もしも僕に音があったら

増田朋美

もしも僕に音があったら

梅雨の季節らしい、ジメジメして嫌な天気であった。雨が降るのは確かに嫌だけど、そういう季節だから、誰も文句は言えないのだった。逆に雨が降らなかったら、ちょっと怖いと感じてしまうかもしれない。蒸し暑い日ではあるけれど、それでも、人の人生というのは、必ずなにか動いているものである。

「それでは、次は、寝間着取り替えるか。ひきだしから、一枚着物出して、着替えさせてやってくれ。」

と、杉ちゃんが指示を出す。貴久くんは、何を言っているのかわからないらしく、杉ちゃんに筆談帳を渡したが、

「いやあ、、、僕は読み書きができないな。」

杉ちゃんが困った顔をすると、

「貴久さん、寝間着を取り替えたいそうです。」

隣の部屋からジョチさんがやってきて、手話通訳してくれて、やっと貴久くんには通じた。貴久くんは、わかりましたと頷いて、水穂さんのタンスの中から、一枚着物を取り出した。

「しっかし、水穂さんも、銘仙の着物じゃなくてさ、もっといい着物買えばいいのに。誰も、今は同和問題の事気にする人はいないよ。それよりも、おしゃれ着にしちまう人のほうが多いよ。だから、銘仙イコール身分の低い人と言う時代でも無いんだよ。それでいいじゃないか。」

杉ちゃんは、貴久くんが、水穂さんに着物を着替えさせているの眺めながら、そういったのであるが、貴久くんは、そんなことも聞こえないので、それを、無視して作業を続けているのである。

貴久くんは、水穂さんに、終わりの手話を示した。水穂さんは、貴久くんに、ありがとうの手話を示した。

「じゃあ、少し休む?」

杉ちゃんが水穂さんに聞くと、水穂さんは、ハイと言ったので、貴久くんが、急いで水穂さんを布団に寝かせてあげた。そして、指を動かして、なにか言った。杉ちゃんにはまるでわからない動きであるが、ジョチさんにはわかったようで、

「ああそうですか。でも、こんな狭い部屋に、ベッドはおけませんね。そうするとしたら、ピアノをどかさなければならなくなります。それは、無理ですね。」

と、同様に手の動きをつけて言った。

「一体何を言っているんだ?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「はい。寄りかかって座ってもいいように、リクライニングのベッドを買ってきたほうがいいのではないかと、貴久さんが提案してくれたんですよ。」

と、ジョチさんがいった。

「そのほうが、横になっているより、呼吸が楽なのではないかと彼は言っていました。ですが、こんな狭い部屋では、そのような便利なものはおけませんね。」

「そうですね。僕も、そのようなものに、寝れる資格はありません。」

ジョチさんがそう言うと、水穂さんも言った。

「なるほどね。そういう細かいことによく気がつくな。お前さんは。」

杉ちゃんがそう言うと、貴久くんはまた手を動かした。

「はあ、そうかもしれないけど、介護用のベッドを借りるには、高齢者でもありませんから、まずできないでしょう。借りられたとしても、同じ理由で、莫大な費用がかかってしまうと思いますよ。日本は、高齢者には優しいところですけど、そうではない障害者には全く優しくない国家であることは、あなたも、ご存知なのではありませんか。」

ジョチさんが手を動かしながら、そういうことを言うと、貴久くんは、ちょっと落胆の表情をした。

「例えば、水穂さんが、重大な病気があるということで、国が認定している難病とか、悪性腫瘍で余命が数週間とか、そういうことであれば、福祉の力を借りられるかもしれませんが、そういう理由もありませんからね。なんとかしてあげたいという気持ちはわかりますけど、それは、無理なんですよね。」

貴久くんは、また手を動かす。

「ええ、あなたの気持ちはよくわかりますけど、水穂さんは、介護の認定は受けられませんね。今の社会では、そうなってしまうんです。そうなれば、僕達が、世話をするしか無いんですよ。まあ、明治か、大正あたりだったら、また違ったかもしれないですけど。」

