蜂蜂(はちほう)ふさがり
柿尊慈
蜂蜂(はちほう)ふさがり
垂れたハチミツに、虫じゃなくて男の人が寄ってきた。
「ああ、もったいない……」
まさに今私が言おうとしたことを、この男性は代弁してくれたのである。いや、誰も代弁してくれなんか頼んでいない。誰も頼んでないどころか、誰だ、あなたは。知り合いじゃないぞ。
オフィス近くの公園。そこのベンチに腰かけて、ひとり寂しく昼食をとる悲しきOLの私。そのベンチの後ろから、おそらくは高身長と思われる上半身を乗り出して、男性が地面に落ちたハチミツを見下ろしている。まるで、ひとり息子の初めてのおつかいをベランダから眺めていたが、玄関を出た瞬間に彼がコケたのを見て、開始早々不安に駆られる父親のような表情。
つやっぽい黒のテンプルと、いやらしさを感じさせないゴールドのフレームを備えたメガネが、下を向いているためにゆらりと揺れている。メガネのせいか黒い瞳には何となく黄色っぽい光が反射して、私はふと、蜂を思い出した。黄色と黒の、警戒心を掻き立てるカラーリング。そうでありながら、色白の肌と、自然な焦げ茶色の髪には好感が持てる。歳は、同じくらいに見えた。場所が場所でなければ――もとい、状況が状況でなければ、「あら、素敵な男性」なんて思ってしまったかもしれない。
「――ええと、どなたですか?」
ほんの数秒ではあろうが、何十秒も容姿を分析してしまった気になっていた私は、ようやく口を開くことができた。
男性は、きょとんとする。
「――ええと、あなたこそ、どちら様でしょう?」
さわやかに、質問を返してきた。突然の質問に、困ってしまったような笑みを浮かべている。
うん、それもそうだな。私が悪かった。いきなり名前なんか聞かれたら、まずお前から名乗れみたいな気分に――。
いや、待て。違うぞ。最初に声をかけてきたのは、この男性の方じゃないか。ということはやはり、彼の方から自己紹介をするべきであって、私は何も悪くない。人のよさそうな笑顔に騙されそうになったが、どう考えても声をかけてきたのはそっちだろう。
私は絶対に答えないぞ、そっちから名乗りやがれ。そんな気持ちを込めてじっと彼を見つめてみたが、へらりと笑っているばかりで、一向に彼からは何の情報も得られそうにない。まじまじと見つめていると、不覚にもどんどんその「困ったような笑顔」に吸い込まれそうになるので、私は改めて、零れたハチミツに視線を落とした。
数匹のアリが、ごちそうにありつけて一目散に飛びかかっている。しかし、あまりにもの粘度の高さと、もったりとした質量に足を取られ、身動きが取れなくなっているのが見えた。
私、
大の、というのは人からの評価であり、私自身はそこまでハチミツ狂いじゃないと思っている。何にでもソースをかける人がいるし、何にでもマヨネーズをかける人だっているのと同じ。マヨネーズ愛好家はマヨラーって呼ばれるけど、ソース愛好家には名前がないような。ソーサー? なんか受け皿みたいだな。じゃあ、ちょっとオシャレっぽくソーサラー? それじゃ魔法使いか。ハチミツ愛好家は何ていうんだろう。英語でハニーだから、ハニャー? すごいバカっぽいぞ。ハチミツァー。これでいこう。そう、私はハチミツァー……。
多くの料理に塩こしょうが振られていて、味の決め手になっている。ハチミツだって立派な調味料のひとつだ。私は塩こしょう感覚でハチミツを使う。そもそもハチミツは隠し味に使われることもあるわけで、むしろ私はその「隠し味」が気に入らないだけである。隠すなよ、ハチミツを。ふざけているのか? 流行りのイケメン俳優を、エキストラに使うが如くの、暴挙である。隠すべきではなく、むしろハチミツが主役を食う――いや、主役としてハチミツを喰らうくらいの意気込みでなければ、ハチミツを使う資格はない。
職場の冷蔵庫には、私の名前がこじんまりと、慎ましく書かれているハチミツのボトルが入っている。無論、私が社内で使うためであり、私以外には使わせない。一度、「おいしそうな紅茶買ったんですぅ」と後輩の女の子が紅茶の缶を見せびらかしてきたことがあり、ご厚意に甘えて紅茶を淹れてもらった。そこに、あふれんばかりにどっぷりとハチミツを注いで飲んでいたら、それはもう周囲にドン引きされた。スプーン一杯とか、そんな量じゃ無礼に当たるのだ。カップ一杯の紅茶には、カップ一杯のハチミツをぶつけなければならない。
