折り鶴になった看護師さん

はなぶさ利洋

第1話

 生まれつき病弱だった僕は、小学校に入るまでずっと病院で暮らしていた。


 学校に通うようになっても定期的に病院へと足を運ばなくてはならず、時に体調を崩してはそのまま即入院なんてのはしょっちゅうだった。


 幼少期の大半を病院に捧げるハメになったお陰で、実家にある僕の部屋の勉強机は掃除もしてないのにピカピカなままだ。


 世間的には温かい家庭の象徴とは、一家団欒や笑顔溢れる毎日に晩御飯のカレーや味噌汁の香りが相場とされている。


 一方僕はといえば、隙あらば病院のベッドの上で惰眠をむさぼり、そうでなくても両親は共働きで忙しい日々を送っている。盆と正月を除けば毎年の一家団欒の思い出なんざせいぜいクリスマスと僕の誕生日ぐらいしかなかった。


 だから僕にとっての温かい家庭とは、白い巨塔の中の締め切った生活空間で摂る病院食それと徹底消毒された消毒用アルコールが充満した臭いそのものに他ならない。


 ……全く、ろくなもんじゃない。


 そんな無機質・無味乾燥かつ限りなく無稽な場所に長らく身を置いた僕だが、ある人との出会いのお陰で心を持ち直すこととなる。


 気が遠くなりそうな闘病生活の最中、突如として僕の目の前に白衣の天使が舞い降りた。


 その天使の名前は、めぐみさん。


 つぶらな瞳、透き通るような肌、妖艶な笑顔にポニーテールにされた亜麻色の髪という姿は僕を一目で虜にさせるには十分過ぎる破壊力であった。


綱山つなやま とうクン、っていうのね! はじめまして。今日から君のケアも担当させていただきます看護師の行成ゆきなり めぐみです。めぐみって呼んでね!」


 ほんの社交辞令程度の言葉遣いで、当時小学校低学年の僕は既に落ちてしまっていた。


 ほんのり紅が差す瑞々しい口元から発せられる声は、まるでこれからの入院生活が華々しいものであるかのように錯覚させるファンファーレみたいだった。


 まさしく僕は競走馬みたいに、酷い入れ込み様である。


 汗はダラダラ。身体はさっきまで3kmキロ弱を走らされたみたいに熱く激っていてなんだか夢見ごこちでふわふわして落ち着かないったらない。


 しかしそれも致し方ないだろう。


 だって、何の前触れもなく一生に一度しか訪れないであろう大舞台に立たされてしまったのだから。


 そう。恋という名のダービーに。


 もちろん大本命はめぐみさん一点。対抗なんて考えられない。というか僕の入院先は、患者さんを含め高齢化が著しく若いかつ比較的年齢が近い間柄が僕とめぐみさんくらいしかいないからだ。


 こうして、僕とめぐみさんの織りなす入院生活が幕を開ける。


 めぐみさんのシフト時間は三交代制の朝8時〜夕方16時半。


 一方僕はといえば、朝早く起きてまず受付先に顔を出しナースステーションにいるめぐみさんにおはようを言ってから院内の中庭で高齢の患者さんらと共にストレッチに参加。夕方頃、待合のソファ近くに置かれた雑誌を適当に拝借しがてら再度受付にてめぐみさんへ労いの言葉を掛けることがすっかり日課となっていた。


