起き抜けに依頼人

待居 折

某月、某日

「うわああああ!」



 …冒頭からやかましくて申し訳ないが、言い訳させて欲しい。


 穏やかな陽気につい誘われて、ソファーでうたた寝していたのはいつもの事だ。

 でも、ぼんやり目を開けてみた時、長テーブルを挟んだ向かいに女性が座っていたら、そりゃ大声のひとつも出る。


「あ、驚かせてしまってごめんなさい…ドアが開いていたものですから」


 心から済まなさそうに、女性は深々と頭を下げる。


「いや、こちらこそすいません…こんな所をお見せしてしまって、お恥ずかしい」


 まだドキドキする鼓動を感じながら、俺がソファーに座り直すのを待って、女性は口を開いた。


「こちら…探偵事務所で間違ってないですよね?」


「えぇ、そうですよ。商店街の張り紙でもご覧になりましたか?」


 寝ぐせがないか確認しながら、俺は女性を観察した。


 年の頃は三十代前半…といったところか。白のブラウスに羽織った薄青のカーディガン、黒のパンツ。肩までの髪は黒く、メイクも薄め。どちらかと言えば地味だが、小綺麗な印象を受ける。


 少なくとも、こんな古い雑居ビルの散らかった探偵事務所には、およそ不釣り合いなのは間違いない。


「はい、お団子屋さんに貼ってあったのを見て」


「そうでしたか…ここを尋ねてきたという事は、何かお困りごとですね?」


 俺の質問に、彼女は不安そうに顔を曇らせ頷いた。


「そうなんです…私の部屋に、知らない男が出入りしているみたいで」


「なるほど…それは怖い話ですね」


 テーブルの隅に投げてあった手帳と適当なペンを手に取ると、俺は身を乗り出す。


「では、まずお名前からお伺いします」



 彼女の名前は河野遥。ここからほど近い建材卸の商社に、経理として勤めているという。生まれはこのあたりではなく、隣町のアパートで独り暮らしをしている。


「最初に気付いたのは何がきっかけですか?」


 俺の問いかけに、俯いた河野さんはぽつりぽつりと話し出す。


「おかしいなと思ったのは、トイレットペーパーでした。なんだか減りが早い様に感じて」


「気味の悪い話ですね…他には?」


「電子ケトルも使った形跡がありました。私、沸かした後に残ったお湯は必ず捨てるんですけど、残っている事があったんです」


 少し話を聞いただけだが、他人が干渉している可能性が感じられる。俺は手帳のページをめくった。


「衣服や下着は?何かなくなったりはしていませんか?」


「確認していません…もし何かが本当になくなっていたらと思うと、怖くてとても…クローゼットも開けられないんです」


 そう言ったきり、河野さんは口をつぐんでしまった。異変に気付いた時の恐怖がよみがえってしまったのかもしれない。


「他はどうでしょう?例えばそうですね…本、写真、ぬいぐるみ、アクセサリー…そういった物で、なくなった物はありませんか?」


「どれもないですね…私、ミニマリストなんです。だから部屋にはほとんど物がなくて」


 俺は先ほど聞いたアパートの名前を思い起こした。記憶が確かなら、必要最低限の家具と家電が予め備え付けてあるタイプだったはずだ。

 それなら、極力物を持たないミニマリストとの相性は良い。道理で、目の前の彼女がピアスや指輪をしていないのも頷けた。


「なぜ、貴女の家に出入りしている人間が男だと分かったんですか?」


「それは…」


 そう言いかけた河野さんの顔色が明らかに悪くなった。俺は努めて柔らかい声をかける。


「大丈夫です、焦らないで。自分の言葉で、ゆっくりで構いませんから」


「…すいません…」


 か細い声で呟くと、河野さんは何度か深呼吸を繰り返し、震える唇を開いた。



「四日前、少しだけ残業があって…いつもより遅くなったんですけど、アパートが見える角を曲がった時に、…男が、私の部屋に入って行くのを見たんです。眼鏡のサラリーマン風の男でした。怖くなって、そこからは家に帰っていません」