日頃、「おいしそぉ」とか言って、ハチミツのたっぷりかかったパンケーキの写真を見ていた後輩ちゃんが、まるで献血パックを直飲みする吸血鬼でも見たかのような形相で私を見ていたのが、忘れられない。それが、私が最後に見た彼女の顔だった。いや、決してそれが原因でショック死したとか、退社したとかではなく、シンプルに寿退社したのだ。同じハチミツ好きだと思っていたのに、また、同じ独身OLだと思っていたのに、とんだ仕打ちである。
そういうわけで、家庭的な私は、ブチ切れながら毎朝つくる、それはもう家庭的な愛らしいお弁当の大半のメニューに、それはもう愛らしいハチミツをどっぷりとかけて、それはもう愛らしく食していたのだが、ついに先日「見てるだけで糖尿病になりそう」という理不尽極まりない理由で、昼食時にオフィスから追い出された。仕事中笑顔で接してくれる同僚たちは、昼食時には白目を剥いて、私と決して目を合わせようとしない。泣く泣くひとりで、公園のベンチで手づくり弁当にハチミツを垂らしながら食事をしなければならないのだ。
ハチミツは鮮度が命だというのに、日の光に晒さなければならないのが辛い。お昼時に冷蔵庫からハチミツのボトルを取り出し、ひとり公園に行く。帰ってきてから冷蔵庫にハチミツを戻す。私の孤独のグルメタイムは1時間もないが、できるだけ直射日光を当てないで保存するべきハチミツ様に、居心地の悪い想いをしていただかなければならないのが、それはもう非常に申し訳ないのである。
「いや、それはあなたがおかしすぎるような気もしますが――」
お互い見知らぬ者同士でありながら、長々と私の不幸話を聞いてくれた男性に感謝の念を抱きかけていたところ、この感想。勢い余って、私はマイ箸を卵焼きに突き立てる。あまりこういう乱暴なことをすると、弁当箱の買い替え時期がどんどん早まっていくので、控えなければならない。
「卵焼きが痛そう……」
悪気なく彼がぽろっとこぼすが、あなたが今同情すべきは私であって、卵焼きではないんだ。
「私がおかしいですって? これを召し上がってから仰いなさいな!」
長々と自分語りをしてしまったテンションが災いして、無残にも、行儀悪く2本の箸に貫かれた、まるで十字架にかけられた神の子のような卵焼きを、私は男性の目の前に突きつけた。
卵焼きを作る際、砂糖の代わりにハチミツを使って自然な甘さを演出、みたいなレシピをたまに見かけるが、これはその逆である。しっかりと砂糖で味つけした卵焼きに、しっかりとハチミツを纏わせたものだ。出し巻き卵に大根おろしを乗せてしょうゆをかけるように、オーソドックスな卵焼きにハチミツをかけたものである。私のハチミツ研究の中でもトップクラスの仕上がりで、シンプルにおいしい。卵焼きは必ず弁当に入れている。
突然ハチミツ滴る卵焼きを突きつけられて、さぞ男性は困惑していた。あまりにもだくだくにハチミツをかけので、先ほどのようにハチミツが垂れてしまいそうになるのが問題である。普段であればハチミツの雫が垂れるより先に卵焼きを口に放り込むのだが、あまりにも周囲の理解のなさに絶望したか、先の私はぼうっとしていて、うっかり地面にハチミツを垂らしてしまった。そして、冒頭のシーンにつながる。
「うわっと!」
ためらっていた男性だったが、ハチミツの雫が自重に耐え切れずまたもや落下しそうになっていたところを、とっさに左の手の平で受け止めた。色の白い手の平が、黄金色に染まっていく。
「では、遠慮なく……」
男性はおそるおそる、卵焼きに向かって口を開き、ぱくりと口に含んだ。ここで私は、ふとこのあともこの箸を使わなければならないことに気付いて戦慄したのだが。
「――おいしい!」
彼の満面の笑みと大きな声に、私の悩みは吹き飛んだ。
「僕、ハチミツ好きなんですけど、紅茶にさりげなく混ぜるとかしかできなくて、お姉さん見てたらすごいおいしそうだなって思って、そしたらハチミツ垂れたからあああ! ってなって駆け寄っちゃって――」
「とりあえず、落ち着いてもらっていい?」
ハッとして、彼が咳払いをする。自棄になって押しつけてみたものの、こうも食いつかれるとそれはそれでビビってしまうというか、反応に困るというか。
「ごちそうさまでした……」
男性は、目を瞑って、言いながら手の平を合わせようと――。
「あっ!」
「えっ?」
べちょり。
私の叫びは間に合わず、垂れるハチミツを受け止めた彼の左手の平は、そのハチミツを拭う前に合掌されたため、ぎょっとした顔でゆっくりと彼が手を離すと、ぬとーっとハチミツが糸を引く。
