酢豚と、さよならのキス

真花

酢豚と、さよならのキス

 私は彼の葬式には出られない。

 その日が来たとしても、全てが、なかったこととして、終わらなければならない。二人が重ねて来た日々を、なかったことにしなくてはならない。家族のある彼に恋をした、最初から分かっていた訳じゃない、二人が安定した関係になってからやっと、その非情な現実が首をもたげた。二人が二人でいることに永遠に付き纏う、彼の生活を守らなくてはならないと言う重石。でもだからと言って関係をやめようとは、どうしても思えない。彼の声が、手が、匂いが、捨てられる筈もない。まるで宙ぶらりんの私、泣いたこともあったっけ、いつしか、それが当たり前になって、違う、目を向けなくなって、目の前の彼に熱中する。私はずっと、彼に熱中する。

 もう二十年。私の女としての旬はとうに過ぎて、彼は明らかに老いた。髪や他の毛に混じる白いもの、皮膚のたるみや斑点、食べる量や嗜好の変化、だけど二人を繋ぐ魂の絆だけは一切の劣化を見ない。

「ミッコ」

 いつものホテル、ベッドで横並びに天井を見る。ころりと私は彼の方に向いて、彼越しの窓には東京タワーが遠くあって、夜に沈んだ空に押し潰されないように踏ん張っている。

「なぁに?」

 彼はこっちを向かない。空気の中に私達の汗の精が混じって、声を僅かにくぐもらせる。彼は、あのさ、と前置きしてからとっても真剣な声音で「市ヶ谷でいつか食べた酢豚をまた食べたい」と言うから、私は笑う。いいよ、じゃあ予約しておくね、と笑い混じりに、彼のお腹を軽く叩いた。彼も微笑んで、「よろしく」、と言って私の顔を覗く。その眼がとても綺麗だったから、私は彼に口付けて、ん、と彼は言ってベッドから出る。

「ミッコはすぐにキスするね」

「ダメ?」

「いや、いいけど」

 彼はシャワーを浴びに行って、私は一人ベッドに残される。彼の余韻をたぐっている内にうとうとして来て、は、と気付いたら彼がソファでタバコを吸っていた。その姿を見たらもっと安心して、すっかり眠ってしまった――

「ミッコ、俺帰るよ」

 揺り起こされた、彼はもう服を着ている。

「あれ? 寝てた?」

「よく寝てたよ。起こすのもどうかなと思って、今になった」

「帰るの?」

「そうだね」

「泊まってってもいいんだよ?」

 彼はちょっとだけ困った顔になる。

「帰らないと」

 私の中にある嗜虐心はとても少なくて、それよりも彼が困らないようにしたいと言う気持ちが常に勝つから今日も、そっか、と送り出す。彼がいなくなった部屋は不愉快に広くて、音がなくて、でも備えるために小説を持って来ているから、その文庫をベッドの上で開く。


 その日、家に無事に戻った旨のメールを受け取った後、彼と連絡が取れなくなった。

 毎日している朝のメールに最初は返信が遅いだけだと思っていたけど、半日経っても返って来ない。『生きてる?』と心配七割、冗談三割で送っても全然連絡ない。何かあったのだ。時間を開けながら『大丈夫?』『おーい』『連絡下さい』と送信して、返信なし。絶対に何かあった。彼が急に私の前からいなくなることはあり得ない。もしかしたら昨日が会う最後なのか、と考えて、それを打ち消す。彼は死んでしまったのか、打ち消す。でも、何もなくてこの状況はあり得ない。落ち着かなくて、それでも仕事をして、何度も何度もメールをチェックして、結果は同じで、家に帰って、どうしよう、電話を掛ける訳にもいかない。それでも、狼狽えながらも少しずつ、混乱したものが沈澱するように整理される。それがずっと二十年間私の背骨に貼り付いていたものと交差して、一つの結論に至る。

 彼は死んだのだ。

 もちろん、病気や事故で入院中とか、逮捕されて勾留中とか、他の可能性がない訳ではない。だけど私の直観が強い口調で彼の死を言っている。もし生きていたらいずれ連絡が来るから取り敢えず死んだことにして、ではない。私は彼が死んだものとして振る舞わなければならない。たとえそうだとしても、この関係を顕にすることはしてはいけない。私はだけどそのことを受け入れることが出来ない。当たり前だ。現実とするのには根拠が乏し過ぎる。だけど、そうとしか、思えない。体の中で二つの観念が混じることなく浮いていて、私の理性が悪魔の声で囁いた。一週間は待とう、でもそれが過ぎたら、職場に電話をかけよう。

