水性の日々の独り言
一ノ宮ひだ
青が溶ける
前へ前へと、歩くのが怖かった。
停滞が幸福、とまではいわない。だって、止まり続けていくと、また誰かに追いつかれ追い越されで不安になるから。
だけど、一歩進んで、何も無かったら、何になるんだろう?また一歩進んで、確証もなく、何かあるのを願えばいいのだろうか?
きっと、次はいける。
ずっと続けていたら、夢は叶う。
なんて、それこそ夢の話だ。
現実の中でよくある事が、嘘みたいに欠けている。リアルからかけ離れた青春ドラマみたいな、馬鹿らしさと、無力感。
――運命なんてただの言い訳で、偶然が全てなんだ。
私は、そんな固くて脆い鳥籠の中に、自分自身を閉じ込めていた。
「ねえ、
「……いいけど。どこで?」
どこでもいいと思った。彼女がいるなら、場所なんてどこでもよかった。
「……海」
「う、み?」
彼女は聞き返すようにその二文字に疑問符を付け足した。
「うん。海」
「いつから?」
「今から」
「えーっと?授業は?」
「私たち、優等生だからばれないでしょ」
それなりの成績、それなりの知識。それなりに楽しい、それなりの日常。だけどたまに、ほんの少しだけ、羽目を外したい、なんて思ってもいい、はず。
「それ、不良の思考じゃない?」
「あなたは真面目すぎるの」
「うーん。まあ、しょうがないか。じゃあ、たまには不真面目になろっか、二人で」
❀
「二人でお出かけなんて、久しぶりだね」
ブレザーの胸元あたりまで伸ばされてある艶のある黒髪と、白い肌、少しだけ背の高い同級生。莉羅と私は、二人きりで海岸通りを散歩していた。
「何で、海なの?」
「何だろ?海、見たくなっちゃったから」
「そんなことある?」
「あるでしょ。唐突に海見たくなるときくらい」
「いや。ないない」
そう言って、彼女は真上にそびえる青空を見上げた。
初夏の午後に広がっているのは、ふたつの青。雲ひとつない空の水色と、透いて映る海の紺青。水平線の彼方に映る白を境として、半分に分かれている。綺麗に何もなさすぎて、見てるとこっちが不安なくらい。
上空では鳶が鋭利にぐるっと回っており、凛とした鳴き声を上げている。
二人揃って海壁に並び立つ。相変わらず何も無い街だが、何も無いなりからこそそれなりに綺麗なんだなと思う。砂浜には干からびた流木や凹んだ空き缶が落ちているが、それでも海水は透き通っていて、冷たい。
潮風が頬を撫でる。清涼で、優しい刺激だった。その風の反動で、泡沫とともに波が砕ける。弾けた一雫の潮水が、乾いたアスファルトの上にぴちょん、と落ちると、黒く滲んだ点が浮き上がり、やがて消えた。普段よく見ることはないからこそ、いざ見てしまうと、言いようもなく儚いものだと思う。
そんなことは気にもせず、彼女はネイビーのサブバックを片手に、防波堤の上を歩く。
シルバーの留め具には、UVレジンのストラップが付けられている。寒色系を基調としたカラーリングで、貝殻の模様。
これは誕生日プレゼントとして、私が渡したものだ。いざあげるとなったときは緊張した。だけど、このように大事に扱われているのを見ると、人はいつだってすごく嬉しくなるだろう。このストラップがあることで、彼女は象徴的な存在を手にしたようにみえた。
私は彼女が好きだ。理由は沢山ある。勉強も運動も出来るとか、容姿がすごく整っているとか、みんなに優しいとか。ただ、長年二人でいると、細かいところにも愛着が湧いてしまう。いつも歩幅を合わせて、遅れた時には小走りで追いつこうとするところとか、目を凝らせば分かる、睫毛の長いところとか。すれ違う時、いつも香水のいい香りがするところとか。
彼女は几帳面で真面目な性格だが、やや不器用だ。心も、手先も。自販機で購入した缶コーラのプルタブを開けるのに苦労しているくらいところとかも、ギャップ萌えみたいな感じで好きだ。
「貸して。私が開けてあげる」
プシュッ、という音がした。
心地のよい音だった。
「わー、ありがと」
「これくらいは開けられるようになりなさい」
「……
「いい人じゃん、桜姉さん。私、嫌いじゃないよ」
「……私だって白菊のこと、まあまあ好きだよ。触るとファさーってなる、真っ白な長髪とか」
「でもあなた、アイスクリームも好きでしょ」
「……好きだけど、どういうこと?」
「つまり、そういうことだよ」
