陽炎

hibana

陽炎

「君のこと百回フったら、パーティしたいな」


 テーブルの上で、風味程度の薄い麦茶が汗をかいている。まるで部屋の中に潜んでいるのではないかと疑いたくなるほど、蝉の声が煩い夏の日。


 クーラーは動いていない。この暑さならまだ耐えられると思いながら、八月もすでに半ばであった。


 冒頭の発言をかましてきた女は膝立ちでテーブルにしなだれかかり、グラスの底にできた水たまりを指でつついている。からん、と氷の溶ける音がする。

 伊織は目を細め、「わあ」と無感動に呟いた。


「どういう神経してんだろう。それ、フる側が言っていいんですか。デリカシーって知ってる?」

「梨紗ちゃん百回もフってお疲れ様パーティ」

「しかも俺を慰める催しじゃないんだ。その発想はなかったな」

「だっていつもいつも同じようなことを聞かされて、同じ返答をして、そりゃ疲れるよ。私も労ってほしい」

「一度でもオーケーしたら終わりますよ」

「終わりの始まりってやつだよね」

「俺との結婚ってそんなに絶望的なことなんだ」


 伊織の想い人であるところの、梨紗という名の女は、その時白いキャミソールを着ていた。普段から汗っかきの伊織と対照的に涼しい顔をしている。


「百回目ともなればささやかな奇跡をご用意できるかもだよ」

「じゃあ結婚していただいて」

「それは無理」

「無理? 無理というのはつまり、インポッシブルってことですか?」

「ネヴァーネヴァー」

「同棲までしておいて無理ってどういうことなんでしょうか」


 彼女は指先でつうとテーブルをなぞった。濡れているはずの彼女の指先が、テーブルに跡をつけることはない。


「だって、死んだ人間と結婚できる? 伊織くん」


 伊織は瞬きをする。できますよ、と答えた。何でもやりますよ、とも付け加えた。







 栗原梨紗は故人である。もう、十年近く前からそうだ。彼女は故人で、そして伊織だけがその分歳をとった。


「死ぬのってどういう感じですか?」

「最悪」

「天国とか地獄とか、本当にあるんですか?」

「あるよ。天国も地獄もある」

「梨紗さんは天国に?」

「今はね。死んでからでも悪いことしたら地獄に落ちることもあるけど」

「それは興味深いですね」


 話半分に聞いておく。彼女が現れたのは最近のことで、伊織はそれが自分の生み出した幻覚の類であると認識していたからである。幻覚が見えるまではセーフだが、幻覚に依存するようになったら危ないと自動車教習所の教官も言っていた気がする。彼女とはちょうどいい距離感を保ちつつ、軽口を叩き合うくらいがよいだろうと考えていた。


 なんせ十年だ。諦めるには十分すぎる年月だった。


「私がここに来てから毎日毎日、伊織くんったら同じことしかしてないよね。起きて仕事行って帰ってきて魚肉ソーセージ食べてシャワー浴びて寝て」

「何が悪いんですか」

「いやなんで毎日魚肉ソーセージ食べてるの? 魚肉ソーセージとサプリで生かされてるの、人間として恥ずかしくないの? 私だって天国でもっといいもの食べてるよ」

「今度からバナナもつけますね」

「外側を剥くっていう行為しかできないんだ?」


 引くわぁ、と言いながら梨紗は頬杖をつく。それから彼女は暇そうにして、今夜の伊織の夕食のメニューを勝手に考え出した。伊織はそれを無視し、水出ししたアイスコーヒーをグラスに注ぐ。


「何が楽しいの? そんな風に生きてて」

「核心に迫りますね」

「いっそラスベガスにでも行って全財産カジノでスって死ねばいいのに」

「はぁ。本物の梨紗さんがこんな辛辣なこと言うはずないもんな」

「君の心が弱くなっただけだよ」


 つまんないつまんないと彼女が駄々をこねた。


「君の人生つまんなすぎ。せっかく私が来てるんだから、ちょっとはエンタメ的サービスをしてみせてよ。銀行を襲うとか」

「無茶を言わないでください」

「せめて外に出よう。私を連れて外に出なさい。命令です」

「無茶を言わないでください」

「なんだとー?」


 頬を膨らませた彼女が、ふっと視界から消える。伊織は部屋の中を探して、頭を掻いた。仕方なく部屋を出て、マンションの駐輪場まで歩いて行く。彼女は伊織の自転車にまたがり、早く早くと急き立てていた。


