7


 三年が経った。

 習慣は日々を回し、季節は巡り続けている。奇形の植物もまた、世代交代を繰り返しながら、歪な花を咲かせ続けた。

 世界は相変わらず変化を拒んでいる。しかしながら、静かにではあるものの、移ろいゆくものも、確かにあった。

 〈生餐〉を経て、バーバラはアポロニアの幻影とともに正式に長となった。彼女は持ち前の求心力を遺憾なく発揮し、人々の支持を一身に集めた。「ありがとう」と、頼りなく、けれど人を惹きつける声でバーバラが言う。それだけで、誰もが彼女を支えなければと思い、誰もが彼女のために良くあらねばと考えた。

 私は役割の性質上、特定の他者と親密な関係を築くことは無いに等しかったが、そんな中で、バーバラは数少ない例外だった。

 物事の感じ方や考え方は対極にあると言ってよかったが、街の行政を司る長と、教会と秘蹟を司る師父という立場に置かれてみると、関わる理由は思いの外豊富にあった。すれ違えば二言三言言葉を交わし、暇がある時にはどちらかの部屋に集まって話をすることもあった。

 そんな時には、アポロニアとマリナも、一緒になって会話に参加した。

 昔を思い出すね、とバーバラが言う。彼女は、目元に滲んだ涙を拭い、誤魔化すように微笑みを向ける。

 彼女は彼女の呪いを抱え、その役割のために生きていく。


 クララのことを話さねばならない。私たちの痛みを一身に受けてしまった、哀れな友のことを。

 クララは〈生餐〉によりサウィナを取り込んだ後、ただ一人ナノマシンの定着がうまく進まなかった。その結果、副人格は彼女を攻撃するようになり、救疫きゅうやく秘蹟ひせき──医学的な言い方をすれば、攻撃的な幻聴と幾つかの被害妄想、微小妄想に加え、支離滅裂な言動が生起するようになった。結果、錯乱状態に陥り、そのまま〈分裂者スキゾイド〉の仲間入りを果たすことになった。

 地下に行くと、いつも彼女の声がする。断続的な叫び、壁を叩く音、唸り声に混じり、懺悔の言葉が私の耳を犯している。「ごめんね、サウィナ」彼女が呟く時、私もまた口にしている。


「ごめんね、マリナ」


 私と彼女の、いったい何が違うというのだろう。

 この小世界に生きるすべての成員。その中で、私と地下の彼らだけが、不可視の罪業の影に囚われたまま、取りこぼした過去に生き続けている。遺物と化した摂理と真理に身をやつし、今この場所から逆行する。

 二人分の思考を抱えている。しかし、傍らに立つ愛しい人の輪郭が、無意味な妄想でないとどうして言えただろう。眼前にある微笑みが、憤怒と苦悶に歪まないと、どうして確信できただろう。

 偽りのために真実を守れ。

 それが、私に課された使命だった。終わりの気配を、失うことの痛みを、ほどけない罪悪感を、引き裂かれた人々の存在を、私は守らねばならない。隠さねばならないのだ。体感し得る世界が、嘘の鍍金メッキで塗り固められたものだとしても。人類の存続の、全体の生存のために。

 強い物語が、必要だったのだ。

 信仰という、強力な物語ストーリーが。

 心を壊さぬために、必要だったのだ。


 私が子供であった最後の年、師父ロクスはあの赤い絨毯の部屋で自らの命を絶った。身につけていた白い装束は一面が血に染まり、レオンハルトに呼ばれた私は、その鮮やかさに目を奪われた。生命の色だった。〈聖胎マリア〉の果実も、同じ色をしていたことを私は思い出した。

 自殺は何よりも重い罪だと教わっていた。〈聖胎マリア〉、ひいては神に与えられた命を、自らのために絶つなどもっての他だと刷りこまれてきた。しかし、私たちは師父を罰しなかった。彼は天寿を全うしたとして扱われ、遺体は地下の施設で処理された。

 彼を見た使徒も修道士も、誰もが理解していたのだと思う。

 彼はたぶん、ずっと逃げ出したかったのだ。

 こんな閉塞した未来から。

 こんな生き詰まった終末から。

 愛する者の消えたこの灰色の世界から。

 誰よりも切実に、逃げ出したかったのだ。

 執務室で見つかった時、彼──ロクスの顔は、今までのどんな時よりも、穏やかで、満たされているように私には見えた。


 そして、師父が死んだ今、誰かが王座に座さねばならない。拘束具で覆われた、孤独の王座に。

 かつて、そこにはマリナの姿が見えていた。優しき王が、その力でもって安寧をもたらす様を想像した。

 しかし、その席が最優の者のために用意されているとは限らないのだと、今の私は知っている。

 どこまでも愚かな人間が王になることも、人類の歴史を紐解けば、そう珍しいものではない。


 大人になり、無知の安穏から片足を踏み出した今は、永遠など信じてはいない。その時々で生命は終わりを迎え、魂は形ばかりのはりぼてに成り下がるのだと知っている。重要なのは信仰であって真実ではない。目に見え耳で聞こえる主観がすべてだった。

 国が消えようと人は生きるように、肉体を失ってもなお、マリナの姿は私の瞳の中にある。

 生骸堂カセドラルの王座で、私は真理の守人となる。そして、すべての無垢な子どもたち、無知な人々に向けて、救疫生書を手にこう語るだろう。


 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、誰かがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。


 廊下の窓から見える外の世界は、今でも荒涼として、冷たく映る。

 この光景が終末を示すのか、私たちはまだ知らない。歪な花が幾度も咲くように、私たちもまた、歪みを抱え、囚われている。

 しかし、私はこうも思う。

 醜くおぞましく、本来の姿から遠く離れた狂気だとしても。

 慣れてしまえば、存外に美しいものだ。

「どうかされましたか」

 立ち止まったレオンハルトが、こちらを向いて問いかける。「いや──」私は視線を戻すと、首を振ってそれに応えた。

「なんでもない。行こう」

 私たちはこの足で、呪われた大地を歩んでいく。

 たとえ、ここから先の未来が、滅びてゆくだけだとしても。

 私に残された生の時間が、心を擦り減らすだけの無意だとしても。

 このちっぽけな世界が、終わりの時を受け容れるまで。

 私は、私の罪を抱えていく。


 あまねく終末を悼み、されど賛美しながら、犠牲を糧に生きる他ない、哀れな命。

 私たち。あるいは、人という生命。

 期待はなく、惰性の諦念が力となる。持続のために秘匿を為し、信仰でもって柔らかに包みこむ。

 半透明の皮膜の内に、確かな鼓動を感じている。儀式により命は巡る。傍らには、懐かしき日の幻影が、静かに寄り添っている。

 ある時、それは呪いを退ける加護だった。

 ある時、それは心を苛む悪夢だった。

 かつて、それは誰よりも大切な片割れだった。

 いつも見つめていた彼女の背中で、茶色の長髪がたおやかに揺れる。

「マリナ」

「うん」

「お前は、私を憎めるか」

 先を行く彼女が、くるりと振り返る。そして、

「無理だよ」

 変わらない姿で、にこりと笑う。

マリナもきっと、あなたを憎めなかった」


「そうか」

 私は微笑んだ。

「それは、残念だ」

 とても残念でならないよ、と。

 紛れもない本心で、私は一人、笑っている。

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終悼礼餐 伊島糸雨 @shiu_itoh

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