エキニカキオキ

姫路 りしゅう

第1話 駅に書き置き

 その日あたしは、文字に恋をした。


 なんて書くと、まるであたしが対物性愛者みたいだね。

 エッフェル塔やベルリンの壁と結婚した女性、フィギュアやドールと愛し合っている男性など、数こそ少ないものの物に恋をする人は確かに存在している。

 身近にそれをオープンにしている人はいなかったし、これから出会うことも恐らくないんだろうなあと思うと、あたしは自分の生きている世界が如何に狭いかを痛感した。

 厳密にいうとあたしの恋の対象は”文字そのもの”ではなかったので、対物性愛というわけはない。

 その文字の内容、形、書かれたシチュエーションなどから想起される書き手の人柄に恋をしたのだ。


『あ、気付きました? 0511』


 閑散とした駅の、改札を出て右手のところに立っている掲示板。

 近所の小学校で開催される行事や自治体主催の節分祭り、迷い猫の情報などが掲示されているボードの枠の部分に、そのメッセージは書かれていた。

 黒マジックで。

「多くない? 突っ込みどころ」

 ふらふらと立ち寄った駅で、意味もなく掲示板を見つめていたあたしは、メッセージに気が付いた瞬間だらしなく口を開けてそう突っ込んだ。

 自分でも驚くほど大きな声が出たので、人がいないことに安堵する。

 そのまま、『紙に書いて貼れよ』だとか『マジックで書くと消せないじゃん』だとかそういう類の突っ込みを続けようとして。

「可愛い文字……」

 あたしは無意識にそう呟いていた。


 全体的に丸みを帯びているものの、大きさや筆圧が一定なため、バランスが良く整った文字だった。

 上半分が大きく膨らんだクエスチョンマークは少し傾いていて、小さく首をかしげている姿が脳裏に浮かぶ。

 文字の形だけではない。

 これが発見した人をハッピーにさせる隠しメッセージ的なものなのなら、『気付きました?』だけでも十分意味が通じるのに、わざわざついている文頭の『あ、』が、舌をチロリと出したしたり顔を想起させる。

 そして何より注目するべきは文末に添えられた『0511』という文字。

 これはきっと日付だ。

 あたしはズボラなので今日が果たして何日だったか正確に言えないけれど、今が五月だってことくらいはわかる。

 インクの感じから去年の文字ではなさそうなので、どうやらこの可愛い隠しメッセージは数日以内に書かれたものらしい。


 会いたい。


 あたしはこのメッセージを書いた人と無性に会いたくなった。

 会いたい。

 この人のことをもっと知りたい。

 会って話してみたい。どういう想いでこういうメッセージを書いたのか聞きたい。

 見つけてからものの数分で、あたしの思考は彼女(性別は不明だけど、便宜上ここでは彼女とする)に支配された。

 いつかクラスメイトが言っていた言葉を思い出す。

「その人のことをもっと知りたい、そう思う気持ちを恋と呼ぶんだよ」

 そのクラスメイトとはもう疎遠になっていて、もしかすると一生会えないんだろうな、でも別に悲しくもないかな。くらいの距離感なんだけど、その言葉だけは一生忘れない自信があった。

 彼氏に好きと言われるたびに、よくわからないまま好きと応えていたあたしは、その言葉をきっかけに別れようと思ったんだもの。

 お金を入れたらジュースを落っことす自動販売機のように、好きと言われたら好きと返していたあたしを人間に戻してくれた言葉。


 あれから何年経っただろう。

 あたしは今、生まれて初めて、恋をしている。


**


『みーつけた。毎日お昼、ここで待ってます。 0515(たぶん)』


**


 パソコンで打った文字には気持ちが籠っていない。手書きで書け、手書きで。

 今や、そう言っていた人間のほとんどは滅びたと思うけれど、その人たちの言っていることも分からなくはないな、と思う今日この頃。

 だってもしあのメッセージがワードで書かれた印刷物だったら、今こんなに胸が高鳴っているとは思えないもの。

 メッセージを発見してから三日後のお昼のこと。

 相変わらずこの駅は閑散としている。そこであたしは、新しい文字が追加されているのを見つけた。


『うそ! 明日伺います! 0518』


 それを見つけた瞬間、全身の力が抜けて思わずあたしは地面に座り込んだ。

 寒くないのに肩が震えている。

 しゃがんだままの姿勢で両肩を抱いて、上を向くと鼻の奥がつんとした。

 あれ、泣いてる?

