エピローグ

 使い慣れてきた台所には、沢山の調理器具が並び。鍋は湯気を立て、寿司桶には光り輝くお米が盛られている。鍋からきつね色に染まった油揚げを取り出し、お皿に乗せた。桶には手拭いを被せた。


「よし……出来た。あとは、お代わりの分をセットして……」


 大皿に稲荷寿司を盛り付け終わると、次のお米を炊くために炊飯器のボタンを押した。これで次と、次のお代わり分は用意することが出来た。そのことに安堵しながら、大皿を手に取り居間へと歩き出した。


「先生には沢山食べてもらわないと……」


 僕は一人、大皿を運びながら最近知り得たことをしみじみと思い返す。件のヤギに食べられた後は、無事に穴を通って外へと出られた。その出た先には、鬼瓦さんが待機していた。散々心配をされたが、落ち着くと無事を喜んでくれた。何故、彼がその場に居るのか不思議に思ったが、外へと通じる穴を作ってくれたのは鬼瓦さんだったのだ。

 そして先生の言葉通り、文字は全て元の場所へと戻った。今回の騒動の原因となってしまった怪異のヤギは、文字を食べる特性を鬼瓦さんに相談した。すると、文字処理係として編集社で雇用してもらえることになった。ヤギの彼も空腹により理性を失っていたが、騒動が落ち着くと反省し編集社で働けることを喜んでいた。

 それから、焔さんと牡丹さんは巻物に文字が戻っていることを確認すると、挨拶をしながら闇に溶けるようにして消えてしまった。もう少し、話をしてみたかったが、縁があれば再び会うこともあるだろう。その時はゆっくりとお茶を飲みたい。


「まさか……先生が健啖家の理由が、執筆で妖力を使うからとは思わなかった……」


 そして、文字事件から数日経過したが、僕はいつもより沢山の稲荷寿司を作っている。


 その理由は尾崎先生が原稿を書く際に、自身の妖力をインクに溶かして書いていることにある。妖力を使うとその分お腹が空くらしいのだ。そして、インクに溶かしながら書くという繊細なコントールを必要とする作業は、かなりの体力と栄養を必要とするのだ。

 そのため、僕がこのお屋敷を初めて訪れた時にお腹を空かせていた事。それから引越しの片付けを終えた後に彼が空腹により倒れていたことには、そういう理由があったのだ。疲弊をした後は栄養を摂ることが必須らしいのだが、今回は充分な回復が行われる前に再び妖力を使うインクに溶かす事態に陥った。ヤギのお腹の中からの脱出の際に、起爆剤に新しい文字を書いた所為である。

 予想以上に疲弊した先生は、いつもより多くの稲荷寿司を食べるとことになったのだ。そして僕は、『稲荷寿司係』の名の通りに稲荷寿司を作っている。


「先生、お待たせしました。お代わりをお持ちしました」

「嗚呼、丁度無くなったところだ」


 居間に着くと、銀色の耳と九本の尾を出した状態の先生が空になったお皿を指さした。如何やら栄養不足により、自身の妖力が不安のようだ。完全に人の姿をとることが難しいらしい。ただ、簡単な妖術は行使することは可能という話だ。


 僕は新しいお皿を先生の前に置くと、空になったお皿を片付ける。


「頂きます。うむ、やはり美味いな」

「それは、良かったです」


 彼は両手を合わせると、箸を持ち稲荷寿司を口に含んだ。すると彼の瞳が輝いた。先生は本当に稲荷寿司が大好きだ。彼の口に合ったようで、ほっと息を吐いた。


「如何した? 何かあったか?」

「……え? いえ。先生は本当に稲荷寿司がお好きだなと……」


 不意に先生の菫色の瞳が僕を映した。此処数日間は稲荷寿司を作っていた為、特段何も起きては居ない。特に思い当たる節が無く。首を傾げながらも、直前に思っていた事を告げる。


「うむ。春一、が作った稲荷寿司は天下一品だからな」

「あ……今回は、先生の状態を知らず。我儘というか……意地を張りまして申し訳ございませんでした。ですが……原稿をあの時お渡ししなかったことに関しては、後悔しておりません!」


 彼は瞳を細め稲荷寿司を眺める。稲荷寿司を喜んでもらえるのは嬉しいことなのだが、栄養状態が傾いていないかが心配である。それから僕はここ数日忙しく、遅くなった謝罪を口にした。

 先生がこのように疲弊したのは、あの時の僕の我儘が原因だ。だが、反省はしたが後悔はしていない。


 もしかしたら、先生の怒りを買い『稲荷寿司係』をクビにされるかもしれない。だが噓も吐きたくないのだ。


「ふむ。つまり反省はしているが、後悔はしていないということか?」

「……はい……」


 箸を置いた先生が確認するように、僕を見た。僕はクビになるかもしれない恐怖から、思わず唾を飲み込んだ。そして彼の顔を真っ直ぐに見据えると、はっきりと返事を告げた。


「面白い。後悔無き行動など、中々出来るものではないからな」

「……えっと? 御叱りは?」


 怒声が飛んでくるかと思ったが、先生からの返事は明るいものだった。僕は予想外のことに驚きながら、彼に問いかけた。


「その様なものは無い。従業員の意思を尊重するぐらいの力量が無くて如何する? 強いて言えば、軽率な行動は控えろと言いたいところだな。だが、お主にはそれが難しいということが今回分かった。故にお主は好きに過ごせば良い。何かあればこちらから迎えに行けば良いだけのことだからな」

「……先生……」


 先生は何時もとかわらない様子で、淡々と僕の質問の返事を告げた。だが、その声色には僕を気遣う優しいものである。


「だが、無暗に危険なことに関わるな。お主は私の……」

「『稲荷寿司係』だからですよね?」


 彼は一度言葉を切ると、小さい子に言い聞かせるように念を押そうとした。だが、続くだろ言葉を僕が先に紡いだ。


「ふっ、自覚しているのならば良い。早速だが、お代わりだ。春一」

「はい、今直ぐお持ち致します!」


 僕の行動が予想外だったようだ。彼は菫色の瞳を見開いた後に、その瞳を細めると柔らかく笑った。そして空の大皿を僕に渡した。彼が楽しそうに食べてくれるのは、とても嬉しいことである。彼に出会って本当に良かった。そう思いながら、大皿を受け取ると元気良く返事をした。

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僕と尾崎先生の怪異事件簿【長編版】 星雷はやと @hosirai-hayato

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