第5話 常設展 -5-


「父さん! 」


 病室には力を失いそうな父と、彼に寄り添う母の姿があった。

 母は泣くまいと必死に笑顔を作りながら、父に話しかけていたが、父の返答に力はなかった。

 

「お前に渡したいものがあるんだ……この子と二人にしてくれるかい?」

 父が母にそう言うと、母は後ろ髪を引かれるように病室の外へと出ていった。


「父さん、どうして……」

 正直、私と父はそんなに仲が良いわけではなかった。かといって、不仲というのも言い過ぎだ。ただ、会話がなかった。


 父は寡黙な性格だったし、私もそんな父の性質を忠実に受け継いだものだから、食卓での会話はいつだって母のワンマンショーと言っても過言ではなかったのだ。

 だから、父が私と二人で会話をしたいだなんて、私にとっては意外でしかない事件だった。


「もうすぐ最期を迎えるんだから、我が子とじっくり話したいと思っても、不思議じゃないだろう?……そんなことより、お前にこれを渡したいんだ」


 それは、小さな箱だった。螺鈿のキツネと桔梗が細やかに箱を彩っている。


「父さん……これって、すごく高いものなんじゃ……」


「それは、父さんがお前のお祖母ちゃんにもらったものだ。なんでも、祖先の一人が弱っているキツネを助けて、お礼にそのキツネからもらったものらしい」


 そんな童話みたいな話があるものか。

 思わず心でツッコミを入れた私をからかうように、螺鈿のキツネがキラリと光る。


「……使い方は人それぞれらしいが、きっと助けになる。お守りだと思って持っておくといい」


 父はそう言うと、微笑みながら母を呼ぶように言った。

 夕陽が病室を染める頃、父は穏やかに最期を迎えた。父があまりにも優しい顔をしていたから、涙は出なかった。



 そして、父の葬儀が終わった。


 帰宅後、すぐに自室に向かい、窓を開ける。

 月明かりが最期の父のように……そして、きっと私の一瞬の初恋相手だったあの人のように優しくこちらを見ている。 


 流れ出るため息をそのままにして、ポケットに手を突っ込むと、父からの最期の贈り物に手が触れた。


 「そういえば、中身を見てなかった」

 

 おもむろに、美しい螺鈿の箱を開けると、そこには——


 「な……!? どうして……」


 あの館員がしていたカフスがあった。

 よく似た別物である可能性も考えたが、月明かりに照らされて藍色に光る様は、間違いなくあの人がしていたカフスだ。


 「どうして、父さんがこれを……」


 あの館員に会いに行って、事情を聞きたい気持ちが膨らんだが、先日「お別れだ」と言われたことを思い出して、落胆する。

 

 このカフスの元の持ち主である祖母も父ももういない。

 これは自分でなんとかするほかないのだ。


「ははっ……父さんが死んだ上に、失恋までして……わからないことまで増えて……本当、ツいてないなぁ……」


 アレが恋なのかは私にはわからないが、なんだか急に涙が溢れてきた。

 泣くつもりがない時の涙が、球のように頬を滑り落ちていくことを、私はこの時、初めて知った。


——落ち着いたら前髪を切って、コンタクトにしてごらん。


 涙が落ちるままに放置していると、あの人の言葉が脳内で響いた。


 「そうか、失恋をしたときは髪を切らないと……」

 

 別にそんなルールがないことは知っているが、そういう儀式的なことをすることで、心が救われる気がしたのだ。


 父の葬儀の翌日、私は長く伸びた前髪と、一瞬の初恋に別れを告げるために、人生初の美容院へと向かった。

 

 

 

  

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