⑨
瞑っていた瞼を上げた。すると、僕は薄暗く灰色の空間に浮かんでいた。
「……え? あれ? 此処はどこだろう?」
確か僕は、あの白いヤギに食べられた筈だ。
しかし僕の身体は何処も痛むところはない。無傷である。尾崎先生の原稿が入っている風呂敷包みも腕の中にある。あのヤギは何処に行ったのだろう?そしてこの薄暗い空間は何処だろう?
『あら? 貴方、此処で何をしているのかしら?』
「……え? あれ? 猫さん?」
頭上から可愛らしい声が響いた。僕以外に誰か居るならば、心強いと思い見上げた。するとそこには黒い猫が浮かんでいた。その黒い猫には見覚えがあった。昼間に出会った猫だ。しかし、喋るのは予想外である。
『ふふふ! そうよ! 昼間は焔を助けてくれてありがとう』
「あ、いえ。その焔さんは、その後お加減如何ですか?」
彼女は声を弾ませると、お礼を告げた。昼間の男性の名前が分かり、彼の具合を尋ねた。
『嗚呼、焔なら……』
「おい、牡丹。見つかったか……あ?」
「こんにちは」
黒い猫の背後から、彼女を呼ぶ声がすると黒いフードを被った男性が現れた。焔さんだ。彼は僕を見ると深紅の瞳を見開き、低い声を出した。僕は挨拶をした。
「……はぁ?! な、なんであんたがこんな所にいる!?」
「あれ? 夕方だから『こんばんは』でしたか?」
「そういう事じゃない! なんであんたが、怪異の腹の中に居るのかって聞いている!」
「あ! やはり、ヤギに食べられていたのですね」
焔さんは、僕が此処に居ることに心底驚いたようだ。大きな声で僕に質問を重ねる。彼の話を聞く限り、やはり此処は先程のヤギの体内のようだ。
今日は、よく怪異の体内に入る日だ。
「なんで、そんなに冷静で居られる?」
「……え? 冷静でしょうか? まあ、怪異の体内に入るのは本日、二度目なので……。体内と言っても、それぞれ風景が異なるのですね」
彼は訝しげに僕を見た。果たして、僕は冷静だろうか?初めて遭遇したのが、このヤギの怪異だった場合は慌てふためいたことだろう。だが、今迄に色々な怪異たちに出会っている。だからそれ程、狼狽しなかったのかもしれない。直前に編集社である、建物の怪異の体内に入るという経験を積んでいることも作用しているだろう。
「……はあ? あんた変わり者過ぎるだろう……」
「そうですか? あ、そうです! 初めまして焔さん、牡丹さん。僕は早乙女春一と申します。諸事情により、あと五分程で此処を出たいのですが可能でしようか? 方法を知っていたら教えて頂きたいのですが?」
焔さんから、再び変わっていると告げられた。こいうことは当事者には分からないものだ。そのことよりも、今は優先するべき事がある。それは尾崎先生の夕食の時間だ。電車の時間や路面電車と移動時間を考えると、あと五分程でこの場を離れないと夕食作りに間に合わなくなる。ご飯を炊く時間や油揚げを煮込む時間など、稲荷寿司作りには時間が掛かるのだ。
僕は『稲荷寿司係』だ。怪異に食べられ体内に居たので、稲荷寿司を作るのが遅くなりましたなど先生に報告出来る筈がない。彼は僕の恩人であり、雇用主だ。今日のアルバイトも快く送り出してくれた。優しい彼を失望させたくない。
あと五分程で此処を出て帰宅することが出来れば、全ては丸く収まる筈だ。早口で申し訳ないが、この場において頼れるのは二人しか居ない。
自己紹介をしつつ、僕は二人に協力を仰いだ。
「……いや、その……出るだけなら、この怪異を真二つに切れば……」
「平和的解決策をお願いします」
時間通りに帰宅をしていたが為に、少し必死過ぎたかもしれない。焔さんの顔が若干引き攣っている。彼は何処からともなく、身長よりも大きな黒い鎌を出すと素振りをした。折角、策を講じてくれたが誰かを傷つけるのは反対だ。
「だったら……ないな」
「大丈夫です! ヤギは反芻します! その時が外に出るチャンスです!」
考える素振りをした後に、きっぱりと告げられた。それと同時に以前、テレビの動物番組でヤギについて語られていたことを思い出した。ヤギは反芻動物であり胃が四つあるのだ。
「いや、そ……それは……」
「それは通常のヤギの場合だ。それに反芻するとは言っても、口から吐き出すわけではない」
「……あ! 先生!」
何とも言えない表情をした焔さんが何かを言いかけた。すると、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。振り向くと尾崎先生が宙に浮いていた。数時間しか離れていないが、懐かしく感じる。
「保護者か?」
「いや、私は春一の雇用主だ。それにしても……私との約束を忘れたのか? 春一?」
「え!? 忘れていませんよ!?」