 久しぶりに漕いだ自転車は錆びついていて、耳障りな音を立てていた。伊織の肉体もすっかり劣化しており、自転車は大きく左右に揺れる。


 緩やかな坂道を下っていく。汗ばんだTシャツが、風を受けて一瞬だけ冷えた。存外心地いいものだな、と伊織は思う。彼女の腕が当たるとそこだけ妙にひんやりしていて不思議だった。後ろから、彼女の鼻歌が聴こえてくる。


 ふと、学生時代のことを想い出した。梨紗は同じ高校の、ひとつ上の先輩だった。中学の三年間を野球だけに費やした伊織のことを、天体研究部に誘った人だ。梨紗が卒業するまでの二年間は、あくる日もあくる日も星を見た。伊織の自転車の後ろに梨紗を乗せて、ずっと走っていたように思う。運動部でもないのに伊織は中学の頃より太腿が逞しくなった。


 彼女は呑気に鼻歌を歌っている。あの頃と同じだ。曲だって同じだ。伊織もあの頃と同じように一生懸命に自転車を漕ぐ。半べそで漕ぐ。あの頃半べそだったのは、星が出始める前に到着しなかったら殺すとのたまった彼女が怖かったからだが。


「梨紗さん」

「何?」

「どうして今更、俺のところに来たの」

「気づいたら十年経ってたってだけ。私には私の都合があんのよ」


 伊織の手にはソフトクリームが握られている。これは梨紗がどうしてもと言うから買ったのに、『私が食べられるわけないじゃん』と伊織に押し付けたものである。


「梨紗さん、普段俺よりいいもの食べてるって言ってなかったっけ」

「天国ではね。こっちでは食べないの。てか私が物理干渉してるとこ見たことある?」

「そりゃそうか」


 彼女は伊織の幻覚なのだから、当たり前である。


 久しぶりに食べたソフトクリームは甘くて美味しかった。昔、彼女がアルバイト先のスーパーマーケットで業務用アイスを貰ってきて、二人で『もう一生アイスなんて食べなくていい』と言ったこともあるが、十年もすればそんなことは忘れるものだ。


「伊織くん、あんなにアイス好きだったじゃん」

「人類平均ぐらいでしょう」

「なんだ。私はずっと伊織くんの一番の大好物はアイスクリームだと思ってたよ」

「……だから業務用アイスなんか貰って来たんですか?」

「だって、廃棄するって言うんだもん。『ならください! うちの彼氏が死ぬほどアイス好きなんです!』ってなるじゃん」

「なんでそんなにアイスが好きな設定になっていたんでしょうか」

「伊織くんの目が輝く瞬間が、暑い日にアイス渡した時とスポドリ渡した時ぐらいしかなかったから」

「死にかけてたんでしょ、それは」

「アイス食わなきゃ死ぬってことは、じゃあやっぱり死ぬほど好きなんじゃん?」

「いやアイスが食えないから死にかけてたんじゃなくて」

「まったくもう、細かいなー」

「大体その理屈でいうとスポドリもそうじゃないですか」

「だから家に常備してあげてたじゃん」


 文句が多いよ、と梨紗は眉をひそめる。伊織はもう反論を諦めた。彼女が言うなら、アイスクリームとスポーツドリンクが好物という設定で生きていくのもやぶさかではなかった。


 また、彼女を後ろに乗せて自転車を漕ぐ。帰り道は上り坂だ。当然彼女の体重など感じないが、自分の重みだけで相当きつい。


 遠く、アスファルトの上が揺らめいている。


 陽炎みたいなものだな、この状況も。――――そんなことを伊織は思った。夏に頭をやられている、ただそれだけだ。この季節は生と死が近すぎて、色んなものが歪んで見えるのだ。


「今度の休みには旅行に行こうよー」

「え? なんですか? よく聞こえないんですけど。というか今話しかけないでほしいんですけど」

「旅行に行こうよ。今なら二人で行っても、費用は一人分で済むよ」


 一人だからでしょう、と伊織は言う。彼女は何も言わず、伊織の腕に自分の手を重ねた。触れられたところがひどく冷たかった。


 家に帰ってスマートフォンを見ると、メールが一通きていた。藤代胡桃という女性からだった。内容は『明日でいいんですよね? わたしは大丈夫です』というものだった。伊織はすぐに『ありがとう』と返した。


