オオタ研究所
麻々子
オオタ研究所
学校からの帰り道、つまんない気持ちを抱え、私は一人歩いていた。立ち止まり道ばたの雑草を足でけりとばした。倒れた草は、何もなかったようにすぐに元に戻った。
友達面したあの人たちは、私をバカにするだけのために学校へ通っているにちがいないと思う。
今日の会話。
「そんなものが好きなの、信じられない」
「趣味悪ーい!」
「もっと、かわいいのがいい」
「それって、……」
目を見交わしてクスクス笑う。
あれが友達なんだろうか? いや、仲間はずれにされてるだけか。頭の中がイヤーな感じでいっぱいになる。
何かおもしろくない。
何もかもがつまんない。何もかもが、どうでもよくなる。嫌になる。明日は、学校を休もうか?
ふと気が付くと帰り道の曲がり角を曲がりそこねていた。でも、引き返さず私は反対側の信号を渡って歩いた。家とは反対側の住宅が途切れるあたりから運動公園に続く道だった。運動公園は山を切り開いたところにある。周りは自然保護区ということになっているから、時々鳥の鳴き声も聞こえる。このまま遊歩道を歩いて行くと、運動公園に出る。緑に囲まれた道は気持ちがいい。帰ってもうるさい弟が私にまとわりつき、うっとうしいだけだとわかっていた。もう少し、この道を歩いて行こうと私は思った。
「あれ、こんな所に道がある」
私は下草が途切れたところに細い道を見つけた。
のぞき込んでいると、突然男の人が駆け出してきた。私とぶつかりそうになって「ああ」と声を出した。そして「ごめん、ごめん。時間がないんだ」と言って速足で歩き去った。
男の人が飛び出てきた道に何か落ちている。
「あ、スマートウォッチ(SW)だ。あの人が落としていったのかな。あとで交番に届けよう」
私はSWを拾い上げポケットに入れた。
その時、SWがピロローンとなった。おどろいてポケットから取り出してみると文字が浮かんでいた。
『腕につけてください』
光の文字がくり返し流れる。落とし主が連絡を待ってるのかもしれないと思い、私は腕につけてみた。腕につけると、青や赤の光の線が浮かんでは消えた。
「何だろう。へんなの」
私はつぶやいた。
見上げた先の道は上り坂になっていたが、明るくなっていて進めそうだった。
「もう少し行ってみるか」
私はゆるくカーブしている道を、クマザサを手で払いながら進んだ。少し行くとパッと目の前が明るくなった。木々が途切れ、広場とコンクリートの建物が見えた。鉄の頑丈そうなフェンスがある。フェンスの中の広場は芝生が植えられていた。その奥に建物があった。
こんな所にこんな建物があるなんて知らなかった。散歩道からは、きっと見えないような作りになっているんだろう。
「広いなぁ、何の建物だろう」
フェンスにそって歩いて行くと少し錆の浮いた鉄柵の大きなゲートがあった。門柱には[オオタ 研究所]と書かれていた。
「オオタ研究所……。工場とかじゃないんだ。ここで何かを研究してるんだろう」
門の中を気にしながらのぞいていると、また腕のSWがなった。見ると文字が浮かんでいる。
『行きたい場所は?』
「え、行きたい場所?」
『マイクがオンになっていません。マイクをオンにしてください』
文字が出た。
「マイク?」
私はもう一度SWの画面を見た。右端に小さなマイクのマークがある。マイクのマークには斜めの線が引かれていた。
「これをオンにすればいいのね」
私はマイクのマークにタッチした。マイクについていた斜めの線が消えた
「行きたい場所は?」
今度は、SWが声を出した。
「突然行きたい場所といわれても……」
「理解できません。もう一度、言ってください」
SWがしゃべる。
「別に行きたい場所を言った訳じゃないけど」
「理解できません。もう一度、言ってください」
「じゃ、海」
私はあせって海と言ってみた。
「ジャウミ。理解できません」
「海、って言ったの。ジャウミなんて言ってない」
私は、やっぱり機械に人の言葉を理解させるのは難しいんだと思った。
「いいえ、難しくはありません。私は完璧です」
「あら、思ってることもわかるの?」
「はい。ワタシは完璧です」
「すごい!」
「それほどでも、ははは」
SWが笑っている。
「海ですね。了解」
SWは、私の言ったことを理解していたようだ。冗談をいうことができるのかもしれない。
「オオタ研究所駅から電車に乗ってください」
「オオタ研究所駅ってどこ?」
「オオタ研究所に入ってください」
「どうしたら、ここに入れるの?」
私は、もう一度つま先立ちになりフェンスをのぞき込んだ。
「もうすぐ研究員が郵便物を取り込みに出てきます。その人にたのんでください」
「ええ、どうしてそんなことがわかるの?」
私はそういいながら、建物の入り口あたりをのぞきこんだ。すると、SWが言ったように建物の中からだれかが出てきた。
お医者さんのような白衣を着た背の高い女の人だ。ショートカットにした顔は小さく、背がより高かく見えた。白衣のポケットに手を入れて、私の方に近づいてくる。
「すみません……」
私は声をかけた。
「はい?」
「この辺にオオタ研究所駅はありますか?」
女の人は長い首をかしげて、私を見つめた。数秒見つめていたが思い切ったように「あなた、まさか、……。アナザーラボの会員というわけじゃないでしょうね?」と聞いた。
「え?」
「あら、でも、そのSW……」
少し頭をかしげた女の人は、私の腕を見てつぶやいた。
そして、二三度まばたきをして「駅ね。どうぞ、入って」と言って重そうなゲートを押し開いた。
「こっちよ」
女の人の後ろに私はついて行った。
オオタ研究所の建物の中は薄暗く、ヒンヤリと冷たい空気が流れていた。
女の人はドアが続く長い廊下を歩いて、最後の部屋のドアを開けた。