焔さんが先生に話しかける。短く会話を済ませると、先生の菫色の瞳が僕を鋭く射抜いた。そして予想外な事を言われた。先生との約束を忘れたことはない。何故、その様なことを言われるのだろう。僕は驚きの声を上げた。
「ならば……何故、怪異の腹の中で、死神達と共に居るのだ? 怪異だぞ?」
「……ん? 焔さんと牡丹さんは死神さんなのですか!? しかも怪異!?」
尾崎先生の視線が焔さんと牡丹さんへと向くと、彼らの正体をさらりと告げた。それは衝撃的な内容だった。それはそうだろう。今の今迄、人間と猫だと思っていた存在が怪異であり死神であるとは想像もしなかったのだ。
「は? ……今更? 初めから、俺たちの姿は一般人には見えないぞ? だから牡丹があんたを連れて来た時に驚いた……」
「えっ!? あ! 先生、すいません! 気を付けていたのですが……。猫さんと、人だったから怪異だとは思わなくて……」
焔さんが呆れたように僕を見た。彼の話を聞き、先生との約束を守れていなかったことに気が付いた。僕は慌てて先生に謝罪を口にした。
「はぁぁぁ……春一……」
『あらあら……』
長い溜め息を吐くと、先生は僕の名前を呼んだ。多分、呆れられただろう。しかし僕には、異形の姿をしていなければ怪異だと判別することが出来ないのだ。牡丹さんが同情するような声が響いた。
「うっ!! 申し訳ございません!!」
「はぁぁぁ……。まあ……今は此処から出るのが先決だ。行くぞ」
僕は重ねて謝罪を口にした。すると先生は再び長い溜め息を吐くと、一度瞼を閉じた。そして直ぐに開くと、彼の瞳から鋭さはなくなっていた。それから、先生が指を鳴らすと人が一人通れるぐらいの光の穴が出来た。きっとこれも妖術なのだろう。
「……はい。あれ? 焔さんと牡丹さんは出ないのですか?」
「ん? 嗚呼……俺たちは、ちょっと用があるからな……。気にするな」
『そうよ。先に行って頂戴な』
先生に促されるように穴を潜ろうとして、背後の二人が動かないことを疑問に思い足を止めた。振り向くと、焔さんと牡丹さんは先に出て大丈夫だと手と尾を振った。
「ですが……」
「春一、訊いてやるな。大方、死神の巻物に記された名前をこのヤギに食われたのだろう。その文字を回収するまで帰るに帰れないのだ。だから態々、死神が怪異の腹の中に出向いているのだろう。奴らの秩序の問題だ。訊いてやるな」
二人も怪異だが、怪異のお腹の中に居て大丈夫だろうか?消化されたり溶けたりしないだろうか?そう思った僕は二人が残ることに渋ると、尾崎先生が淡々と彼等の事情を説明した。
「おい! 訊いてやるなって言いながら、全部言っているじゃないか!! しかも二回も言ったな!?」
「私の『稲荷寿司係』を巻き込んだのだ。恥を甘んじて受け入れろ。そもそもの原因は、文字を食われるという失態を犯したお主等だ」
「言うじゃねぇか……。妖狐……」
「若造が……」
焔さんと先生が言葉を交えながら睨み合う。以前は鬼瓦さんとも行っていたが、もしかしてこれは怪異同士のコミュニケーションの取り方なのだろうか。
「あわわ……では、その文字を見付けて一緒に出ましょう!」
「……はぁ? 無理だろう? 俺たちでも出来なかったことだぞ!?」
「それには同意見だ。この空間は奴の胃袋であり領域だ。そして、この灰色の空間は全て文字だ。食欲のままに街中の文字を食ったのだ。かなりの量だぞ? それに件の文字が消化されている可能性もあるぞ?」
僕は二人の張り詰めた空気にめげずに声を掛けた。すると二人は揃って否定的な言葉を告げた。確かに怪異である焔さんと牡丹さんに見つけ出す事が出来ず。先生の言う通り周囲には、灰色に見えるだけの数え切れない文字が存在している。
それを僕一人で如何にかすることは不可能だろう。しかし、僕には心強い仲間たちがいる。
「大丈夫です。『無紙眼鏡』さんに、ご協力願います!」
僕は原稿用紙が入った風呂敷包みを落とさないように注意を払いながら、リュックサックから黒い箱を取り出した。そう僕が考えたのは、『無紙眼鏡』の力を借りて文字を探すというものだ。
「……ふむ。つまり、件の文字が存在しているか『無紙眼鏡』を使い調べるというのだな?」
「はい。……あ、勝手に持って来てしまい。申し訳ございません」
僕の掌に乗る『無紙眼鏡』を見ると、少しだけ先生は菫色の瞳を見開いた。それから僕の考えを汲み取ってくれた。流石、先生である。
それから少し遅れて、『無紙眼鏡』を持ち出してしまったことの謝罪を口にした。
「良い。それはお主に与えた品だ。好きに使うが良い」
「……っ! あ、ありがとうございます!」
彼は怒ることはなく、好きに使って良いと許可をくれた。鬼瓦さんの推察通り、『無紙眼鏡』は僕に贈られたものだったようだ。僕の気持ちに呼応するかのように、黒い箱が揺れた。