ジョチさんは、手を動かしながら、貴久くんに言った。杉ちゃんも、この動きを見て、貴久くんが何をいいたいか、なんとなくわかった。

「まあ、お前さんは、耳が遠いぶん、優しいところもあるな。それはさ、どっか別の場所でしてくれよ。水穂さんの前じゃなくてさ。」

通じているか知らないが、貴久くんに杉ちゃんは言った。

「それにしても、どうしてここへ来た?ジョチさんの通訳によれば、たまたま近くを通りかかったって言ってたけど。」

貴久くんは、ジョチさんの通訳を見て、ちょっと苦笑いを浮かべて、首を横に振った。

「何、夫婦喧嘩でもしたの?」

ジョチさんの通訳を見て、貴久くんは首を縦に振った。

「はあ、夫婦喧嘩したのか。何をそんなに、喧嘩したんだよ。みどりさんに、なにか悪口でも言ったか?」

杉ちゃんの質問に貴久くんは手を動かした。

「もしかして、浮気でもしたか?」

と、杉ちゃんがからかうと同時に、こんにちは、と玄関から声がして、柳沢先生がやってきた。みんなそれに気がついたけど、貴久くんだけ、それに気が付かなかった。

「いやあ、ジメジメして嫌な天気ですね。患者さんたちにも、具合が悪い方が大勢います。それでは水穂さん、このところ調子はいかがですか?」

と、柳沢先生は言った。水穂さんが、

「代わりありません。」

小さな声で言うと、

「そうですか、じゃあ、聴診だけさせてもらいましょうかね。寝たままで大丈夫ですからね。」

ジョチさんが、水穂さんの着物を脱がせると、水穂さんはゾッとするほど痩せていた。柳沢先生は、それに何も気にしないで聴診をしたが、一般の人から見たら、びっくりしてしまうくらいだ。

「はい、そうですね。まあ、現状維持ってところですね。これから段段暑くなりますから、気をつけてくださいね。じゃあ、いつもどおりの処方箋を出して置きましょうか。いつも食事のあと飲んでいただく薬と、発作が起きたときの頓服薬とね。」

ジョチさんが、水穂さんに着物を着せてやりながら、わかりましたといった。貴久くんは、なんだか申し訳無さそうな顔をしている。

「どうもありがとうございます。じゃあ、次回は、来週の今日お願いします。」

ジョチさんと柳沢先生が、そうやり取りしているのをみて、貴久くんはなんだか寂しそうだった。一瞬だけだったけど、貴久くんの体が少し傾いた。

「おい、どうしただ。お前さん。」

と、杉ちゃんが聞くが、もちろん貴久くんには聞こえない。すぐに水穂さんが通訳してくれて、やっと通じるのである。

「ああ、ちょっと頭がフラフラするそうです。」

水穂さんが答えると、柳沢先生が、

「こちらの方は、いつから聾になられましたか?生まれつきですか?それとも、なにかきっかけがあったのかな?」

と聞いた。ジョチさんが急いで通訳すると、貴久くんは手を動かす。

「はい、中学校から、聾学校に通っていたそうです。」

ジョチさんがそう言うと、

「頭がフラフラするというのは、いつ頃からありましたか?」

と柳沢先生が聞く。またジョチさんの通訳により理解してくれた貴久くんは手を動かした。

「ずっとあるそうです。聾学校に通っていたときは毎日毎日悩まされてとても困っていました。今は、それこそ、たまに感じる程度だそうですが、それがどうかしましたか?」

ジョチさんが、貴久くんの手の動きを通訳すると、

「それは耳硬化症というものが考えられますね。」

と、柳沢先生が言った。

「耳硬化症?それなんですか?」

知りたがりの杉ちゃんが、すぐそう言うと、

「ええ、耳に音の振動を伝えるための骨が動かなくなって、耳が聞こえなくなる病気ですよ。ベートーベンも耳硬化症だったのではないかと言われています。耳が単に聞こえないだけではありません。そうやってめまいがしたり、頭がふらついたりすることもあります。でも、安心してください。今は、耳硬化症で固くなった骨の代わりに、人工骨を埋め込む手術をすることにより、聴力を取り戻せる可能性がありますよ。」

柳沢先生は医者らしく言った。貴久くんは、ジョチさんの通訳を見て、また下をむいてしまった。

「何だ、いいこと教えてもらったじゃないか。それなら、すぐに、やらせて貰えばいいじゃないかよ。それでまた聞こえるようであったら、嬉しいことは無いだろう。いちいち、通訳を付けなくても、話ができるようになるんだぜ。それは、嬉しいことじゃないの。ぜひ、やらせてもらえ。」

単純な杉ちゃんがそう言うと、

「そうなんですがね。顕微鏡を使わなければならない細かい手術でもありますからね、、、。」

と、柳沢先生が言った。

「まあ、難易度の高い手術ということですね。」

ジョチさんが手話を交えながらそう言うと、柳沢先生も、ハイと言った。貴久くんは、もっと落ち込んでしまったようで、水穂さんが、どうしたの?と思わず彼に聞いてしまったくらいだった。彼は、また両手を動かす。何を言うのかなと思ったら、水穂さんが、

