第2話

「結婚式?ハヤの?」

「僕のなわけなくない?」

 叔父さんの結婚式に出席することになったのは、二年の十二月頃のことだった。特に叔父さんと親しいわけでもなかったけれど、それにかこつけて学校を休めるので、結婚式という高校生にはもの珍しいイベントを冷やかしに行くつもりで母さんにくっついていくことに決めた。

「だから明日の分のノートコピーさせて」

「おみやげ」

「無いって」

「ハヤさん明日サボるん?」

 前の席に座っていた加藤がコロッケパンを齧りながら振り向く。

 ずりー、と言いながら会話に混ざってくる加藤のグループの中に、名取がいた。そういえば加藤と一緒に帰るところを何回か見た気がする。

「サボりじゃなくて結婚式出るんだよ」

「ハヤさん結婚すんの?」

 へらっと笑って名取がそう言った、それがなんだか頭にきて、違う、すごく怖くなった。背筋がさっと冷えて、その分頭が熱くなる。


「しないって!」


 思ったよりも大きな声が出てしまって、胃がきゅっと痛んだ。幸い周りは気にも留めずに「名取、アホか」と笑っているだけだ。どんどん体温が下がっていく。意味もなく泣きそうだった。

「叔父さんの結婚式、だから」

「あ、そっかそっか」

 言い訳するみたいな僕の掠れ声に名取が屈託なく笑って、それがなんだかかわいくて、かわいく思えたのが後ろめたくて僕がもう喋れなくなっているうちに話題は別のことに移っていた。




 披露宴にブレザー姿で来ているのは僕だけだった。僕は新婦さんを見るのも初めてで、知らない人が知らない人のためにする余興をぼんやり眺めながら、綺麗に盛り付けられた焼き魚としか思えないなにかをつついていた。

 スベりぎみの余興にも、手作り感あふれる馴れ初め紹介のスライドショーにも、叔父さんはまんざらでもなさそうで、僕は結婚の魔力というものについて考えざるをえなかった。

 彼女なんてできたことも無い僕には、女の子と付き合う、まして将来を誓い合って結婚するなんて想像もつかない。


 好きな人。


 脳裏によぎった名取の指先に気分が落ち込む。口に入れた白身魚が急に紙みたいな味になった。

 好き、なんだろうか。名取のこと。ぎりぎり友達なだけの、爪がピンクだっただけの名取のことを。

 タキシード姿の叔父さんとウェディングドレスの新婦さんが晴れがましい笑顔でケーキを切っている。好きな人が出来たら、ケーキを切るのもあんなに楽しくなるものだろうか。甘いものはあんまり好きじゃないけれど。

 名取とケーキを切ったら楽しいんだろうか。

 

 名取と何かを一緒にしたこと、無いかもしれない。

 

 そう思うとなんだか胸が詰まって、その後に出てきた料理もあまり食べられなかった。

 空腹は感じているのに胸がむかむかする最悪の気分のまま披露宴が終わり、ホテルの宴会場を出ると扉のすぐ外で叔父さんとお嫁さんが招待客に挨拶をしているところだった。

「これ、ささやかですけど」

 お色直しを経て濃いピンクのドレスになっているお嫁さんが、僕と母さんの手に小さな箱の包みを握らせた。引き出物とはまた別に招待客ひとりひとりに見送りと共に手渡しているらしい。

 この色いまいちだな、と思いながら包みを鞄にしまって儀礼的に頭を下げた僕に、ふわふわ幸せそうに手を振った叔父さんの顔が変に忘れがたく脳裏に残った。


 家に帰って鞄から、きらきらした薄紙に包まれた箱を取り出す。どうせお菓子だろうから、あまり興味は無かった。母さんが箱についている小さなタグを読み上げる。

「アーモンドドラジェだ」

「何それ」

「アーモンドの周りにお砂糖付けたお菓子」

 母さんが包みを開くのを何の気なしに覗き込んで、ぶわりと体温が上がる。

 糖衣で綺麗にコーティングされた、ころんとした楕円の菓子たち。白や水色の中に紛れている、作り物のとろっと淡いピンク。


 まるであの日の名取の爪みたいな。


「あんたこういうの食べないわよね、お母さん貰っていい?」

「だ、駄目」

 とっさに自分の分の箱を両手で庇ってしまう。これは平気なんだ、と母さんはちょっと変な顔をしたが、今更撤回できなかった。


 アーモンドドラジェの賞味期限は半年もあった。ピンクを口に入れるのはなぜだか憚られて、水色のものをひとつ、自分の部屋でこっそりと食べた。

 口に含んでさらりとした表面を舐めているうちに、段々と糖衣が溶けだしてくる感触が怖くなって一気にかみ砕いてしまう。糖衣の思ったより薄い舌触りと、アーモンドの味にやたらと安心した。

 その日の夢はひどかった。僕は膝をついて、名取の手を握りしめていた。ピンク色の薬指の爪を撫でて、そして口をそっと近づける。爪先からは甘い糖衣の味がした。必死に舌を這わせる僕は、その下にどんな味がするのか知りたかったけれど、名取の爪はどこまでいっても甘かった。

 頭の上では、名取がへらへら笑う声だけが聞こえた。



 ドラジェの箱は勉強机の普段は明けない引き出しの中に仕舞われた。

 時々、思い出したように、ひとつずつ食べた。

 嘘だ。

 本当はずっと脳の隅っこに巣くっていて、どうしても我慢できなくなった時に食べた。それは、僕と普通に昨日のドラマの話なんかをして普通にへらへらしている名取が急に憎くなるような日で、包み紙を剥がしてひとつ摘まみ上げ、味わうことも出来ずに急いでかみ砕いてしまう。

 名取に爪のことなんてもう聞けるわけもなかった。言ったが最後、一緒にもっと別の汚いものまで溢れ出しそうであまりに怖すぎた。



 ピンクに手を付けるのはもったいなくて、でも三月になる頃には白も水色も食べつくしていた。

 クラスが離れてしまうと、びっくりするくらい名取とは接点が無くなってしまった。それもそうだ。同じクラスにいたからぎりぎり友達だったけど、部活が同じわけでもないし、一緒に遠出もしたこと無い。しょせんその程度だ。

 僕はほっとしていた。もう名取の爪を見ないで済むし、悪気の無い名取のことが急に恨めしくなることも無い。

 けれど相変わらず名取の手は夢に出てきた。砂糖菓子みたいな甘い色の爪で、僕をあちこち触って撫でまわして、目覚めるときに最悪の気分にさせた。

 ピンクのドラジェを食べた日だけは、僕が名取の手を掴む夢が見られた。僕は甘ったるい名取の爪を舐めて、名取は頭上で意にも介さず笑っている。

 名取がどんな顔をしているか僕にはいつも見えなかった。

 賞味期限を迎える直前にアーモンドドラジェの最後の一つを食べてしまった時、漠然とその夜は特別な夢を見るだろうと思い込んでいたけれど、その時ですら何ら変わりは無かった。

 そうして空になった箱だけを捨てられなくて、引き出しの奥にしまったまま、進級したときにはもうこの後起きることなんて全部分かっていたはずなのに、最後の体育祭も文化祭も修学旅行も受験も、そして卒業式もあっけないほどの速度でやってきた。

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