「どうぞ、入って」
私は、黙って部屋に入った。
部屋は、病院の診察室のようだった。キーボードが置かれた机と何面かのモニター。イスが二つ。横には診察用のベッドまであった。
「カバンを置いて、このイスに座ってくださる」
女の人は、自分の前のイスを指した。
私が、座ると「血圧と脈拍数だけ計らせてね」と女の人は、マジックテープのついたバンドを私の腕に巻き付けた。手際よさに私は言いなりだった。腕が圧迫される。
「痛い」
私は思わず強く目をつぶった。
「はい。OKよ。正常値」
女の人が言った。いつの間にか、私の腕からバンドが外されていた。
「こちらへどうぞ」
女の人は入ってきたドアの反対側のドアを開けた。
私は、不思議な気持ちで女の人に従った。廊下の突き当たりには4台のエレベーターがあった。
「どうぞ」
その一つのエレベーターのドアを開け、とうぜん乗るだろうというようにその人は、ほほえみながら、私にうながした。
私は「いいの? 乗ってもいいの」と声に出さず、女の人の目にたずねた。
「ええ、心配はいらないわ」
女の人の目が答えたように思えて、私はエレベーターにおそるおそる乗りこんだ。
やさしく笑みを浮かべた女の人の顔の前で静かにドアが閉まった。
身体がフワッと浮いて、おりていく。背の高い建物じゃなかったからきっと地下が深い建物なのだろう。長い時間下りて行ったような気がする。
身体が押さえつけられたように感じて、エレベーターが止まった。エレベーターのドアが開くと地下通路になっていた。このまま進んでいってもいいのかどうか迷ったが、しかたがないと気持ちを決め、歩いていくと、ゴーという電車の音がしてきた。曲がり角を曲がると改札口があった。何人かの人が改札口を入っていく。
へぇ、こんな所に駅があるんだ。オオタ研究所駅ってここなんだ。地下にもう一つの世界があるって事なんだろうか。
だまったままそのようすを見ていると「ぼくを改札口にかざすと入れよ」
とSWがしゃべった。
私はSWを改札機に近づけた。ピピと音がした。
このSWがパスポートになっているのだろうか。私はホームに続く階段をおりた。
ホームに立って電車を待つ。電車を待っている人が何人かいたが、誰もしゃべろうとはしない。私は、これはやっぱり夢かもと思った。
「夢じゃないよ」
SWがまたしゃべり始めた。
「でも、なんか変だわ」
「そこまで疑うんだったら、しかたないね。帰る?」
私は、ううんと首を横に振った。
「やっぱりね」
「どうして、やっぱりなの?」
「楽しんでるのがわかるもの」
そうだ。やっぱりこのSWは、私の思っていることがわかるんだ。
「楽しんでる? そうかもしれない。でもちょっと違う。私、本当は恐いのよ。いや、違うな。恐いっていうより理解できないの。だって、こんなことって、変なんだもの」
「うん。じゃ、VR(ヴァーチャルリアリティ)だと思えばいい。なんでもありの世界」
「VR、そんな単純なこと?」
「まぁ、そういうことかな。物事は単純に考えた方がいい時があるんだよ。頭が混乱している時は、余計にね。ほら、電車が来たよ」
電車の音がして行き先表示板に「海行き」と書かれた電車が目の前に止まった。
私はどうしようと迷いながらも「単純でいいんだ、これはVRだ!」と声を出して電車に乗り込んだ。
電車の中はだれもいなかった。私は一人で電車に乗っていた。いくつかの駅で電車は止まりドアは開閉したが誰も乗ってこなかった。
「次は終点、海、海です」
アナウンスが流れた。
「ここでおりるんだよ」
SWが言う。
電車が止まって、私は電車を下りた。階段を上って改札口を出て「海」とかいてある出口の階段を上る。出て歩いて行くと、その道は砂浜に続いていた。遠くに見える岬にはホテルらしい白い建物も建っていた。
さらさらの白い砂をギュギュと踏みしめて波打ち際に向かって歩いた。おだやかな波が寄せては返している。これは、私が想像する海の景色と同じだった。
しゃがみ込んで砂を手ですくってみる。砂は、ほんのり温かかった。
温かい砂の上にひざを抱えて座り込み、波を見つめていた。
「つまんないなぁ」
こんなにきれいな海の景色を見ていても心は満たされなかった。やっぱり、だれもいないのはさびしい。
「聞き取れませんでした」
SWがしゃべる。
「いいの!」
私はSWにむかってどなった。
SWの画面がすねたように赤い線と青い線がみだれた。私は、SWが壊れてしまったんじゃないかとちょっとあせって、腕を振った。
「シオマネキですか?」
「シオマネキ?」
「はい。そこにいますよ」
SWがうれしそうな声を出した。
足元を見ると、小さなカニが走っている。体には似合わないような大きな爪を振り上げている。
「シオマネキのまね、お上手でしたよ」
「ああ、さっきのうでをふったこと? シオマネキのまねだと思ったのね」
くすっと笑った私の前に立ち止まって、シオマネキは私を見上げた。シオマネキの目と私の目がガチッと合った。まるで、友だちですよというように私を見ていた。
私をみつめるのもあきたのか、シオマネキは大きなはさみを振りかざし、こっちにおいでとさそいだした。
「ついていけばいいのね」
私は立ち上がり後を追った。シオマネキは小さな砂の穴の前で止まった。そして、私の顔をちらっと見て、来れるかなという目をして穴の中へかくれてしまった。
「ええ? 私はこの穴には入れないわ」
そうつぶやくと同時に、足下の砂が崩れだした。まるで蟻地獄にありが吸い込まれていくような感じだ。
「わあ!」
砂の上を体がすべる。
「いやだ。いやだ!」
私はずるずると穴にすいこまれて行った。私は砂といっしょにどんどん落ちていった。
ドシン!