「実はそのことで、奥様と口論になってしまったようです。奥様は、手術を受ける様に勧めてくれたようですが、貴久くん自身は、失敗するのが怖くてできないといったようなんです。それで、奥様と、喧嘩してしまったと。」

と、通訳した。

「はあ、そんなくだらないことで、夫婦喧嘩してきたわけ。そんな事しなくていいのに、それなら、二つ返事で受けるといえばそれでいいのさ。まあ成功する確率は低いと言うけど、それでもいい方に転んでくれると考えていきていくしか無いじゃないか。」

杉ちゃんはそう言うが、ちょっと部屋の中には嫌な空気が流れてしまった。

「でも、受けてみたいんだったら、いつでも言ってくだされば、耳鼻科の先生を紹介しますよ。もし、よろしかったら、連絡くださいね。」

と、柳沢先生が言った。そして、来週また来ますと言って、製鉄所をでていった。貴久くんは、また小さくなってしまった。

「まあ、ねえ。確かに、耳が遠いというのは不便だけどさあ。少なくとも、聞こえれば、また世の中も楽しくなると思うぜ。」

杉ちゃんが、急いで言うが、

「楽しくなるんでしょうか。」

水穂さんが、小さい声で言った。この質問に答えられる人はだれもいなかった。

その翌日。何気なしに、製鉄所の利用者が、製鉄所の食堂においてある、テレビのチャンネルをひねってみたところ、ちょうど、報道番組をやっている時間だった。

「こんにちは、お昼のニュースをお送りいたします。まずたった今、入ってきたニュースです。今日午前九時頃、静岡県富士市のアパートで、若い男性が殺害される事件が起こりました。この事件は、同居していた母親が、警察に出頭してきたことから発覚し、母親が、その場で犯行を認めたため、警察は、彼女を逮捕しました、、、。」

「やれやれ。また事件かあ。物騒な世の中ねえ。」

と、利用者は、大きなため息をついた。

「逮捕された母親によりますと、被害者は、子供の頃から聴覚障害があり、母親は、彼の将来が心配だったので、もう殺すしかなかったと供述しています。」

と、アナウンサーが、そういうことを言っているので、また、利用者たちはため息をつく。

「彼の将来が心配か。それなら、生きるようにアドバイスすることは、しなかったのかしら。なんとかしてさ、彼が生きていけるようにすることは、できなかったんでしょうかね。」

利用者たちは、そういうことを言い合ったが、そのようなセリフを言い合えるのは、製鉄所の利用者でなければ言えないセリフなのかもしれなかった。

「でもさあ。耳が遠いことって、可哀想なことになるのかな。なんか、あたしたちから見れば特別なことに見えちゃうけど。耳が遠いよりも、パニックとか、そういうものがあったほうが、よほど辛いと思うけどね。」

「まあ、辛さの程度は人によりけりってことじゃないの?」

二人の利用者はテレビを眺めながら、そういうことを言った。テレビには、逮捕されていく容疑者の顔が映し出される。容疑者は、中年の女性であった。どこにでもいる平凡な女性。だからこそ、そういう子供さんを持って、始めてそういう境遇に遭遇したのかもしれなかった。もしかしたら、そういう人のための、予備知識が何も無いと言うのが、今の社会が持っている問題なのかもしれなかった。

また、玄関の引き戸が開いた。それにこんにちはの挨拶も何もなかったので、米山貴久くんとわかった。杉ちゃんたちは、すぐに彼に、製鉄所に入ってもらって、早速、水穂さんのご飯を食べさせるのを手伝ってくれといった。杉ちゃん自身は、文字を書くことができないので、貴久くんには通じないこともあったが、それでも杉ちゃんは、水穂さんにご飯を食べさせ始めた。今日の昼食は、白粥であったが、水穂さんは、また二口三口で終わってしまうのだった。

「だから食べろよ。何も食べないのは、食べ物にも失礼だぞ。」

と、杉ちゃんは言っている。

「ほら、しっかり食べてくれ。」

もう一度、お匙を口元に持っていくが、水穂さんは、何も食べなかった。

「本当にね、食べないと、動けなくなって、餓死しちゃうから、僕らはそれはさせたくありませんからね。それは、絶対ダメだぞ。」

杉ちゃんが、そう言うが、水穂さんはやっぱり食べようとしないのだ。すると、貴久くんが、水穂さんに向かって手を動かした。一体何を言っている?と、杉ちゃんは聞くが、貴久くんは、それを無視して、水穂さんに話を続けた。