 目じりを拭うとほんのりと湿っていて、会えるのがどれだけ嬉しいんだよ、と自分自身に突っ込みを入れた。

 ふー、と大きく深呼吸をする。

 気持ちを落ち着けるためにもう一度メッセージを見て、人差し指でそれをなぞった。

 可愛い文字。

 この文字を書いた人は、どんな人なんだろう。

 少し年上の女性かな。『伺う』っていう言葉を使っているくらいだしすごく幼いっていうことはないのだろうけど、少女のようないたずら心を兼ね備えている気もする。大穴で男性だったりして。

 なんて妄想をしているうちに、約束の時間が近づいていく。

 あたしは時計を持っていないので正確な時間はわからなかったけど、きっともうすぐ十二時だろう。


 そして、その時が訪れた。


 かつん、と、ヒールの音が耳に飛び込んでくる。

 酷く懐かしい音。

 ゆっくりと音の鳴る方向へ向いて。

「はじめまして、です」

 長い黒髪の女性は、風ではためくスカートを手で押さえながら、丁寧にお辞儀をした。

「……は、はじめまして」

 可愛い文字の持ち主は、同い年か、少し年上くらいの美しい女性だった。

 白いロングスカートに水色のシャツという、透明感のある春らしい服装。

 それに負けないくらい透明感のある白い肌とさらさらの黒髪。

 あたしと彼女は数秒間目を合わせて固まってしまって、どちらともなく謝りながら目を逸らした。

 そのタイミングがあまりにも一緒だったので、思わず笑みがこぼれる。

「そらです。あのメッセージに反応してくれたのは、あなたなんですね」

「はい、はい! あの、あたしは双葉。佐伯双葉って言います」

「双葉さん」

 名前を呼ばれてあたしの胸はさらに高鳴った。

 大きく頷くと、そらさんは柔らかく微笑んで、「よかったぁ~」とその場に座り込んだ。

「ちょっと、どうしたんですか」

「ごめんなさい、ちょっと力が抜けちゃって」

 右手を差し出すと、彼女はいたずらっぽくチロリと舌を出した。

「今日どんな人が来るんだろうってずっと不安だったから」

 その笑顔は、あたしの想像していたものと寸分たがわず同じもので。

「双葉さんみたいな可愛い女の子で、安心したんです」

 握り返された右手に宿る久しぶりの感触に、鼻の奥あたりから何かが込み上げてきた。

 ダメ、初対面の人の前で泣いちゃダメ。

 そう思って必死に涙を我慢していると、立ち上がったそらさんがあたしの肩を包み込むように抱きしめた。

 彼女の胸に顔が埋まる。


 ―相変わらずこの駅は閑散としている。


 人肌のぬくもりを全身で感じる。

 それは久しく味わっていない感覚だった。


 —自分でも驚くほど大きな声が出たので、人がいないことに安堵する。


 そのぬくもりをもっと堪能したくなって、そらさんの背中に両腕を回す。

 ぎゅ、と強く抱きしめる。


 —かつん、と、ヒールの音が耳に飛び込んでくる。酷く懐かしい音。


 あたしは涙を堪えることを諦めて、肩を震わせてわんわん泣いた。

 それにつられて、そらさんの体も震え始めた。


 —そのクラスメイトとはもう疎遠になっていて、もしかすると一生会えないんだろうな。


 地球から人類が消失して、四か月。

 あたしとそらさんは、ようやく、生身の人間と再会した。


**


「じゃあそらさんにも心当たりはないんですね」

 ひとしきり泣いた後、あたしたちは駅の隣のスーパーでまだ食べられそうな食材を探して、ファミレスの自動ドアを手でこじ開けた。

 鞄からカセットコンロとガス缶を取り出して、ペットボトルの水を沸かす。

 水と保存食は数年くらい持つと思っているけど、よしんば持ったとして、その先をどう過ごすかは怖くなるので考えないようにしている。

 そもそも栄養失調で体が壊れるのが先かもしれないし。

 そのあたりは最初の一か月で大体悩みつくして、悩むだけ無駄だという結論に落ち着いた。

 ある日突然人類が消えたんだもの、ある日突然復活したっておかしくないでしょう。

「朝起きたらもう誰もいませんでしたね。現実を受け入れるまで大体三日くらいかかりました」

「あたしも数日はなにも喉を通りませんでしたよ!」

 本当のことを言うともう少し長い期間食事もままならなかったし、死のうと思ったことすらあったけどそれは伝えないことにした。

「当たり前ですけど、電気も水もガスも人間がいないと止まっちゃうんだなって」

 そらさんがはにかんだのであたしもつられて笑う。

 人類が消えてからの行動パターンは、二人とも大体同じだった。

 まずは人を探してさ迷い歩いた。

 どうにも本当に人はいないらしいぞ、ということがわかってくると、しばらく引きこもった。

 現実が呑み込めてきたあたりで、ひとまず町の大きなショッピングモールへと向かう。