「痛い!」
おしりを打ったのは、洞窟の中だった。頭の上にぱらぱらと砂が落ちてきた。
「ここは、どこ?」
私は辺りを見回した。どこからか光が入ってくるのか薄明るかった。ごつごつした岩が周りを囲っている。見上げると落ちて来たはずの穴はもうふさがっていた。
「何なのここは?」
「洞窟です」
SWがいった。
「いやだ。どうして、私が洞窟に落ちなきゃいけないの?」
「シオマネキは穴に入る。穴は洞窟、ってことじゃないですかね。シオマネキの行動ですから、私は何とも言えませんね」
「あなた、役にたたないわね」
「聞き取れません。もう一度言ってください」
「もう、都合が悪くなると、聞き取れないふりをするのよね」
私はほっぺをふくらませた。
「じゃ、どうしたらここから出られるの?」
「ええっと、まっすぐ歩いて、手を上に上げてください」
「まっすぐって、こっちの方向でいいの?」
私は、光がもれてくる方を指差した。
「はい、歩いてください」
私は落ちた洞窟の横穴の中を腰をかがめながら歩いた。
「はい。そこで両腕を上げて」
私は狭い横穴で両手を上げた。天井に触る。力を入れると天井が動くような気がした。
「天井が動くわ。押し上げればいいのね」
「ビンゴ!」
「もう、もっと楽に出してよね」
私はうんと腕に力を入れた。動く。マンホールのふたのような天井の一部分が持ち上がった。
パカッ
ふたが開いた。開いた穴から私は首を出した。と同時に「危ない」と叫んで、首を引っ込めた。私の頭の横を自動車がブンブンスピードを上げて走っていたのだ。
ピピピー
笛が鳴る。
「だれだ。そんなところから出てくるやつは。あぶないだろう」
私は、そっと目だけをだして外をうかがった。お巡りさんの格好をした人が警棒をグリグリ回しながら私に近づいてくる。りっぱな口ひげを生やしている。まるで積み木の人形のようだ。
「出なさい」
お巡りさんが警棒で私の頭をコツンとたたいて言った。
私は、モグラたたきのモグラのように頭を出した。
「ほら、手を出して」
お巡りさんは、私の手を引っ張り地下から救い出してくれた。
「何をしてるの?」
お巡りさんが恐い顔をして聞いた。
「何って……」
私は、道路の真ん中に座り込んだ。
「ほら、危ない。こっちに来なさい」
お巡りさんは私の腕をつかんで、歩道の方に連れて行った。
「どうしたの? あんな道の真ん中のマンホールから出てくるなんて」
「あの、シオマネキが……」
「え? シオマネキがあそこから出ろ言ったの。何だって、シオマネキの言うことなんか聞いたの? そんなもんの言うことなんか聞くんじゃないよ。そんなもんの言うこと信じたから、自動車にひかれてぺっしゃんこになってしまいかねないんだよ。なんでも信じればいいというわけじゃないんだ。わかったね」
私は、何を怒られてるのかよくわからなかったけれど、一応うんとうなずいておいた。
「わかったら、よろしい。はい、行った行った。自動車に気をつけてね」
「はい」
私が言うと、お巡りさんは忙しそうに道路の真ん中に立ち、笛を吹きながら交通整理をもう一度始めた。
「はい。シオマネキでした」
SWがしゃべった。私はこのSWに遊ばれているような気になった。
「何がシオマネキでしたよ。こうなる事がわかっていたの。私をからかってるの?」
「いえ、決してそのような……」
「あれは、マンホールだったの?」
「まあ、そういうことでしたね」
「いやだ。臭いがついてないかしら?」
私は手や腕を臭った。変な臭いはなかった。
「あ、それは、大丈夫です。次は何をお望みですか?」
私は、何かSWが困るような事は無いかと考えた。
ああ、おなかがすいてうまく頭がまわらない。
「おなかがすいた」
私はふくれっ面をしてつぶやいた。
「はい。それでは、後ろの喫茶店にお入りください」
私はふりかえった。そこには、木のドアがあり喫茶店と書いた看板がぶら下がっていた。
私は、おそるおそる木のドアを押し開けた。
カランカランというベルの音といっしょに「いらっしゃい」という声が聞こえた。
アフロヘアーのおばさんがにっこり笑ってカウンターから立ち上がった。
「この店の人ですか?」
「そうよ。この店のオーナーよ」
私は、そっとお店の中を見回した。テーブル席が五つ。カウンターにはコーヒーカップが並んでいたけれどお客さんはいない。少し不安。
「おなかがすいたのね」
オーナーが私のSWを見て言った。
「うん」と私はうなずいた。
「何が食べたい?」
私がだまっていると、オーナーはまた私のSWを見ていった。
「大っきなパンケーキね。バター&メープルシロップ。生クリーム乗せ。それに生ビール。それでいい?」
また私の心が読まれてると思った。たしかに、今、大きなパンケーキが食べたいと思ったんだ。でも、ビールはいらない。
私は「うん、でも、生ビールって、子供は飲めないよ」と言った。
「あら、そう。ビールは無しね。分かった。どこでもいいから、座って待ってて」
オーナーは、大きな頭をふりながら奥の厨房へ入っていった。
そっと、SWを見る。
「大丈夫。食べても平気だよ」
私が知りたいことを答えてくれた。
「ここはどこなの?」
私は小声でSWに話しかけた。
「海の町の喫茶店」
「それはわかってる。この状況がどういうことなのか知りたいの」
「うーん。その質問は難しい」
「何、それ、答えになっていない」
「聞き取れません。もう一度言ってください」
「もう……」
文句を言おうとした私の目の前に、テーブルいっぱいのおさらがバンッと置かれた。高さ五センチ直径五〇センチはあるパンケーキが二枚。バター、メープルシロップ、生クリーム添え。夢に描いたパンケーキだった。旅行雑誌に載っていたパンケーキのビッグサイズだった。でもこれは大きすぎる。
私が驚いてオーナーの顔を見ると「召し上がれ」とおばさんが二ッと笑って言った。
「私、お金を持っていない」
「あら、平気よ。それで払えるわ」
おばさんは私のSWを指さした。
あ、そうか。電車賃もこれで払ったんだ。そう思うと、俄然、食べる気になった。これぐらいのパンケーキなんか食べつくしてやる。
私は立ち上がって、ホークとナイフを振り回した。バターをぬりメープルシロップをかけ、生クリームをのせる。食べる。食べる。どんどん食べる。
おいしい!