 きまってめぐみさんはハニカんだ笑顔を浮かべて返してくれる。




「おはよう刀クン! 今日も元気いっぱいね!」




「刀クンの方こそお疲れ様。明日もリハビリ頑張ろうね!」




 などなど。めぐみさんは実にバラエティに富んだ語彙で言の葉を返してくれる。


 僕の病院における一日は、めぐみさんに始まりめぐみさんに終わるというサイクルで回っていた。


 そうして現実世界を謳歌していると、なんと夢の世界でもめぐみさんが進出してきた。

夢の中は自由自在で、ひ弱な僕も健康的になれる。


 無敵になった僕は、心のドアをノックしてくれためぐみさんを快く迎え入れた。


 僕だけの世界に訪れた彼女は、ヒロインだ。


 僕だけの彼女。


 僕だけの宝物。


 僕だけのあの人。


 僕だけの、めぐみさん。


 募り積もる思いが熱意に変わる。


 熱意こそが、空っぽの僕の身体をつき動かしてやがて活力となる。


 リハビリに一層拍車が掛かるようになり、目に見えて僕の身体は太く逞しいものへと変貌を遂げた。


 迎えた何度目かの春。


 入院服を長らく着ていた僕はというと、ピカピカの詰襟に袖を通すことができていた。


 小学校の卒業式を終えるなり僕は飛び出す様に校舎を後にし、病院へと向かう。


 卒業証書の入った黒筒を掴む右手を何度も振り上げながら、一生懸命走った。


 めぐみさんに会いたい。


 一刻も早く学生服に身を包んだ僕の勇姿を目に焼き付けて欲しい。


 それから積年の思いを、オブラートにも何にも包まれていないありのままの言葉に乗っけて彼女自身に聞き届けさせてあげたい。


 ありがとう、なんて感謝の言葉ではとても伝えきれない。


 あなたの看護のおかげでこんなに立派になりました、なんて称賛の言葉でもまだまだ全然足りない。


 ずっと言いたくて言いたくて、しょうがなかったあの言葉。


 入院中は恥ずかしくて、心細くて、怖くて勇気がなくどうしても口に出せなかった言葉。


 だけれど、今なら、胸を張って言える。




『めぐみさん、僕はあなたのことがーーーー』




♡♡♡♡♡♡


 病院にたどり着くなりめぐみさんを探しに院内を彷徨っていた僕の目の前に、顔見知りだった看護師長さんが話しかけて来てくれた。


 そこで僕は思いがけない事実を告げられることとなる。


「あの子なら、貴方が退院してから間もなく結婚して職を辞した」と。


 めぐみさんにはどうやら看護学校時代からお付き合いをしていた医者の彼氏がいたらしい。

 そしてこの春実家の病院を彼氏が継ぐタイミングで結婚も決まったようであった。


 今頃は遠い遠い田舎にて夫婦二人三脚で、病院の運営に携わっているそうな。


 思いもよらぬ展開に動揺を隠せないでいると、師長さんが僕の腕を掴みある場所へと連れだす。


 無理やり足を運ばされ、ふと上を見上げるとそこには「ナースステーション」と書かれた標識が。


 めぐみさんがかつていた今はもぬけの殻同然の仕事机の引き出しからあるものを取り出す師長さん。

 言われたので大人しく自らその手を差し出してみる。


 すると、可愛らしい一羽の折り鶴が僕の右手に舞い降りた。


 僕が来たらそれを渡してほしい、とのめぐみさんからの言伝を師長さんが口にした。


 ふと気がつくと僕は家への帰路に着いていた。


 取り止めもなく、ズボンの右ポケットに手を入れると折り鶴がカサカサ音を立てその存在を主張してきた。


 手持ち無沙汰な右腕をぶら下げたまま家に着く。


 珍しく家にいる母親に声をかけられた気がしたが相手にせず無言で階段をあがる。


 2階の自室に籠るなり勉強机の上にめぐみさんの折り鶴を無造作に転がす僕。


 翼が少し曲がった折り鶴を見て、僕は一度だけ大きくため息をついた。


 それから自前のベッドに腰を据えると、涙が溢れ出てきた。その瞬間、ついに悟る。


 僕の初恋は終わったのだと……。


 さよなら、めぐみさん。さよなら、初めての恋。さよなら、僕の子供時代。


 甘くほろ苦い、複雑な感情が渦巻き胸を衝いてちっとも晴れなかった。


 僕はきっとこの出来事を忘れないだろう。


 結局、僕は日が暮れるまでそのまま泣き続けたのである。


♡♡♡♡♡♡


 壮絶な初恋の終わりから、約十年。


 大学生になり、一人暮らしを始めた僕は夏休みを利用して実家に帰って来ていた。


 勉強机をふと見るとあの時のままな折り鶴がインテリアとして鎮座していた。


 翼が少し折れ続けたままでいる鶴を、僕は何を思ったか糸で縛り付け始めた。


 そして、2階の窓をガラリと開け軒先に糸を括りつけて折り鶴を宙に浮かばせる形をとった。


 はるか先にてもくもくと聳え立つ入道雲を背景に翼を広げた鶴の絵面は少し印象的だった。


 その夜、外はけたたましい程の大雨と強風が吹き荒れた。


 軒先に吊るしたままだった折り鶴を取り込もうかどうか迷ったが、最終的になるようになれと投げやり気味にベットに伏せることにした。


 翌朝。


 昨夜とは打って変わりカラリと晴れた日。


 窓を開けて見ると折り鶴は無くなっていた。


 悲しみや後悔よりも、どこかホッとしている自分がいるという事実に驚かされる。


 立つ鳥ならぬ飛ぶ鳥跡を濁さず。


 雲一つない青空を仰いで、どこまでも続く様な空の彼方へと飛び立った鶴のことを思った。


 ありがとう、あの時の鶴。


 ありがとう、十年前の恋心。


 ありがとう、かつての想い出。




「めぐみさん、ずっと好きだったよ」




 十年と一晩越しの雨粒が、頬を伝ってきた。

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