 本当に、蝉の声が煩い。その日はなかなか寝付けなかった。






 梨紗が死んだという第一報は、遠方に住む彼女の両親あてにあったそうだ。それを疑った、あるいは嘘だと信じたかった彼女の母から伊織に電話があった。


 あの子はそこにいないの? と。


 十年前のその日。しきりに雨が降っていたのを覚えている。雨音は嫌になるほどうるさかったが、それ以外何も聞こえないという意味ではとても静かな夜だった。






 目を覚まし、伊織は汗を拭う。未だにあの日のことを夢を見る。


 結局、伊織にできることは何もなかった。彼女の死体はその時点で発見されており、どれほど執念深く確認しても彼女であることは間違いなかった。全てが終わったあとで伊織は彼女の両親に『自分がいながら梨紗さんを守れなかった』と土下座して詫びた。彼女の両親は疲れ切っており、『あなたの人生はこれからだから』とただ伊織を励ましただけだった。その後彼らがどうしているのか、伊織は知らない。


 リビングまで歩いて行くと、梨紗がテーブルに突っ伏しながらこちらを見ていた。


「うなされてたね」

「こんな季節だと、寝苦しくて」


 テレビがついている。梨紗にそのような芸当ができない限り、伊織がつけっぱなしにしたものだろう。流星群、という単語が聞こえた。梨紗がテレビの方へ視線を移す。


 伊織はこの日人と会う予定があったので、シャワーを浴びてこようと思った。うんと伸びをして、不意に脱力する。


「あなたが本当に梨紗さんなら、俺なんかよりご両親のところへ行くはずだ」

「そうかもしれない」

「否定しないんですか?」

「否定してほしい?」


 伊織は瞬きをして、干してあったタオルを手に取った。今日は人と会うので、と言えば梨紗は途端に色めき立つ。


「伊織くん、友達とかいたの?」

「ええ、まあ」

「その反応……さては女だな? いいんだよ、私に遠慮しなくて」

「そうですか」


 詳しく教えてほしそうな梨紗を無視して、伊織はシャワールームへ入る。服を脱いでいると文字通り梨紗が顔を出した。物理干渉は一切できないが遮蔽物はとことん無視するので厄介である。


 シャワーを浴び終えて黒いスウェットを着た。色気のない格好だ、と梨紗から散々こき下ろされて家を出た。






 山道を、男が歩いている。手元が光っているのは、スマートフォンでも見ながら進んでいるからだろう。男は立ち止まり、スマートフォンを自分の耳に当てた。


「オレ、どこで待ってればいいの? は? 何だよそれ……。ふざけんなよ」


 ひとしきり相手を怒鳴ったあとで、苛ついたように端末を尻ポケットにしまう。暗くなった山道で、伊織はなるべく音をたてないように男に近づいた。後ろから大きめのビニール袋をかぶせると、男は悲鳴を上げ、咄嗟の動きで伊織に肘を入れようとした。伊織は冷静に男の服を引っ張り、その首に縄を引っかける。


「誰だよ……!」

「そんなことより気になることがあるんじゃないですか?」

「く、胡桃は? 胡桃に何かしたのか?」


 ため息をつき、伊織はそのまま男を後ろに引きずろうとする。男は抵抗してその場に踏ん張ろうとした。


「藤代胡桃のことは心配しなくていい。俺は彼女に何もやっていない。ただ、お前がかつてやったことを教えただけだ。彼女は『知らなかった。女の敵だ』といたく憤慨して、何でも協力すると言ってくれた。お前をここに呼び出したのは彼女だったろう? 見限られたんだよ、お前は」


 誰だお前は、と男が再度問うてきた。伊織はすぐには答えず、代わりにぐっと縄を締め上げる。


「栗原梨紗の関係者だ」

「な、何?」

「法廷で目が合ったろ?」


 男は押し黙った。覚悟を決めて力の限りに暴れれば逃げ出せる可能性もあるというのに、男はただ首に巻かれた縄をどうにかしようと爪を立てているだけだ。


「ダメじゃないか。人殺しのくせに人生をやり直そうとするなんて。胡桃さんは大変傷ついていたよ。騙された、と泣いていた。どうして、あんなことをしでかしておきながら恋人なんか作ったの? 少しでもまともな頭があるなら、そんなことできないよね? どうして今まで、死なないで生きてきたの? お前にかかわる全ての人を不幸にするために、今まで生きてきたの?」


 一転して優しい声色で伊織は声をかける。


「許してほしいですか?」

「ゆ、ゆるしてください」


 伊織は笑った。声を出して笑った。そのまま男を引きずっていく。


「俺はね、この瞬間だけを楽しみに生きてきたんです。本当にあなたたちに会いたかった。この意味がわかりますか? ここで手を引くわけがないと思いませんか」

「何か、何でも、やります」

「一番いいことは梨紗さんが戻ってくることで、二番目にいいことは全てがめちゃくちゃになること。藤代胡桃を殺したってよかったんだ。そうしなかったのは、彼女が本当にお前を嫌悪していたからだ。死んだって何だっていいってさ。もしここを生き延びたとして、お前はこれからどうやって生きていく? 恋人も仕事も、もうないですよ。今度は親も味方してくれるかな? 向こうは向こうで今頃は大変だろうし。良かったですね、人生がここで終わって」