彼女はクリームを愛す。特にひんやりしたもの。愛は彼女にとって「そういうもの」なのだ。
「白菊とアイスクリームを同じ天秤にかけるつもりはないけど……」
「……あー、もう忘れて」
こういうとき、「好意」と「恋愛」を結びつけるのは、良くない。自分でも分かっている。
だけど、彼女のこういった女たらしな言動もどうかと思う。
彼女は、彼女自身に対して、あまりにも無防備だ。だけどその無警戒さが、彼女の表面的で理性的で冷淡な素振りに直結しているのかもしれない。
「あなたって、不思議」
「どこが?」
「機械的なのよ。容姿も、性格も、話す口調だって、みんなの前では冷静沈着のそれ。でも、その隙間に取り留めのない人間味がある。これと言った欠点がなくて、如才なくて。でもその中に、リミッターの外れた、制御の効かない感情がある、それがあなたなの」
「ふふっ、白菊って、面白い。だって、いきなりそんな難しいこと言うもの」
莉羅は、先を見ているのだ。
より正確に言うならば、彼女は、変化している。変化しているのに変わらないふりをしていて。その果てを、そっと耳を澄ませるように、見つめているんだ。
私には怖くて到底できない。そんな私とは違う、変わり続ける姿に憧れる。
だって彼女は、私が立ち止まっても、何食わぬ顔で歩き続けていくだろうから。
「あなたは、この空、好き?」
「いや、何、いきなり?」
「いや、空、綺麗だから」
「うん、好きだよ」
彼女の口から「嫌い」という単語が出てきたことがあっただろうか?
……いや、あった。いつもの。桜さんとの会話。桜さんは彼女の姉で、すごく仲が悪いように見える。おはようもおやすみも、ありがとうもさよならも言わないから、顔を合わせることなんてのもない。
いつもそうだ。いつも。桜姉さんといる時はひねくれているんだ。正直が見え隠れしているのに、嘘をつくんだ。
きっと二人は、かよわない振りをしたいだけなんだ。勝手なイメージを勝手に持っては、「大嫌い」なんて勝手に言い合っているだけなんだ。
複雑に交錯した生真面目な感情の中に、簡明な無邪気さがある。ワンピース外れたホワイトパズルのよう。二人の関係は。
私も、そうなりたい。その境界線を越えてみたい。それは憧れだった。悪く言うなら、嫉妬という感情だった。
ずっと彼女の傍にいて、「幸福」という言葉の意味を知った。
だけど、いつからかそれは「恋愛」というものに変わっていて。心には、「好き」という気持ちが芽吹いていた。
でも、彼女の「好き」と私の「好き」は違う。
きっと、それは交わることのない感情。
キラキラと光る波が押し寄せ、引いていくように。
私たちの感情は、すれ違うこともないほど、遠く離れていた。
「コーラ、飲む?」と彼女が言う。
「そういうのに抵抗とかないの?」
「白菊なら、大丈夫」
「ふーん」
なんとなく、これは彼女の本心だろうと思う。友人として信頼されていること。それについては素直に嬉しいと思うべきなのだろうけど。でも、なんだか納得いかない。
また、大きさの違う、青と白の波が押し寄せ、引いていく。
私の心と、あなたの心。大きさも、色も、形の凹凸具合だって違う。
私はきっと弱虫すぎて、境界線を踏み出せないのだ。踏み込めないから、その波の描く曲線を壊せないのだ。
いつも波跡だけが残る。消えても残るから、波跡はどこか後悔と似ている。
「白菊こそ、大丈夫なの?」
「そこまで幼なじみを意識するほど、私はバカじゃない。これくらいなら、許容範囲」
何秒かの沈黙が続いた後、風が吹いた。私たちの言葉を空に溶かしてくれるような、そんな涼しげな風。
その風の反動で、スカートが揺れる。
彼女の白いブラウスからは、白い肌と黒い肌着が僅かに見えた。
「中、見えてない?」と後ろを向いて尋ねてくる。
「見えてるよ」と一言。
冗談だということを知らずに、リラは顔を赤くしてスカートを押さえ始めた。いつもはこんな表情見せないのに。
そんな彼女を見て、素直に可愛いと思ってしまう。
目を盗んで、私は彼女の飲みさしコーラに口をつける。ただ甘いだけ。ただ、甘い、だけ、なのに。温くて、炭酸も抜けているのに。あの風の方が何倍も爽やかなのに。
舌の味蕾が甘さに麻痺しているみたいに、その味を忘れられなかった。
ただ温くて鈍い甘さのコーラで喉を潤しても、すぐに乾きをみる。
心だって一緒だ。ただ満足感で心が一杯になっても、またすぐに別の欲望が生まれて、心はまた私にそれを求めようとする。
