誰も知らぬ
水奈川葵
誰も知らぬ
「いやぁ、まんず気がつかねかったでよぉ…」
普段、そんな訛りの強い方ではない。毎朝の散歩途中で会うとき、ちょっとした立ち話をしていても、訛りをさほど感じたことはなかった。
今年から相棒となった若い刑事の隣でその方言を聞きながら、
「しかし、こうやって地面に『オトウサン』と書いてるんだ」
若い刑事―――
「そっだらこと言われても、ワシにもようわからんでよぉ……」
皺深い老人の顔は表情がわかりにくかった。たった一人の娘だというのに、その死を悲しんでいる様子は見えない。
その後の調べで被害者の
彼女が長い刑期を終えて、父の住まうこの町にやってきたのが一週間前の三月二十二日。それから毎日、父の看病に訪れていたのだが、三月二十五日の夕方を最後に彼女の姿はふっつり消えた。神社裏の崖から転落し、死亡したと思われるのは三月二十八日頃であると推測された。
大賀昭雄はその頃、持病の狭心症がにわかに悪化し、同町の病院に入院していた。
隈野は納得がいかない様子の杉田にポツリと尋ねた。
「お前、若林あきえを知っているか?」
突然出てきたその名前に、杉田は眉間に皺を寄せた。
「そりゃ、知ってますよ。あの大量殺人した鬼女でしょ」
「そう。大賀登世子ってのはな、あの若林の息子の嫁だった女だよ」
「え?」
「若林は大賀登世子の家に押しかけて、登世子を懐柔……いや、洗脳だな。登世子を操って、自分の両親、姉に暴言や暴行を繰り返した挙句、一家は離散。その後、例の事件でわんさわんさと出てくる死体の中には、登世子の母親、姉と叔父、祖母がいた。直接、登世子が手を下したかどうかはともかく、登世子と若林に加担した奴らに対して、殺された人間の親族は骨の髄まで恨みまくっているだろう。まして…大賀昭雄は自分の妻も娘も弟も母親も殺されてるんだ。登世子が自分の娘だとしても…許せたかどうか」
話しながら、隈野は煙草の煙を吐き出す。しかし、隣の杉田がゴホゴホと咳するので、仕方なしに携帯灰皿に煙草を突っ込んだ。
「まったく…昭和だなぁ。今どき、煙草なんてカッコよくないですよ」
「すまんな。癖だな」
「定年までまだ三年はあるんですから、ずっと吸ってたら肺が真っ黒になっちゃいますよ」
「あぁ、わかったわかった」
隈野は孫に叱られる祖父のように苦笑する。それ以上はつついてほしくなさそうなので、杉田は話を元に戻した。
「じゃあ、やっぱりあの爺さん、怪しいじゃないですか。だいたいどんな経緯があったとしても、自分の娘でしょ? それがこんな死に方したってのに、泣く様子もない」
「そうだなぁ…」
「ひっぱりましょう! 五時間もやりゃ、ゲロ吐きますよ!」
「どうやって? 登世子がこの町に訪れてから死ぬまでの間、大賀昭雄は入院していた。医者も看護婦も親族もご近所さんもみーんな口を揃えて言ってるのに? 動機と、意味不明のメッセージだけで任意同行なんぞできんよ」
「………じゃ、たまたまなんですか。登世子が転落したのは」
「どうだろうな…」
隈野は独り言ち、煙草を持てない指をこすりながら、少し黙り込む。それから若い杉田に尋ねた。
「十八年……お前、十八年前といったらまだ小学生かそこらだろう?」
「はぁ、そうですね」
「若林あきえの最期。いまだに未解決のままだ」
若林あきえは大量殺人、ならびに殺人教唆の罪によって死刑宣告を受けた。
しかし本人は一切認めなかった。拘置所に入っているときに、肺炎を患い、病院に護送されることになった。
そのとき、事件は起きた。
護送車を四台のトラック車が取り囲んだ。
黒ずくめの男あるいは女もいたのだろうか、車からは五十人以上の人間がわらわらと出てきて、護送車を取り囲んだ。
護送にあたっていた警護の人間はあっという間に黒ずくめの人間たちに拘束され、口と目と手足を封じられた後、護送車の中に詰め込まれた。
ようやく事件を感知した警察がやってきたとき、護送車には身動きのとれなくなった看守や警備の人間だけがいて、若林あきえの姿は消えていた。
『若林あきえ、脱走か!?』
マスメディアはさっそく食いついた。若林あきえの一味の残りが脱走を企てたのだろう、とまことしやかに言う人間もいた。
しかし、その幕切れは本当にあっという間だった。
脱走の翌々日、若林あきえの死体が発見されたのである。
そこは人も滅多と立ち寄らない、海近い川べりにある工場集積地の一角だった。
ヘドロやゴミだらけの汚泥にまみれた姿で、若林あきえは目を剥いて死んでいた。
解剖の結果、死因は多臓器破裂。
若林あきえの体は、まるで綿を抜かれたぬいぐるみのように、殴打され刺され、あるいは目の玉をくりぬかれ、およそ死んでからも幾多の損傷を与えたのであろうと思われるほどの、恨みと憎しみに満ちた凶行によって、無残きわまりない姿となっていたのである。