「完食!」
SWが私の思ったことを音にした。と同時に赤い文字が浮かび上がった。
『充電してください』
「え、充電? 充電ってどういうことよ。ちゃんと最後まで説明してよ」
SWに聞いても、何も答えてくれない。
『充電してください』
もう一度赤文字が浮かび上がった。
「こんなところで、充電切れになるって、どうなってるのよ」
私は、腕を振ると充電できるんじゃないかと、腕を振った。SWは何も言わない。しかたがないので、オーナーに聞いてみた。
「すいません。このSW、充電したいんですがどうすればいいかご存じですか?」
「充電? そんな言葉聞いたこともないわね」
「これでパンケーキ代が払えるんですよね。充電切れみたいで、充電しないとお支払いできません」
私は腕を突き出した。
「充電切れ? まさか無銭飲食?」
目を真ん丸にしてオーナーはさけんだ。
「だから、充電すればだだいじょうぶだと思うんです」
「だから、充電って、な、あ、に?」
オーナーは充電が切れそうな顔をして私に聞いた。
「充電器、充電器を貸してください」
私が大声でさけぶと、店の奥から「充電器、充電器」とつぶやきながら人間大の灰色しましまネコが出てきた。それも二本足で歩いている。
私はおどろいて壁にへばり付いた。
「あら、ジュウデンキネコだわ」
オーナーがいった。
「充電器、充電器」
灰色しましまネコは、私の前を通りすぎた。ドアに手をかけ、店を出ていこうとしている。
「まって、充電器を知ってるの?」
私は灰色しましまネコを追いかけた。
「無銭飲食は、ダメよ。後でちゃんとはらってもらうわよ」
オーナーの声が私を追いかけて来たが、今は無視して灰色しましまネコを追う。
灰色しましまネコは、道路を横切って向かいにある「猫カフェ」と看板が出ている店に入っていった。私も追いかけてとびこむ。
「いらっしゃい」
灰色しましまネコが店のドアを開けると、店の中にいた人間大の三匹のネコが声をそろえていった。いや、人間の言葉をしゃべってるのだから三人と言った方がいいのかもしれない。ミケネコ、クロネコ、シロネコ、やっぱりどう見てもネコだ。私は少し恐くなって店を出ようとした。
「あら、あなたネコ好きなんでしょう。出ていくことはないわ」
カウンターの中からミケネコが手招きした。カウンターの後ろの壁にはお酒のビンが並んでいる。カフェというよりお酒のお店のような気がする。
「ネコがこんなに大きくて、人間の言葉をしゃべるなんて、恐いんですが……」
私は恐るおそる言った。
「まぁ、そういうこともあるわね」
ミケネコがそういうと、クロネコもシロネコも、それはよくわかるというようにそれぞれの時間差でうなずいた。
「そういうことは置いておいて、ここにお座りなさいな」
ミケネコは私にあごで、向かいのイスを指した。私はおずおずとそのイスに座った。
「それで、お悩みはなあに?」
ミケネコが、カウンターにほおづえをついて片目をつぶった。
「え?」と私は思った。私はここへ悩みを打ち明けに来たんだろうか?
