第3話
卒業式の日のホームルームは、流石にみんな、僕ですら真面目に先生の話を聞いていた。
この後はちょっと休み時間で、その後体育館前でクラスごとに整列。配られたピンクの造花は、ブレザーのボタンホールに挿しておくこと。
リハ通りちゃんと集まれよ、と言い残して出ていく先生に、気の早いクラスメイトが何人か集って一筆求めている。
良いクラスだったと思う。体育祭も文化祭も修学旅行も楽しかった。
でも名取がいなかった。
いなくて良かったと思ったりもしたけど、でも、いない名取を探している自分がいた。隣のクラスに行けばいるけれど、隣のクラスまで行ってわざわざ話しかけられるようなことなんか一つもなくて、ただふと辺りを見回した時に名取がいてほしかった。
チャイムが鳴ると、皆が連れだってぞろぞろと教室を出ていく。なんとなくいつもよりだらだらとしているのは気のせいではないと思う。
僕もその集団に紛れるつもりで席を立って廊下に出る。大量の、胸に花をつけた卒業生がのろのろ歩いている様は壮観と言えば壮観だった。
気の早い奴の涙声が聞こえる。この後の打ち上げの予定を話す声が聞こえる。へらへらした笑い声が聞こえる。
どんなに人がいても名取の声は分かる。夢で何回聞いたと思ってるんだ。
指が胸元に伸びて、ボタンホールから花を引き抜く。
落とす手が震えた。
「ハヤさん!花落としてる!」
知ってる。後ろに名取がいるって分かってて、落とした。
振り向いた顔が引きつっていないか、急に怖くなる。心拍数が跳ね上がって息が詰まった。
おかげで『やっぱりピンク似合うね』なんて口走らずに済んだ。
「ハヤさん大丈夫? 泣きそう?」
早くない? と笑う名取の手に、僕が落とした造花が握られている。
学生たちがどんどん僕らを追い抜かしていく。がらんとした廊下に僕のうるさい鼓動が多分響いている。それなのに名取の声だけがはっきり聞こえた。
「マジで泣く?大丈夫?」
泣くなよぉ、とからから笑いながら爪先同士がくっつくぐらいの距離まで近づいてきて、名取は突然「気をつけ!」と叫んだ。
「そのままそのまま」
花を握った名取の手が僕の胸元に近づいて、生まれたままの爪先がボタンホールの穴を開く。ピンクの造花が挿しこまれていくのがやたらゆっくりに見えた。
初めて、名取に触られた。
気を付けというよりほとんどショックで固まっている僕にとどめを刺すように、名取は「泣くな泣くな」と僕の頭を乱暴に撫でた。
夢の中より温かくて、熱いくらいで、思っていたより大きい手だった。
「あの、さ、」
今聞くしかないと思った。許されないかもしれないけど、今日でもう何もかもおしまいだから。
「いっこ聞いていい?」
「え、うん、なになに」
僕の妙にかしこまった態度に、名取までもが強張る。
「大丈夫、あの、ほんとにくだらないことだし」
「いやくだらないって感じじゃないし」
違う、本当にくだらない話だ。笑ってしまうくらい、些細なことだ。僕が勝手に大袈裟なだけで。
「前さ、爪塗ってたことあるじゃん。小指と薬指だけピンク色に」
「小指と薬指?」
「あれって何だったの?」
名取が首を傾げたから嫌な予感がした。
「覚えてない」
あっさりそう言い切ってから、「ちょっと分かんないわ」と言う名取の声のトーンが一段下がる。
「二年の、始業式なんだけど」
僕の様子を見てなのだろうけれど、違うんだ、本当にたいした話じゃないから、名取が気にすることじゃないんだ。
「ごめん、爪塗ったことはあるけどそれはマジで思い出せないわ。ピンクだよね?」
「うん、お菓子みたいな色の、」
えーお菓子みたいなピンク、と言いながら名取が思い浮かべている色は多分僕の記憶にある色と違う。いつだったかに結婚するのと聞かれたときと同じように、あれよりもっとひどく、胃の底が冷たく痛んだ。
もうおしまいだ。
名取は悪くない。僕が勝手に思い込んで抱え込んでいただけだ。
丸二年も。
「ハヤさん記憶力いいね」
名取の笑う声は、夢の中で聞いていたのとは少し違った。それが怖い。僕が知らない名取に触るのが怖い。
「いや、なんか、すごいと思って」
「その時聞いてくれればよかったのに」
もういいから、僕が全部悪かったから。だからもう何も言わないで。忘れて。
僕が願っているのなんかみじんも察することなく、名取は言う。
「わかった、思いだしたら教えるわ」
うん、と名取は一人で勝手に頷いて、それから首を傾げる。
「あ、俺ハヤさんのLINE知らんわ。教えて」
名取は軽くそう言うとポケットからスマホを取り出し電源を入れた。
「えっと」
「つか俺がコード出した方が早いね」
はい、と二次元コードを画面に出して名取が差し出してくる。
「ちょ、ちょっと待って」
ポケットを探る手がもたついて、危うくスマホを取り落としそうになる。電源を入れてから起動するまでが長すぎる。
校則違反だけどまあ今日殊更に怒られることもないだろう。僕たちはもういなくなるんだから。
どうせ廊下には誰もいない。誰も見ていない。
コードを読み込み、ぽん、とあっけない音を立てて名取のアカウントが表示される。アイコンはブレブレの茶色い塊だった。
「これ何?」
「俺んちの犬」
犬飼ってるなんて、初めて聞いた。
「あ、時間ヤバい?」
「うん」
行こうか、という言葉すらなく、ポケットにスマホを突っ込んでどちらともなく歩き出す。見飽きた夢よりよっぽど現実感が無い。
「卒業すんのやだなー」
きっと今しかないと思って、隣を歩く名取の方を向いた。髪の色はこんなに暗かっただろうか。寂しそうに笑う目尻がとろっと下がっているのが可愛い。名取の顔をこんなにまじまじ見たのは、初めてかもしれない。
ずっと指先ばかり見ていた。もうピンク色じゃない指先ばかり。
「うん」
多分今日も夢に名取が出てくる。丸ごと出てきて永遠に居座る。
きっと爪の色なんて見ている暇もない。
「今日さあ卒業式だから、わざわざ頭スプレーで黒染めして」
「あ、染めてたんだ」
「大学行ったらメッシュとか入れようかな。俺ピンクより青とかの方が似合わない?」
「そうかも」
「かもってなによ」
「いやわかんないし」
あの日名取の爪が青かったらどう思っていただろう。もしかしたら青の方が似合うかもしれないけれど、こういう風に目で追っていただろうか。
「青にしたら、見せてよ」
知らない名取を知りたい。
「もち」
ハヤさんこそ髪染めるのとか想像つかない、染めたら絶対見せてよ、と名取が笑って、クラスの列の中に混ざっていく。
家に帰ったら空っぽの箱を捨てようと思った。
BABY SUGAR PINK ギヨラリョーコ @sengoku00dr
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