 人生で一番長い一週間だった。彼からの連絡はなかった。

 私は彼の職場の電話番号を押す。呼び出し音の後に誰か受け付けのような人が出た。

「――社です」

「こんにちは、三村みむらと申します。この度は木山きやまさんについてお悔やみ申し上げたくお電話差し上げました」

「それはわざわざありがとうございます」

「御香典をおくりたいのですが、どうすればよろしいでしょうか?」

「すいません。ご遺族のご意向で、ご辞退させて頂いております」

「そうですか。くれぐれもよろしくお伝え下さい」

 三村は偽名だけど、木山は本名、かけたカマが見事にかかって、彼の死が確定した。私は電話を切ったら、立っている事が出来なくて、世界が端からじわじわと暗黒に呑まれ始める、彼が死んだ、私はこれから独りで生きなくてはならない。

 大声を上げたかった。だけど他にも人が通る可能性があるここでは、酢豚の店の前では、そんなこと出来ない。彼と唯一あった未来の約束、酢豚を食べに行く、だから私はここが最も彼に近付くことが出来る場所だと思って、彼が死んでない方の未來が選ばれ易い場所だと思って、ここに来た。でも彼は来ない。

 私は店に入る。「予約席」のプレートがある二人席に通される。

「お連れ様は?」

「今日は来れなくなってしまいました」

「それは失礼しました」

 私は酢豚だけを注文する。もし彼と来たなら他の色々を試しただろうけど、確実に彼が食べたかったのは酢豚だ。彼が死んだ。死に顔を見た訳じゃないけど、さっきの電話で決まりと受け入れるしかない。店の中は客で埋まっていて、妙に気張った格好の客と、逆に普段着過ぎないかと言いたくなる身なりの客で殆ど。その客の群れの中に私は独りぽつねんといて、でもそれは客が多いからじゃなくて、私の前の席が空いているから。万が一と思ってもう一度メールを確認するけど、何もない。彼がいるのが当たり前で生きて来た、これからどうすればいいのだろう、人目を気にする余裕もなく、ため息をつく。

 運ばれて来た酢豚は、野菜が一切ない、豚のボールのみが皿に載っている。八個。私はそれを一つ頬張る。

「美味しい」

 言った途端に涙が出て来て、止まらなくなる。こんな状況でも味は味なんだ。そしてこれが彼の求めていた味。多分、人生の最後に欲していた味。それを今私は食べている。二つ目も食べる。食べながら、彼のことを思い出す。始めて会ったのは職場だった。二人が二人になってからは隠れてキスをしたこともあった。職場に恋人がいると言うことはスリリングに幸せだった。三つ目を食べる。二年後に彼は異動になって、別の職場に行ってしまった。その頃からどうやって会うのかのシステムを作った。思えばあのホテルを利用するようになってから二十年経つ訳で、パタリと行かなくなったら心配されるかも知れない。四つ目。最初の頃はよく喧嘩したね。何回か殴ったこともある。……私の手の骨にヒビが入ったことも。十分にやり合ったから、その後が続いたんだと思うよ。五つ目。やっぱりどう考えても、私の一番はあなただよ。これからどんな風に人生が進んだとしても、それは変わらない。あなただってそうでしょ? あの世に行っても浮気しちゃダメだよ。六つ目。私も素敵な私でいられるように頑張る。私、生きるね。よっぽど後を追おうかと思ったけど、そんなのあなたは望んでない。今、そのことがよく分かる。でも長いなぁ、何十年とあるよ。ん? ……そっか、元気に生きて欲しいか。いや、ないから。泣くに決まってるでしょ。いっぱい泣くよ。あなたが死んだせいで。それで、生きるの。

 私の涙は止まらないけど、ちょっとだけ弱まった。

 皿に残った二個の酢豚。私はそれを箸で真ん中に寄せた。

「これはあなたの分だよ」

 そう言ったら、前の席にあなたがいる気がした。気配がした。体がないから食べられないけど、美味しそう、って言った。

「来てくれたんだ」

 あなたは、少し困ったような顔をする。ちょっとしかいれないんだ、でも、最後に会えてよかった。姿が見えないのに、あなたのはにかむ表情が分かる。

「ずっといてもいいんだよ」

 また困って、それはいつもホテルから帰るときと同じ顔で、私はでも、今日だけは私の想いを優しさよりも優先する。

「ずっといて。行かないで」

 私の声が大きく、涙も大量で、両手を伸ばして彼に縋る。でも、触れられない。俺も最後に触りたい。けど、無理みたいだ。そう彼は言って、それでも体を乗り出して、私に口付ける。感触のない、だけど気配が確かにあって、さよならのキスは私の涙を止めた。ミッコはキスが大好きだからね、とあなたが悪戯っぽく笑う。

「うん、好き。何度でも、して」

 あなたは困った顔をまたする。もう行かなくちゃ。ありがとう、ミッコ。……愛してる。

 あなたはそう言って、風に溶けるように消えてしまった。いつの間にか立ち上がっていた私はストンと席に就く。

「私も、愛してる」

 皿に残った二つの酢豚。店の中の雑音は千年前からずっと同じ調子で続いているかのようで、私とあなたの間に起きたことを呑み込んでいく。涙がまた溢れて来る、あなたの残した酢豚を見ながらずっとずっと、泣き続ける。


(了)



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