「それは……」
私は考えた。店のすみで灰色しましまネコが腕組みをして私を見ている。
「そうだ。SWの充電がしたいの」
うでのSWを突き出した。
「違うわね。そういうことじゃないわね。根本的な悩みを解決しなきゃダメよ。自分をごまかそうとしてはダメ」
ミケネコが言った。
根本的な悩み? 私にそんなものがあっただろうか。
「ここに来たのは、なぜ? この世界に来るのには、それなりの理由があるはずよ」
ミケネコがやわらかそうな肉球を見せて私に聞く。
「えっと、学校がおもしろくなくて……、SWの言うとおりにすると何かおもしろいことがおこりそうだったからのような……」
私は、この世界に飛び込むまでのことや飛び込んでからのことをいろいろ思い出していた。
「うん、うん。そういう事を相談してほしいのよ」
「でも、相談するようなことはないような気がする」
「それじゃ、話にならないわね。困ったわ」
ミケネコが眉間にシワをよせ、本当に困ったような顔をした。そして、人形のようにピタリと動かなくなってしまった。それどころか、クロネコもシロネコも灰色シマシマネコまでまるで時間が止まってしまったように動かなくなってしまった。私が何か相談しないと時間は動いてくれないんだろうか。
「私、友だちが三人いるんだけど、その三人から仲間外れにされてるようなの」
私はとまどいながらボソボソとつぶやいてみた。
「まぁ、その悩みは深刻ね」
止まっていたミケネコが動きだした。時間も流れだした。ネコたちの息づかいも感じる。
「仲間外れって、こういうこと?」
ミケネコがそう言って、そばにあった小さなスプーンを四本とってカウンターの上に並べた。
「これがあなたね」
一本の小さなスプーンを指でおさえ他の三本から離した。
「仲間外れ。三本と一本」
「そう」
私は、小さくうなずいた。
「そして、こういうことね」
ミケネコはドンドン一本のスプーンを離していく。最後にはカウンターから床へ落としてしまった。カランカランと音がした。
「あら、ごめんなさい。汚れちゃったわ」
そういって、ミケネコは四本のスプーンをカウンター内の水道でまとめて洗った。そして、四本をまたカウンターの上にならべて「これ、どれがあなただったっけ? わかんなくなちゃった」と頭をかしげた。
「まあ、いいわ。これがあなたということにしよう。そして、っと」
ミケネコは近くにあったナイフとフォークと大きな金色のスプーンをいっしょに並べ「さて、問題です。どれが、仲間外れだ?」と質問した。
「あ、クイズだわ。おもしろそう」
太い声でクロネコがそう言いながら私のとなりのイスに座った。
「シロもやりたい」
甘ったるい声でシロネコも反対側の私のとなりに座った。
「えっとね、シロはこのナイフだと思うわ。だってこれは切るものだもん」
シロネコがナイフを前足でつつきながら言った。
「違うわよ。この大きなスプーンよ。だってこれだけ色が金色だもん。色が違うじゃない?」
クロネコが自慢げに言った。
「違う違う答えは、フォーク。フォークは先が割れてる」
灰色しましまネコまでが、首を突っ込んできた。
「仲間外れは、小さいスプーンに決まってるでしょう」
ミケネコはドンとカウンターをたたいた。
「違う違う、ナイフ」
「違う違う、フォーク」
四匹は大声で言い争い始めた。
私は、このネコたちが本気で私の悩みを聞いてくれているのかどうかわからなくなってしまった。遊んでいるようなネコたちだんだん腹が立ってきた。
「うるさい!」
私は怒鳴った。
四匹のネコが、目を真ん丸にして私を見つめた。
「そんなことどうでもいいでしょう? 私は仲間外れにされて、心が痛いといってるの。どれが、仲間外れかなんて、クイズを出して遊ばないで」
「あら、そういうつもりじゃ……。クイズって、おもしろいでしょう。だから、ちょっと遊んでしまいました」
ミケネコがかたをすぼめて、申し訳なさそうに笑った。
「笑って、ごまかさないで」
私は四匹を順番ににらみつけた。
「友だちに無視されて、仲間外れにされ、何もかもがつまんなくなって、学校まで嫌いになって……」
私はつぶやいた。
「どうしてそういうことになったわけ?」
「わかんないけど……。思い当たるのは、友だちが飼っている犬をかわいくないと言っちゃったからかもしれない。あれからみんな、私のいうことに冷たくなったような気がする」
「まぁ、それは大変ね。でも、言っちゃったものはしかたがないわね」
ミケネコが首を傾け言った。
「あやまったら、いいのかなぁ……?」
私はうつむき加減に目を伏せた。
「まあ、一応はね。でも、無駄ね。一度口に出したものは元には戻せはしない。これが道理というものよ」
「じゃ、どうすればいいの?」
「そうね。明日を待つ力があればいいんじゃない。明日を信じる力」
クロネコが言った。
「シロはそうは思わない。今日を生き抜く力があれば楽勝なのよ」
「ちがうわよ。絶対明日よ。だってこの小娘だって、昨日、こんな今日が来ることなんて考えられなかったはずよ。こんな楽しい今日よ。明日を信じる力があればいいのよ。明日になれば、仲間外れも雲散霧消と信じればいいの」
「シロはそれより、昨日という今日を生き抜いたから、明日という今日がきたんだと思う。だから、今日を生き抜く力があればいいのよ」
「ちがうったら。ニワトリが先で、卵が後」
「クロはわかってないわね。卵が先にきまってるじゃない」
クロネコとシロネコの話しは、明日と今日からニワトリと卵のはなしにかわっていた。
「何言ってるのか、さっぱりわからないわ。だから、私はどうすればいいっていうの?」
私はカウンターをドンとたたいた。
クロネコとシロネコは目をパチパチさせて、ごめんなさいというようにほほえんだ。