 どうして、と男が言った。どうしてそこまで、と。


「栗原梨紗を殺したからだ」


 淡々と、伊織は答えた。


「悔いろ。死ぬほど悔いろ。あんなことをしなければ、と後悔し続けろ。俺は許さない。絶対に許さない。お前達があんなことをしなければ、こうはならなかったんだ。お前も俺もだ」


 力いっぱいに首を絞める。男は両足をばたばたさせながら、自分の首に爪を立てた。ビニール袋のせいで表情は見えなかったが、蛙が潰されるような汚い声が聞こえた。伊織は男の耳の辺りで囁く。


「地獄というのが存在するらしい。向こうで会ったら、覚えておけ」


 しばらく無言で絞め続けた。恐らく死んだだろうが、動き出されても困るので絞め続けた。満足がいくまで、と言った方がいいかもしれない。ようやく手を離すと、男の体は崩れ落ちた。男は失禁していた。あまりにも無様で笑った。


 土を掘る。正直に言うと、人の首を絞めるよりも重労働だった。同じ日にやることじゃないな、と思う。しかし世の殺人犯の多くは大抵同じ日にやっているのだから凄い。


 人を埋めるには十分な窪みができた。もっと深い方がいいだろうが、疲労感が妥協を誘う。伊織は男の死体を足で転がして穴に落とした。


「動物が掘り起こすよ。匂いがついてるから」


 ふと、顔を上げる。梨紗が屈んで、穴の中を覗いていた。


「いつからいたんですか?」

「ずっといたよ。君の傍に、ずっと。何度も名前を呼んだのに応えてくれなかった。聞こえなかった?」


 聞こえなかった。都合のいい幻ならそれも致し方ないだろう。彼女はただじっと穴の中を見ていた。


「その胡桃って子が良心の呵責に耐えられなくて警察にチクるか、この死体が見つかるか、どちらにしても一週間かからないんじゃない?」

「俺の見立てだと三週間かな。この山は人が通りませんからね」

「どうしてこんなことしたの?」


 先ほど男に『栗原梨紗を殺したからだ』と言ったが、それだけでは十分ではない。栗原梨紗が殺されたことによって伊織の人生が致命的に損なわれたから、復讐するに至ったのだ。伊織は伊織のために事に及んだ。


「『俺の人生どうしてくれんだよ』と思って、殺しました。俺にはあなたしかいなかったので」


 膝の上に腕を置き、頬杖をついた彼女がゆっくり瞬きをする。


「私は君のことを軽蔑する。君はたった今、私の死を貶めたんだ」

「そうでしょうね」


 そう呟いて、伊織は死体に土を被せた。


 ふと、自分のスマートフォンがメールを受信していることに気付く。藤代胡桃の名前で、『彼にわたしのこと、何か話しますか? 本当に、話をするだけなんですよね?』というメールが来ていた。伊織は数秒それを見て、削除した。






 梨紗の死体はゴミ収集所の辺りで見つかったそうだ。


 彼女の体には性交渉を行った痕跡があり、死因は薬物の過剰摂取。いわゆるオーバードーズというものだった。


 容疑者は三人の若者で、彼らは示し合わせたようにこう主張した。


『栗原梨紗と行為があったのは確かだが、合意の上だった。彼女が摂取した薬物は自分たちの所持していたもので間違いないが彼女が勝手に使用したもので、自分たちもいつの間に使用されたかはわからない。行為が終わった後もそのことに気づかず、彼女の言動にも異常は見られなかったため、そのまま帰してしまった』


 恐らく彼らの親が雇った弁護士の言う通り供述しただけだろう。そして、その証言を覆すような証拠は何もなかった。結局、立件されたのは彼らの薬物所持だけだった。


 彼らが刑務所を出所するまでに、関係者はみな疲れ果ててしまった。彼女の家族もそうだし、友人たちもそうだ。むしろ彼女に関わる情報をシャットアウトするなどして、全ての人たちが平穏を望んでいた。伊織だけが違った。伊織だけが、瑞々しいほどの鮮度をもって彼らを憎悪し続けていた。


 栗原梨紗を殺した男はあと二人いる。






 着ていたスウェットと使用した縄は、次の日の燃えるゴミに出した。運よく燃えてしまえば助かるが、そうじゃなくても別によかった。目標の三分の一を達成した伊織は妙な満足感を抱いており、まだ終わったわけではないにしろ心持ちすっきりした気分だった。


