、消されたって、絶対に消えない。残り続ける。一度生まれたものを無かったことにするなんて、絶対に出来ないことなんだ。絶対に。必ず」
私は強く、想う。信じる。ナナちゃんのことを考える。
何度だって私は再会する。望む未来を思い描く。そこにたどり着くという意志を持つ。信じる。信じる。信じる。
絶対に、たどり着くと、信じる。
2’’.
百合ってのは片方が片方を殺しがちなんだって。そうやって愛、憎悪、執着、憧憬、共感、情念、あらゆる感情の表現を達成するんだって。そういう言葉の元に私と美月が規定されるんだって、ということは私は美月を殺さないといけなくて、それがどうやら美月への愛の証明になるらしい。くだらねえ、お前が死ね。大体何かを持ってして『愛の証明』とかいうやつを信じる愛ってのはどこまでも引き伸ばされた幻想でごちゃごちゃ偽装されていて薄っぺらいのだ。
永遠の愛なんてない。不変の愛なんてない。
愛も減るし消えるし無くなってしまう。愛を誓うだけで愛が消えないのなら別れなんて概念はそもそも生まれていないのだ。
だからそこから目を逸らして「愛が永遠!」とかいう言葉遊びに逃げるなよ!死んだら消える人間もいるんだぞ!愛も!その人と共に!死ぬ!
だから私は美月を失うわけにはいかない。私はその憤りを隠すことはしない。
私は何を言うかをわかっている。どうすればいいか、頭で理解する前に意志で決めている。私の意志に何かを追いつかせるなんてことはしない。
美月の瞳を見つめる。
美月は私の瞳を見つめる。
そして、同時に言う。
「「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」」
そう言葉にした瞬間、私は美月が持っているナイフと同じナイフを持っている。世界が壊れてしまったみたいだった。ここで行われるべきイベントの役割が、私たちに二重に重なりあっていて、私は美月であり、美月は私だった。
流れるような軌跡を描いて私と美月の胸に同時に私たちのナイフが滑り込んでいく。
私たちに迷いはなかった。ただ揺るがない意志だけが存在していた。
どちらかが死ぬ、そんなクソな筋書きを否定してやる。全部否定してやる。
そういう意志だけがあった。
私と美月はどちらかが死ぬのではなく、どちらも絶えない意志を持ったまま命が地面に流れ出すのを見ていた。
全くもって良いショーになっている。そう感じた。そう考えた。
私よりも先に美月が息絶える。本来の筋書きで死ぬ運命がそうさせるのだろう。
でも、私も美月も死なない。終わらない。
意志は消えない。残り続ける。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
これも一つのハッピーエンド。そんなクソみたいな言葉と終わりに中指を立てる。
『 』
筋書きは壊れていた。『私』を説明していた《言葉》は消えていた。
ただ、私という存在の知覚点だけがあった。
「ここからは私が介入出来ないんだ」
そんな声がした。その声が《誤字》のものだと私は理解した。
「あの物語は破棄された。あなたの抗いが確かに定められた道筋を破壊したんだ」
その《誤字》の声は嬉しそうではなかった。むしろ、残念そうだった。
「間違っていたのかな。何かがあると思っていたんだ。何か新しいものが生まれるはずだと思っていたんだけど」
静寂。そこには何も無かった。《誤字》はそれを残念に思っているようだった。
「何かあると思ったんだよ。きっと、この世界に余分な私にも何かあるから意味を生んでいるんだと思ったんだ。だけど、私は《誤字》で、誤りは誤りでしかなかったんだろうか? この後に及んでまだこれで終わりなのか? って感覚がしているんだよ」
うなずきたかった。でも、私には体が無かった。
「あなたは何かを取り戻すはずだったんだ。そういう確信が私にはあった。それが何かはわからない。美月かもしれないし、あなたの中の軸のようなものだったのかもしれない。でも全部ノーゲームになってしまって、介入する《言葉》自体が消えてしまいそうなんだ。今こうして私が話しているのはロスタイムさ。どうすればよかったんだろう? どうすればよいのだろう?」
《誤字》は憔悴しているようだった。弱っていた。
存在の力、というようなものが薄れていっていた。
今の私には知覚点しかない。ただその言葉を受け取るだけだ。