「それはもう決定的じゃないですか!」


 俺は思わず声を上げた。これは間違いなく事件だ。にわかに緊張してくるのが自分でも分かる。


「男に見覚えはないんですか?その…通勤中に見かけるとか、知り合いだとか」


「いいえ、知らない人でした」


 考えられる可能性を潰していく為、俺は質問を重ねた。


「例えば、会社の同僚から好意を寄せられている、つきまとわれているなんて事は?」


「ないです…私、会社でも目立たない方ですから。誰とも口を利かないまま仕事が終わる事も良くあるんです。今日も誰とも話していません」


「そうですか…」


 俺は腕を組んで思案した。これほど事情が明らかなら、既に俺の仕事の範疇を越えているのは間違いない。


「そこまで分っているなら、もうこれは警察の捜査が必要な『事件』ですよ。頼るべきは探偵じゃないと思いますが」


「勿論、警察にも行ったんですよ?でも、誰も話を聞いてくれなくて…」


 河野さんは涙を浮かべながらまた黙ってしまった。俺は憤りを感じながらも、彼女の為に何かしてやれないかと思案した。


「…すいません、飲み物のひとつも出してませんでしたね。今、コーヒー淹れますよ」


 とにかく、河野さんに落ち着いて貰いたい。

 頭を捻った結果、こんな策しか出て来ないとは…自分の対応力のなさにがっかりしながらも、俺は部屋の隅の粗末なキッチンへと向かった。


「いえ、どうかお構いなく」


 気丈な彼女の声を聞きながら、俺はカウンターのコーヒーメーカーに豆を入れた。なるべく綺麗なカップとソーサーを棚から選び出す。


「砂糖とミルクはおいくつずつ?」


「あ、どちらも要りません…ブラックでお願いします」


「奇遇ですね、俺もブラック派なんですよ」


 河野さんの返答に単純に嬉しくなった俺は、顔を上げてソファーの彼女を見た。


 その瞬間に、この事件の全てが分かった。



「では、これを」


 カチャンと音を立てて置いたコーヒーを、少しは気が楽になったのか、河野さんは微笑んで見つめている。


 これから俺が話す事を聞いたら、その微笑みは一体どうなってしまうのだろう。


「…さて、何から話したら良いものか…」


 思わず、迷いが口から出てしまった。だが、話さなければならない。


「結論から言います。河野さん…多分、貴女はもう亡くなっています」


 俺の言葉に、河野さんはきょとんとしていた。無理もない。だが、俺には確信があった。


「さっき、向こうのキッチンから貴女を見た時…窓から差した日差しのせいなんですかね…貴女が透けて見えたんです。今こうして向き合っていると、普通の人間にしか見えないのが不思議ですが、その…幽霊ってのは、そうしたものなのかもしれません」


「…急に…どうしたんですか?」


 河野さんは、俺の話も状況も、まだ理解出来ていない。


「そうですよね、急にこんな事を言われても。…ですが、貴女がもう亡くなっているとすると、全ての話が腑に落ちるんです」


 どんな顔をしたらいいか分からず、俺は目をつむって状況を整理しながら話を続けた。


「理由は分かりませんが、貴女はごく最近亡くなった。当然、貴女が借りていたアパートの部屋はひき払われ、新しい住人が入居した。それが、貴女が見た男です」


「…そんなはずは…」


「では質問です。侵入する男がサラリーマン風だと、どこを見てそう思いましたか?」


「それは…スーツだったし、ビジネスバッグを持っていた様な…」


 河野さんの声が少しだけ震えているのが分かる。


「誰かの家に侵入するのに、スーツ姿でバッグを持つなんて事があるでしょうか…ないとは言い切れませんが、可能性としては極めて低い事例だと思います」


 河野さんの返事はない。だが、俺は話を止めなかった。


「貴女がミニマリストだった事も、事態を分かりにくくしていた原因のひとつです。貴女の後に越してきた男性もまた、短期の出張か何かで荷物が少ないのか、あるいは同じミニマリストなのか…部屋の様相は貴女が住んでいた時と、ほとんど変わって見えなかった。

 男性が留守の時に部屋に戻った貴女は、彼が普通に生活している痕跡を見て、誰かが侵入していると勘違いしたんです」


「幽霊…?私が…?」


 震える声に耐え切れず、俺はそっと目を開けた。テーブルの向こう側で膝に手を置いたまま、小さく身体を震わせる河野さんが、そこにいた。


「…残念ながら」


「他には?他にも何かあるんですか?」


 すがるような目で俺を見つめる河野さんを前に、俺は少し躊躇った。どうしてやるのが彼女の為になるのだろう。真実を話すのは、本当に良い事なのだろうか。


 いや、と俺は思い直した。

 探偵なら、分かった事を伝える事こそ大切なはずだ。


「…では、思い返してみて下さい。部屋に帰った時、鍵を開けましたか?『男の姿を見て帰るのが怖くなった』と言いましたが、その間、どこかホテルにでも宿泊しましたか?

 会社で誰とも話さなかったのは、警察で相手にされなかったのは、貴女が見えていなかった可能性はありませんか?」


 生きている人間相手でさえも、その心を伺い知る事は難しい。ましてや今の立場の彼女の想いなど、想像すらつかなかい。


 ただ、ひとつだけ分かっている事がある。


 彼女は、自分の死を知らなかった。そして、現状を悲しんでもいた。

 何かの想いを抱えてさまよう彼女には、寄り添う事も必要なのかもしれないが、受け入れてもらう事の方が、俺には大切な事に思えた。


 …それでも、話し終わるまで、俺は彼女を直視出来ないままだったが。



 ゆっくり目を開ける。


 状況の把握に少し時間がかかったが、口の端のよだれの跡と、すっかりあったまったソファーのお陰で、うたた寝から目覚めた事に気が付いた。

 同時に、さっきまでの出来事が夢だった事にも理解が及んだ。


 やけにリアルな夢だった。そして、夢で良かったと思える俺も確かにいた。

 亡くなった人間があんな風にさまよっていて良いはずがない。どうか安らかに眠って欲しい…と思ったところで、俺は思わず苦笑いした。

 だから夢だったんだって。



「うわああああ!」


 テーブルの上の冷めたコーヒーに気付いた俺がまた叫ぶまで、あと二分。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

起き抜けに依頼人 待居 折 @mazzan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