「病院だ。病院だ。そうだ、病院だ」
灰色しましまネコが突然叫んだ。
「あら、びよういん? あ、忘れてた。私、美容院に行かなきゃ。シャンプーをしてもらわなきゃいけないんだわ」
「シロは、爪の手入れの予約を入れていたんだわ」
クロネコとシロネコが顔を見合わせ、うなずく。
「じゃ、私たちはこれで、失礼」
「バイバーイ」
二匹のネコはドアをあけて、手をひらひらさせてお店を出て行ってしまった。
「何? どうしたの?」
私はミケネコと灰色しましまネコを見た。
ミケネコは、わかりませんというように両手を広げて肩をすぼめた。
「美容院じゃない。病院に行けばいいんだよ」
灰色しましまネコが言った。
「私、病気じゃないよ」
「いや、病気なんだよ。心の病気。つまんないと思う病気。病院へ行けば、心を強くしてくれるんだ」
「本当?」
私は半信半疑で聞いた。
「行けばわかるよ。ついておいで」
そう言うと灰色しましまネコはお店から飛び出し走り出した。
「あ、待って。それに、さっきのお店のパンケーキ代もまだはらってないよ」
「その病院へ行けば充電器があるはずさ。その病院は何でもそろってるんだ」
灰色しましまネコはそう言いながら、走り続けた。私は、充電器があるという灰色しましまネコの言葉に期待した。SWが充電切れでは、私は元の世界へ戻れないかもしれない。私のことと元の世界のことを知ってくれている唯一のSWが、死んでしまっているままではどうしょうもない。誰かに相談したいと思ってもどうすればいいのかわからない。たよれるのはこのSWだけなんだ。
私は、灰色しましまネコの後ろを見うしなわないように走った。大小のビルの前を走り抜け、右に曲がった所に門があった。ひとかかえもありそうな、背も高いりっぱな門柱には「オオタ病院」と書いてあった。
ふと、私は忘れていたものを思い出したような気になった。元の世界だ。「オオタ研究所」から私はこの世界に来たんだ。きっとここが元の世界とつながっているに違いない。
だまって門柱をながめている私に「早く入って」と灰色しましまネコが、鉄の重そうな門扉を開けながら言った。
白い大きな建物の自動ドアが開き、灰色しましまネコが私の手を引っ張った。私は吸い込まれるように入って行った。
待合室は天井の照明が冷たく輝き、まぶしかった。何脚もイスが並べてあったが、受診客はだれもいない。私が辺りを見回している間に、受付で灰色しましまネコが何かを説明している。受付の人はすりガラスでよく見えない。説明が終わったのか、灰色しましまネコが手招きした。
私が近づくと「時間外だけど、診察してくれるって」灰色しましまネコがうれしそうにいった。
「診察なんて必要ないよ」
私がためらっていると、奥のドアが開き、白衣を着た女医さんらしき人が顔を出した。
「こっちよ」
女医さんが私を呼んだ。
私はアッと思った。白衣を着た女医さんは、あのオオタ研究から出てきた背の高い女の人とそっくりだった。
灰色しましまネコに背中を押されて診察室に入ると、白衣の女医さんが、私を初めて見るような顔をして「どうしました?」と聞いた。
「つまんないと思う心を何とかしてほしいと言っています」
灰色しましまネコが、私より先に言った。
「そうですか。簡単なことね。手術をすればいいだけのことだわ」
「え、手術?」
私はさけんで、口を両手でおおった。
「そうですよ。簡単な手術よ」
「どこを手術するのですか?」
「心よ」
「心って、どこにあるのですか?」
「心って、心臓に決まってるじゃない」
「心って、心臓なんですか?」
私は混乱して口をパクパクさせた。
「どんな手術なんですか?」
灰色しましまネコが質問する。
「心臓をプラスチックでコーティングするだけよ」
「ああ、それなら簡単だ」
灰色しましまネコが言う。
「そう、完璧に心が強くなって、つまんないなんて思わなくなるわよ」
女医さんがこぶしをにぎりしめた。
「いやだ。そんなの」
私はイスをけって立ち上がった。
「どうして、簡単よ」
「心臓にプラスチックなんか入れたら、心臓が止まっちゃうじゃない」
「入れるわけじゃないわ。コーティングするだけよ。だいじょうぶ。あなたの望みをかなえてあげる」
「いらない。そんなこと誰も望んでないわ」
「変ねぇ。今、私にはあなたの心臓が見えてるの。動きが弱々しいわ。コーティングしないと、いずれ壊れてしまう。見えてるの」
「そんな……」
私は両腕で胸をかくした。
女医さんの目は、ずっと私の両手で隠した胸を見続けていた。その目の中に興味津々というような炎が燃えていた。
「はい、コーティング手術!」
女医さんが命令口調でさけんだ。と同時に壁に近づいた。壁にはこぶし大の丸くて赤いボタンと三角の青いボタンが二つあった。
女医さんは赤いボタンをポンと押した。
部屋の中が動いていく。床から手術台がせり上がってきた。血圧や心拍数を計る機械が現れ、診察室が手術室に変わっていく。まるでパラパラ漫画を見ているようだった。
呆気に取られている私の後ろに屈強の看護師が現れ、私を手術台の上に寝かせた。
「まって、まって」
私はさけんだ。
「なんですか?」
緑の手術着に着替えた女医さんが、手袋をした手を上に向け私を見下ろしている。
「いらない。手術はいりません」
「ふーん」
女医さんは考えていた。
「あなたはどう思う」
となりに立っている灰色しましまネコに聞いた。
ネコは頭をかしげて考えている。
「いらないのよ。本当に手術なんていらないの。いらないといって。私の心臓は、強く正常に動いているの」
私はすがるように言ったが、灰色しましまネコはまだ考えていた。
「だいたいね、どうして私の手術のことをあなたが決定しなきゃなんないの。私のことは私に決めさせてよ」
