第25話 寝取られるぐらいなら――
朱い朝日に刺激され、脳が覚醒していく。キッチンからは味噌汁のいい香り。今日も恋人の蒼依が僕のために朝食を作ってくれている。何て穏やかで幸せな朝なのだろう。ゆっくりと目を開ければ、窓の外には晩夏の蒼い空が広がって――
「愛一郎ぉ……何でわたしたちまだ生きてるの……? 早く死なないとダメ……殺し合お? 愛し合お? 裏切り者同士、首絞め合おうよぉ……!」
「ぐ、ぐるじ……っ、やめでぐれ、蒼依……っ」
眼前には、馬乗りになった本物蒼依の、幼き虚ろ目があった。ていうか首絞められてた。くそぉ、何が朝日だ、僕を目覚めさせたのはその重みと首絞めじゃないか。目覚ましどころか永遠のおやすみへの直行便じゃないか。
――あれから、数日が経った。とりあえず、僕も蒼依姉妹も(ついでに貞作も)生きている。体調にも問題ない。精神に問題抱えてる女児はいるが。
ただ真面目な話、妹蒼依にも一度、検査入院なりが必要なはずだ。貞作曰く、彼女は健康上の問題を何も抱えていないということだが、鵜呑みにできる話ではない。そのためにも戸籍を何とかしなくちゃいけないわけだが……それには実の母親、
もちろん虚偽の情報を織り交ぜての申請ということになってしまうが、無戸籍児自体はこの国においてそう珍しい存在でもないらしいし、実母の協力さえあれば、その解消に時間はかからないだろう。
一方の貞作については、基本的に繋がりを断つことにし、向こうから二人に接触することも固く禁じた。本来であれば、司法で裁かれるべき犯罪者だ。お咎めなしというのは都合が良すぎる。だが、被害者である二人に、どこかへ訴え出るつもりがない。そもそも蔑みこそすれ、恨んですらいないのだ。実害さえなくなれば、彼に対する関心など消え去る。これ以上関わらないで済むのであれば、それに越したことはないというのが彼女たちの考えなのだ。
貞作の方も、それを受け入れた。受け入れるしかなかった。僕たち次第で彼の悪行はどこへでも漏らすことができる。もはや彼は人生を掛けた目的を諦め、全てを失った。
それにしたって、あれだけ執着していたことから、いやにあっさり手を引いてくれたものだと拍子抜けはしたが……もしかしたら精神的にも肉体的にも、一番危うい状態にあるのは彼なのかもしれない。とはいえ万が一、蒼依の身体に何か異常があった場合、奴の持つ知識・情報が役に立つのは間違いない。死んでもらっては困る。
と、まぁ、そんな感じでとりあえず妹蒼依は姉蒼依のアパートに身を寄せているわけなのだが、
「何で死んでくれないの……? もしかして、わたしのこと好きじゃなくなっちゃった……? そんなのダメっ! わたしたちの愛は愛のまま終わりを迎えるのっ! だから一緒に死んでよぉ!!」
当の本人は相変わらずこれである。あれから毎日、蒼依のアパートで川の字になって寝ている僕ら三人だが、毎朝目を覚ます度に僕は女児に心中を迫られている。
そしてその度に僕は、
「安心しろ。いつまでも大好きだからな、蒼依」
「ん……っ」
唇と共に、彼女の体の支配権を奪い取るのだった。簡潔に言うとキスで拘束する。
「あなた達よく飽きないわね、その誘い受け心中コント……」
