二〇二〇年八月十五日 武蔵野にて
先輩との文通はいつのまにか途切れていた。そわそわとポストの中身を確認していた記憶があるから、今度は先輩の書く番だったはずだ。
僕の無神経な言葉が先輩の機嫌を損ねたのだろうか。学生と社会人では、価値観が違いすぎる。鈍感に傷つけていた可能性はある。あるいは、先輩には東京で恋人ができて、なんなら結婚もしているかもしれない。だからお遊びの文通はおしまい。単純にそういうことなのだろう。僕と先輩は付き合っていたわけではない。だからそんなことは気にせずに、こちらから手紙を送ってしまってもよかった。どこに行くにも何をするにも、先輩に報告する手紙の文面のことばかり考えていたのだから。しかしそれはしなかった。こちらも就職や転居、新生活に慣れることにエネルギーを消費していた。立ち止まる時間はほとんど取られなかった。
僕は何の因果か、今や武蔵野の地に住んでいた。京王線芦花公園駅の近くにアパートを借りて一人暮らし。忙しくてしかし退屈な会社員をやっている。やはり関東平野は広大で、なんだか不安になる。単純に故郷が恋しいのかもしれない。
新型コロナウィルス感染症の影響で、手持無沙汰な夏休みに入ろうとしている。気軽に出かけられる雰囲気ではないし、かといって仕事をしたいわけでもない。そういうわけで押し入れの奥にあった箱を取り出して、先輩の手紙を読み返していたのだった。
退屈な夏季休暇。僕は先輩のかつての教えに従って、朝方散歩に出かけた。芦花公園駅からしばらく南下すると、蘆花恒春園という公園に行きつく。徳富蘆花は雑木林にかこまれた自然の中での生活を好んでこの地に移り住んだという。茅屋(ぼうおく)の説明書きに、蘆花の書いた『国木田哲夫兄に與へて僕の近状を報ずる書』からの引用があって、また先輩のことを思い出す。
南下するのに飽きると、気の向くままに北上する。芦花公園駅から北、杉並区と世田谷区の境界線上を歩いていくと、不意に玉川上水に遭遇する。疲れたらUターンして帰路につこうと思っていたけれど、吸い込まれるようにして上水沿いに歩を進める。大きな車道を横断して、より鬱蒼とした道に入る。木々が日差しを遮って空気が変わる。だんだん水量が増えてきて、橋からのぞき込むと魚影が見える。井の頭公園通りを横断したあたりから、水辺を意識してバルコニーなんかが作られているおしゃれな家々が並ぶようになる。
憧れと好奇心でもって見上げると同時に、その家のチャイムを鳴らすピンポーンという電子音が響く。「はーい」という女性の声。「すいませーん、クワガタ取らせてください」という子供の無邪気な声。やがて虫取り網を握りしめた少年が、家主と思われる女性とバルコニーに現れる。虫取り網がひらめき、家の壁に付いたクワガタムシをかすめ取る。
東京での出来事とは思えなくて、知らず微笑んでしまう。「ありがとうございましたー」という元気な声とともに少年が去る。バルコニーに残った女性と目があいそうになって、あわてて歩を進める。
不意に、こちらに来てからずっとどこかに潜んでいた不安感が消えたような気がした。「帰ったら、もう一度手紙を書いてみよう」そう思えた。
むらさきの行き、むさしの行き 美崎あらた @misaki_arata
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