「旅行にでも行きましょうか、梨紗さん」

「君、頭おかしいの? 昨日の今日だよ」

「なんでですか? 俺は虫一匹殺したぐらいで罪悪感もったりするタイプの人間じゃないですよ」

「じゃあそんなの人間じゃないよ、伊織くん」


 その日は久しぶりに料理をした。といっても豚肉ともやしを焼き肉のたれで炒めただけだが、何だか妙に美味くて白米と一緒にかき込んだ。


「やっぱり食事って大切ですね」

「もう君のこと信じられないよ」

「明日仕事休もうかな。今なら何でもできそうな気分だ」

「病院に行った方がいいよ」


 警察に自首してからね、と梨紗は言う。最終的には自首してもいいと思っているが、今ではない。


「梨紗さんは悔しくないの? 殺されっぱなしで」

「悔しくはなかったよ。ただただ悲しかった。だけど今は、自分が死んだときよりも悲しい」


 その言葉が、妙な突き刺さり方をして抜けなくなった。間違えていることはわかっていたし、たとえ目の前にいるのがただの幻覚だろうが彼女がそう言うならやめた方がいいと思った。


 食器をそのままにして寝転がり、伊織は自分の腕で目を塞いだ。


「それでも梨紗さん。俺はケリをつけたいんだ。それで、もう楽になりたいんだよ」


 どうしてもっと早く会いに来てくれなかったのか、と思う。幻覚だとすれば、どうしてもっと早く見えるようにならなかったのだろう。彼女のいない世界で、伊織はあまりにも全てに興味を失くしてしまった。自分の存在を含めてだ。






 次の日の夜に、伊織はまた協力者経由で例の三人のうちの一人を呼び出した。一時間待ったが来なかった。伊織はそれほど気にせず、協力者の連絡先を着信拒否設定にして消した。藤代胡桃という女性は軽率で助かったが、協力者によっては躊躇して当然であると考えていたからだ。


 伊織はそのまま家に帰り、夕食を作った。唐揚げを揚げながら、次はどういう手を打とうかと考えていた。


「唐揚げ? 何個揚げてるの、これ」

「唐揚げなら何個でも食えるので問題ないです」

「歳考えなよ。最後に作って食べたのいつ?」

「まだギリ二十代だったかなぁ」

「絶望するよ」


 なんで梨紗さんにそんなことがわかるんだよ、と伊織はちょっとムッとする。大体定食屋で唐揚げを食べることはここ最近もあったし、物足りないぐらいだったはずだ。これぐらい簡単に腹に収まることだろう。


 五個目の唐揚げを口にし、伊織は信じられない思いで目の前の皿を見ていた。どう考えても、多すぎる。あと油が切れてなさすぎる。味が濃すぎる。


「だから言ったでしょ」

「嘘だ。俺は信じない」

「伊織くんの唐揚げは前からなんか飽きやすい味だったよ」

「ひどい! ずっとそう思ってたんですか?」

「伊織くんは若かったから唐揚げなら何でもよかっただけだよ。私はずっと胃に優しくないなぁと思ってたもん」

「唐揚げなんて元々胃に優しい食べ物じゃないじゃないですか」

「じゃあ食べてごらんよ、全部」


 結局八個ほど食べて、残りは冷蔵庫にしまうことにした。ラップをして保存する。明日胸やけしそうだなぁとちょっと思った。


 ため息をついた伊織の耳に、インターホンの音が飛び込んできた。


「すみませーん。下の階の者ですけど」


 そう、女性の声がする。伊織と梨紗は顔を見合わせた。


「ついに『一人暮らしのはずなのにいつもぶつぶつ喋ってる声が聞こえてキモい』みたいなこと言われるんですかね」

「私のせいじゃないからね」

「あなたのせいじゃないなら何のせいなんだ」


 文句を言いながら玄関へ向かう。ドアスコープから目を凝らすと、若い女性のようだ。真下の部屋に住んでいるのは確かシングルマザーの女性だった気がするが、正直顔までははっきり覚えていない。チェーンを外し、伊織はどうもと挨拶をする。


 外開きのドアなので、自然と一歩外に出るような形になる。その瞬間、左側頭部に衝撃が走った。思わずよろめくと、恐らくドアの死角に隠れていたのだろう男が二人飛び出してきて伊織にぶつかってきた。玄関に置いてあった姿見の鏡に体を打ちつけられる。