「本当にすみません。」

と、水穂さんは小さな声で言う。

「食べ物を無駄にしているとか、そういう気持ちは何も無いんです。ただ、どうしても、食べようと言う気になれなくて、何なんでしょうか。体が受け付けないんですね。」

貴久くんは、水穂さんを心配するように見た。多分口が読めなかったのだろう。貴久くんはまた手を動かした。

「もういいのですよ。食べる気になりません。今日はもうこれで片付けてください。」

水穂さんは、そう言って、お皿を指差すが、貴久くんは、それをしなかった。その代わりに、左手で耳を、右手で、口を抑え、そして、次に自分を指さした。

「はあ、お前さんは、全聾であるといいたいの?」

と、杉ちゃんが、思わず聞く。その言い回しが貴久くんに通じたかどうか不詳だが、貴久くんは、それからまた手を動かしてなにか言った。

「一体、彼は何を言っているのかな?」

と杉ちゃんが改めて聞くと、

「ええ、つまりこういうことです。僕は全聾であり、他の方とは違います。だから、他の人が何を言おうとも、主張を帰ることは絶対にしない。そう言っているんだと思います。」

水穂さんが、そう彼の手の動きを通訳した。

「はあなるほどね。それなら、そういうこともできるわな。聞こえるやつには絶対できない、自己主張のやり方だ。それは、すごいことだぜ。僕も彼の主張に賛成だよ。彼がそういうことを言ってくれて良かったと思う。」

杉ちゃんも、貴久くんの話にそう乗ってくれたため、水穂さんは、もう食べるしか無いと思ったのであろうか、貴久くんから渡されたお匙を静かに受け取って食べたのであった。それを見た杉ちゃんが、

「良かった。それでいいんだよ。食べ物を粗末にするとバチが当たるよ。だから、ちゃんと完食するまで食べようね。」

と、すかさず言ったため、水穂さんはやっと、食べる気を出してくれたようで、お皿に乗ったおかゆを、咳き込みながらも食べてくれたのだった。それを見て貴久くんがまたなにか言った。

「いや、そのようなことを言う必要はありません。」

と、水穂さんは言うのであるが、貴久くんはなおも手を動かし続ける。

「何を言っているのか全くわからないけど、この場合、彼には今のままでいてくれたほうが、話は水穂さんに通じるということで間違いないな。」

杉ちゃんは、貴久くんのての動きを見て、感慨深く言った。すると、貴久くんはまた何か言った。

「そうですか。わかりました。確かに、聴覚に障害を持っていても、ベートーベンのように、偉大な作曲家であった人物もいるわけですからね。そこを敢えて、聞こえる人と同じにしなくてもいいってことですよね。」

水穂さんがそう、手話を交えて告げると貴久くんは、そうだとにこやかな顔をした。多分自分の主張が通じて嬉しいと思ったのだろう。こういう障害を持っている人だからこそ、言葉が通じる嬉しさというのは格別なものだ。聞こえるようになるということは、その感動を奪ってしまうことになるのかもしれない。そうすると、何でも聞こえる人と同じ様にしてしまう方が、可哀想と言えるのかもしれなかった。それで持って、貴久くんは手術を受けたくないと主張したのだろう。

「幸せなことですね。そうやって、自分の長所がちゃんとわかっているんですから。」

水穂さんがそう言うが、それは手話を交えていないため、貴久くんには伝わらなかったようだ。

「でも、そういう説得することができるのは、全聾の貴久くんだからこそできるのかもしれないな。」

と、杉ちゃんが言った。

「それなら、これからも、こいつの世話を頼むわ。まあ、言うことは聞かないし、いくら思っても、出身がまずいことを言い訳にして、皆拒絶しちゃうような扱いにくい患者だけどさ。皆、音をあげてやめちまう中、お前さんのような人材は貴重だぜ。」

杉ちゃんは心を込めて言っているようであるが、貴久くんにはどうしても通じなかった。全聾という障害のある以上、仕方ないことでもあるんだけど、なんとかして、気持ちを伝えてあげられたらと思わないわけでもない。そこが、なんだか、虚しいところだった。

「あーあ、僕も、手話を使って、流暢に、おしゃべりできたらいいのになあ。」

杉ちゃんは、固まっているままである、貴久くんにできるだけ嫌味に感じさせないように、配慮しながら言った。彼が、そのような配慮をする必要が無いということを杉ちゃんは、どこかに忘れていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もしも僕に音があったら 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る