 このあたりの気分は妙にハイだったことを覚えている。不条理な現実に押しつぶされないよう、脳がそういう物質を出しておいてくれたのかもしれない。

 新生活に慣れてきた今は、退屈を紛らわすために、人の家を転々としながら生き残りを探していた。

 最近ではお金を払わず食料品をいただくのはもちろん、窓ガラスを割ることにすら罪悪感を覚えなくなっていた。

「それにしてもそらさん」

「どうしたの? ううん、どうしたんですか?」

「あは、別にタメ口でもいいですよ、そらさんのほうが年上っぽいですし」

「うーん、双葉さんがいいって言うならいいですけど、いくら私のほうが年上っぽいからと言って初対面でタメ口聞くのって人としていまいちじゃないですか」

 確かに、ファミレスで店員さんにタメ口を聞くような人はちょっと距離を置きたいかもしれない。

「でも敬語を使っているそらさん、なんだか無理してそうですよ?」

 そう指摘すると「ぐぇ」という悲鳴と共に彼女は机に突っ伏した。

「ばれた?」

「気持ちはわかりますよ。窮屈ですよね」

「そう言う双葉さんはあんまり無理して話している感じないですよ」

「ほら、あたしは後輩属性なんで」

「そんな火属性みたいに言われても。一般的じゃないからその属性」

 あたしたちは顔を見合わせて、けらけらと笑った。

「で、何か言いかけなかった?」

「あ、そうそう。そらさんの髪の毛さらっさらじゃないですか。でもお湯とか出ないのにどうやってお手入れしてるんですか?」

 そらさんが自分の髪の毛をいじりながら、「近くで見ると結構傷んでるのわかるけどねー」と悲しそうに呟く。

「普段からお湯を作ってお風呂、とかはできてないですね。でも、今日ばっかりは気合入れてきたんだ」

「それはどうして?」

「……そりゃあ、あなたに会う予定があったからだよ」

「あれれ、そらさん顔が赤いですけどどうしたんですかー?」

「改めて口に出すと恥ずかしいな……双葉さんのいじわる」

 恨めしい目で睨みつけられたので、精いっぱい可愛く笑ってあげた。

 楽しい。

 人と話すのってこんなに楽しかったんだ。

 あたしたちは久しぶりの会話を飽きることなく堪能した。

 

 赤い日差しがまぶしくて、窓の外に目をやる。

 気付けば太陽が沈みかけていて、六時間くらい話し続けていたことに驚いた。

 でもそれは、四か月間人と話していなかった反動というだけではなく、単純に彼女と話すのが楽しかったからだ。

 文字から受ける印象はやっぱり正しくて、喋れば喋るほどあたしは彼女に惹かれていった。

 もっとお話ししたい。

 そらさんがこの数か月をどうやって過ごしてきたかを知りたい。

 ううん、まだ人類がいたころのそらさんについても知りたい。

 果たしてこの感情が恋なのかどうか、それを知っている友達はもういない。

 どちらにせよあたしは、もう少しそらさんと一緒にいたかった。

 もう少しで日が沈む。電気の通っていない現代日本では、日没後にできることは少ない。つまり、解散が近いということ。

「……そらさん」

「どうしたの、改まって」

「あの、あたし……」

 また明日も会いたい。

 ううん、帰ってほしくない。この後も一緒にいたいし、なんなら隣のふとんで手を繋いで寝たい。

 明日からも一緒に行動したい。

 好き。

 寂しい。

 いろいろな言葉が瞬間的に頭を駆け巡る。

 なかなか続きを話さないあたしを、そらさんは優しい目で見守る。


 —実は、初めてそらさんの文字を見た時から。

 そう言いかけて、慌てて口を閉じる。

 よくない。まだあたしたちは初対面。初対面の同性からいきなり恋愛的な好意を伝えられたら、戸惑うに決まっているじゃない。

 せっかく会えた消えていない人類だ。

 気まずい関係になるのは避けたい。

 楽しいことも悩みも共有しあえる関係でいたい。

 だったら、好意を伝えるのは、まだだ。

 あたしは口元を緩めて小さく息を吐いた。

 どうせはなから相談相手の存在しない、誰にも言えない恋愛だ。

 だったらそらさんにも、言うべきじゃない。

「せっかくなので、明日以降も一緒に行動しませんか?」

「よろこんで。ちょうど一人に飽きていたところだったしね」

 あたしたちはまた、かっちりと手を握り合った。


 明日からこの生活の新フェーズがはじまる。

 二人が生きていたということは、ほかにも生きている人がいるに違いない。

 あたしたちの出会いは、お互いに希望をもたらした。

 当面は、生き残った人を探す旅に出よう。

 楽しく、明るく。

 この不安定な新生活を、一緒に過ごすんだ。

 そしてもし、あたしの好意がばれてしまったら、その時は笑いながら言ってやる。

 脳裏に焼き付いた丸っこい文字。


 『あ、気付きました?』

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