初恋ミュージアム

いいのきい

第1章

第1話 常設展 -1-

 初恋は叶わないらしい。

 恋というものを知る前にその定説を知ってしまった私は、すっかり恋愛というものを諦めていた。


 幼い頃の夢が叶う確率はいくらかあるだろう。夢を叶えるには運と才能が必要だが、自分の努力で、ある程度なんとかなるものだ。

 どこかの天才も似たようなことを言っていた。

 しかし、初恋は叶わないなどと断言されてしまえば、どうしようもない。叶わないもののためにわざわざ労力を割くのもバカバカしい。


 そんな心境で青春時代を早送りしてきたものだから、大学に入った頃にはすっかり情緒がないと言われる類の人間に育っていた。


 大学の講義が終わると、私はまっすぐに丸の内にあるレンガ造の美術館へと足を運ぶ。自分がこのハイソな街並みに馴染むとは到底思わないが、どうにもこの建物に惹かれてしまうのだ。


「こんなに芸術を愛しているのに、何が情緒がないものか」


 恋を諦めた私にも、愛するものはある。

 絵画に音楽に世界の文化……そこから感じる知らない人々の確かな「生」が私を豊かにしてくれる気がする。


 それは、一種の救いであったとも言えるだろう。

 多くの人間が既に得ているはずの感情を、自分は「生」で知ることはきっとない。だからこそ、美しく昇華された芸術品に縋っている。

 ここまで情緒的な人間がいるだろうか。


 私のお気に入りは常設展だ。

 もちろん企画展にも欠かさず足を運び、普段は見ることの出来ない芸術や文化を目に吸い込ませているが、やはり人が多いのだ。

 その点、常設展は凪のように静かに私を迎えてくれる。


「あぁ、また来たんですね」


 館員は、もはや私の顔を覚えている。

 飲食店で顔を覚えられると、なぜだか気まずくなってしまうのだが、不思議なことに美術館の館員に存在を認識されても平気だった。きっと館員が私という存在にあまり影響されないからだろう。


 小さな飲食店にとって、1人の客は死活問題に繋がる。だからこそ、感じの良い対応や、料理以外のサービスにもこだわるのだ。

 あまりにも心地の良いサービスを提供されると、私はなぜだか気まずい気持ちでいっぱいになる。通い続けられる保証もないのに優しくされると、困ってしまうのだ。誰に謝るべきかわからないが、とにかく謝りたくて仕方がなくなる。


「またお越しくださいませ! 」


 この言葉で、すっかり心が折れる。


 無論、これが完膚なきまでの自意識過剰であることは承知の上だ。実際はそれほどまでに私に関心などないはずだ。だが、どうにも居心地が悪い。


 誰も悪くない。強いていうなら、自意識過剰な私の心が全て悪いのだが、私は「自分に甘く」をモットーにして生きているので、自らの過失について目を瞑る。


 目の前には、白と黒で構成された版画が大きく広がっていた。男女の睦まじい姿が光に照らされて浮かび上がっているようで、美しい。


 ——恋というものを知れば、私もこの美しさを手に入れることができるのだろうか。


 恋というものへの憧れが顔を覗く。知らないものを知りたいと思うのは人間の常だ。それが大抵の人間が知っているものだとすれば、なおさら自分だって知りたいと思うのは普通のことだろう。


「君、この版画にご執心だね」


白と黒の世界に沈んでいた私を、館員の声が掬い上げる。今まで形式的な挨拶以外の会話などしたことがなかった。


「あ、ええ……」


 掠れた声が喉を通り抜けていく。人とあまり話さないからこその弊害だ。普通、私の年頃の若者は、やれサークル活動だ、やれアルバイトだとやらで、このようにシワシワの声が出ることなどないはずだ。

 しかし、悲しいかな。私の声はすっかり使われなくなって久しいものだから、年の割に骨董品のような音を奏でてくれた。


「ああ、急に話しかけてごめんね。いつも一人で来るから、相当好きなのかと思って」

「好きというか、目が行くというか……」


我ながら要領を得ない。事実、この版画が好きだから常設展に通っているわけではない。「なんだか落ち着く」というのが理由の一つだった。


「落ち着くよね。白と黒だけっていうのが、また良い。」


館員が私の気持ちをなぞるように、そう呟いた。驚きの表情を隠せない私に、館員はイタズラっぽく笑う。


「ごめん、私と一緒なのかもしれないと思って」


 白と黒の版画が溢れる展示室には、私と館員だけが色を持つ者として存在していた。初めて自分と共感してくれる人物に出会った衝撃は、ビッグバンと言っても過言ではない。


 館員の笑顔が現在進行形で脳みそに刻み込まれていく。何か話さなければこの時間が終わってしまうと危惧した私は、やっとのことで蝶番ちょうつがいが錆びついた口を開いた。






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