だけど、私はそれを否定したくなかった。悪いことだと分かっていても、また満たされて、また求められればいいと思う。いつか止まってしまわないよう。ずっと続けることが出来るよう。
そしてそれを、いつか誰かに見られて、認められればいいのだ。
リラは私に向かって言う。
「綺麗だね」
どう答えればいいのか分からない。だから、反復するように返事をした。
「そうだね。一面が青くて、誰もいないから」
海、空も、風も、青い。
透き通る青。美しい青。でも、冷たくて悲哀の混じった青。青は孕んで、弾けて、なんだか儚い感情みたいなのを生む。心のどこかで、響いて、染まって、惹かれて、溢れて、そして消えていくから。
そんな色に、彼女は何を思っているのだろう。
その淀みのない色を見て、彼女はどんな嘘をつくのだろう。
髪を靡かせ、駆け出す青へと手を伸ばそうとする。そんな彼女を見ると、サヨナラでもないのに、胸が高鳴る。
ずっと見ていたいけれど、きっと触れられないから。流れる波の小音と煌めく水面の光を言い訳にして、私は瞳と鼓膜を塞ぐ。どうやら私の現実は、思ったよりも現実的みたいだ。
ゆっくりと開けた瞳に映る、色のない彼女。だけど、私の前に立って、海と空の間に右手を伸ばして、次第に色づいていく。どうやら彼女の現実は、思ったよりも幻想的みたいだ。
「そろそろ、夏がやってくるね」
「うん。でも、その前に『リラ冷え』を耐えないと」
❀
あの日から、二年が経った。中学生だった私は、高校二年になった。月日に比例して、制服も、校舎も、その中で会う人も変わっていた。
北海道には、梅雨という季節は存在しない。その代わりに夏の前、冷たい空気が発生する。人は、その現象を「リラ冷え」と呼ぶ。あの日の会話と同じように、今年も訪れている。
今日の朝は、薄い霧がかかっていた。
家の前の街道では、リラの花が咲いている。
青みを帯びた、藤紫色。青色ほど、自然体な色はないと思う。白は純粋すぎて、黒は完全体すぎて、赤は人工的すぎて、緑は生命的すぎるから。なんか、心にスッと入ってきては溶けていくから、何よりも脆くて、その弱さが綺麗って感じだ。
リラの美しさは、空気の冷たさに比例する。そう桜さんに教えてもらった。
空気が冷たい程、美しさは増していく。空気が暖かくなる程、それは失われていく。
つまるところ、リラの花はひねくれている。どっかの誰かさんみたいに。でもその天邪鬼な感じさえも、どこか愛おしい。
左手を添え、一輪の小さな花に触れる。
甘い匂いが、ふわっと香る。
でも、それは自然の、嫌味のない素直な甘さだった。あの子の匂いみたいに。
会いたい。
話していたい。
傍にいたい。
その香りに、触れていたい。
もっと、ずっと……
ふと、我に返る。 思ってはいけないことを思ってしまったような気分になってしまう。というか、思ってた。
こんなところを彼女に見られたら……
早く、大人にならないと。
まだゆっくり歩いていたい。だけど、急がなくちゃいけない。
近くにあって、でもずっと遠くにある心の本音を見逃さないように、見透かされないように、探し続けるように、知りたいと願い続けるように。
もう、後悔なんてしないように。
ここまで来たら、感情の整理がつかない。
深呼吸をひとつ。自分で自分を振り解くように、ずっと長く、もっと遠く、きっと強く。
私は、垂れると消える海水の一雫でも、来る度に壊れるさざ波でもない。どれをどう拒んで、何をどう無くしても、私は私なのだから。
冷たい空気を口いっぱいに吸って吐いたその息は、また空気の冷たさに混じっていく。
不安と、迷いと、微かな希望と。
気づかぬうちに、リラ冷えの街は、恐ろしいほどの青に染まっていく。持ちを込めて、彼女のもとへ急ぐ。
「莉羅。おはよう」
「おはよう、白菊」
「今日、暇?」
「うん。いつも暇」
「……ええっと、話が、あるんだけど」
「何だろう?」
「えっと、あのね」
ああ。
彼女は青すぎて。その青が綺麗すぎて。
触れたら壊れそうで。
「好き」なんて言葉は、私には重すぎて。軽い気持ちでは言えない。言いたくない。
「――なんでも、ない。かな」
まだ、籠の中。
分かっては誤魔化して。見せたくては隠してを、その中で繰り返して。
ずっと近くにいるのに。
どうすれば、私はあなたへの心を隠すことが出来るの?