明らかなる殺人であった。しかも、一人によってのものではない。
しかし、この殺人者たちを、ついに警察は一人として挙げることはできなかった。
当然、動機があったのは若林あきえによって殺された者達の親族であった。しかし、そのすべてにおいて、見事なほどの
彼らは若林あきえによって自分の子供であったり、妻や父母、中には恋人を殺されたという悲しむべき共通項を持っていたが、それ以外の繋がりはなく、互いの存在を証明するようなこともなかった。彼らの
マスメディアは少々残念そうにその死を報道した。もうちょっとこの脱走劇について彼らは時間を費やしたかったのだが、あっさりと幕引きされたので少々物足りなさげだった。
「若林あきえの死を憐れむ人間はいなかったよ。いたかもしれないが、もしそれを声をあげて言ったならば、きっとそいつは周囲の人間から偽善者だと嗤われただろう。若林あきえが、どれほどひどい無残な殺され方をしたとしても、誰も同情しなかった。誰もがみな、思ったのさ。『当然の報いだ』とね」
隈野の言葉に杉田は慄然とした。
「それは……」
「あれほどの堂々とした襲撃、しかもその後の残忍な行動。絶対に何らかのとっかかりがあるはずだ。なければおかしいくらいさ。しかし、当時の周辺の聞き込みを行っても、誰に何を聞いても、赤ん坊かかえた主婦から、サラリーマン、ホームレス、早起きのじぃさんばぁさん、飲み屋のママ、皆が皆、言ったんだ。『さぁ、気がつかなかったねぇ』と。タレコミの電話すらなかった。あったのは『あんな女、死んで当然だ。なんで捜査する必要がある?』ってな、クレームだよ」
「でも、結局死刑が確定していたんじゃないんですか?」
「おそらく。最高裁に上告していた途中だったが、死刑確定が濃厚ではあったな」
「じゃ、そんなことする必要なんてないじゃあないですか!」
「………死刑、という極刑すら若林あきえには勿体ない」
「え?」
「当時、俺が受けた電話でそんなこと言ってたヤツもいたよ」
「…………」
「おそらく若林あきえがそのへんの道端で助けを求めたとしても、誰も助けない。皆が皆、見てみぬフリをした。いや、もっと……そうだな。なんなら公開処刑よろしく、無残に殺されるサマを見て、笑っていたかもしれないな」
「そんな馬鹿な…」
「信じられないか? 信じなくていいぞ。これは俺の妄想だ。ただ、あの事件はお宮入り。そして誰も追及しようとは思わない」
数週間後。
登世子の事件を「事故死」として調書をまとめた後、隈野は大賀昭雄宅を訪れた。
「忘れ物だよ」
そう言って、隈野は糸の切れた根付を昭雄の前に出した。
昭雄は驚かなかった。黙って、目を閉じて言った。「見つからんかった……」
「落ち葉に埋もれていたからね」
隈野は少し笑って言った。
昭雄は両手を隈野に差し出した。だが、隈野は静かに首を振った。
「逮捕するなら、もっと前に来てるさ。今日は渡しにきただけだ。これでおしまいだ」
昭雄は隈野の顔をじっと見つめた。
隈野も昭雄の顔を見つめる。
皺の深い、日に焼けた昭雄の顔。昔は笑うとえくぼのできる愛嬌のある顔だった。あるときからまったく笑顔はなくなったけども。
十八年。
それはまだ子供であったのなら、遠い昔の話であったのかもしれない。
だが、既に人生の折り返しを過ぎ、初老を迎えていた男にとっては、ついこの間とも思える短い年月だった。
「
隈野が言うと昭雄はふっと笑った。
友香子先生とは、昭雄の妻である。登世子とあきえの虐待の末に餓死した隈野の中学時代の担任教師だった。
少年時代、両親の不和で荒んでいた隈野少年に根気よく接して、時に励まし、時に叱咤してくれた。ろくなものを食べていない隈野少年を家に招んで夕食をご馳走してくれたこともあった。昭雄もまた教師をしていて、暗い顔した隈野少年を気遣ってくれた。
二人は隈野にとって恩人だった。
「あいつらにはこの世にいる権利はない」
昭雄はつぶやいた。
「いい死に方だ。三日三晩、飢えと寒さで苦しんで」
隈野はうっすら笑みを浮かべる。
「死ぬ前に助けてくれと言いよった」
「……誰に言ってるんだろうな」
「後悔しとると言っておった。本当に自分がバカだったと。更正して、やり直したいんじゃと」
「そうか。死んでやり直せるな」
「………桜が」
昭雄は濁った目で遠くを見つめながら、独り言のようにつぶやいた。
「桜の花が散ってたよ。綺麗だったな……」
―終―
誰も知らぬ 水奈川葵 @AoiMinakawa729
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