「私、もういい? ちゃんとお金ちょうだいよね」


 ドアの前に立っていた女性がそう言うと、息の荒い男たちがうるせえと怒鳴った。


「早くどっか行け。このことは誰にも言うなよ」


 伊織は思わず舌打ちをしてしまう。馬鹿の馬鹿みたいな作戦に引っかかってしまった。


 男たちは小さな袋に石を詰めた即席のブラックジャックのようなものを持っており、何度も伊織を殴った。そんなふざけた武器でも威力は十分で、伊織は意識が途切れ途切れになるのを感じた。このまま殴られ続けたら死ぬだろうな、と妙に冷静に考える。


「金倉はどこだ。お前がなんかしたんだろ? 金倉はどこだよ」


 金倉ひとしは、伊織が最初に殺した男である。


 今目の前にいるのは鎌田順二と大川遥。梨紗のことを殺した、残りの二人だ。どうしてこの二人がここまでたどり着いたのか考えてみる。なんてことはない。こちらが呼び出した時、尾行されていたのだろう。迂闊ではあったが、一気に二人とも呼び出せたのだからそれほど悪い状況ではない。と、少し虚勢を張ってみる。


 男たちはブラックジャックを手放して、伊織のことをグーで殴り始めた。鼻血が口の中に入ってきた。伊織は薄ら笑いを浮かべる。


「浴槽の中にいる。もう三日は何も食わせてない」


 男たちは顔を見合わせて、大川の方がこの場を離れた。浴室まで見に行くのだろう。もちろんそこに金倉という男はいない。大川が戻ってきて、また二人揃う前に行動を起こさなければならなかった。


「ゴミクズのくせにお友達を心配できて偉いね」


 鎌田は顔を赤くして、右足を軽く後ろに引いた。大振りの蹴り。伊織は右に倒れてそれを避ける。後ろの鏡が派手に粉砕され、破片が降り注いできた。


 自分の目を守りながら、がむしゃらに立ち上がって駆け出す。


 後ろで鎌田が何か叫んでいた。猿の鳴き声に近く、何を言っているかはよくわからなかった。


 リビングへ行き、そのままキッチンへ移動する。素早く包丁を掴んで、シンクの下に隠れた。体中が痛かったし視界もよくなかったが、意識だけはこれ以上ないほどはっきりしていた。呼吸を整える。笑い出しそうなのをこらえた。


 今夜、全てが終わる。俺が死ぬか奴らが死ぬかだ。思えば長い十年だった。惨めで無意味な十年だった。この手で終わらせる。必ず。


 体格は伊織の方がいい。先ほどの蹴りから見て、鎌田という男はそれほど喧嘩慣れしているようには思えない。相当なヘマをしなければ、負けるような相手ではない。伊織の視界が常時の半分ほどしかなくても、だ。


 鎌田が何か喚きながらこちらへ近づいてくる。伊織のことは見えていないようだ。しきりに周りを見渡している。伊織は包丁をしっかり握りしめ、飛び出した。


 できる限り腕を伸ばして、真横に空気を切る。鎌田の腕が少し切れたのか、怯んだ。


 やめて、と声が聞こえた気がした。もうやめて、伊織くん、と。

 それでも伊織は止まれなかった。耳元にはもっと大きな――――怒鳴り声がこだましている。やれよ、という声だ。あの日、もう動かない彼女の冷たい横顔を見た時の自分が、今でも絶叫している。やれよ、お前にはそれしかないだろう、と。


 生きていれば必ず、生きていてよかったと思える瞬間がある。


 そんな風に言われたことがある。もしそれが本当なら、俺は許さない。お前たちにそんな瞬間が訪れることを、俺は決して許さない。生きてきたことを後悔して、惨めに死ぬんだ。俺も、お前たちも。


 後ずさる鎌田の首に包丁を突き刺す。ぎゃあと叫んだ口から血が溢れた。訳も分からず鎌田が伊織の腕を掴んだので、今度は包丁を右目に突き立てた。鎌田は咄嗟に自分の顔を両手で覆い、その場にうずくまる。


 やがてそのまま、動かなくなった。


 伊織は深呼吸を繰り返す。息をするたびにどこかが鈍く痛んだ。最初に打ちつけられたときに、肋骨が折れたのかもしれなかった。とにかく酸素が足りない。頭がくらくらして、壁に手をついた。べっとりと赤い手形がつく。体中真っ赤だ。もはや自分の血か鎌田の血かもわからない。


 伊織は落ち着いて、包丁を洗おうと考えた。刃物は脂と血で切れ味が落ちるからだ。シンクまで歩いて行き、水をじゃあじゃあと流した。洗剤のボトルを掴もうとしたが、血で滑って落としてしまう。妙に面白く思えて笑った。