「えっと……では、文字を読み取るのではなく。文字を見つけることが目的です。ですから、その該当する怪異文字を発見した場合。その文字に色を付けて見せて下さい。色は……赤色でお願いします」
「……!……」
黒い箱のケースから『無紙眼鏡』を取り出すと、掛ける前に要件と目的を簡潔に伝える。如何やら僕たちの話を聞いていたようで、直ぐに了承するように本体を揺らした。
「では……いきます」
僕は『無紙眼鏡』を掛けた。
ゆっくりと、瞼を上げ周囲を見回す。先程の風景と大きく変わることはなかった。強いて言えば、文字のシルエットがはっきりと見え始めたことが挙げられる。やはり怪異文字を知らない僕では、見えるまでに時間が掛かるようだ。
「……あ……ありましたよ! 焔さん! 牡丹さん!」
「マジか……」
『……凄いわね……』
数回瞬きを繰り返していると、視界の端で赤色が揺れた。急ぎ目で追うと、確かに赤く色づいた文字が漂っていた。僕は興奮混じりに二人に報告をした。
しかし二人は見えていないからか、反応が静かである。その間にも赤い文字が見える数が増えていく。
「これで、文字の存在は確認が取れたな。では回収するか」
「眼鏡さん、ありがとう。そうですね! 如何いう方法で行うのですか?」
文字が存在することの確認が取れると、尾崎先生が頷いた。僕は『無紙眼鏡』を外しケースに収めると、リュックサックに仕舞った。
さて、宙に浮く文字達を如何いう方法で回収するのだろうか。僕は首を傾げた。
「春一。その風呂敷包みを渡せ」
「……えっと……? ……」
先生は片手をこちらに差し出した。何故、此処で原稿用紙が必要になるのだろう。僕は無意識に、原稿用紙を抱える両腕に力が入った。
「回収方法は文字を吐き出させるだけだ。そうすれば自ずと、文字は元の場所へ戻るだろう。その吐き出させる為の起爆剤が必要なのだ」
「起爆剤……まさか、この原稿を使う気ですか?」
回収方法は至ってシンプルだった。しかしそれには、起爆剤が必要だと言う。このタイミングで原稿を求めるということは、これを起爆剤として使うつもりなのだろうか。
嫌な予想外を否定してほしい気持ちで、先生に僕は訊ねた。
「……左様。その原稿には、私の妖力がインクによって込められている。起爆剤にこれ以上の物はない」
「でも……駄目です! これは先生が一生懸命に書いた作品なのですよ!? それを起爆剤に使うなんて駄目です!!」
僕の願いは虚しく、あっさりと肯定されてしまった。自身の作品のことなのに、先生は淡々としている。僕は先生が一生懸命に執筆に取り組み、原稿を完成させたのを知っている。
今日だって疲労困憊になりながらも、原稿を仕上げていた。その努力の結晶と言っても過言ではない品物を失うわけにはいかない。
腕の中で原稿用紙が乾いた音を立てた。
「……はぁぁ。書いた本人が了承をしているのに、お主は拒むのか? それは前回の原稿だ。損傷したとしても問題はない。それに起爆剤に使用しても紙に戻る」
「うっ! で、ですが……駄目です……」
差し出していた手を自身の顔に当てると、先生は溜め息を吐いた。彼の言う通り、原稿の所有者は先生である。僕のこれは単なる我儘だ。それに原稿が元通りになるから、良いという話ではない。気持ちの問題だ。
「強情だな。……仕方がない。春一、とびきり美味い稲荷寿司を用意するのだぞ」
「……あ、はい! 勿論です! ……では、原稿は?」
先生は呆れたように笑うと、稲荷寿司を作るように指示を出した。僕は『稲荷寿司係』である。その役目は勿論、全うするつもりだ。何故、そのようなことを敢えていうのだろうか。
そして、原稿を起爆剤として使わなくても大丈夫なのだろうか。おずおずと先生に訊ねた。
「不要だ。これ以上『稲荷寿司係』の機嫌を損ねるのは得策ではないからな。私は美味い稲荷寿司が食したい」
「……うっ……。申し訳ございません。ですが、ありがとうございます!」
如何やら尾崎先生は僕の我儘を聞き入れてくれたようだ。この年齢になり我儘を言うという行為に恥ずかしさを感じた。しかし先生の原稿を守ることが出来るのならば、安いものだと開き直るとお礼を告げた。
「では、全員光の穴の前に立て。私がこれを宙に放したら、直ぐに飛び込め。巻き込まれても文句は訊かぬ」
「はい!」
「嗚呼」
『ええ』
尾崎先生が懐から銀色の万年筆と、一枚の白い紙を取り出した。僕と焔さんと牡丹さんが返事を返すと、彼の指示に従い光の穴の前に立った。それを確認した先生が、紙に万年筆を走らせた。
「飛び込め!」
「っ! わっ!」
先生の掛け声と共に、穴へと飛び込んだ。何かが爆ぜる音が響き、浮遊感と共に眩しい光に包まれた。
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