第1章 夏より熱い瞳
第一話
ガラガラと鳴くブリキの引き出しに付箋のついた一枚の紙をそっと入れる。
「そろそろ買い替えるかなぁ」
欠伸を交じえて考えなしに言葉がフッと出てくる。ここは精神科、心が壊れた異常者共の溜まり場だ。よくわからない妄言を吐き出すのが患者で、それをどう対処するかが僕の仕事で、言うなれば心の修理屋というところだろうか。
「院長、次の患者さんです」
無感情な声が少し空いたドアから入り込む。
「……あぁ、どうぞ」
嗚呼、面倒だ。なぜ妄言ばかりを毎日聞く必要があるのだろうか。こんな怠慢な思いも隠す、嘘の仮面を被った心根も分からない相談相手がそんなに必要だろうか? だったら人形にでも相手してもらえばいいだろう。そんな精神科として許されぬ愚痴で内心を満たしていると、滑らかなスライド音と共にドアが開いた。
「失礼します……」
そんなか細い声の後に現れたのは二十代くらいの女性だった。全身にその世代に合ったような服を着ていて、流れるような金髪に華奢な立ち様、そして磨きを入れた真珠の様に美しい顔。そんな患者に少し拍子抜けしつつも、まずは椅子に座るように促す。
「こんにちは。院長の文原 剛(ふみはら つよし)と言います」
「あ、城月 華(じょうつき はる) と申します……よろしくお願いします」
飾らずそれを言う患者の様子に思わず眉をひそめる。何とも異様であると、この場所にふさわしくないと言わざるを得ない。
「今日はどのような件でこちらに?」
少しきついぐらいの口調でそう問う。こちらだって健常者の暇をつぶしてやるだけの心の余裕は無い。冷やかしのつもりなら追い出すまでだ。
「あ、あの……相談したいことがありまして」
何だこのトロさは。相談しに来ていることなんぞ分かりきっている。
「はい、相談ですね。どのようなことを相談したいのですか?」
「その……最近すごく死にたい気持ちになってしまっていて、その……」
精神病初心者かよ、こいつ。溜息が口から零れそうになるのを我慢しながら目の前のパソコンを起動し、カルテデータの新規作成を行う。どうせすぐ使わなくなるだろうが、仕事の一環としてやらねばならない。
「なぜ死にたいと思うのですか?」
マニュアル通りの言葉をそれっぽく患者に投げかける。
患者名:上月 春 (女)
相談内容:希死念慮 ×型(段階:軽)
相談日:7月7日
カタカタと慣れた形で文字を打ち込んでいく。患者が何かしゃべっているような気もするが、まぁどうせマトモなことじゃない。
優先度:低
備考:特に問題がない様子→放置治療も可。
カタカタと大まかな部分を打ち込み、備考までを打ち終えたところで騒音が途絶えていたことに気づく。
「うーん、難しく考え過ぎだと思いますよ。もっと気楽に考えてみればいいんじゃないでしょうか?」
さすがに沈黙が長く続くのはよろしくないので、営業スマイルで根も葉もない適当な言葉だけを零しておく。精神科医に必要なことは聞く耳を持つことなんかじゃなく、どれだけストライクゾーンの広い言葉を言えるかだ。それが言えるだけで精神科医なんてのはゲームをしながらでも仕事ができる。鳴り止んでいたキー音をまた鳴らし始め、意識もカルテへと向き直る。
「まぁどうしても不安であるならば薬での治療も――」
「もういいです」
一つの、鋭い声が耳を貫く。思わず動いていた手を止め、患者の方を見る。一瞬、何が起こったのか全く分からなかったが、ようやく現状を理解する。患者がもういいと、そう叫んだのだ。慣れ腐った診療所に冷たい風が吹き込んできて、肌寒い感覚が体に纏わりつくことでようやく自我を認識する。
「まともに話も聞いてくれないならいいです。それでは文原先生、さようなら」
早撃ちの言葉をズラズラと並べ、患者はそそくさとドアの方へ向かっていく。テレビに出てくる様な優しいお医者さんなら止めるだろうが、俺はそうはするつもりはない。
「えぇ、さようなら。またのご来院をお待ちしてまーす」
そう言うと患者は青筋の立った顔でこちらを睨んでは、ドアを横殴りして出ていった。
うるせぇなぁと、反発するドアを見ながら怪訝の意を口から出す。
「ちょっと院長、何を言ったんですか?」
薬の乗った滑車を運んでた看護師が滑車をそっちのけにしてこちらにそう訊いてくる。
「ただ薬を勧めただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「本当ですか? それ」
目の前の看護師は睨むように目を細めて腕を組んだ。あくまで疑うつもりか、この看護師は。だがここで正直に話したって面倒だし時間の無駄だ。
「そんなことより早く薬を奥に運んでくれ。知らぬ間に異常者が貪り食っていたら困る」
すると、その言葉が気に食わなかったのか、今まで疑い悩むような表情をしていた看護師が一変して冷徹で怒気を孕んだ表情になった。