 ふと人の気配を感じて振り返る。大川遥が、鎌田の死体と洗い物をする伊織を交互に見て押し黙っていた。


 伊織は水を止め、包丁を握ったまま踏み出した。つんざくような悲鳴を上げ、大川は逃げようとした。先ほどの威勢はどこへ行ったのか、敵意さえ感じられない。ただ痛々しいほどに怯えて、玄関まで走っていく。


 大川のジャケットの裾を掴む。大川は泣きながら、やめてくださいと繰り返した。


「いいんです、金倉なんて。鎌田が助けたいって言うから来ただけなんです。お願いします。助けてください」


 伊織は大川の横っ面をぶん殴り、そのまま馬乗りになった。大川は鼻血を出しながら、恐る恐る伊織のことを見る。


「あんた、誰なんですか?」


 しばらく黙って、伊織は自分の首にかけていたネックレスを出して見せた。指輪が二つ付いている。一つは元々伊織のもので、もう一つは彼女の死体から回収されて伊織のもとに帰ってきたものだ。大川はじっとそれを見ていた。あるいは、ある程度予想が出来ていたのかもしれない。やがてすすり泣きし始めた。


「すみませんでした。自首します。今からでも自首しますから」


 にっこり笑って伊織は、包丁を大川の右肩に突き刺した。大川は狂ったように泣いた。伊織は目を細める。


「確かに、もっと長く刑務所に入っていればこんな目に合わなかったかもしれないのに。可哀想にな。お前たちの親や弁護士がお前たちの罪を軽くしたからだよ。お前たちは、あの頃頼りきりにした大人たちのせいで今死ぬんだ」


 思わず腹を抱えるほど笑って、伊織は今度は包丁を左肩に刺した。


「何が、今からでも自首します、だよ。今更そんなことどうでもいいに決まってるだろ? 死んでも追いかけてやるからな。どうせ同じ地獄に落ちるんだ。俺が行くまで怯えてろ」


 一心不乱に腕を動かして、やがて飛び散る血に肉片が混ざり始めた頃その作業をやめた。最初のうち子どものように泣きじゃくっていたはずの大川は何の反応も示さなくなり、気づけば涙の跡も乾いていた。とっくに息絶えていた。


 伊織は立ち上がり、ふらふらと歩く。リビングまで戻ると、改めてあまりの惨状に顔をしかめた。手を洗おうと水を流す。どれだけ濯いでも血が取れなかった。伊織は諦めて、リビングのソファに腰を下ろした。


 壁も床も、至るところが真っ赤だ。彼女と選んだ壁紙だった。彼女と選んだ家具だった。


 色々なことを思い出していた。


 家具を買うとき、あまりに彼女任せにして拗ねさせたこと。お揃いのマグカップだけは絶対に必要なんだからという彼女の主張を受けて買ったダサいデザインのそれ。結局一度しか使わなかったグラタン皿と耐熱ミトン。同じく一度しか使わなかったたこ焼き器と、流しそうめん器。もう少し一緒にいたら、グラタンだってたこ焼きだって、流しそうめんだってまた一緒にやっただろうか。


『ねえ、君が古澤伊織くん?』


 そう、声が聞こえた気がした。初めて出会ったとき、彼女は伊織の名前を知っていた。それほど不思議なことではない。伊織は確かに有名人だった。中学の頃に部活で問題を起こしていたからだ。


『君に今、一番必要なものを教えてあげよう』


 高校に入学したって、誰も伊織に話しかけたりしなかった。ただ、梨紗だけが、何の気負いもなく伊織に手を差し伸べていた。


『星だよ』


 俺にとっては、あなたが星に見えたよ。






 伊織の頬を涙が伝っている。周囲が、奇妙なほど静かだと思った。


 いつの間にか梨紗が目の前に佇んでいる。伊織のことを、失望と憐れみのないまぜになったような表情で見ていた。


 伊織は口を開く。


「結婚してよ、梨紗さん。指輪だって受け取ったじゃないですか」


 梨紗にプロポーズした日、彼女は耳まで真っ赤にしながらも『えー? どうしよっかなー』なんてはぐらかした。それはオーケーを前提とした戯れで、そうとわかっていたから伊織は大袈裟に『梨紗さんに振られたら死ぬしかないな』なんて嘆くふりをしていた。


 彼女は数日待ってほしいと言ったきり、その後死んでしまった。彼女の死後、書きかけの手紙が出てきて、どうやらそれを伊織に渡してオーケーということにしたかったようだ。回りくどいことをするものだ。おかげで彼女からのイエスを現在まで聞きそびれている。