私は大声で言った。
だれもが、何も言わない。
「ああ嫌だ。何なのこのシュチュエーションは。訳わかんない。私の命をこんなネコが決定するわけ? 訳わかんない!」
私は、もう一度さけんだ。
「決定!」
灰色しましまネコも同時にさけんだ。
「手術決行! はい、ライトをつけて。注入器用意」
女医さんもさけぶ。
「まって、まって」
私は、さけびながらからだを動かし手術台から逃れようとした。しかし、拘束ベルトでしっかり固定された体は少しも動かなかった。
バンという大きな音とともに、目がくらむようなライトが目の前で光った。もう何もできない。私の意識は薄れていった。
気が付いたのは、白いベッドの上だった。大きなネコが私を上からのぞき込んでいる。
「手術は、無事、終わりましたよ。良かったですね。だいじょうぶですか?」
ネコは、あの灰色しましまネコだった。
「だいじょうぶも何もないわよ。なんてことをしてくれたのよ」
そういって、私は少し考えた。手を動かす。足を動かす。なにも違和感がなかった。命にも別状はないような気がする。あ、心臓は? と思って胸に手をやる。傷口はどうなってるんだろう。どこにも痛みはない。
「どこに、穴をあけたの?」
私は恐る恐るきいた。
「穴?」
「そうよ。心臓をプラスチックでコーティングしたんでしょう?」
「ああ、左の乳房の下に小さいほくろがあるでしょう。そこかららしいですよ」
「ああ、やっぱりされちゃったんだ」
「はい。よかったですね。これで、あなたは強い心の持ち主ですよ」
灰色しましまネコは満面の笑みで答えた。
「起きてもいいのかな?」
私は途方にくれたまま、灰色しましまネコに聞いた。
その時、女医さんが部屋に入ってきた。
「はい、もう退院してもいいわよ」
にっこり笑顔で答えた。
私はゆっくり起き上がって、大きく息をはいた。そして、ベッドの上に座って考えた。
だいたい心ってどこあるというんだろう。心って感じる所じゃないの。好きだとか嫌いだとか、悲しいとか嬉しいとか感じる所よね。そんな感情を作り出すのは心は、心臓なのかしら。本当は脳の中にあるんじゃないの。それを、心を強くするということで心臓をプラスチックコーティングするなんておかしいんじゃないの。だいたいプラスチックってどうなの。今の科学だったら、もっと人体にやさしくって強くって柔軟な素材があるはずでしょうに。
私がそこまで考えたとき、女医さんの目が動いた。私の頭を見ている。
「脳をコーティングするっていう方法もあるわよ」
素晴らしい考えだというように目がキラキラかがやきだした。
「ハイ、コーティング手術」
大声で叫んで、壁に近づく。
ダメだ。これ以上この人たちの好きなようにさせてはいけない。赤いボタンを押させてはいけない。
私は、素早くベッドからおりて、女医さんを突き飛ばし、青い三角の下向きのボタンをたたくようにおした。青いボタンがこの部屋をどうするのかわからなったけれど、手術室に変わるよりはいいと思い押し続けた。
青いボタンは正解だった。部屋がエレベータのようにどんどんおりていく。それは、すごいスピードだったので誰も立ってはいられなかった。灰色しましまネコも女医さんも耳をおさえてしゃがみこんでいる。私も壁際に座り込んだ。
ガクンと部屋の動きが止まった。部屋のドアがサッと開いた。
「こっちですよ」
灰色しましまネコが私の手を取った。女医さんは意識を失って倒れていた。
「え、今度はどこへ連れて行く気なの」
部屋を出ると暗いトンネルだった。トンネルの中を走りながら、私は叫んだ。
「地下鉄に乗りたいんでしょう」
灰色しましまネコが聞いた。
「そうだけど」
「早く行かないと、またあの女医さんが追いかけてきますよ」
「あなたは、女医さんの仲間じゃないの? 私に手術をさせたのは、あなたよ」
「仲間とかそういう問題じゃないんです。君はネコが好きなんだろう?」
「ええ、それがなにか?」
「だから、心臓までは私の仕事ですが、脳までは聞いていない。君が嫌がってることはできない」
「これって、誰かの命令なの?」
「命令じゃない。君の思いです」
「私の?」
「くわしい話をしている時間はありません」
闇の中からゴーという地下鉄の走る音が聞こえてきた。
「あれに乗らなきゃいけない」
灰色しましまネコがスピードを上げた。
「元の世界に戻れるの?」
「ええ」
灰色しましまネコが短く答えた。
改札口が見えてきた。確かにここの世界に迷い込んだ時におりた駅だった。
「まって、SWの電池がないの。乗車賃がないの。電車に乗れない」
改札口で私がさけんだ。駅員さんは乗車賃がない人は乗せませんというように冷たく私を見ている。
「あ、そうだった。あの病院で充電するはずだったんだ」
灰色しましまネコが言った
「あなたお金を持ってないの?」
「お金なんて知りませんよ。電子マネーしか知りませんよ」
「だから、充電充電って、私、言ってたよね」
「仕方ありません。ほら、私の肉球にSWを置いてください」
「それで、充電できるの?」
「つべこべ言ってないで、置いて!」
「は、はい」
私は灰色しましまネコの肉球の上にSWを置いた。灰色しましまネコはじっと目をつむっている。トンネルの中の地下鉄の音がだんだん大きくなってくる。
「逃がさないわよ」
突然、女医さんの声がした。
「追いかけてきた。早く逃げなくちゃ」
私は、灰色しましまネコの腕をバンバンたたいた。しかし、ネコは充電切れというような顔をしてピクリとも動かなかった。
「あ、あそこにいたわ。捕まえて。脳の手術を試してみたいの」
走りながら女医さんが、看護師さんたちに命令しているのが見えた。
「ねぇ、ねぇ。目を覚ましてよ」