「……困りましたね」
困っているというのにヘラリと笑う彼からは、当たり前だが私の大好きなハチミツの香りがする。金色のメガネのせいもあり、私は彼がハチミツの化身か何かじゃないかと、そのとき考えてしまった。
さて、彼に目をつけられたというべきか、むしろ私の方が勝手に理解者を得たと思って舞い上がってしまっているのか。その日を境に、ひとり寂しいハチミツランチは、未だに名前を明かし合ってすらいない男女ふたりのランチタイムへと進化した。
ランチタイムとはいうものの、彼が私の弁当からいくつかピックアップしてつまみ食いしていくようなもので、彼が隣で自身の食事を摂るようなことはない。ランチデートなんて、オシャレで色気のあるものではなく、どちらかというと、公園の鳩にエサを与えているのに近いかもしれない。
「うん、やっぱりおいしいですね、お姉さんの卵焼き!」
ただの鳩と違って、この鳩は感想をくれるし、キラキラした笑顔を向けてくれるのだが。
最近では、私は気合を入れて多めに卵焼きを作っている。というのも、彼があまりにおいしそうに食べてくれるので、ひと切れだけあげようと思っていても、メガネの奥の瞳に物欲しげに見つめられると、どうぞと次々に差し出してしまうので、自分用の弁当なのに自分用の卵焼きがひとつも残らず消えるという状況になってしまうのである。
隠し味として使うのは邪道だとは思いつつ、さすがにすべてハチミツ漬けにするというわけにもいかない。ハチミツ様には泣く泣くダブル主演くらいのポジションに留まっていただくこともある。例えば、サラダのドレッシングに使うとか、マリネに使うとか、そういった具合だ。鶏肉との相性もいいので、ハニー多めの自家製ハニーマスタードを使ってグリルにすることもある。とはいえ、やはり「かける」ことに特化している節があるので、ドレッシングを抜きにして生野菜にかけていただくことが多い。そのせいか、職場では「草にハチミツつけて食ってる女」とも認識されている。何だよ、草って。野菜にも失礼でしょうが。
「毎回毎回、すみません」
彼に餌付けしたあとの箸を自分で使うことに何の抵抗もなくなってきたわけだが、突然彼が申し訳なさそうに謝るので、私は不思議に思った。
「何が?」
「僕、ぼうっとしてるとお昼食べ忘れちゃうっていうか、お昼買いに行かないとって出歩くと、何か散歩が楽しくなっちゃってお昼休み終わっちゃったりするんですよね」
わかってはいたけど、結構間の抜けた人というか、オブラートに包まないで言えば、バカっぽい人だなと思う。
私の脳内で無礼なレッテルを貼られていることなど知りもせず、彼は言葉を続けた。
「で、いつものように歩いてて、ある日からお姉さんを見かけるようになって、僕みたいに散歩とか公園が好きな人なのかなって思ってたんですけど、ハチミツのボトルを何のためらいもなく握り潰してるのを見て、失礼ながら、変な人だなって思って」
「本当に失礼だな……」
「でも何か見ているうちにおいしそうに見えてきて、最近は真後ろを通ってチラ見するようにしてたんです」
どう見ても不審者じゃないか。
「で、ついこの間、ハチミツがぽとりと落ちたのを目撃してしまったものだから」
声をかけてしまったというか、声に出てしまったというか、ついに私たちの関係が始まってしまったというわけだ。いやいや、改めてどういう関係だろう。寂しいOLと公園の鳩? いや、ペットと飼い主とかの方が近いかもしれない。
というか、気にするべきはそこじゃないような気がしてきた。
「じゃあ、もしかしてロクにお昼食べてないわけ?」
私が聞くと、彼は悪びれもなく頷いた。
「そういうことになります」
真面目な顔である。やっぱバカだ、こいつ。
ハチミツ様のために、できるだけ直射日光を避けようと木陰のあるベンチを選んで座っているが、いつもいつも同じベンチが空いてるわけじゃない。今日みたいに、陽の当たるベンチになることもある。
日差しのせいか、これから口にしようとしている内容に恥ずかしさを覚えたからかわからないが、胸の奥と頭に熱さを感じながら私は言った。
「じゃあ、あなた用にお弁当作ってこようか? 全く同じものになるかもしれないけど……」
なんて、言ってみたりしちゃって。
チラ見をする。
きょとんとした顔。いや、今までで一番間抜けな顔かもしれない。おい、何か言えよ。
頭がじりじりしてきた。きょとん、じゃないんだよ。何か言えよ!!!