「できないよ」


 そう、梨紗は言った。百回目のプロポーズだった。伊織は百回フラれた。


「今日はね、伊織くん。ペルセウス座流星群がよく見える日だよ。天体研究部員ならもちろん知ってると思うけど」

「もうそんな時期ですか」


 高校を卒業してからも、この夏の風物詩だけは梨紗と一緒に見守ったものだった。梨紗が死んでしまってからはとんと興味もなくなったが、そういえばそうだ。性懲りもなく、あるいは誠実にも、夏という季節は伊織のもとに毎年訪れていた。


 見に行こうか、と彼女は言った。断る理由はなく、伊織は頷いた。






「こんな時間に屋上なんか上っちゃって、管理人さんに怒られないですかね」

「今更だよ。このマンションはもう事故物件だし。君のせいで」


 それもそうか、と伊織はぼんやり思う。マンションの屋上からは、夜空がよく見えた。


「ここに来るまで、私も色々考えてた。君に彼女が出来てたらどうしよっかなとか。もう結婚して子供も出来てて幸せになってたら、さすがに会うのもやめようとか。そっちの方がまだマシだったな。本当に最悪だよ、君。百年の恋も冷める。てか、冷めた」


 そんな風に嘆く彼女に、伊織は思わずくすくす笑ってしまった。何笑ってんの、と梨紗は怒る。


 二人の頭上を星が飛んでゆく。顔を上げた梨紗の瞳の中を、星の光が横切った。伊織が十六歳の時からほとんど毎年見続けた光景だった。十七歳だった彼女の横顔を思い出す。十八歳の彼女を。十九歳の彼女を。脳裏に焼け付くほど刻んだ光景。彼女は最初、夢中で空を見ていて、それから伊織の視線に気づいてこちらを向き、照れたように顔をしかめるのだ。連写のように、伊織の中で過去のいくつもの彼女の顔と重なる。


 美しい夢を見ているようだった。あるいは、伊織だけが一人で悪夢の中にいるようだった。そうだったらどんなに良いかと思う。全て悪夢だったのだ。たとえ伊織がこのまま悪夢に囚われたままだとしても、この美しい光景はずっとここにあるのだ。


 梨紗は伊織の視線に気が付き、こちらを見た。しかし彼女は照れたりはしなかった。そっと伊織の頬に手を伸ばす。彼女の指の感触が伊織の頬を撫でた。それから静かに唇を重ねた。柔らかな彼女の唇が、吸い付くように伊織の唇を開けさせる。熱い舌が入ってきて、伊織の中を検めた。臆病に奥へ引っ込んでいた伊織の舌を探り当て、絡む。


 唇が離れ、梨紗はじっと伊織を見た。不思議な笑みを浮かべる。結婚は出来ないけど、と彼女は言った。


「同じところに行こうか、伊織くん」


 それから梨紗は伊織の手を掴む。彼女が駆けだすので、伊織もついて行くのに必死だった。梨紗は金属製の柵をすり抜ける。手を繋いでいる伊織も、不思議といつの間にか梨紗と共に柵の向こう側へ立っていた。


 アスファルトの地面は遠い。視界の狭まった伊織の目からは、全てを飲み込む果てしない暗闇に見えた。


 彼女は、躊躇う素振りも見せなかった。梨紗が屋上から飛んで、伊織もまた宙に浮かんでいた。どこかで、カラスが鳴いている。コマ送りの映画のように、全てがゆっくり感じられた。


 ふと、彼女が遺した手紙を思い出していた。


『私のことを、お嫁さんにすると言ってくれてありがとう』


 伊織の体はゆっくりと回転し、空が見えた。星が三つ流れた。


『もし私たちに子どもが出来たら、家族みんなで星を見に行こう。君は後ろに子どもを乗せて自転車を漕ぐことになるんだから、頑張ってよね』


 そうだった。思えば伊織は、彼女の思い描く未来を見てみたかっただけなのだ。


『優しくて穏やかな伊織くんがどうして私みたいな女を選んだのかわからないけれど、一生をかけて君と幸せになりたいと思うから。これからもよろしくね。愛しています』


 彼女の愛した優しくて穏やかな古澤伊織など、どこにもいなかった。それがわかってなお、どうして彼女は手を繋いだままでいてくれるのだろう。ふと、横を向いた。彼女はたまらなく悲しそうな顔をして、こちらを見返していた。永遠にも思えるような一瞬だった。空が遠ざかっていく。


 伊織は不思議と穏やかな気持ちでいた。これで本当に、何もかもが終わりだ。


 最後まで彼女の顔を見ていた。彼女の瞳の中に星の光が過ぎるのを、見ていた。  

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陽炎 hibana @hibana

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