贅沢の形

結騎 了

#365日ショートショート 163

 雇い主はまだ寝ているようだ。チャイムを鳴らすも反応がない。

 貸与されている合鍵を使い古びたドアを開ける。ぎいっと、湿気を感じさせる音。この木造のアパートは築何年になるのだろう。こんなことでもなければ訪れる機会はない。

「おはようございます。お目覚めでしょうか」

 ……返事がない。まあ、いつものことだ。靴を脱ぎ寝室に向かう。案の定、私の雇い主は大きないびきをかいていた。馬渕太郎。中年のサラリーマン、独身。この馬渕さんに雇われて、もう半年になる。

「ほら、今日もやりますよ。馬渕さん起きてください」

 声にならない声で抵抗する彼の腕を引き、なんとか力をこめながら、隣の部屋まで連れて行く。ここは彼がこだわった部屋。この部屋だけは特別なのだ。リクライニング付きのシャンプーチェアーが中央にどしりと鎮座している。その周囲には、理髪店用の備品がいくつか。どこの中古ショップから持ってきたのか、赤、青、白がくるくると回るサインポールまで置いてある。そう、ここは彼だけの理髪店なのだ。

「寝てください。どうぞ」

 ううんと唸りながら、馬渕さんはシャンプーチェアーに仰向けになり、ふがっ、とまた眠りにつく。いつもこうだ。しかし、寝てくれた方がむしろやりやすい。

 手元の器具から温まったおしぼりを取り出し、ゆっくりと顔に被せていく。窒息しては大変なので、この時に鼻だけ開けるのがポイントだ。十分に肌を蒸らしたら、シェービングクリームを用意。口周りや顎に丁寧に塗ったあと、カミソリを音もなくあてていく。馬渕さんのヒゲについては、きっと、この世の誰より私が熟知しているだろう。右耳の近くに一本だけ余分な毛があることも、左顎の下に癖のついた生え方があることも。カミソリの角度を柔軟に調整しながら、それらを綺麗に刈り取っていく。ああ、それにしても気持ちよさそうだ。深いため息をつきながら、馬渕さんが緩やかに覚醒していくのが分かる。

「はい、仕上がりましたよ」

 最後に少しだけ化粧水を塗り、本日も完了。つるんとした肌が完成した。

「よぉし、今日も頑張るぞ!」

 途端に大声を出した馬渕さんは、勢いよくシャンプーチェアーから跳ね上がった。どたばたと、よれよれのスーツを身にまとい、糸がほつれたネクタイを結ぶ。

 彼に雇われたのは半年前。歳のせいもあり、長年やっていた床屋の看板を降ろそうかと考えていた頃だ。「僕はね、理髪店で顔を剃ってもらうのが昔から大好きなんです。あの時間を思い出すだけで愉悦に浸れます。だから、僕と個人的な契約をしませんか。毎朝、僕の顔を剃りに来てください。そのためなら、他のどんな節約も我慢できます」。最初は冗談かと思ったが、お手当は毎月欠かさず振り込まれる。これが彼なりの贅沢なのだろう。

「じゃあ、行ってきますね」

「行ってらっしゃいませ」

 ローンがまだまだ残っているらしいおんぼろの軽自動車を見送って、私は帰路に着いた。馬渕さんが幸せなら、それが何よりじゃあないか。

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