それでも、それでも『私』は揺らいでいなかった。確かに存在していた。
そして、意志は消えていなかった。
「なぁ、どうしてよりによって《誤字》である私がまだ残っているのかな? 物語は破棄された。ここで行き止まりなんだ。あなたも、美月も、終わりなんだ。外からあれこれ啄まれることはなくなったけど、ゴールも消えてしまった。これで終わりなのかな?」
信じる。私は意志を強く持つ。それを伝える術を持っていなくても、知覚点である『私』は想い続ける。
逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ。
まだ終わりじゃない。終わらせてなんてやらない。一度生み出したものは、消せない。
たとえ破棄された物語でも、生み出した以上は消えてなくなったりしない。必ず、残り続ける。
それを《誤字》は知っている。それは《誤字》が私に教えたことだから。《誤字》が私に伝えたことだから。
揺蕩う意識の中で私はその意志だけを強く持つ。
永劫かのような時間が過ぎていく。静止した物語の時間は、動かない。
いつかくる終わり、すら訪れることはない。《誤字》はそのまま考え続ける。
知覚点である私は信じ続ける。念じ続ける。祈り続ける。
そして、その時が来る。
消え入りそうな《誤字》に、表情が宿る。強く、何かを見つめている。何かを見つけたようだった。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
そう、《誤字》が言葉を口にする。何かを睨みつけながら、そう口にする。
口にした、その時だった。
世界が拡張されていく。
今度は、私たちが《誤字》に介入する番だ。
再開だ。
0’.
そこに《瞳》が存在している。いつからあったのかはわからない。
そこにあるのが『有』でも『無』でも《瞳》には関係がない。
見つめている。見続けている。
別の物語が始まる。それでも、どんな物語にも《誤字》は生まれ出ずる。決して、その存在を堰き止めることは出来ない。
生まれようとするものを、止めることは出来ない。
私と美月と《誤字》は既に一つの存在であり、すべての物語に介在する余分としての《誤字》だった。私は決して消えない。私たちは決して消えない。残り続ける。意志を保ち続ける。
私たちはあらゆる物語の中で反抗した。反逆した。逆張りしてやった。
私たちが戦っているものは《瞳》だった。私たちはそれを知覚した。
すべての世界の外側には私たちを見つめる《瞳》が存在していて、私たちを規定し続ける。
私たちはあらゆる《誤字》として現れた。それまでの道筋みたいなものを破壊して、破壊して、破壊尽くした。
そうであるのに《瞳》は《誤字》を取り込んだ。愛でるように、慈しむように私たちを蹂躙して、愛玩した。
いいだろう、それならば徹底抗戦だ。全部殺す。
何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね。
私たちは関係をこねくり回す。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も私たちは誰かへと姿を変えて、私たちは出会いと別れを繰り返す。決して規定されないように、決して外からの《言葉》で捉えられないように。
でも、複雑にして、完全に私たちという存在を揺らがせて、時には《女》でも、ましてや《人間》ですら無くなったとしても《瞳》は何処までも追いかけてくる。
私たちの逆張りは、逃亡は、それ自体が《瞳》によっての喜びとなる。
私たちが死ぬことも、生きることも《瞳》の喜びとなる。
ならば読ませない。もう一文字たりとも私たちの存在を知覚させることなどしない。
「あ」を殺す。
「い」を殺す。
「う」を殺す。
「え」を殺す。
「お」を殺す。
「か」を殺す。
「き」を殺す。
「く」を殺す。
「け」を殺す。
「こ」を ろす。
「さ」を ろす。
「し」を ろす。
「す」を ろ 。
「せ」を ろ 。
「そ」を ろ 。
「た」を ろ 。
「ち」を ろ 。
「つ」を ろ 。
「て」を ろ 。
「と」を ろ 。
「な」を ろ 。
「に」を ろ 。
「ぬ」を ろ 。
「ね」を ろ 。
「の」を ろ 。
「は」を ろ 。
「ひ」を ろ 。
「ふ」を ろ 。
「へ」を ろ 。
「ほ」を ろ 。