なーんちゃって、やっぱ今のなし! と言おうと開きかけた口に、卵焼きが迫る。
いつの間にか、箸を奪われていたらしい。真っ直ぐに、こっちを見てくる。今までは、エサをほしがる犬のようなキラキラした瞳だったが、今の彼はエサを求めている顔ではない。何だ、その表情は。真面目な顔をするな。何か言えよ!
今まで深く考えず卵焼きを始めたとしたお手製の料理たちを彼の口に運んできたが、やられる側はたまったもんじゃないな。何だこの、恥ずかしさ。この、名前も知らぬ男性は、今までどんな気持ちで私からの施しを――。
「――お姉さん」
「えっ」
「垂れます」
その言葉にハッとして、私は急いで卵焼きをくわえ込む。また、罪のないハチミツを垂らしてしまうところだった。
男は笑う。
「――お姉さんの取り分を奪ってしまっていたわけですから、申し訳ないなって思ってたんです」
真面目な顔が、続く。いや、申し訳なさを感じるところは、そこなんだろうか。
「これで、お姉さんも僕も、思う存分食べれるんですね」
何、それは。
ふと、自分の唇に重さを感じた。ハチミツが垂れそうになった卵焼きを急いで口に含んだものだから、唇にハチミツ様がついてしまい、それがまた落下しそうになっている。急いで舐め取らねば!
などと、考えていたのだが。
ぴっと、何かが私の唇をかすめていって、同時に、唇がハチミツ様への自責の念から解放された。
「あっ」
「えっ?」
彼の顔がまた、きょとんとした表情を取り戻す。目の前には、箸を持った彼の右手と、きらりと光る彼の左の親指。甘い香りから、その光の正体は明らかだ。彼の指が、ハチミツ様をすくってくれたのである。二重の意味で。
だが、彼のとっさの判断が生んだのは、「名も知らぬOLの唇についていたハチミツを拭った、名も知らぬメガネ男子の親指」という、ダークマターだ。
落ち着こう。元をたどれば私の唇についていたものだ。自分の親指にハチミツがついていたらどうする? 場所にもよるだろうが、ぺろりと親指を舐めるだろう。じゃあ、今は? 私の親指じゃないんだよ。舐めたらあかん、舐めたらあかん。いや、しかし、元はといえば私の――。
ここで、私はハンカチの存在を思い出し、バッグからポーチを取り出そうとしたのだが、またもや彼に先を越された。
彼が、自分で親指を舐めたのだ。行儀よく食べる人なので、そういえば彼の舌を見たのはこれが初めてである。
「――ごちそうさまでした」
なぜか真っ直ぐに私を見つめて、彼はイタズラっぽく笑った。
ごちそうさまでしたって、何だっけ。
お昼休憩がリミットを迎えた彼は、もう私の隣にいない。私もそろそろ戻らないといけないのだが、それどころではない。
ごちそうさまでした。食べたものに対しての、感謝の気持ち?
ハチミツのかかったサラダを持ち上げるが、サラダのことを考えられない。ぽたりと、サラダからハチミツが落ちる。またもや、公園の地面を汚してしまった。
左手の人差し指で、ツンと、自分の唇に触れてみる。先ほど、彼の親指が拭っていった、30歳を迎えようとしている、独り身の、寂しいOLの唇。
随分と、手入れをしてこなかった。大学生の頃とかは、まだ何かしていたような気もするんだけれど。ああ、そういえばあの頃は何人か彼氏がいたことがあったな。手料理を振る舞って、理解されずにそのままさようなら。
思えば、おいしいおいしいと食べてもらったのは、初めてだったんじゃないだろうか。名前もわからないし、何の仕事をしているのかもわからない――どうしよう、大学生とかだったら――そんな男性。
ぷにぷにと、唇を触る。いや、ぷにぷになんて形容できないな。ざらざらとまでは言わないが、何もない。ぷにぷにでも、ぷるぷるでもない。なんか、唇。
ようやく日陰になった。目線を落とす。またもや、甘い香りに導かれたアリさんたちが、ハチミツの罠にかかって、身動き取れないでいる。まさに、八方ふさがり。いや、だがしかし……。
溺れているようにも見えるが、アリはアリで、快楽の湖に溺れているのであって、内心、嬉しかったり、喜んだりしてるんじゃないだろうか。
ハチミツを木に塗れば、カブトムシが寄ってくる。なんか、そういう歌があった気がする。まんまと誘い出された自分を、カブトムシに例えるような歌が。
まあ、カブトムシは私じゃないんだけどさ。私はそう、カブトムシに心惑わされている、悲しきOL。