私は、灰色しましまネコをゆすった。
「ああ、よく寝た」
灰色しましまネコがホッと息をはいた。
「私、追いかけられてるんだけど」
私は、遠くに見える女医さんたちをちらちら見ながら早口で言った。
「はい、充電が終わりました。どうぞ、改札を通ってください」
「だいじょうぶなのね」
「はい、どうぞ」
私は押されるようにして改札を通った。
「待ちなさい」
女医さんは改札口まで来ていた。手をグインとのばす。その手が私の肩に触れた。
「乗車賃の無い方はここから入れません」
駅員さんが、改札口を入ろうとした女医さんの腕をしっかりつかんでいた。
「放しなさいよ。あなたに私を止める権限はないでしょ」
「乗車賃。乗車賃」
機械のように駅員さんはくり返している。
となりでは灰色しましまネコが、バイバイと私に手を振っていた。
私は急いで階段を下り、止まった地下鉄の車両に飛び乗った。車両には誰も乗っていなかった。時々光を点滅させながら、闇をビュンビュン走っていく。前の方に小さな明かりが見えた。どんどん大きくなって来る。すべるように車両が構内に入って行き、静かに止まった。
[オオタ研究所駅]
駅のホームに名前が大きく書かれていた。
ドアが開き、私は車両からおりた。
「あなた!」
「ひえぇー」
私は声がした方をふり返り悲鳴を上げた。そこには、髪を振り乱した女医さんがいた。
「あなた、それ、あなたのSWじゃないわね」
「拾ったんです」
私は急いでSWを外し、女医さんに投げるように渡した。
「手術は嫌です」
「手術?」
「手術は嫌です」
私はもう一度言った。
「しませんよ、そんなもの」
「ほんとう?」
「ええ、しないわ」
私はやっと、大きく息をつくことができ、そのままくたくたと座り込んでしまった。
研究所の事務室で女の人が話してくれた。女の人は内村さんという名前で、この研究所の研究者の一人だった。
「私もうかつだったわ。あなたみたいな子供の会員がいるって、聞いたことがないもの。アナザーラボは大人の会員ばかりですもの」
「私、その何とかっていうラボなんか知りません。そのSWは拾ったんです」
「そうでしょうね」
内村さんは少し考えて続けた。
「ここはもう一つのVRを作る実験室なの。SWに心を読ませてもう一つの世界を作る。そんなことができれば、みんなが明日を信じられる助けにもなる。ストレスがたまったときの解放に役立つでしょう? そういうことが可能かどうか実験しているっていうのがこのラボなわけ。子供はまだ自分がしっかり確立していないからこの実験には参加させていないのよ。でも、あなたを見たとき、次の実験のフェーズに入ったのかなと勘違いして、実験参加をゆるしてしまったの。今は子供も大きなストレスを感じていると問題になっているでしょう? ごめんなさいね」
「私の心を読んだ世界?」
「そうよ」
「でも、お酒が置いてるお店とかに行ったよ。そんな所、私、知らない」
「ああそれは、本当の持ち主のデーターがまぎれこんだのかもしれないわね。でも、あなた、無事でしょう?」
「無事?」
「体、大丈夫よね?」
内村さんは心配そうに聞いた。
「心臓をコーティングされました」
「まぁ、心臓をコーティングされたの。VRだから心配はいらないと思うけど、一応検査しましょうね」
内村さんが私の腕を取った。
「いいです。私、何ともありませんから」
私はまた「心臓がおかしいわ」とかいわれそうで、腕を引っ込めた。
「だいじょうぶよ。もう変なことは起こらないわ。脈拍を見るだけよ」
内村さんは私の脈拍を測った。
「うん、大丈夫。じゃこのSWは、元の持ち主に返すわね。あなたのデーターをすべて消してしまってからね」
内村さんはSWを机に置いた。
「まって、私、海の見える喫茶店で、無銭飲食をしちゃったの。データーを消しちゃったら、お金が払えないわ」
「だいじょうぶ、ちゃんと清算してから消すようにするわ」
「データーを消しても、また、ここへ来られますか?」
私は、データーが消えてしまったらここで起こったことはみんな夢に終わってしまうんじゃないかとちょっと寂しくなっていた。
「もちろん、いつでも遊びにいらっしゃい。でも、私もここでは仕事をしているんだから、そうそうあなたの相手はできないわよ」
「それでもいいです。うれしい」
「今に子どもを対象とした実験もはじまるかもしれないものね」
内村さんはにっこり笑った。
「あ、もう一度SWと話してもいいですか?」
私は、内村さんの手にあるSWを見た。
「いいわよ。どうぞ」
内村さんがSWを私に渡してくれた。
私は腕にのせて、顔を近づけ「ありがとう」といった。
「いいえ、どういたしまして。大切な時に充電切れをおこしてしまい、悪かったね」
「いいの。あなたが、あの灰色しましまネコを作ってくれたんでしょう?」
「そうだけど、ちょっと変な奴だったね。AIがうまく機能しなくって変な奴になっちゃった」
「少しね。でも、あなたとどこかにていたわ」
「あんな奴にワタシはにてませんよ。ワタシは、完璧です」
「どうかなぁ」
私はくすっと笑った。
「さあ、もう帰りなさい」
内村さんが言った。
私は、SWを両手で包み込んでからそっと内村さんに返した。
私たちはオオタ研究所から出て、外の重いゲートを押し開けた。見覚えのある道が続いていた。角を曲がると細い獣道になるはずだ。
「じゃあね。気をつけてね」
内村さんは手を上げた。
「さようなら」
私は獣道を進んだ。
少して、なんとなくふりかえってみた。
信じられないぐらい、オオタ研究所は完全に森の中に消えていた。
オオタ研究所 麻々子 @ryusi12
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