食卓に目玉焼きや焼き鮭を運びながら、姉蒼依が呆れ顔を浮かべている。傍から見れば僕は、恋人に家事を押しつけ、寝床で彼女の妹(女児)をディープキスでイかせてるゴミクズである。傍から見ればっていうかほぼほぼ全部事実である。
「うるさい、バカ姉っ! 何であんたはそうやってわたしと愛一郎の邪魔をしてくるのっ!? 言っとくけど、わたしと愛一郎がいっしょに死ねば、そこでわたしたちの永遠の約束は完結されて、もうあんたに入り込む余地なんてなくなるんだからね! だから早く死のうよ愛一郎ぉ……っ!」
ちくしょう、
いつもこうなのだ。蒼依にはやっぱり、姉に対してムキになる、というか張り合おうとする部分があるように思える。「姉なんてどうでもいい」なんていう本人の弁は、ただの強がりなんじゃないだろうか。あんな芝居を打ってまで姉を貶めようとしたのにだって、やっぱり姉への仕返しの意図が含まれていたのだろう。でも、いろいろなことがあった姉妹だ。互いに嫉妬したり、いがみ合ったりするのも仕方ない。無関心よりもよっぽどマシだ。きっといつかは二人も仲のいい姉妹になれるんじゃないかと、僕は楽観している。
まぁ、今このときに限っては、姉妹でいてもらっては困るのだが。
「こらこら、愛朱夏。ママに向かってそんなこと言っちゃダメじゃないか。パパがおしおきしちゃうぞ?」
「……! パパ!」
やにわに顔を輝かせて、愛朱夏は僕の胸に飛び込んできた。もはや我慢する意味がないと知った脳が、欲望のリミッターをぶっ壊してしまったのかもしれない。僕のことを完全に血の繋がった父親だと思い込んでいる。僕とは違って正真正銘の二重人格である。
「あらあら、相変わらず愛朱夏は甘えん坊さんね。ほら、たまにはママにも甘えていいのよ?」
ママ
「やっ! ママは変なこと言うから嫌いっ!」
完全に幼女化してぐずる愛朱夏。
「何よそれ。ママがいつ変なことなんて言ったっていうの? まんこかゆい」
蒼依が僕に八時間ぶり四十七回目の解錠要請をしてきた、そのときだった。この部屋には珍しく、玄関のチャイムなんてものが鳴ったのは。
「誰かしら、こんな時間に。まさか、ママ……?」
「え、紫依さんなのか?」
会う算段がついていたとはいえ、昨日の今日で向こうから出向いてくるとは。
不安八割・期待二割といった感じの複雑そうな表情を浮かべる蒼依。実際に対面するのは二年半ぶりになるはずだ。それも、あの頃とは何もかもが違う。自分が本当は朱依であること、本物の蒼依が生きてこの場にいることを、母親はもう知ってしまっている。彼女がどんな反応を見せるのか……家族愛があるからこそ、怖さを感じてしまうのは仕方のないことだ。
「大丈夫だ、蒼依。僕がついてるから。親子の話に口を挟めるような立場じゃないけど、それでも手を握り続けてやることくらいならできる」
「愛一郎……その前に鍵開けてほしい……かゆい……」
「後にしろ」
内腿を擦り合わせる恋人を無視して、僕は玄関の方の鍵を開けた。
今度こそ僕の眼前には、晩夏の蒼い空と朱い太陽が入り混じるように広がり。そこに佇む美少女を、後光のように包んでいた。…………ん?
美少女?