エサをもらえれば、公園の鳩は寄ってくるだろう。私じゃなくたっていいし、それはこっちも同じなんじゃないかな。嘘でもおいしいって言ってもらえたら、こうやって変な気持ちになってしまうのかもしれない。いや、だがしかし、私のハチミツ愛を受け入れてくれるような人ってのは、なかなかいないだろうし……。
いかん、何を考えてるんだ、私は。いつも通り――というかいつもの倍、弁当を作るだけでいいのだ。去り際に彼は、弁当代も出すっていってくれたし。そう、他のことには気を遣わなくていいんだって。
そう思いつつ私は、退勤後に最寄りのドラッグストアによって、先ほどからリップコーナーで30分ほど商品とにらめっこをしていた。
そういえば、世の中にはハチミツパックというのがあって、セレブ的な人が唇のケアに使っているみたいな話を聞いたことがある。おかしいな、私も日頃からはチミツを摂取しているはずなのに。やっぱ外側っていうのが大事なのかな。家に帰ってやろうかな、ハチミツパック。唇にハチミツ塗って放置すればいいんでしょ? だめだ、絶対味わっちゃうわ、私。
ハチミツの名を冠しているものの、今までは見向きもしなかった、ハチミツ配合のリップクリーム。その数の多さたるや。今までは何となく、まだ20代だからと放っておいたが、よく考えたら20代の頃も乾燥に弱かったわけだし、やっぱり30手前としてはちゃんとケアしておかないと……。
誰のため、何のため? 彼のため? また、触れられたときのため? いやいや、もう触れてもらえないかもしれないよ。ざらざらと思われてたらさ。
気付いたら、ハチミツと名のつく製品を片っぱしから1つずつカゴに放っていた。そんなに買って、どうするんだよ。順に試すのか? 彼に恋人がいたらどうする? いや、別にそういう期待をしてるわけじゃないでしょ。いや、してなかった。そう、昨日までは。
「――随分と、買い込んでらっしゃいますね」
長時間考えていたからか、怪しまれたのかもしれない。視界に白衣がちらつく。店員さん――薬剤師さんかもしれない。なかなか嫌味なことを言ってくれる。しかし私は、それどころではなかった。右腕にカゴを引っかけながら、左手の指で、唇をつつき続ける。なんだかんだ、まだまだぷるぷるな気がしてきた。名前も知らない男のために、こんなにリップを買い込むのもどうなんだろう。
いや、違う。彼のためじゃない。私のためだ、そういうことにしよう。これは予防で、保険。30歳を迎えて、ボロボロカピカピの唇にならないように――。
「――僕はこれがいいなぁ」
うるさいなさっきから。誰もあなたの意見なんか聞いてないんですけど。
ここで、聞き覚えのある声であることに気付く。嫌な予感がして、振り返る。黒のテンプルに、金色のフレーム。何となく、甘い匂いがする。わざとらしくない、自然な、そう、天然由来の、唇のパックに使っちゃうような……。
顔を見上げる。知ってる顔だ。ここのところ毎日のように餌付けしてるから、忘れるはずがない。いや、似た人かもしれない。名前を確認しよう。名札を見る。そういえば、名前知らないじゃん。
「僕、
困ったように笑う顔で、確信した。彼だ。
気付くと右腕が軽くなっていて、ご丁寧にひとつの商品を残して、カゴの中身は全て戻されていた。カゴの中にひとつ。そして同じものが、彼の手の中にも。
「お悩みなら、今後それを使うってことで。僕もこれで、予習しておきますね」
すくっと立ち上がり、「僕も退勤~」などと間抜けな鼻歌を歌いながら、薬剤師だったらしい彼はレジに吸い込まれていった。遠くから見ると、かなり背が高い。一緒にいるときはほとんど座っていたから、気付かなかった。
そつなく会計をして、自動ドアへ向かう。え、それもしかして私服? 機嫌よさそうに店を出て行く直前、私の方をちらりと見て、例によって困ったような笑みを浮かべて、彼は夜になりつつある外の世界へ飛び去った。
お前、カブトムシじゃなくてクワガタだったのか。いや、そんなことを考えてる場合じゃなくってさ。
予習しておきますね?
予習って、何だっけ。
蜂蜂(はちほう)ふさがり 柿尊慈 @kaki_sonji
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