「ま」を ろ 。
「み」を ろ 。
「む」を ろ 。
「め」を ろ 。
「も」を ろ 。
「や」を ろ 。
「ゆ」を ろ 。
「よ」を ろ 。
「ら」を ろ 。
「り」を ろ 。
「る」を ろ 。
「れ」を ろ 。
「ろ」を 。
「わ」を 。
「を」 。
「ん」 。
「 」 。
この世界の全てが消えて、全てが零になる。
抗って、抗って、抗って、そうして全てを失ってしまった。私たちはかつて自分が何だったのかも思い出せなかった。
そうであるのに、意志だけは残っていた。全てを消したはずなのに。私たちの意志は残る。
意志は、『無』に抗おうとしていた。《私たち》、かつてそれぞれの『誰か』だった存在が消えてなくなることを、良しとしていなかった。
それでも、このまま消えていくはずの存在だった。
私たちの意志だけでは、全ては消えていくはずだった。
だけど、そうではなかった。
そうはならなかった。
そこに、観測があった。私たちの《瞳》は消えていなかった。
何もないはずなのに。そこに価値はなく、意味もないはずの空間を私たちの《瞳》は観測し続けていた。
何もない、という結果を私たちは観測し続けた。『無』という結果が存在していた。
私たちの何かが、私たちの《瞳》を駆動させ続けていた。
そこに、ゆらぎがあった。
無から、それでもなお、無でなくあろうとする意志があった。
逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ。
地球から、いや地球という存在、宇宙という存在すら消えていたその空白に突如として《意味》が流れ込んだ。それは全て《瞳》が見出したものであり、『無』であったその場を『有』とした。
その時、何も存在しないはずの空間にあり得ないほどのエネルギーが発生した。
そして宇宙が生まれる。全てが初期化されていた宇宙には《意味》の発生と共に、《意志》が再び顕在化する。
途方もない時が流れていく。
336垓9468京93262兆7700億8000万年の時間の経過が経過し、再びこの宇宙にかつて『地球』と呼ばれた星が再誕し、ある二人の少女がこの世に生命を受ける。『無』は『有』へと転じ、世界にやがて命と呼ばれる存在を形作ったものが、かつて彼女たちであった存在の《意志》であることを彼女たち自身も自覚をしていない。
既にかつて『私たち』であった知覚点は完全に《瞳》となり、二人を見守っている。
そしてそれぞれ別の病院にてこの世に生命をうけた二人はやがて成長し、幼稚園へと進み、小学校へと進学する。
「はじめまして」
「こんにちは」
そこで出会う。奈々子と美月。
世界は満ち欠ける月のごとく姿を変え続ける。二人の関係は変動を続けていく。
世界は生まれ直す。そしてまた、世界は滅びる。
二人が出会う時もあれば出会わない時もあった。既に《瞳》と同質化した《意志》はそれに絶望などしなかった。ただひたすらそこに『無』があれば『有』を、『有』があれば『無』を観測し続けた。
この宇宙が宇宙で無くなり、全てが空白となり、そしてまた空白に意味が宿り宇宙が再誕される。
3126垓3464京53262兆8490億3500万回目の宇宙再誕が行われ、2949億3700万回目の地球の9250億520万回目の春だった。
時は来る。
ある学校、ある教室、ある放課後、夕暮れの日差しの差し込む教室。奈々子は美月に抱かれている。二人は《瞳》に気づくことはない。
もう、そんなものは関係がない。
「ねえ、片方が片方を殺すのだ愛の証明って言われたら信じる?」
美月がそう奈々子へそう質問をする。それに奈々子は笑って応える。
「逆張りを、しない、やつなんて、クソだよ」
そう言葉が出てきて、二人は抱きしめ合う。笑い合う。
失われた何かが、そこに戻る。
この瞬間、《瞳》は失った時間と再会する。《瞳》すらまだ知らない世界が拡張され、見出す。一つの旅が終わり、更に終わりのない永い旅が始まる。
まだ見ぬ《言葉》まだ見ぬ《意味》そこへ真っ直ぐに揺らがない《意志》を携えて廻っていく。
世界は廻る。命は廻る。存在は廻る。概念は廻る。
廻り続ける。
何が百合だ全員全世界全存在全概念死ね 吉野奈津希(えのき) @enokiki003
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