「「え……は?」」
声を揃えたのは、二人の美少女。僕の恋人である蒼依と、そして来訪者。
僕たちと同い年ぐらいに見えるその美少女は、見たことのないセーラー服を纏い、肩で息をしながら、目を見開いて蒼依を見つめ、
「ひっ、ひぃ……! スケバン……っ、でもない、何かプッツン女……!」
めちゃくちゃドン引いていた。当たり前だ、顔の半分に意味不明な五字熟語ペイント入ってんだから。何か日に日に大きくなってるし。
だが、そんな彼女なんかよりも、よっぽど混乱しているのはこっちだ。こっちというか、特にプッツン女こと蒼依だ。プッツンって何だ。
「――なん、で……」
蒼依は困惑したまま、その疑問を口にする。
「なんで――私が……?」
僕たちの目の前に立つその美少女は、艶やかな黒髪、健康的な肌、整った顔立ち――全てにおいて、イメチェン前の鈴木蒼依、そのままの姿をしていた。
「あ、そ、そのっ、すみません、突然! 少しだけ匿ってくれませんか!?」
美少女はハッと我に返ったように頭を下げ、玄関内まで体を滑り込ませてくる。
「ど、どういうことだ……?」
「じ、実はプッツンな変質者に追われてまして……」
僕の問いを別の意図のものとして捉えたのか、彼女は勝手に自分の事情を説明し始める。
「わたし今日、テレクラで話した
「「――――」」
「あーでも先に通報するべきですよね……このコーポ、公衆電話とかって……それか、もしお電話お借り出来ればテレカでお返ししますし……あっ、でもさっき抵抗中におじいちゃんのこと箱から突き飛ばしちゃったし、暴れて箱の中のメーター? みたいなのも壊しちゃったみたいだし……最悪、過剰防衛とかになっちゃうんですかね……」
心臓が、暴れ出す。状況が、告げている。状況証拠でしかなくても、確信できてしまう。
出逢ってはいけないものに、出逢ってしまったと。
「……君、名前は……?」
恐る恐る訊ねる。聞けば、後戻りはできない。でも、聞かないわけにはいかない。僕たちはもう、出逢ってしまったのだから。
「あ、そういえば名乗っていませんでしたよねっ!
「――――マ……マ……?」
こんなときなのに、何故かふと思い返してしまう。
数日前の僕は、これから十四年間、蒼依に浮気され続けると完全に思い込んでいた。それなのに、蒼依の娘である愛朱夏の父親に関しては、自分以外であるとは疑い切れなかった。普通に考えれば托卵の可能性も充分あるじゃないか。実際、何度もそう分析したりした。それにもかかわらず、なぜ最終的には、自分の娘であると信じ切った?
それはたぶん、分析がどうとかそういうことではなく、本能的な第六感なんじゃないだろうか。こと血の繋がりに関しては、超常的な磁力が働くところを、僕は双子の姉妹の間に何度も見ている。
もしも、仮に。本当に仮定の話でしかないのだが。僕と愛朱夏の間に存在していた無意識的な共依存性が――永遠の約束なんていうラブコメ的お約束ではなく――遺伝的な要素に基づいていたとしたら。
その双子の姉、つまりは朱依であって、要するに十年間寄り添ってきた恋人である鈴木蒼依が、たった一目で僕に執着するようになった理由もまた――
「あのさ」
「君、高校生? わたしと同じぐらいじゃない? 超ハンサムだよね! わたしも十八だし、さすがにそろそろカレシ作らないとダサいと思っててさ……よかったらベル番交換しない? 昭和ももう六十年代だもん、持ってるよね、ポケベルぐらい!」
「――――」
ごめんな、貞作。頑張ってみるが、たぶん無理だ。
この世界の、いや人類史上の、全ての寝取られ男に伝えたい。教えてやりたい。
たとえ人生かけてタイムマシンなんて作ったとしても。たとえ未来から娘が助けに来てくれたとしても。歴史は変えられない。殺人やテロや戦争や虐殺なら防げるのかもしれない。でも、お前の好きな女が寝取られるという結果だけは、奇跡的な偶然が重なってでも、避けられないようになっている。
寝取られたことなんて一度もない、全ての元凶である最悪の間男として、そんな風に思ってしまうのだ。
まぁ、いっか、クズでも最悪でも。寝取られるよりはいい。人は裏切るんだ。寝取られるぐらいなら寝取る側に回った方がマシじゃないか。それによって寝取られ男が絶望しようが、間男を怨もうが呪おうが、何もしてやれることはない。知ったこっちゃない。ていうか知りたくない。その気持ちは、痛いほどわかってしまうから。頼むから黙って消えてほしい。
というわけで。甚だ遺憾ながら、寝取られ男くんにお伝えします。
寝取られるぐらいなら――
寝取られるぐらいなら死んでほしい アーブ・ナイガン(訳 能見杉太) @naigan
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