「困っている人を異常者って言うの、やめてください」
「だが実際、異常者だ。通常でなく、健常でもない。正常とかけ離れた存在である奴らは異常者だ。何も間違ったことは言っていないぞ?」
「でも、そんな言い方をしなくても――」
あぁ、うるさい。
「そんなことはどうでもいいから早く薬を奥に運んでくれないか? 看護師」
それだけ言うと看護師は黙って滑車のある廊下へと戻っていった。なんなんだ、今日は。どうしてこうもピリピリしてる奴が多いんだ? 本当に、面倒な仕事を選んでしまったみたいだな、僕は。
正直な所、精神科医のほとんどがまともに仕事をしていない。いや、していないというよりかは出来っこないのだ。日々減ることなく対応していかなければならない患者が増えていくこの仕事で、トリアージの基準はどんどんと曖昧に、そして適当になっていく。
――人の命なんて所詮、そんなもんだ。
片手に白泡溢れるアルミ缶、グビッと豪快に泡沫を呑み込む。寂しい診察室を無情に照らす蛍光灯の傍で深く腰掛け今日も資料整理の残業である。
「……暇だ」
常日頃から余所者の戯言を傍聴しているこちらの身としては月一度訪れるこの静寂は幸せであるがどことなく違和感があり、悪寒さえもが体を苛む。
「異常者共から風邪をうつされちまったみたいだな」
ケラケラと嗤ってはまた酒を喉に通す。が、酔いに焼かれ切った喉が噎せ返り、すべて吐き出してしまった。それに追い打ちをかけるように噎せびが肺を痛めさせ、卓上に組んでいた腕が横殴りをするように暴れて資料を撒き散らした。
「そのまま噎せて死んでみてはどうですか?」
どこからかそんな声が聞こえた気がした。どこかで聞いたような、しかし記憶には無い声だ。噎せが収まらない口元に掌を当てながら声のする方へと首を上げる。
「8時間ぶりですね、文原さん」
影に立つ華奢な女が訳の分からぬことを抜かす。
「……誰だお前。勝手に入ってくるな」
「誰とは失礼ですね。患者の一人も覚えられないなんて。それに、許可ならもらっていますよ」
そう言って女は一歩前へ歩を進めて影から顔を出した。そこには確かにどこかで見た顔があった、がやはりいまいち思い出せない。
「城月 華と、そう申し上げたはずですけどね」
その名乗り方でようやく朧気な記憶からその女のことを思い出す。
「あぁ、あの『さよなら』の人ね、覚えてるよ」
「なんですか、それ」
「そんなことより、診療時間はもうとっくに終わっているから帰ってくれ」
その言葉に反抗するように女は床に散らばった紙の一枚を手を伸ばし、拾い上げて苦笑する。
「漢字、全然違いますね。方向を表す『上』に月、そして季節の『春』って、人の名前を勝手に変えないでください」
「読みがあってればなんでもいいだろ。そんなことよりも早く出て行って――」
「でも私はこの『春』という字の方が好きですけどね」
穏やかな表情から生まれたその言葉に、一瞬胸が締め付けられる。
「『華』……私は親がつけた『華やかさ』のある人生なんて送れていませんし、それに――」
「――『春』は私に新しい世界を見せてくれますから」
その瞬間、まるで雷鳴の轟音が去った後の様に部屋が静寂に包まれる。彼女は紙を両手にただ並べられた字をまじまじと見つめている。それに共鳴するように僕はただ彼女の横顔を見つめている。何故か、懐かしさと寂しさが彼女の横顔から溢れてきていて、ただ呆然としてしまう。
「貴方は春はお好きですか?」
「僕は……好きだ。だがそれと同時に……嫌いだ」
「矛盾してますよ、その言葉」
「……あぁ、そうかもしれないな。矛盾だらけだ」
そうしてまた、沈黙が部屋を包んだ。彼女は未だ紙を見つめながら哀愁漂う表情をしていて、異常者である両者にとってこの沈黙の場は異常を加速させるものに違いないと、暗い蛍光灯の下でそう思った。
「私の財布って、落ちてませんでしたか?」
女の口からサラッと零れたその言葉に意識を叩き起こされ我に返る。
「あ、あぁ。白色の財布なら落とし物として保管しているが」
「あぁ、よかった。盗まれてたらどうしようかと……」
「……精神科は信用に欠けるか?」
「そうですね、今日の一件でさらに信用できなくなりました」
そうして白色の財布を渡すとさよならとだけ言って女は帰っていった。一人きりになった部屋はさっきとは打って変わって何となく悲しさに満ち溢れていて、寂しく光る蛍光灯が僕の影を落とした。風に揺らされる一つ鈴の風鈴の音がどうも苦しく感じてしまえたのは、きっと……
「……春か……」
あぁ、やはり僕は春が嫌いだ……だが、それでも僕は受け入れなくてはいけないのだ。僕は春に憧れていたという事実を……
春雷駆けるアゴニ― @Fondy
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