どうすれば、私はあなたへ心を届けることが出来るの?
ずっと近くにいるのに、どうしてこんなに離れているの?
彼女は、変わらない。いつも、変わり続けてるところが。
私だって、変わらない。いつも、変われないところが。
「――白菊って、不思議な子。まるで何かに、囚われているみたい」
囚われている、か。よく分かってる。何も知らないのに。
思わず、笑ってしまう。自分が変われないその代わりに、彼女を愛す、そんな感情のせいで。
硬い支柱の籠に閉じ込められているのが私だとして。その籠中からあなたを見るなら、その恋の色は青。
響いて、染まって、惹かれて、溢れて。そして消えていく。
青く滲んだ水性の日々が、過去の乾いた思い出に貼り付いて。潤みを帯びたそれは欲望だけが透けた願いとなって、再び私の前に現れてしまう。
何回でも、何通りでも、何日でも、何遍でも。
私はこうやって、後悔という名の自分自身と、夢という名の彼女から、逃げていくんだろう。
日々は止まってくれないのに、私の心は進もうとしても進まない。
運命は昨日と今日をまた繰り返そうとしているのに。心は「明日」という名の絵を、明日から描こうとしている。そんな随分と自分勝手な二者に挟まって、私は迷子になっている。だけどそれが怖くて、どこかへ逃げようと思っている自分が、実は一番ワガママなのでは?なんて思ったりもして。
逃げて、悔やんで。でも、しょうがないか。
だって、それが私だから。
リラ冷えは、きっとすぐに終わるだろう。その頃には、檸檬を搾った紅茶みたいな色をした、初夏の日照りが力を増すのだろう。
日差しが強い、なんて彼女は言うのだろうか。私の知らない彼女を見た私は、また彼女を好きになっていく。
「……暇なら、また海に行こう。近くにあるベンチにでも座って、また他愛のない会話でもして、時間でも潰そう」
「そうだね。制服がオレンジ色に染まるまで、二人でいよう」
きっと、私にできることは、それしかないから。
また、一日が始まっていく。意味の無いことに意味がある、そんな一日が。
何があるだろう。何を見るだろう。何が分かるだろう。
何を、思うだろう?
今日起こりうることなんて、何一つ分からない。
だから、無理に変わろうとしたくない。私は、「私」のままでいたい。
ーー彼女がいるなら。彼女がいるから。私はそこにいたい。
これが、「愛する」ことのできない私の、彼女への愛し方なんだ。
私は恋を知る。
私は恋をする。
そうやって生きていく。
この思いも、いつか忘れてしまうのなら。この景色も、見えなくなってしまうのなら。私は、その終わりを先延ばしにしていく。今日だけは、分かりきった結末を、分からないままの答えにしておきたい。
「じゃあ、今すぐにでも行きましょう。また、冷たい青を見に、海へ。きっと、今日も変わらない景色が広がっているはずだよ」
❀
海を見た。二年前と何も変わらない、潮風の匂いがした。
彼女は言う。明るげな笑顔で。
「やっぱり、何も変わっていないね。すごく、綺麗」
二年前、この場所で。彼女は私の瞳をじっと見て、こう言った。
「綺麗だね」
なぜか私は、今になってそのことを思い出す。
あの日のコーラの味が蘇る。温くて、甘ったるくて、あまり美味しくはなかったが、それでも目前の青を打ち消してくれた、あの日のコーラの味。
目を瞑って、開いて。そしてもう一度、海を見る。
やっぱり綺麗で、でもどこか泣き出してしまいそうな冷たい青色だった。
水性の日々の独り言 一ノ宮ひだ @wjpmwpdj
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます